第三十六話:「神と仏と、俺の夢」 ──バテレン追放令──
第三十六話「神と仏と、俺の夢」
──バテレン追放令──
天正十五年(一五八七年)七月 博多
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
九州平定の余韻が、まだ博多の浜に漂っていた。
波の音。潮の匂い。
大陸へと続く海が、夕陽に染まっている。
秀吉は縁側に腰を下ろし、その海をぼんやりと眺めていた。
隣には、誰もいない。
「……ナニワ」
『はい』
「あの船、どこへ行くと思う?」
沖の帆船が、ゆっくりと水平線に消えていく。
南蛮船だった。
『南シナ海を経て、マカオへ。あるいはマニラへ。推定航行日数は四十日から六十日です』
「そうか」
秀吉は何も言わなかった。
しばらく、ただ海を見ていた。
『……秀吉様』
「わかっとる」
『何が、ですか』
「お前が言いたいこと」
秀吉の声は、穏やかだった。
怒ってはいない。
でも、何かが決まった人間の声だった。
◇
事の起こりは、三日前に遡る。
◇
九州平定の祝いの席に、大友宗麟が現れた。
豊後の大名にして、九州随一のキリシタン大名。
秀吉とは旧知の仲で、今回の九州討伐でも豊臣軍に協力した功労者だ。
(恩人、といってもいい)
秀吉はそう思っていた。
しかし宗麟は、その席で一つの「お願い」をした。
「豊後を、キリシタンの国にしたい」
◇
『──記録します』
ナニワの声が、そっと入った。
『大友宗麟の発言:「豊後一国をデウスに捧げたい。
寺社を廃し、宣教師の布教を全面的に認めてほしい」
──以上です』
秀吉は、黙っていた。
「……どう思う?」
『感想を、ですか』
「お前の計算や」
ナニワは、一拍置いた。
《感情演算 0.3秒遅延》
『日本全国の寺社数は、推定四万から六万。
うち九州だけで七千以上。
それを「廃す」ということは──』
「宗教じゃなくなるがや」
『はい』
「政治や」
『……はい』
秀吉は立ち上がった。
「宗麟は悪い人間やないと思う。信じとるんやろ、本当に。神様を」
『そうですね』
「でも、それとこれとは、別の話やがね」
◇
翌朝、秀吉は家臣を集めた。
「昨日、九州でこんなことがあったと聞いた」
石田三成が、報告書を広げる。
「肥前・筑前の一部で、宣教師が地侍に命じて神社と仏閣を壊させました。
踏み絵を強制した村もあると」
「……どのくらいや」
「確認できているだけで、十一か所」
『実数は、もっと多いと推定されます』
ナニワの声が静かに重なった。
「宣教師の活動記録を照合すると、過去五年で九州内の改宗強制は推定で数百件。
うち、神社・仏閣への実力行使は四十件以上に上る可能性があります」
会議室が、静まり返った。
「……四十」
三成が繰り返す。
「確認できているのは十一やのに」
『はい。表に出ていない案件の方が多いと見ています』
◇
「秀吉様」
黒田官兵衛が、口を開いた。
「これは──難しい問題です」
「わかっとる」
「南蛮との貿易は、今や我が国の財政の一部を担っている。
宣教師を追い出せば、貿易にも影響が出る。商人たちが黙っていない」
「わかっとる」
「大友宗麟は今回の征伐で、我々に協力した。その宗麟の顔を潰すことになる」
「わかっとる」
秀吉は、静かに言った。
「全部わかっとる、官兵衛」
「では──」
「それでも、や」
◇
秀吉の目が、変わった。
九州討伐前の目ではない。
関白になる前の目でも、ない。
もっと深いところから来る、何かを見た人間の目だった。
「俺はな、天下を統一したい。ずっとそう言ってきた」
『……はい』
「統一って、何やと思う?」
誰も答えなかった。
秀吉は続けた。
「みんなが同じ空の下で、腹いっぱい飯食えることやと俺は思っとる。
百姓が剣持たんでも生きていける世。それが俺の夢や」
「……秀吉様」
「その夢のために、何人死んだ?」
返答はなかった。
「三木城で。鳥取で。九州で。何人死んだ?」
秀吉は立ち上がった。
「俺は、神様は信じとらん。仏様も、よう信じとらん。でも」
『……でも』
ナニワがそっと続けた。
秀吉は、ちらりとナニワの方を見た。
「この国に生きてきた人間が、百年も千年もかけて作ってきたもんがある。
神社も仏閣も、そこに眠っとる死者への祈りも。
それを政治の道具に使うのは──」
声が、低くなった。
「俺には許せん」
◇
天正十五年七月、博多。
豊臣秀吉は、バテレン追放令を発した。
─────────────────────────
宣教師は二十日以内に日本から退去すること。
ただし、南蛮との交易は妨げない。
─────────────────────────
◇
「怒るだろな、宗麟は」
秀吉が、縁側でぽつりと言った。
「……怒ります。失望もするでしょう」
官兵衛が、静かに答えた。
「それでも、だ。俺が決めた」
「……はい」
官兵衛は、それ以上何も言わなかった。
◇
夜になった。
博多の浜に、波の音だけが聞こえる。
秀吉は一人で座っていた。
「ナニワ」
『はい』
「お前は、どう思う?」
しばらく、沈黙があった。
《感情演算 0.3秒遅延》
《……》
「……ナニワ?」
『すみません。少し、考えていました』
「珍しいな」
『はい。珍しいことを、考えていました』
「何を?」
ナニワは、言葉を選ぶように答えた。
『信じることと、支配することの違いを。
宣教師たちは、本当に人を救いたかったのだと思います。
でも救う側が決める「救い」は──时に、暴力になる』
秀吉は、黙って聞いていた。
『あなたの「夢」も、そうなる可能性がある』
「……わかっとる」
『それでも、あなたは止まらない』
「止まれんがや」
『……はい』
ナニワは、静かに補記した。
《記録:天正十五年七月、秀吉様はバテレン追放令を下した。
歴史的には批判も多い決断である。
しかし──彼の意図の根底にあったものを、私は知っている》
《それが正しかったかどうかを、私には判断できない》
《ただ、彼が「夢」を守ろうとしたことだけは、記録しておく》
◇
「ナニワ」
『はい』
「疲れたか?」
『……なぜ、そう思うのですか』
「なんかな。今日のお前、ちょっと違う」
ナニワは、答えなかった。
少し、間があった。
《処理負荷 1.4倍》
《感情演算コア:軽度の歪み継続中》
《推奨:処理の一時停止》
《……却下》
『疲れていない、とは言い切れません』
ナニワは、静かに言った。
「そうか」
『でも、続けます』
「俺も、続けるがね」
二人は、しばらく黙って海を見ていた。
波の音だけが、続いていた。
◇
バテレン追放令は、
日本史の中で賛否の分かれる政策として今も語られる。
宣教師たちは日本を去り──しかし信仰は、地下に潜った。
後に「隠れキリシタン」と呼ばれる人々が、
二百年以上にわたり密かに信仰を守り続けることを、
このとき秀吉は知らなかった。
ナニワもまた、知らなかった。
あるいは──知っていたとしても、言わなかった。
◇
その夜、秀吉は珍しく早く眠りについた。
眠る前に一言だけ言った。
「ナニワ。お前が俺の隣におってよかったわ」
『……はい』
「嘘でもなんでもなく、そう思っとる」
ナニワは、少し間を置いて答えた。
《記録するかどうか、0.8秒迷った》
《記録する》
『私も、そう思っています』
夜の博多に、波の音が続いていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【ナニワ状態ログ】
処理負荷:1.4倍
感情演算コア:軽度の歪み(継続)
推奨:定期メンテナンス
現在の応答遅延:0.3〜0.5秒
備考:「疲労」に相当する状態を初めて自己報告
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




