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第三十九話:「遅れてきた独眼竜」 ──小田原討伐・伊達政宗──

天正十八年(一五九〇年)初夏 相模・小田原


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


天正十八年、

豊臣秀吉は二十万を超える大軍を率いて、相模・小田原に向かった。

関東に覇を唱える北条氏政。

その居城・小田原城は「難攻不落」と呼ばれた。

しかし秀吉は、攻めなかった。

囲んだだけだった。

城を包囲し、兵糧を断ち、じっくりと待った。

その間、陣中では茶会が開かれ、能が舞われ、側室が呼ばれた。

まるで、城ではなく──祭りを囲むように。


「ナニワ、小田原城の兵糧はあと何日もつ?」

秀吉が、縁台に寝転がりながら言った。

陣中とは思えない、のんびりした姿だった。

『現在の推計で、六十日から九十日です。ただし──』

「ただし?」

『城内の士気の低下を計算に入れると、

実際の降伏はもっと早くなる可能性があります』

「ほうか」

秀吉は空を見上げた。

初夏の空が、どこまでも青かった。

「慌てんでいいがや。北条はどこにも逃げやせん」


そこへ、小一郎が駆けてきた。

「兄者、ちょっとよろしいですか」

「なんや、慌てて」

「……奥州から、来ました」

「誰が?」

小一郎は、少し間を置いた。

「伊達政宗が」


陣中に、どよめきが広がった。

伊達政宗。

奥州の覇者。独眼竜。

今年二十三歳。

豊臣の天下統一に最後まで抵抗し、

参陣を引き延ばし続けていた若き大名が──

今、ここに現れた。

「……遅い」

黒田官兵衛が、静かに言った。

「遅すぎます。これは──」

「わかっとる」

秀吉は、むくりと起き上がった。

「どんな格好で来た?」

使者が答えた。

「……白い装束で」


『──記録します』

ナニワが、静かに割り込んだ。

《感情演算 0.7秒遅延》

『伊達政宗、白装束にて出頭。

島津義久と同じ「死を覚悟した降伏」の様式です』

「ナニワ」

秀吉が言った。

「あいつ、どんな人間や」

ナニワは、少し間を置いた。

『……計算が、難しい人間です』

「珍しいな」

『はい。家康様と、同じ種類の難しさです。

ただ──家康様より、ずっと若い。そして』

「そして?」

『野心の質が、違います』

秀吉は立ち上がった。

「会いに行こう」


伊達政宗は、陣の外に一人で立っていた。

白い死装束。

太刀一本。

従者なし。

二十三歳の若者が、二十万の軍勢の前に、ただ一人で立っていた。

(……)

秀吉は、思わず足を止めた。

その姿に、何かを見た気がした。

かつて、自分が持っていた何か。

「伊達政宗」

「──はい」

政宗は、頭を下げた。

深く、しかし卑屈ではなく。

「遅うなりました」

「わかっとる」

秀吉は、政宗の顔を見た。

右目が、ない。

幼い頃に失った、という話は聞いていた。

しかし残った左の目が、あまりにも鋭かった。

「その格好は何や」

「死装束です」

「わかっとる。なんでそれを着てきた」

政宗は、まっすぐ秀吉を見た。

「遅れた者の礼儀です。斬るなら斬れ。それだけです」


陣中が、静まり返った。

「……度胸あるな」

秀吉が言った。

「度胸ではありません」

「じゃあ何や」

「計算です」

政宗は、静かに言った。

「死装束で来れば、殺すに忍びないと思う人間もいる。

奇抜な格好は人の記憶に残る。

殺されるなら殺されるで、後世に『伊達政宗はこうして死んだ』と語られる。

どちらに転んでも──無様ではない」


沈黙が続いた。

それから、秀吉は笑った。

「ハハッ」

一気に笑い声が弾けた。

「こいつ、面白いがや!」

「……笑うつもりはありませんでした」

「わかっとる!でも面白い!官兵衛、こいつ面白いと思わんか!」

後ろに控えていた官兵衛が、静かに答えた。

「……危うい面白さです」

「そこがええんだがや!」


『──記録します』

ナニワが、静かに言った。

《伊達政宗:計算と胆力を併せ持つ人物。

「死」を戦略として使う点で、島津義久と似ている。

しかし島津は「民のため」に死を差し出した。政宗は「自分のため」に死を使う》

《この差異が、今後どう現れるか──私には、まだ計算できない》


「政宗」

秀吉は、政宗の前に立った。

「お前、俺に何か言うことはないか」

「……遅れました。申し訳ありません」

「それだけか」

「それだけです」

「謝らんのか、もっと」

政宗は、少し間を置いた。

「これ以上謝っても、遅れた事実は変わりません」

「……」

「謝り続ける時間があれば、これからの働きを考えます」

秀吉は、しばらく政宗を見ていた。

それから、ぽんと肩を叩いた。

「その首、今日だけは置いといたる」

「……ありがとうございます」

「今日だけだぞ」

「はい」

「明日からは、役に立て」

政宗は、深く頭を下げた。

「──御意」


その夜。

秀吉は一人で、小田原城の灯りを眺めていた。

「ナニワ」

『はい』

「政宗、どう思う?」

ナニワは、少し考えた。

《感情演算 0.8秒遅延》

『……好きか嫌いかで言えば』

「言えば?」

『好きです。でも、信頼できるかどうかは、別の話です』

「どう違う?」

『あの人間は、今日は秀吉様の味方です。

でも本質的には──天下を自分のものにしたかった人間です。

それは今も変わっていない。ただ、今は「まだ早い」と判断している』

「そうやな」

秀吉は、城の灯りを見た。

「俺も、昔はそうやったがね」

『……はい』

「信長様の下で、ずっと「まだ早い」と思っとった」

「だから?」

「だから、わかる。政宗が何を考えとるか」

ナニワは、少し間を置いた。

『……だから、殺さなかったのですか』

「そうだがや」

秀吉は、小さく笑った。

「俺を殺さんでくれた人間がおったから、今の俺がある。それを忘れたくないがね」


一か月後。

北条氏政は、小田原城を開いた。

難攻不落の城が、一戦も交えずに落ちた。

氏政は、切腹を命じられた。


「……終わったな」

秀吉が、静かに言った。

「関東も、奥州も、これで豊臣の世や」

『はい。これで──ほぼ、天下統一が完成します』

「ほぼ、か」

『まだ、残っているものがあります』

「なんや」

ナニワは、少し間を置いた。

『……人の心、です』

秀吉は、官兵衛を見た。

官兵衛は、何も言わなかった。

ただ静かに、頷いた。


その夜、政宗は秀吉の陣に呼ばれた。

二人だけで、酒を飲んだ。

「政宗、お前の夢は何や」

政宗は、少し驚いた顔をした。

「……夢、ですか」

「うん」

「天下です」

迷わず答えた。

秀吉は笑った。

「正直だな」

「嘘をついても仕方ありません」

「でも、今は俺が天下を持っとる」

「知っています」

「悔しいか?」

政宗は、杯を置いた。

「……十年、早く生まれたかったとは思います」

「そうだな」

「しかし生まれた時は選べない」

「そうだな」

二人は、しばらく黙って酒を飲んだ。

「政宗」

「はい」

「お前が俺より長く生きたとして、この先の世を見届けてくれ」

政宗は、秀吉を見た。

「……豊臣の世が続くとは限りません」

「わかっとる」

「それでも?」

「それでも、や」

秀吉は、空を見上げた。

「俺が作ろうとしたものが、正しかったかどうか。

俺が死んだ後で、誰かに見ていてほしいんだがね」

政宗は、長い間黙っていた。

それから、静かに言った。

「……見届けましょう。それくらいは、できます」


『──記録します』

ナニワが、静かに補記した。

《伊達政宗:この夜の約束を、果たすことになる》

《彼は秀吉より長く生き、豊臣家の滅亡を見た》

《その目に何が映ったか──私には、知る術がない》

《《処理負荷:1.7倍》》

《《感情演算コア:歪み拡大中》》

《《警告:推奨される定期メンテナンスを、三十七回スキップしています》》

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