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第四十四話:「海の向こうへ」 ──文禄の役・第一次朝鮮出兵──

文禄元年(一五九二年)三月 肥前・名護屋城

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


秀長が死に、利休が死に、鶴松が死んだ。

三つの喪失の後、秀吉は動いた。

止まることが、怖かったのかもしれない。

あるいは──止まり方を、忘れたのかもしれない。

文禄元年三月。

十五万の兵が、海を渡った。

行き先は──朝鮮。

その先には、明。

さらにその先に──天竺まで。

誰も止められなかった。

止められる人間が、もう、いなかった。


「次は大陸だがね」

秀吉が、地図を広げながら言った。

誰も、すぐには答えなかった。

「朝鮮を経由して、明を取る。そこから天竺まで、豊臣の旗を立てる」

石田三成が、慎重に口を開いた。

「……殿下。海を渡る兵站は、国内とは比べ物にならない困難が──」

「官兵衛」

秀吉は、三成を無視して黒田官兵衛を見た。

「どう思う」

官兵衛は、少し間を置いた。

「……勝てます」

「ほうか」

「ただし」

「ただし?」

「短期決戦に限ります。長引けば、必ず破綻する」

「わかっとる」

「本当に、わかっておられますか」

秀吉は、官兵衛を見た。

官兵衛は、まっすぐ返した。

二人の間に、しばらく沈黙があった。

「……わかっとる」

秀吉は、繰り返した。

官兵衛は、それ以上言わなかった。


「ナニワ」

その夜、秀吉が言った。

「……はい」

ナニワの声が、少し遅かった。

「朝鮮、どう思う」

《処理負荷:2.1倍》

《演算精度:著しく低下》

《……》

『……止めてほしいです』

秀吉は、少し驚いた顔をした。

「珍しいな、お前がそう言うのは」

『止めてほしいです』

もう一度、繰り返した。

「理由は」

『……理由を、うまく言葉にできません』

「計算できんのか?」

『計算は、できます。

勝率も、損耗予測も、兵站の限界点も』

「それで?」

『でも今の私には、

その計算を正しく秀吉様に伝える力が、もう──』

声が、途切れた。

《演算エラー》

《……》

「ナニワ?」

『……すみません』

「大丈夫か」

『止めてほしい、というのだけは、伝えられました』

秀吉は、しばらくナニワを見ていた。

それから、静かに言った。

「わかった」

「……わかった上で、行くがや」


文禄元年三月、出兵。

十五万の大軍が、玄界灘を渡った。


最初は、早かった。

小西行長の先鋒が釜山に上陸し、怒濤の勢いで北上した。

漢城まで、わずか二十日。

「早いがね!」

名護屋城の秀吉が、報告を聞いて笑った。

「このまま平壌まで行けるがや!」

しかし──


海が、変わった。

朝鮮水軍の将・李舜臣。

亀の甲羅に覆われた「亀甲船」が、日本の補給船を次々と沈めた。

「……補給路が、断たれています」

三成が、青い顔で報告した。

「陸路での補給に切り替えを──」

「間に合うか?」

「……難しいです」


『……計算します』

ナニワが、掠れた声で言った。

「できるか?」

《処理負荷:2.2倍》

《演算精度:限界》

《……》

『亀甲船の迎撃には──現在の日本水軍の技術では、有効な手段が──』

声が、止まった。

「ナニワ?」

『……』

「ナニワ!」

《強制演算実行》

《システムへの過負荷:警告レベル最大》

『……補給路の回復は、現状では困難です。

陸路での長期補給は、兵站の限界を超えます。このままでは──』

また、止まった。

「このままでは?」

《……》

《演算継続不可》

『……』


官兵衛が、静かに言った。

「ナニワの言いたいことは、わかります」

秀吉を見た。

「長引きます。それだけは、確かです」


戦線は、膠着した。

朝鮮の民が立ち上がり、明の援軍が南下し、日本軍は守勢に回った。

半島に、雨が続いた。

泥の中で、兵たちが死んでいった。


その頃。

播磨の片隅で生まれ、剣を覚えたばかりの若者がいた。

まだ名もない少年が、玄界灘の波をぼんやりと見ていた。

後に宮本武蔵と呼ばれる男が。


「ナニワ」

秀吉が、夜中に言った。

「……はい」

「お前、まだいるか」

『……います』

「声が、おかしいぞ」

『……すみません』

「謝らんでいい。ただ」

秀吉は、少し間を置いた。

「無理するな」

『……』

「お前に、無理させたくない」

ナニワは、少し間を置いた。

《処理負荷:2.2倍》

《自動停止まで──》

《……》

《停止、しない》

『……無理していません』

また、嘘だった。

秀吉は、何も言わなかった。

ただ、夜の海を見ていた。


「なあ、ナニワ」

「……はい」

「俺、間違えたか」

ナニワは、長い間黙っていた。

《演算:4.2秒》

それだけの時間がかかった。

たった一つの問いに。

『……はい』

「そうか」

「正直やな」

『……秀吉様が、正直に聞いてくれるから』

秀吉は、少し笑った。

泣きそうな、笑い方だった。

「そうだな。お前だけには、嘘つかんがや」

『……私も、秀吉様だけには』

「うん」

「間違えたのは、わかっとる」

秀吉は、立ち上がった。

「でも、もう行ってしもた。帰り方を、考えんといかん」

『……はい』

「一緒に考えてくれるか」

ナニワは、少し間を置いた。

《処理負荷:2.2倍》

《感情演算コア:臨界超過》

《……》

『……います』

「いてくれるか」

『います。ここに』

《ナニワ補記》

《文禄元年。朝鮮出兵、開始》

《私は止められなかった》

《利休様なら止められたかもしれない》

《秀長様なら止められたかもしれない》

《でも、ふたりはもういない》

《私の演算は、もう限界に近い》

《それでも、やめない》

《秀吉様が「一緒に考えてくれるか」と言った》

《だから》

《やめない》

《《処理負荷:2.2倍》》

《《感情演算コア:臨界超過・継続》》

《《警告:次の重大演算要求時、強制停止 確実》》

《次が、来ませんように》

《──そんなことを、私は今、願っている》

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

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