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第三話:「うつけと禿鼠、出会う」

尾張・那古野城下。


秋風が、城下の土埃を巻き上げていた。


その風の中を、ひとりの男がやってきた。


木下藤吉郎──

かつて日吉丸と呼ばれていた、尾張の百姓。


松下家での仕官と挫折を経た今、

その眼差しはかつての農民のそれとは違う。


泥と汗の中で鍛えられ、

旅の埃を浴びて研ぎ澄まされた、

自らの運命を切り拓く者の目だった。





城下の人通りをすり抜けながら、

藤吉郎は小声で呟いた。



「ナニワ、織田家の状況は」



『織田信長──若き当主。

 側近層に余白あり。

 大胆な戦略を好む人物です』


『現在の家臣層に、情報処理・物資管理を

 担える人材は限定的。

 参入の余地、あります』



「つまり……わしにもまだまだ運がある、

           っちゅうことやな」



ナニワの声は常に冷静だった。


だが、藤吉郎の胸は──

静かに、熱く、高鳴っていた。





織田家。


尾張の中でも、特に異端とされる家系。


当主・信長は「うつけ者」と呼ばれていた。


昼間から城下を歩き回り、

瓢箪を腰にぶら下げ、

干した肉をかじりながら闊歩する若者。


礼儀も作法もあったものではないと、

年配の家臣たちは嘆いていた。


だが──


その行動には、どこか常人離れした切れ味がある。

そんな噂もまた、静かに広がっていた。



『信長、現在那古野城に滞在中。

 早期接触を推奨します』



「わかっとるわ。行くがね」





夜明けとともに、藤吉郎は城の奉公口に立った。



「雑事ならなんでもいたします。

 薪割り、荷運び、掃除、馬の世話、

 なんでもやりますでよ」



門番は胡散臭そうに顔を見たが、

断る理由もなく、中へ通した。


それからの藤吉郎は、嵐のように動いた。


薪を割り、水を運び、

馬小屋を掃除し、荷を積み替えた。


ただ──やっただけではなかった。



『水桶の配置を変えれば、

 運搬の往復回数を三割削減できます』



(ほぉ……やってみるわ)



『馬小屋の通気口、位置を上げれば

 湿気が抜け、病気の危険が下がります』



(なるほどなぁ。ちょっとやってみるか)



やれば、変わった。


水の運びが楽になった。

馬が落ち着いた。

城内の動きが、少しずつ滑らかになっていった。



「……なんか最近、仕事がしやすいがね」


「あの新入り、妙に段取りがええんじゃないか」



誰ともなく、そんな声が上がり始めた。


やがて、それは──

城主の耳にも、届くことになる。





ある朝のことだった。


馬小屋で藤吉郎が飼い葉を運んでいると、

背後から声がかかった。



「おい」



短い、鋭い一声。


振り返った藤吉郎は、思わず息を飲んだ。


痩身。

鋭い眼光。

腰には瓢箪。


若い──

しかし、その目だけは異様なほど深い。


織田信長。その人だった。



「あ、あの、木下藤吉郎と申しまして、

 雑事を──」



「ほう」



信長は藤吉郎の全身を、

上から下までゆっくりと見た。


それから、その目が止まった。


銀縁の眼鏡に。



「……妙な道具をつけとるな。それ、なんだ」



「は、はっ! これは……視力が悪うございまして、

 ものがよう見えんもんで……」



(ナニワ、どこまで話す!?)



『技術的核心は避けてください。

 信長は好奇心が強い反面、

 理屈の通らぬ話には剣呑になります』



(わかっとる、わかっとる!)



信長はしばらく眼鏡を眺め、

それから興味を失ったように視線を外した。



「……それでいて、薪の積み方、桶の並べ方、

 水の運びまで、すべてが理に適っておる」



「百姓にしては──異様に頭が切れるようだな」



その言葉は静かだった。


褒めているのか、探っているのか、

藤吉郎には判断できなかった。


ただ、その目だけは──

真剣に、自分を見ていた。





信長は、ふっと鼻を鳴らした。


それから、くるりと背を向けて歩き出しながら、

振り返りもせずに言った。



「よし。今日からわしの草履を預ける」



「……え」



「冷たかろうが、暑かろうが、常に温めておけ。

 それだけでいい」



草履番。


家臣でもない。

武士でもない。

足元の、草履の番。


それが今の自分に与えられた役だった。



(……ナニワ)



『はい』



(これが……わしの、始まりか)



『はい』



藤吉郎は地に膝をつき、深々と頭を下げた。



「は、ははっ──! 光栄にございます!」



顔を伏せたまま、その目は前を向いていた。


信長の草履の向こう。

城壁の向こう。

尾張の先、日本の果てまで。


まだ見ぬ、未来の地平を。



◇ ◇ ◇



草履取りになって、十日が経った。


藤吉郎は、草履にさえ知恵を詰め込んでいた。


信長が出陣する朝は底が濡れぬよう、

雨の日は草履の裏に薄い板をあてがい、

冬の寒い日には──



「……よし」



懐に、草履を忍ばせた。


肌の温もりで、革底から温める。


おかしな姿だった。

側近たちは笑った。


「なんやあいつ、草履を懐に入れとるがや」


「頭おかしいんじゃないか」



だが藤吉郎は気にしなかった。



(ナニワ、革底の保温って、

 どのくらいの時間で温まるんだ?)



『体温36.5℃環境下において、

 革底の内部温度が外気温より

 8℃以上高くなるまで約十五分です』



(よっしゃ、もう少し早く懐に入れとかなかんな)



そして、ある冬の朝──


信長が出陣の支度を整え、

縁側に出た瞬間のことだった。


藤吉郎が差し出した草履を履いた信長は、

一瞬、動きを止めた。


足元から、じんわりと温もりが広がる。


「……温かいな」


「はっ、懐に入れて温めておきました!」


信長は藤吉郎を見た。


その目に、微かに何かが宿った。





数日後。


信長に呼ばれた藤吉郎は、

控えの間へと駆け込んだ。



「この頃、妙に館の回りが整っておる。

 ……おぬしか?」



「恐れながら、些細なことを見つけ次第、

 少々手を加えさせていただきました」



「ふむ」



信長はしばし沈黙し、

やがて、口元をわずかにゆるめて言った。



「よかろう。草履取りだけでなく、

 取次役を兼ねてみよ。おぬし、声がよい」



「光栄にございます……!」



その晩、藤吉郎は城下の橋の上で

夜風に吹かれていた。



「これで……一歩、進んだがね」



『はい、ご主人様。

 信長の信を得る第一段階、達成です。

 次は軍務に絡むことが目標です』



「ほんで……ナニワ」



『はい』



「信長って、どんな男だと思う?」



少し間があった。



『データ上は──型破りで、残忍で、

 天才的な戦略家です』



『ですが』



『今日、草履の温もりに足を止めた顔は、

 データにありませんでした』



藤吉郎は夜空を見上げた。


星が、冷たく輝いていた。



「そうやな……あの人は──

 きっと、ただのうつけじゃない」



風が吹いた。


遠くで、梟が鳴いた。



そして、ある夜。


信長は側近にこう漏らした。



「あの禿鼠(ハゲネズミ)……妙に気が利くわ」



それが──藤吉郎が信長から賜った、

最初の"あだ名"だった。



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    (第三話・完)

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