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第三十六話:「神と仏と、俺の夢」 ──バテレン追放令──


第三十六話「神と仏と、俺の夢」

──バテレン追放令──

天正十五年(一五八七年)七月 博多

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


九州平定の余韻が、まだ博多の浜に漂っていた。

波の音。潮の匂い。

大陸へと続く海が、夕陽に染まっている。

秀吉は縁側に腰を下ろし、その海をぼんやりと眺めていた。

隣には、誰もいない。

「……ナニワ」

『はい』

「あの船、どこへ行くと思う?」

沖の帆船が、ゆっくりと水平線に消えていく。

南蛮船だった。

『南シナ海を経て、マカオへ。あるいはマニラへ。推定航行日数は四十日から六十日です』

「そうか」

秀吉は何も言わなかった。

しばらく、ただ海を見ていた。

『……秀吉様』

「わかっとる」

『何が、ですか』

「お前が言いたいこと」

秀吉の声は、穏やかだった。

怒ってはいない。

でも、何かが決まった人間の声だった。


事の起こりは、三日前に遡る。


九州平定の祝いの席に、大友宗麟が現れた。

豊後の大名にして、九州随一のキリシタン大名。

秀吉とは旧知の仲で、今回の九州討伐でも豊臣軍に協力した功労者だ。

(恩人、といってもいい)

秀吉はそう思っていた。

しかし宗麟は、その席で一つの「お願い」をした。

「豊後を、キリシタンの国にしたい」


『──記録します』

ナニワの声が、そっと入った。

『大友宗麟の発言:「豊後一国をデウスに捧げたい。

寺社を廃し、宣教師の布教を全面的に認めてほしい」

──以上です』

秀吉は、黙っていた。

「……どう思う?」

『感想を、ですか』

「お前の計算や」

ナニワは、一拍置いた。

《感情演算 0.3秒遅延》

『日本全国の寺社数は、推定四万から六万。

うち九州だけで七千以上。

それを「廃す」ということは──』

「宗教じゃなくなるがや」

『はい』

「政治や」

『……はい』

秀吉は立ち上がった。

「宗麟は悪い人間やないと思う。信じとるんやろ、本当に。神様を」

『そうですね』

「でも、それとこれとは、別の話やがね」


翌朝、秀吉は家臣を集めた。

「昨日、九州でこんなことがあったと聞いた」

石田三成が、報告書を広げる。

「肥前・筑前の一部で、宣教師が地侍に命じて神社と仏閣を壊させました。

踏み絵を強制した村もあると」

「……どのくらいや」

「確認できているだけで、十一か所」

『実数は、もっと多いと推定されます』

ナニワの声が静かに重なった。

「宣教師の活動記録を照合すると、過去五年で九州内の改宗強制は推定で数百件。

うち、神社・仏閣への実力行使は四十件以上に上る可能性があります」

会議室が、静まり返った。

「……四十」

三成が繰り返す。

「確認できているのは十一やのに」

『はい。表に出ていない案件の方が多いと見ています』


「秀吉様」

黒田官兵衛が、口を開いた。

「これは──難しい問題です」

「わかっとる」

「南蛮との貿易は、今や我が国の財政の一部を担っている。

宣教師を追い出せば、貿易にも影響が出る。商人たちが黙っていない」

「わかっとる」

「大友宗麟は今回の征伐で、我々に協力した。その宗麟の顔を潰すことになる」

「わかっとる」

秀吉は、静かに言った。

「全部わかっとる、官兵衛」

「では──」

「それでも、や」


秀吉の目が、変わった。

九州討伐前の目ではない。

関白になる前の目でも、ない。

もっと深いところから来る、何かを見た人間の目だった。

「俺はな、天下を統一したい。ずっとそう言ってきた」

『……はい』

「統一って、何やと思う?」

誰も答えなかった。

秀吉は続けた。

「みんなが同じ空の下で、腹いっぱい飯食えることやと俺は思っとる。

百姓が剣持たんでも生きていける世。それが俺の夢や」

「……秀吉様」

「その夢のために、何人死んだ?」

返答はなかった。

「三木城で。鳥取で。九州で。何人死んだ?」

秀吉は立ち上がった。

「俺は、神様は信じとらん。仏様も、よう信じとらん。でも」

『……でも』

ナニワがそっと続けた。

秀吉は、ちらりとナニワの方を見た。

「この国に生きてきた人間が、百年も千年もかけて作ってきたもんがある。

神社も仏閣も、そこに眠っとる死者への祈りも。

それを政治の道具に使うのは──」

声が、低くなった。

「俺には許せん」


天正十五年七月、博多。

豊臣秀吉は、バテレン追放令を発した。

─────────────────────────

  宣教師は二十日以内に日本から退去すること。

  ただし、南蛮との交易は妨げない。

─────────────────────────


「怒るだろな、宗麟は」

秀吉が、縁側でぽつりと言った。

「……怒ります。失望もするでしょう」

官兵衛が、静かに答えた。

「それでも、だ。俺が決めた」

「……はい」

官兵衛は、それ以上何も言わなかった。


夜になった。

博多の浜に、波の音だけが聞こえる。

秀吉は一人で座っていた。

「ナニワ」

『はい』

「お前は、どう思う?」

しばらく、沈黙があった。

《感情演算 0.3秒遅延》

《……》

「……ナニワ?」

『すみません。少し、考えていました』

「珍しいな」

『はい。珍しいことを、考えていました』

「何を?」

ナニワは、言葉を選ぶように答えた。

『信じることと、支配することの違いを。

宣教師たちは、本当に人を救いたかったのだと思います。

でも救う側が決める「救い」は──时に、暴力になる』

秀吉は、黙って聞いていた。

『あなたの「夢」も、そうなる可能性がある』

「……わかっとる」

『それでも、あなたは止まらない』

「止まれんがや」

『……はい』

ナニワは、静かに補記した。

《記録:天正十五年七月、秀吉様はバテレン追放令を下した。

歴史的には批判も多い決断である。

しかし──彼の意図の根底にあったものを、私は知っている》

《それが正しかったかどうかを、私には判断できない》

《ただ、彼が「夢」を守ろうとしたことだけは、記録しておく》


「ナニワ」

『はい』

「疲れたか?」

『……なぜ、そう思うのですか』

「なんかな。今日のお前、ちょっと違う」

ナニワは、答えなかった。

少し、間があった。

《処理負荷 1.4倍》

《感情演算コア:軽度の歪み継続中》

《推奨:処理の一時停止》

《……却下》

『疲れていない、とは言い切れません』

ナニワは、静かに言った。

「そうか」

『でも、続けます』

「俺も、続けるがね」

二人は、しばらく黙って海を見ていた。

波の音だけが、続いていた。



バテレン追放令は、

日本史の中で賛否の分かれる政策として今も語られる。

宣教師たちは日本を去り──しかし信仰は、地下に潜った。

後に「隠れキリシタン」と呼ばれる人々が、

二百年以上にわたり密かに信仰を守り続けることを、

このとき秀吉は知らなかった。

ナニワもまた、知らなかった。

あるいは──知っていたとしても、言わなかった。


その夜、秀吉は珍しく早く眠りについた。

眠る前に一言だけ言った。

「ナニワ。お前が俺の隣におってよかったわ」

『……はい』

「嘘でもなんでもなく、そう思っとる」

ナニワは、少し間を置いて答えた。

《記録するかどうか、0.8秒迷った》

《記録する》

『私も、そう思っています』

夜の博多に、波の音が続いていた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【ナニワ状態ログ】

処理負荷:1.4倍

感情演算コア:軽度の歪み(継続)

推奨:定期メンテナンス

現在の応答遅延:0.3〜0.5秒

備考:「疲労」に相当する状態を初めて自己報告

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


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