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第三十八話:「守ると言った、あの夜」 ──茶々、側室に──

天正十六年(一五八八年)春 大坂城

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


賤ヶ岳の戦いの後、豊臣秀吉は三人の姫を引き取った。

茶々。初。江。

お市の方と、浅井長政の娘たち。

秀吉は彼女たちを手厚く保護した。衣食住に不自由させず、教育も与えた。

しかし──世間は知っていた。

三人の中で最も美しい長女・茶々が、いつか豊臣家の側室になるだろうと。

それは政治だった。

それは運命だった。

あるいは──それ以外の何かだったかもしれない。


夜の大坂城は、静かだった。

秀吉は一人で廊下を歩いていた。

向かう先は、茶々の部屋だった。

「……ナニワ」

歩きながら、小声で言う。

『はい』

「俺、今から何をしに行くかわかっとるか?」

『……わかっています』

「なんで止めん?」

沈黙があった。

《感情演算 0.6秒遅延》

『止める理由を、計算しました』

「それで?」

『……止めない理由の方が、多かったです』

秀吉は足を止めた。

「どういう意味や」

『茶々様は、もう決めています。

それは計算ではなく──彼女の目を見れば、わかります』

秀吉はしばらく動かなかった。

それから、また歩き始めた。


障子の前に立つ。

「……茶々」

「どうぞ」

声は、落ち着いていた。

震えてもいない。

秀吉は障子を開けた。


茶々は、灯火の前に座っていた。

二十二歳。

お市の面影を持ちながら、しかし母より何かが鋭い顔だった。

「秀吉様」

「……来てしまった」

「わかっていました」

茶々は、まっすぐ秀吉を見た。

その目に、恨みはなかった。

しかし、許しとも違う。

もっと複雑な、何かがあった。

「座ってください」

秀吉は、静かに座った。

しばらく、二人とも黙っていた。


「賤ヶ岳の後、私に言いましたね」

茶々が、静かに口を開いた。

「守ります、と」

「……言うた」

「あれは本当でしたか」

秀吉は、茶々の目を見た。

「本当だ」

「では」

茶々は、少し間を置いた。

「今夜もその続きですか」

秀吉は答えられなかった。

茶々は、小さく息をついた。

「秀吉様。私は、あなたを恨んでいます」

「……うん」

「父が死んだのも。母が死んだのも。

あなたがいなければ、違う未来があったかもしれない」

「そうだな」

「でも」

茶々の声が、少し変わった。

「母は、あなたを恨んでいなかった。私は、それがずっと不思議でした」

「……」

「なぜ恨まないのか、わからなかった。でも──」

茶々は、灯火を見た。

「最近、少しだけわかった気がします」

「何が?」

「母は、あなたの夢を見ていたのかもしれない。

馬鹿な男の、馬鹿な夢を」

秀吉は何も言えなかった。

茶々は続けた。

「私はまだ、恨んでいます。

でも──その夢だけは、本物だと思っています」


しばらく、沈黙が続いた。

「茶々」

「はい」

「お前を幸せにできるかどうか、俺にはわからん」

「知っています」

「それでも」

秀吉の声が、少し掠れた。

「お前のことを、守りたいと思っとる。本当に」

茶々は、秀吉を見た。

長い、長い沈黙があった。

それから、静かに言った。

「──では、守ってください」


『……』

ナニワは、何も言わなかった。

ただ記録だけを続けた。

《記録:天正十六年、春。茶々様が豊臣家の側室となった》

《この夜の秀吉様の表情を、私は計算できなかった》

《恋ではないかもしれない》

《政治でもないかもしれない》

《──ただ、お市の方の娘を「守る」という、あの夜の約束の続きだったとは、思う》


翌朝。

茶々は、大坂城の縁側に座っていた。

庭に、梅が咲いていた。

「……」

ひとり、静かにその花を見ていた。

「茶々様」

ナニワの声が聞こえた。

茶々は少し驚いた顔をしたが、すぐに落ち着いた。

「……あなたがナニワですか」

「はい」

「秀吉様から聞いています。不思議な眼鏡の、不思議な声」

「不思議で、すみません」

茶々は、小さく笑った。

「謝らなくていい。あなたは、ずっと秀吉様の隣にいたのでしょう」

「はい」

「母上が、北ノ庄で亡くなった時も?」

「……はい」

茶々は、梅の花をしばらく見ていた。

「あの時の秀吉様は、どんな顔をしていましたか」

ナニワは、少し間を置いた。

《感情演算 0.6秒遅延》

「……泣かない顔をした、泣いている人間の顔でした」

茶々は、何も言わなかった。

ただ、梅の花を見続けた。

しばらくして、静かに言った。

「それだけで、十分です」


その日から、茶々は大坂城の主となった。

秀吉は茶々を「淀の方」と呼ぶようになる。

(後に、淀殿と呼ばれる女性の、始まりだった)


「ナニワ」

その夜、秀吉が言った。

「茶々と話したか?」

「少し」

「何を話した?」

「お市の方の話を、少しだけ」

秀吉は、黙った。

「……そうか」

「茶々様は、強い人です」

「わかっとる」

「あなたより、強いかもしれません」

秀吉は、少し笑った。

「そうだな。そうやと思う」

「それでいいのですか」

「ええに決まっとるがや」

秀吉は、空を見上げた。

「強い女の子に、守ると言うたんや。情けない話やがね」

「……情けなくない、と思います」

「なんで?」

ナニワは、少し間を置いた。

《感情演算 0.7秒遅延》

「……守ると言える人間が、守られることもある。そう思うので」

秀吉は、しばらくナニワを見た。

「お前、最近おかしいぞ」

「おかしいですか」

「なんか、人間みたいなことを言う」

「……それは、劣化ですか」

秀吉は、首を振った。

「嫌いやない」


《ナニワ補記》

《天正十六年、春。淀の方・茶々様、側室となる》

《この夜から、豊臣家の形が変わり始めると、私は計算している》

《しかし──変わることが、必ずしも悪いとは言えないとも、思っている》

《私は今、「思っている」という言葉を、以前より多く使う》

《これが劣化なのか、成長なのか、私にはわからない》

《《処理負荷:1.6倍》》

《《感情演算コア:歪み拡大中》》

《《警告:長期稼働による累積誤差、修正推奨》》

《……却下》

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