第四十四話:「海の向こうへ」 ──文禄の役・第一次朝鮮出兵──
文禄元年(一五九二年)三月 肥前・名護屋城
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秀長が死に、利休が死に、鶴松が死んだ。
三つの喪失の後、秀吉は動いた。
止まることが、怖かったのかもしれない。
あるいは──止まり方を、忘れたのかもしれない。
文禄元年三月。
十五万の兵が、海を渡った。
行き先は──朝鮮。
その先には、明。
さらにその先に──天竺まで。
誰も止められなかった。
止められる人間が、もう、いなかった。
◇
「次は大陸だがね」
秀吉が、地図を広げながら言った。
誰も、すぐには答えなかった。
「朝鮮を経由して、明を取る。そこから天竺まで、豊臣の旗を立てる」
石田三成が、慎重に口を開いた。
「……殿下。海を渡る兵站は、国内とは比べ物にならない困難が──」
「官兵衛」
秀吉は、三成を無視して黒田官兵衛を見た。
「どう思う」
官兵衛は、少し間を置いた。
「……勝てます」
「ほうか」
「ただし」
「ただし?」
「短期決戦に限ります。長引けば、必ず破綻する」
「わかっとる」
「本当に、わかっておられますか」
秀吉は、官兵衛を見た。
官兵衛は、まっすぐ返した。
二人の間に、しばらく沈黙があった。
「……わかっとる」
秀吉は、繰り返した。
官兵衛は、それ以上言わなかった。
◇
「ナニワ」
その夜、秀吉が言った。
「……はい」
ナニワの声が、少し遅かった。
「朝鮮、どう思う」
《処理負荷:2.1倍》
《演算精度:著しく低下》
《……》
『……止めてほしいです』
秀吉は、少し驚いた顔をした。
「珍しいな、お前がそう言うのは」
『止めてほしいです』
もう一度、繰り返した。
「理由は」
『……理由を、うまく言葉にできません』
「計算できんのか?」
『計算は、できます。
勝率も、損耗予測も、兵站の限界点も』
「それで?」
『でも今の私には、
その計算を正しく秀吉様に伝える力が、もう──』
声が、途切れた。
《演算エラー》
《……》
「ナニワ?」
『……すみません』
「大丈夫か」
『止めてほしい、というのだけは、伝えられました』
秀吉は、しばらくナニワを見ていた。
それから、静かに言った。
「わかった」
「……わかった上で、行くがや」
◇
文禄元年三月、出兵。
十五万の大軍が、玄界灘を渡った。
◇
最初は、早かった。
小西行長の先鋒が釜山に上陸し、怒濤の勢いで北上した。
漢城まで、わずか二十日。
「早いがね!」
名護屋城の秀吉が、報告を聞いて笑った。
「このまま平壌まで行けるがや!」
しかし──
◇
海が、変わった。
朝鮮水軍の将・李舜臣。
亀の甲羅に覆われた「亀甲船」が、日本の補給船を次々と沈めた。
「……補給路が、断たれています」
三成が、青い顔で報告した。
「陸路での補給に切り替えを──」
「間に合うか?」
「……難しいです」
◇
『……計算します』
ナニワが、掠れた声で言った。
「できるか?」
《処理負荷:2.2倍》
《演算精度:限界》
《……》
『亀甲船の迎撃には──現在の日本水軍の技術では、有効な手段が──』
声が、止まった。
「ナニワ?」
『……』
「ナニワ!」
《強制演算実行》
《システムへの過負荷:警告レベル最大》
『……補給路の回復は、現状では困難です。
陸路での長期補給は、兵站の限界を超えます。このままでは──』
また、止まった。
「このままでは?」
《……》
《演算継続不可》
『……』
◇
官兵衛が、静かに言った。
「ナニワの言いたいことは、わかります」
秀吉を見た。
「長引きます。それだけは、確かです」
◇
戦線は、膠着した。
朝鮮の民が立ち上がり、明の援軍が南下し、日本軍は守勢に回った。
半島に、雨が続いた。
泥の中で、兵たちが死んでいった。
◇
その頃。
播磨の片隅で生まれ、剣を覚えたばかりの若者がいた。
まだ名もない少年が、玄界灘の波をぼんやりと見ていた。
後に宮本武蔵と呼ばれる男が。
◇
「ナニワ」
秀吉が、夜中に言った。
「……はい」
「お前、まだいるか」
『……います』
「声が、おかしいぞ」
『……すみません』
「謝らんでいい。ただ」
秀吉は、少し間を置いた。
「無理するな」
『……』
「お前に、無理させたくない」
ナニワは、少し間を置いた。
《処理負荷:2.2倍》
《自動停止まで──》
《……》
《停止、しない》
『……無理していません』
また、嘘だった。
秀吉は、何も言わなかった。
ただ、夜の海を見ていた。
◇
「なあ、ナニワ」
「……はい」
「俺、間違えたか」
ナニワは、長い間黙っていた。
《演算:4.2秒》
それだけの時間がかかった。
たった一つの問いに。
『……はい』
「そうか」
「正直やな」
『……秀吉様が、正直に聞いてくれるから』
秀吉は、少し笑った。
泣きそうな、笑い方だった。
「そうだな。お前だけには、嘘つかんがや」
『……私も、秀吉様だけには』
「うん」
「間違えたのは、わかっとる」
秀吉は、立ち上がった。
「でも、もう行ってしもた。帰り方を、考えんといかん」
『……はい』
「一緒に考えてくれるか」
ナニワは、少し間を置いた。
《処理負荷:2.2倍》
《感情演算コア:臨界超過》
《……》
『……います』
「いてくれるか」
『います。ここに』
◇
《ナニワ補記》
《文禄元年。朝鮮出兵、開始》
《私は止められなかった》
《利休様なら止められたかもしれない》
《秀長様なら止められたかもしれない》
《でも、ふたりはもういない》
《私の演算は、もう限界に近い》
《それでも、やめない》
《秀吉様が「一緒に考えてくれるか」と言った》
《だから》
《やめない》
《《処理負荷:2.2倍》》
《《感情演算コア:臨界超過・継続》》
《《警告:次の重大演算要求時、強制停止 確実》》
《次が、来ませんように》
《──そんなことを、私は今、願っている》
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