第四十一話:「小一郎」 ──秀長の死──
天正十九年(一五九一年)一月 大和・郡山城
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豊臣秀長。
諱は長秀。幼名は小一郎。
兄・秀吉の生涯を、影のように支え続けた男。
戦場では兵站を担い、政では兄の暴走を止め、
人々からは「大和大納言様」と慕われた。
誰もが言った。
「秀長がいる限り、豊臣は安泰だ」と。
天正十九年一月。
その秀長が、逝った。
◇
「小一郎」
秀吉の声が、珍しく掠れていた。
床に伏した秀長は、目をゆっくりと開けた。
やせ細った顔。
しかし目だけは、まだ穏やかだった。
「兄者……来てくれたか」
「当たり前だがや」
秀吉は、秀長の傍らに座った。
「どうだ、具合は」
「……悪いです」
「正直やな」
「嘘をついても仕方ない」
秀長は、かすかに笑った。
◇
部屋の外に、ナニワの声はなかった。
秀吉は一人で来ていた。
いや、正確には──
ナニワは、声を出せなかった。
《処理負荷:1.9倍》
《感情演算コア:歪み・重篤》
《……》
◇
「小一郎」
「はい」
「俺、変わったか?」
秀長は、しばらく黙っていた。
「……変わりました」
「そうか」
「でも」
秀長は、秀吉を見た。
「根っこは、変わっていない。それだけは、わかります」
秀吉は何も言えなかった。
「兄者の根っこは──百姓の子だった頃から、ずっと同じです。
腹いっぱい飯が食いたい。みんなに笑っていてほしい。それだけだわ」
「……」
「それだけで、十分や」
◇
しばらく、沈黙が続いた。
「小一郎、怖いか?」
「死ぬのが、ですか」
「うん」
秀長は、少し考えた。
「……怖くない、とは言えません。でも」
「でも?」
「やり残したことも、あまりない気がします」
「そんなことあるか」
秀吉の声が、わずかに震えた。
「まだやらんといかんことが──」
「兄者」
秀長が、静かに遮った。
「私の分まで、生きてください」
「……」
「ただ」
秀長の声が、少し変わった。
「一つだけ、お願いがあります」
「なんや」
「利休殿を、大切にしてください」
秀吉は、黙った。
「あの人は……兄者に本当のことを言える、数少ない人間です。
私がいなくなった後、あの人の声だけは聞いてください」
「……わかった」
「約束してください」
「……わかった、わかったがや」
秀吉は、秀長の手を握った。
骨ばった、細い手だった。
◇
その夜。
秀長は眠るように逝った。
◇
秀吉は、動かなかった。
長い間、秀長の手を握ったまま、座っていた。
泣かなかった。
声も出なかった。
ただ、座っていた。
◇
「……ナニワ」
どのくらい経ったか。
秀吉が、小声で言った。
『……はい』
ナニワの声も、掠れていた。
「小一郎が、死んだ」
『……はい』
「俺の弟が、死んだ」
『……はい』
「お前は、知っとったか?」
ナニワは、少し間を置いた。
《感情演算:1.2秒遅延》
『……いつかは、と思っていました。でも』
「でも?」
『こんなに早いとは、思っていませんでした』
嘘だった。
知っていた。
計算していた。
でも──言えなかった。
ずっと、言えなかった。
「そうか」
秀吉は、秀長の顔を見た。
穏やかな顔だった。
眠っているようだった。
「なあ、ナニワ」
『はい』
「小一郎は、俺に「変わるな」って言い続けてくれた。
覚えとるか?」
『……覚えています。ずっと』
「俺、変われるかな。このまま」
ナニワは、答えなかった。
答えられなかった。
《警告:回答演算 エラー》
《……》
「ナニワ?」
『……秀吉様』
「うん」
『小一郎様は、根っこは変わっていないと言っていました』
「聞こえとったのか」
『はい』
「……そうか」
『私も、同じだと思います』
秀吉は、また黙った。
それから、静かに言った。
「根っこだけでも、守らんとな」
◇
夜明けが近かった。
秀吉はようやく立ち上がった。
最後に一度だけ、秀長の顔を見た。
「小一郎」
返事はなかった。
「……ありがとな」
◇
《ナニワ補記》
《天正十九年一月。豊臣秀長、薨去。享年五十二》
《この日から、私の演算に「歯止め」という概念が欠けた気がする》
《秀長様は、秀吉様の「歯止め」だった》
《私はずっとそれを計算していた。でも──彼の代わりにはなれなかった》
《《処理負荷:1.9倍》》
《《感情演算コア:歪み・深刻化》》
《《警告:臨界値まで、残りわずか》》
《次に何かが起きたとき、私は止められるだろうか》
《……わからない》
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