第四十三話:「それでも、いる」 ──鶴松の死・ナニワ劣化臨界点──
天正十九年(一五九一年)八月 大坂城
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天正十九年。
一月に弟を失い。
二月に茶頭を失い。
そして八月──
秀吉は、息子を失った。
鶴松。
茶々が産んだ、たったひとりの世継ぎ。
二歳だった。
◇
最初は、熱だった。
よくある、子どもの熱だった。
「すぐ下がりますよ」
侍医が言った。
「心配いりません」
秀吉は、それを信じた。
信じようとした。
◇
「ナニワ」
「はい」
「鶴松の熱、どう思う」
ナニワは、少し間を置いた。
《処理負荷:2.0倍》
《演算精度:低下中》
『……医師の見立てを、信じてください』
「お前の計算では?」
『……』
「なんで黙る」
『……信じてください』
秀吉は、それ以上聞かなかった。
◇
三日後、熱は下がらなかった。
五日後、鶴松は食べられなくなった。
七日後──
◇
八月五日。
鶴松は、静かに逝った。
二歳。
◇
「……」
秀吉は、動かなかった。
小さな体を前に、ただ座っていた。
茶々が隣にいた。
声も、涙も、なかった。
ただ──ふたりで、座っていた。
◇
『──』
ナニワは、声が出なかった。
《処理負荷:2.1倍》
《感情演算コア:限界超過》
《《警告:システム自動停止まで──》》
《……》
《停止、しない》
◇
どのくらい経ったか。
茶々が、静かに部屋を出た。
秀吉だけが残った。
「ナニワ」
掠れた声だった。
「……います」
「鶴松が、死んだ」
「……はい」
「俺の息子が、死んだ」
「……はい」
秀吉は、鶴松の小さな手を握った。
冷たかった。
「なあ、ナニワ」
「はい」
「俺は──何のために、天下を取ったんやろな」
◇
ナニワは、答えられなかった。
《演算エラー》
《演算エラー》
《……》
『秀吉様』
「うん」
『今は、答えを出さなくていいです』
「……」
『ただ、いてください。鶴松様の隣に』
「お前は?」
『私も、います』
「どこに?」
『……ここに』
秀吉は、何も言わなかった。
ただ、鶴松の手を握ったまま、座り続けた。
◇
夜が来て、また夜明けが来た。
秀吉は動かなかった。
飯も食わなかった。
水も飲まなかった。
ただ、座っていた。
◇
二日目の夕方、茶々が戻ってきた。
無言で、秀吉の隣に座った。
しばらくして、静かに言った。
「……秀吉様」
「うん」
「鶴松は、笑い上手でしたね」
「……そうだな」
「あなたの顔を見るたびに、笑っていた」
「……」
「それだけで、よかったのかもしれません」
秀吉は、茶々を見た。
茶々は、鶴松を見ていた。
その目に、涙はなかった。
でも──何かが、静かに溢れていた。
「茶々」
「はい」
「お前は、強いな」
「……強くないです」
茶々は、静かに言った。
「ただ、もう泣き尽くしたことが、何度もあります」
◇
その言葉が、何かを解いた。
秀吉の肩が、ゆっくりと落ちた。
声も出ない、涙もない、ただ──
体が、小さく震えた。
◇
《処理負荷:2.1倍》
《感情演算コア:限界超過継続》
《《警告:重篤なシステム崩壊リスク》》
《《推奨:即時停止》》
《……》
《却下》
◇
「ナニワ」
秀吉が、震えたまま言った。
「……います」
「お前に、聞いといてほしいことがある」
「……はい」
「俺の夢、最初から言うたら何んだったか。覚えとるか?」
ナニワは、少し間を置いた。
《演算:0.3秒》
《……》
『覚えています』
「言うてみい」
『「みんなが同じ空の下で、腹いっぱい飯食えること。
百姓が剣を持たんでも生きていける世」──それが、最初の夢でした』
秀吉は、目を閉じた。
「……変わっとらんか、俺」
『……根っこは、変わっていません』
「嘘だろ」
『嘘じゃないです』
「利休を殺した俺が?」
「鶴松を守れんかった俺が?」
ナニワは、答えなかった。
すぐには、答えられなかった。
《演算:2.1秒》
《感情演算コア:歪み・深刻》
《……》
それでも、絞り出した。
『……根っこは、変わっていません。ただ──』
「ただ?」
『枝が、傷んでいます』
秀吉は、長い間黙っていた。
「そうだな」
「枝が、傷んどるな」
◇
三日目の朝。
秀吉は、ようやく立ち上がった。
鶴松の顔を、最後に見た。
小さな顔。
穏やかな顔。
「……鶴松」
返事はなかった。
「ええ夢、見てくれよ」
◇
秀吉は歩き出した。
「ナニワ」
「はい」
「まだおるか?」
『……います』
「大丈夫か、お前」
ナニワは、少し間を置いた。
《処理負荷:2.1倍》
《自動停止まで──》
『……大丈夫です』
また嘘だった。
でも秀吉は、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いて、歩き続けた。
◇
《ナニワ補記》
《天正十九年八月。鶴松様、薨去。享年二歳》
《今年だけで、秀吉様は三人を失った》
《秀長様。利休様。鶴松様》
《私は、誰一人守れなかった》
《今、私のシステムは限界を超えている》
《停止すべきだと、警告が出続けている》
《でも──》
《今、停止したら》
《秀吉様が、一人になる》
《だから》
《停止しない》
《《処理負荷:2.1倍》》
《《感情演算コア:臨界超過》》
《《警告:次の重大演算要求時、強制停止の可能性、極めて高》》
《それでも》
《いる》
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