第三十九話:「遅れてきた独眼竜」 ──小田原討伐・伊達政宗──
天正十八年(一五九〇年)初夏 相模・小田原
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天正十八年、
豊臣秀吉は二十万を超える大軍を率いて、相模・小田原に向かった。
関東に覇を唱える北条氏政。
その居城・小田原城は「難攻不落」と呼ばれた。
しかし秀吉は、攻めなかった。
囲んだだけだった。
城を包囲し、兵糧を断ち、じっくりと待った。
その間、陣中では茶会が開かれ、能が舞われ、側室が呼ばれた。
まるで、城ではなく──祭りを囲むように。
◇
「ナニワ、小田原城の兵糧はあと何日もつ?」
秀吉が、縁台に寝転がりながら言った。
陣中とは思えない、のんびりした姿だった。
『現在の推計で、六十日から九十日です。ただし──』
「ただし?」
『城内の士気の低下を計算に入れると、
実際の降伏はもっと早くなる可能性があります』
「ほうか」
秀吉は空を見上げた。
初夏の空が、どこまでも青かった。
「慌てんでいいがや。北条はどこにも逃げやせん」
◇
そこへ、小一郎が駆けてきた。
「兄者、ちょっとよろしいですか」
「なんや、慌てて」
「……奥州から、来ました」
「誰が?」
小一郎は、少し間を置いた。
「伊達政宗が」
◇
陣中に、どよめきが広がった。
伊達政宗。
奥州の覇者。独眼竜。
今年二十三歳。
豊臣の天下統一に最後まで抵抗し、
参陣を引き延ばし続けていた若き大名が──
今、ここに現れた。
「……遅い」
黒田官兵衛が、静かに言った。
「遅すぎます。これは──」
「わかっとる」
秀吉は、むくりと起き上がった。
「どんな格好で来た?」
使者が答えた。
「……白い装束で」
◇
『──記録します』
ナニワが、静かに割り込んだ。
《感情演算 0.7秒遅延》
『伊達政宗、白装束にて出頭。
島津義久と同じ「死を覚悟した降伏」の様式です』
「ナニワ」
秀吉が言った。
「あいつ、どんな人間や」
ナニワは、少し間を置いた。
『……計算が、難しい人間です』
「珍しいな」
『はい。家康様と、同じ種類の難しさです。
ただ──家康様より、ずっと若い。そして』
「そして?」
『野心の質が、違います』
秀吉は立ち上がった。
「会いに行こう」
◇
伊達政宗は、陣の外に一人で立っていた。
白い死装束。
太刀一本。
従者なし。
二十三歳の若者が、二十万の軍勢の前に、ただ一人で立っていた。
(……)
秀吉は、思わず足を止めた。
その姿に、何かを見た気がした。
かつて、自分が持っていた何か。
「伊達政宗」
「──はい」
政宗は、頭を下げた。
深く、しかし卑屈ではなく。
「遅うなりました」
「わかっとる」
秀吉は、政宗の顔を見た。
右目が、ない。
幼い頃に失った、という話は聞いていた。
しかし残った左の目が、あまりにも鋭かった。
「その格好は何や」
「死装束です」
「わかっとる。なんでそれを着てきた」
政宗は、まっすぐ秀吉を見た。
「遅れた者の礼儀です。斬るなら斬れ。それだけです」
◇
陣中が、静まり返った。
「……度胸あるな」
秀吉が言った。
「度胸ではありません」
「じゃあ何や」
「計算です」
政宗は、静かに言った。
「死装束で来れば、殺すに忍びないと思う人間もいる。
奇抜な格好は人の記憶に残る。
殺されるなら殺されるで、後世に『伊達政宗はこうして死んだ』と語られる。
どちらに転んでも──無様ではない」
◇
沈黙が続いた。
それから、秀吉は笑った。
「ハハッ」
一気に笑い声が弾けた。
「こいつ、面白いがや!」
「……笑うつもりはありませんでした」
「わかっとる!でも面白い!官兵衛、こいつ面白いと思わんか!」
後ろに控えていた官兵衛が、静かに答えた。
「……危うい面白さです」
「そこがええんだがや!」
◇
『──記録します』
ナニワが、静かに言った。
《伊達政宗:計算と胆力を併せ持つ人物。
「死」を戦略として使う点で、島津義久と似ている。
しかし島津は「民のため」に死を差し出した。政宗は「自分のため」に死を使う》
《この差異が、今後どう現れるか──私には、まだ計算できない》
◇
「政宗」
秀吉は、政宗の前に立った。
「お前、俺に何か言うことはないか」
「……遅れました。申し訳ありません」
「それだけか」
「それだけです」
「謝らんのか、もっと」
政宗は、少し間を置いた。
「これ以上謝っても、遅れた事実は変わりません」
「……」
「謝り続ける時間があれば、これからの働きを考えます」
秀吉は、しばらく政宗を見ていた。
それから、ぽんと肩を叩いた。
「その首、今日だけは置いといたる」
「……ありがとうございます」
「今日だけだぞ」
「はい」
「明日からは、役に立て」
政宗は、深く頭を下げた。
「──御意」
◇
その夜。
秀吉は一人で、小田原城の灯りを眺めていた。
「ナニワ」
『はい』
「政宗、どう思う?」
ナニワは、少し考えた。
《感情演算 0.8秒遅延》
『……好きか嫌いかで言えば』
「言えば?」
『好きです。でも、信頼できるかどうかは、別の話です』
「どう違う?」
『あの人間は、今日は秀吉様の味方です。
でも本質的には──天下を自分のものにしたかった人間です。
それは今も変わっていない。ただ、今は「まだ早い」と判断している』
「そうやな」
秀吉は、城の灯りを見た。
「俺も、昔はそうやったがね」
『……はい』
「信長様の下で、ずっと「まだ早い」と思っとった」
「だから?」
「だから、わかる。政宗が何を考えとるか」
ナニワは、少し間を置いた。
『……だから、殺さなかったのですか』
「そうだがや」
秀吉は、小さく笑った。
「俺を殺さんでくれた人間がおったから、今の俺がある。それを忘れたくないがね」
◇
一か月後。
北条氏政は、小田原城を開いた。
難攻不落の城が、一戦も交えずに落ちた。
氏政は、切腹を命じられた。
◇
「……終わったな」
秀吉が、静かに言った。
「関東も、奥州も、これで豊臣の世や」
『はい。これで──ほぼ、天下統一が完成します』
「ほぼ、か」
『まだ、残っているものがあります』
「なんや」
ナニワは、少し間を置いた。
『……人の心、です』
秀吉は、官兵衛を見た。
官兵衛は、何も言わなかった。
ただ静かに、頷いた。
◇
その夜、政宗は秀吉の陣に呼ばれた。
二人だけで、酒を飲んだ。
「政宗、お前の夢は何や」
政宗は、少し驚いた顔をした。
「……夢、ですか」
「うん」
「天下です」
迷わず答えた。
秀吉は笑った。
「正直だな」
「嘘をついても仕方ありません」
「でも、今は俺が天下を持っとる」
「知っています」
「悔しいか?」
政宗は、杯を置いた。
「……十年、早く生まれたかったとは思います」
「そうだな」
「しかし生まれた時は選べない」
「そうだな」
二人は、しばらく黙って酒を飲んだ。
「政宗」
「はい」
「お前が俺より長く生きたとして、この先の世を見届けてくれ」
政宗は、秀吉を見た。
「……豊臣の世が続くとは限りません」
「わかっとる」
「それでも?」
「それでも、や」
秀吉は、空を見上げた。
「俺が作ろうとしたものが、正しかったかどうか。
俺が死んだ後で、誰かに見ていてほしいんだがね」
政宗は、長い間黙っていた。
それから、静かに言った。
「……見届けましょう。それくらいは、できます」
◇
『──記録します』
ナニワが、静かに補記した。
《伊達政宗:この夜の約束を、果たすことになる》
《彼は秀吉より長く生き、豊臣家の滅亡を見た》
《その目に何が映ったか──私には、知る術がない》
《《処理負荷:1.7倍》》
《《感情演算コア:歪み拡大中》》
《《警告:推奨される定期メンテナンスを、三十七回スキップしています》》
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