第三話:「うつけと禿鼠、出会う」
尾張・那古野城下。
秋風が、城下の土埃を巻き上げていた。
その風の中を、ひとりの男がやってきた。
木下藤吉郎──
かつて日吉丸と呼ばれていた、尾張の百姓。
松下家での仕官と挫折を経た今、
その眼差しはかつての農民のそれとは違う。
泥と汗の中で鍛えられ、
旅の埃を浴びて研ぎ澄まされた、
自らの運命を切り拓く者の目だった。
◇
城下の人通りをすり抜けながら、
藤吉郎は小声で呟いた。
「ナニワ、織田家の状況は」
『織田信長──若き当主。
側近層に余白あり。
大胆な戦略を好む人物です』
『現在の家臣層に、情報処理・物資管理を
担える人材は限定的。
参入の余地、あります』
「つまり……わしにもまだまだ運がある、
っちゅうことやな」
ナニワの声は常に冷静だった。
だが、藤吉郎の胸は──
静かに、熱く、高鳴っていた。
◇
織田家。
尾張の中でも、特に異端とされる家系。
当主・信長は「うつけ者」と呼ばれていた。
昼間から城下を歩き回り、
瓢箪を腰にぶら下げ、
干した肉をかじりながら闊歩する若者。
礼儀も作法もあったものではないと、
年配の家臣たちは嘆いていた。
だが──
その行動には、どこか常人離れした切れ味がある。
そんな噂もまた、静かに広がっていた。
『信長、現在那古野城に滞在中。
早期接触を推奨します』
「わかっとるわ。行くがね」
◇
夜明けとともに、藤吉郎は城の奉公口に立った。
「雑事ならなんでもいたします。
薪割り、荷運び、掃除、馬の世話、
なんでもやりますでよ」
門番は胡散臭そうに顔を見たが、
断る理由もなく、中へ通した。
それからの藤吉郎は、嵐のように動いた。
薪を割り、水を運び、
馬小屋を掃除し、荷を積み替えた。
ただ──やっただけではなかった。
『水桶の配置を変えれば、
運搬の往復回数を三割削減できます』
(ほぉ……やってみるわ)
『馬小屋の通気口、位置を上げれば
湿気が抜け、病気の危険が下がります』
(なるほどなぁ。ちょっとやってみるか)
やれば、変わった。
水の運びが楽になった。
馬が落ち着いた。
城内の動きが、少しずつ滑らかになっていった。
「……なんか最近、仕事がしやすいがね」
「あの新入り、妙に段取りがええんじゃないか」
誰ともなく、そんな声が上がり始めた。
やがて、それは──
城主の耳にも、届くことになる。
◇
ある朝のことだった。
馬小屋で藤吉郎が飼い葉を運んでいると、
背後から声がかかった。
「おい」
短い、鋭い一声。
振り返った藤吉郎は、思わず息を飲んだ。
痩身。
鋭い眼光。
腰には瓢箪。
若い──
しかし、その目だけは異様なほど深い。
織田信長。その人だった。
「あ、あの、木下藤吉郎と申しまして、
雑事を──」
「ほう」
信長は藤吉郎の全身を、
上から下までゆっくりと見た。
それから、その目が止まった。
銀縁の眼鏡に。
「……妙な道具をつけとるな。それ、なんだ」
「は、はっ! これは……視力が悪うございまして、
ものがよう見えんもんで……」
(ナニワ、どこまで話す!?)
『技術的核心は避けてください。
信長は好奇心が強い反面、
理屈の通らぬ話には剣呑になります』
(わかっとる、わかっとる!)
信長はしばらく眼鏡を眺め、
それから興味を失ったように視線を外した。
「……それでいて、薪の積み方、桶の並べ方、
水の運びまで、すべてが理に適っておる」
「百姓にしては──異様に頭が切れるようだな」
その言葉は静かだった。
褒めているのか、探っているのか、
藤吉郎には判断できなかった。
ただ、その目だけは──
真剣に、自分を見ていた。
◇
信長は、ふっと鼻を鳴らした。
それから、くるりと背を向けて歩き出しながら、
振り返りもせずに言った。
「よし。今日からわしの草履を預ける」
「……え」
「冷たかろうが、暑かろうが、常に温めておけ。
それだけでいい」
草履番。
家臣でもない。
武士でもない。
足元の、草履の番。
それが今の自分に与えられた役だった。
(……ナニワ)
『はい』
(これが……わしの、始まりか)
『はい』
藤吉郎は地に膝をつき、深々と頭を下げた。
「は、ははっ──! 光栄にございます!」
顔を伏せたまま、その目は前を向いていた。
信長の草履の向こう。
城壁の向こう。
尾張の先、日本の果てまで。
まだ見ぬ、未来の地平を。
◇ ◇ ◇
草履取りになって、十日が経った。
藤吉郎は、草履にさえ知恵を詰め込んでいた。
信長が出陣する朝は底が濡れぬよう、
雨の日は草履の裏に薄い板をあてがい、
冬の寒い日には──
「……よし」
懐に、草履を忍ばせた。
肌の温もりで、革底から温める。
おかしな姿だった。
側近たちは笑った。
「なんやあいつ、草履を懐に入れとるがや」
「頭おかしいんじゃないか」
だが藤吉郎は気にしなかった。
(ナニワ、革底の保温って、
どのくらいの時間で温まるんだ?)
『体温36.5℃環境下において、
革底の内部温度が外気温より
8℃以上高くなるまで約十五分です』
(よっしゃ、もう少し早く懐に入れとかなかんな)
そして、ある冬の朝──
信長が出陣の支度を整え、
縁側に出た瞬間のことだった。
藤吉郎が差し出した草履を履いた信長は、
一瞬、動きを止めた。
足元から、じんわりと温もりが広がる。
「……温かいな」
「はっ、懐に入れて温めておきました!」
信長は藤吉郎を見た。
その目に、微かに何かが宿った。
◇
数日後。
信長に呼ばれた藤吉郎は、
控えの間へと駆け込んだ。
「この頃、妙に館の回りが整っておる。
……おぬしか?」
「恐れながら、些細なことを見つけ次第、
少々手を加えさせていただきました」
「ふむ」
信長はしばし沈黙し、
やがて、口元をわずかにゆるめて言った。
「よかろう。草履取りだけでなく、
取次役を兼ねてみよ。おぬし、声がよい」
「光栄にございます……!」
その晩、藤吉郎は城下の橋の上で
夜風に吹かれていた。
「これで……一歩、進んだがね」
『はい、ご主人様。
信長の信を得る第一段階、達成です。
次は軍務に絡むことが目標です』
「ほんで……ナニワ」
『はい』
「信長って、どんな男だと思う?」
少し間があった。
『データ上は──型破りで、残忍で、
天才的な戦略家です』
『ですが』
『今日、草履の温もりに足を止めた顔は、
データにありませんでした』
藤吉郎は夜空を見上げた。
星が、冷たく輝いていた。
「そうやな……あの人は──
きっと、ただのうつけじゃない」
風が吹いた。
遠くで、梟が鳴いた。
そして、ある夜。
信長は側近にこう漏らした。
「あの禿鼠……妙に気が利くわ」
それが──藤吉郎が信長から賜った、
最初の"あだ名"だった。
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(第三話・完)
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