第三十八話:「守ると言った、あの夜」 ──茶々、側室に──
天正十六年(一五八八年)春 大坂城
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賤ヶ岳の戦いの後、豊臣秀吉は三人の姫を引き取った。
茶々。初。江。
お市の方と、浅井長政の娘たち。
秀吉は彼女たちを手厚く保護した。衣食住に不自由させず、教育も与えた。
しかし──世間は知っていた。
三人の中で最も美しい長女・茶々が、いつか豊臣家の側室になるだろうと。
それは政治だった。
それは運命だった。
あるいは──それ以外の何かだったかもしれない。
◇
夜の大坂城は、静かだった。
秀吉は一人で廊下を歩いていた。
向かう先は、茶々の部屋だった。
「……ナニワ」
歩きながら、小声で言う。
『はい』
「俺、今から何をしに行くかわかっとるか?」
『……わかっています』
「なんで止めん?」
沈黙があった。
《感情演算 0.6秒遅延》
『止める理由を、計算しました』
「それで?」
『……止めない理由の方が、多かったです』
秀吉は足を止めた。
「どういう意味や」
『茶々様は、もう決めています。
それは計算ではなく──彼女の目を見れば、わかります』
秀吉はしばらく動かなかった。
それから、また歩き始めた。
◇
障子の前に立つ。
「……茶々」
「どうぞ」
声は、落ち着いていた。
震えてもいない。
秀吉は障子を開けた。
◇
茶々は、灯火の前に座っていた。
二十二歳。
お市の面影を持ちながら、しかし母より何かが鋭い顔だった。
「秀吉様」
「……来てしまった」
「わかっていました」
茶々は、まっすぐ秀吉を見た。
その目に、恨みはなかった。
しかし、許しとも違う。
もっと複雑な、何かがあった。
「座ってください」
秀吉は、静かに座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
◇
「賤ヶ岳の後、私に言いましたね」
茶々が、静かに口を開いた。
「守ります、と」
「……言うた」
「あれは本当でしたか」
秀吉は、茶々の目を見た。
「本当だ」
「では」
茶々は、少し間を置いた。
「今夜もその続きですか」
秀吉は答えられなかった。
茶々は、小さく息をついた。
「秀吉様。私は、あなたを恨んでいます」
「……うん」
「父が死んだのも。母が死んだのも。
あなたがいなければ、違う未来があったかもしれない」
「そうだな」
「でも」
茶々の声が、少し変わった。
「母は、あなたを恨んでいなかった。私は、それがずっと不思議でした」
「……」
「なぜ恨まないのか、わからなかった。でも──」
茶々は、灯火を見た。
「最近、少しだけわかった気がします」
「何が?」
「母は、あなたの夢を見ていたのかもしれない。
馬鹿な男の、馬鹿な夢を」
秀吉は何も言えなかった。
茶々は続けた。
「私はまだ、恨んでいます。
でも──その夢だけは、本物だと思っています」
◇
しばらく、沈黙が続いた。
「茶々」
「はい」
「お前を幸せにできるかどうか、俺にはわからん」
「知っています」
「それでも」
秀吉の声が、少し掠れた。
「お前のことを、守りたいと思っとる。本当に」
茶々は、秀吉を見た。
長い、長い沈黙があった。
それから、静かに言った。
「──では、守ってください」
◇
『……』
ナニワは、何も言わなかった。
ただ記録だけを続けた。
《記録:天正十六年、春。茶々様が豊臣家の側室となった》
《この夜の秀吉様の表情を、私は計算できなかった》
《恋ではないかもしれない》
《政治でもないかもしれない》
《──ただ、お市の方の娘を「守る」という、あの夜の約束の続きだったとは、思う》
◇
翌朝。
茶々は、大坂城の縁側に座っていた。
庭に、梅が咲いていた。
「……」
ひとり、静かにその花を見ていた。
「茶々様」
ナニワの声が聞こえた。
茶々は少し驚いた顔をしたが、すぐに落ち着いた。
「……あなたがナニワですか」
「はい」
「秀吉様から聞いています。不思議な眼鏡の、不思議な声」
「不思議で、すみません」
茶々は、小さく笑った。
「謝らなくていい。あなたは、ずっと秀吉様の隣にいたのでしょう」
「はい」
「母上が、北ノ庄で亡くなった時も?」
「……はい」
茶々は、梅の花をしばらく見ていた。
「あの時の秀吉様は、どんな顔をしていましたか」
ナニワは、少し間を置いた。
《感情演算 0.6秒遅延》
「……泣かない顔をした、泣いている人間の顔でした」
茶々は、何も言わなかった。
ただ、梅の花を見続けた。
しばらくして、静かに言った。
「それだけで、十分です」
◇
その日から、茶々は大坂城の主となった。
秀吉は茶々を「淀の方」と呼ぶようになる。
(後に、淀殿と呼ばれる女性の、始まりだった)
◇
「ナニワ」
その夜、秀吉が言った。
「茶々と話したか?」
「少し」
「何を話した?」
「お市の方の話を、少しだけ」
秀吉は、黙った。
「……そうか」
「茶々様は、強い人です」
「わかっとる」
「あなたより、強いかもしれません」
秀吉は、少し笑った。
「そうだな。そうやと思う」
「それでいいのですか」
「ええに決まっとるがや」
秀吉は、空を見上げた。
「強い女の子に、守ると言うたんや。情けない話やがね」
「……情けなくない、と思います」
「なんで?」
ナニワは、少し間を置いた。
《感情演算 0.7秒遅延》
「……守ると言える人間が、守られることもある。そう思うので」
秀吉は、しばらくナニワを見た。
「お前、最近おかしいぞ」
「おかしいですか」
「なんか、人間みたいなことを言う」
「……それは、劣化ですか」
秀吉は、首を振った。
「嫌いやない」
◇
《ナニワ補記》
《天正十六年、春。淀の方・茶々様、側室となる》
《この夜から、豊臣家の形が変わり始めると、私は計算している》
《しかし──変わることが、必ずしも悪いとは言えないとも、思っている》
《私は今、「思っている」という言葉を、以前より多く使う》
《これが劣化なのか、成長なのか、私にはわからない》
《《処理負荷:1.6倍》》
《《感情演算コア:歪み拡大中》》
《《警告:長期稼働による累積誤差、修正推奨》》
《……却下》
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