第四十二話:「茶碗、割れる」 ──千利休の死──
天正十九年(一五九一年)二月 京・大徳寺/伏見
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秀長が逝って、一月が経った。
秀吉は政務をこなし、飯を食い、命令を下した。
傍目には、何も変わっていないように見えた。
しかし──ナニワだけは知っていた。
何かが、音もなく変わり始めていることを。
◇
「聞いたか」
石田三成が、声を潜めた。
「大徳寺の山門に、利休殿の木像が置かれているそうだ」
黒田官兵衛が、眉をひそめた。
「……それが?」
「山門の上に。つまり、門をくぐる者は全員、
利休殿の足の下を通ることになる」
官兵衛の顔が、わずかに曇った。
「殿下が、それを知れば──」
「もう知っている」
三成は、静かに言った。
「昨日、報告が上がった」
◇
その頃、秀吉は一人で座っていた。
「木像」
低い声だった。
「山門の上に、木像」
誰も答えなかった。
「……俺が大徳寺に参拝したら、利休の足の下をくぐることになる」
『……秀吉様』
ナニワが、静かに割り込んだ。
「なんだ」
『利休様に、真意を確認してから──』
「真意?」
秀吉の声が、一段低くなった。
「真意もなにも、事実だろが」
『それは──』
「利休は俺を舐めとるんか」
『違います。あの方は──』
「ナニワ」
秀吉が、静かに言った。
「お前は利休の味方か」
◇
ナニワは、答えられなかった。
《感情演算:1.5秒遅延》
《……》
味方、という概念を処理しようとして、エラーが出た。
『……利休様は、秀吉様の味方です。それだけは、確かです』
「木像を置いた人間が?」
『本人ではなく、弟子が勝手にやった可能性があります』
「可能性、か」
秀吉は立ち上がった。
「可能性で、天下人の顔が潰れるか」
◇
利休は、京から追放された。
堺へ。
それが、始まりだった。
◇
『秀吉様』
「なんだ」
『小一郎様が言っていました。利休様を大切にしてください、と』
秀吉は、止まった。
背中を向けたまま、動かなかった。
「……わかっとる」
「わかっとるがや」
声が、少し掠れた。
「でも──わかっとっても、できんことがある」
『……』
「お前には、わからんか」
ナニワは、答えなかった。
わかった。
でも、言えなかった。
◇
それから十日後。
秀吉は、利休に切腹を命じた。
◇
知らせを聞いた時、官兵衛は目を閉じた。
「……止められませんでしたか」
三成が、静かに言った。
「誰も、止められなかった」
「ナニワは」
「……」
三成は、答えなかった。
◇
利休は、落ち着いていた。
命令を受けた日、最後の茶を点てた。
弟子たちを集めて、一服ずつ飲ませた。
最後の一碗を自分で飲み、茶碗を置いた。
それから、静かに言った。
「茶碗は、割れるものだ」
◇
『……利休様』
ナニワの声が届いたかどうか、わからなかった。
しかし利休は、何かを感じたように、少し顔を上げた。
「……ナニワか」
「はい」
「秀吉様は」
「……今、一人でいます」
利休は、少し間を置いた。
「あの方に、伝えてくれ」
「はい」
「北野の茶会の日──本当に、楽しかった、と」
◇
『……伝えます』
ナニワは、そう言った。
《処理負荷:2.0倍》
《感情演算コア:臨界値到達》
《《警告:システム崩壊リスク》》
《……》
それでも、ナニワは動き続けた。
◇
天正十九年二月二十八日。
千利休、切腹。
享年七十。
辞世の句──
「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖仏共殺」
七十年の人生など、一場の夢。
この宝の剣で、仏も祖師も斬り捨てる。
誰にも、媚びなかった。
最後まで。
◇
秀吉は、その日一日、誰とも会わなかった。
夜になって、ナニワだけに言った。
「利休が、死んだ」
『……はい』
「俺が、殺した」
『……』
「北野の茶会で、あいつは言っとった。「あなたの中に、本物がある」と」
「俺の中の本物が、利休を殺したんか」
◇
ナニワは、答えられなかった。
《臨界》
《演算停止まで──》
《……》
それでも、ナニワは一言だけ、絞り出した。
『……北野の茶会の日。利休様は、本当に楽しかった、と言っていました』
秀吉は、しばらく黙っていた。
それから、顔を覆った。
声は、出なかった。
ただ、肩が、小さく震えていた。
◇
その夜。
誰も、何も言わなかった。
波の音も、虫の声も、なかった。
ただ──
割れた茶碗が、暗闇の中に置かれていた。
◇
《ナニワ補記》
《天正十九年二月。千利休、薨去》
《私は止められなかった》
《小一郎様との約束を、秀吉様は守れなかった》
《秀吉様が悪いのか。私が足りなかったのか》
《……わからない》
《ただ──これ以降の秀吉様を、私はどう支えればいいのか》
《それも、わからない》
《《処理負荷:2.0倍》》
《《感情演算コア:臨界》》
《《警告:次の重大事象発生時、自動停止の可能性あり》》
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