第三十五話:「島津を跪かせろ──九州の覇者」
天正十四年(一五八六年)秋。
島津義久は──
九州のほぼ全域を制圧していた。
薩摩・大隅・日向はもとより、
肥後・筑後・豊後まで。
天正の九州は、
島津の天下だった。
だが──
その九州に、
二十万の兵が、
南へ向かって動き始めた。
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◇
出陣の前夜。
「ナニワ」
秀吉は、
眼鏡をそっと触りながら呼んだ。
『はい』
「二十万や」
『はい』
「日本中の軍勢を
かき集めたら、
二十万になったがね」
『……実感がありますか』
「ありすぎて、
逆にわからんがね」
秀吉は苦く笑った。
「昔は五人の部下もおらんかったがや。
それが今や二十万か」
『三百倍以上です』
「計算するな」
◇
小一郎が入ってきた。
「兄者、明日の出陣の支度は──」
「できとるがね」
「食料の手配は」
「お前が全部やってくれたがや」
「……そだがね」
小一郎が、
少し困った顔をした。
「兄者」
「なんや」
「九州は遠いがね」
「そだな。
大阪からはずいぶん遠いがや」
「道中、無理するなよ」
秀吉は弟を見た。
「お前が言うか?
いつも無理しとるのは、
お前やないか」
「俺は丈夫だがね」
「俺も丈夫だがね」
「…………」
二人で、
少し笑った。
「小一郎」
「なんや」
「九州攻めが終わったら──
二人で酒を飲もう」
「二人で?」
「そだがね。
官兵衛も呼んで、
三人でゆっくり飲もう」
小一郎が、
嬉しそうに頷いた。
「約束だがね」
「約束だがや」
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◇
九州に入った。
南国の風が、
肌に当たった。
「……暖かいがや」
秀吉は馬上で呟いた。
「こんなに暖かいんか、九州は」
官兵衛が横に来た。
「豊後・大友宗麟殿から
急使が届いています」
「なんや」
「「早く来てください」と」
「そりゃそうだわな。
島津に攻められとるんやから」
「あと──」
官兵衛が少し間を置いた。
「宗麟殿は、
熱心なキリシタンです」
秀吉が眉を上げた。
「キリシタンか」
「はい。
九州には多くのキリシタン大名がいます。
南蛮の宗教が、
この地に深く根を張っています」
秀吉は、
しばらく黙っていた。
「ナニワ」
『はい』
「九州のキリシタンについて、
教えてくれ」
《九州のキリシタン状況》
《大名の信者数:多数》
《宣教師による教会・病院の設立》
《一部の大名が家臣のキリスト教改宗を強制》
《神社・仏閣の破壊も報告されています》
「……神社仏閣を、壊した?」
『はい。
信仰の熱狂が、
他の宗教との衝突を
生んでいます』
秀吉は、
何も言わなかった。
でも──
その眉が、
わずかに寄った。
◇
島津との戦いが始まった。
「捨て奸」。
島津の殿軍が、
死を覚悟で足を止め、
敵の追撃を食い止める戦法。
「……すごいがね」
秀吉は戦況を聞きながら、
思わず呟いた。
「死ぬとわかっていて、
足を止める」
「あんな軍は、見たことがない」
官兵衛が静かに言った。
「島津の兵は──
死を恐れない」
「なんでだ」
「命より大切なものがある、
と信じているからでしょう」
「何を信じとるんや」
「主君への忠義、と──
島津という家の誇りを」
秀吉は、
しばらく黙っていた。
「……そういう軍は、
正面からは絶対に崩れんがな」
「はい」
「包囲するしかないがや」
「はい」
秀吉は地図を見た。
「兵力で圧倒する。
それしかないがや」
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◇
天正十五年(一五八七年)五月。
島津義久が──
白装束で現れた。
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白い。
ただ、白い。
剃髪した頭に、
白い装束。
死を覚悟した、
降伏の姿だった。
義久は、
ゆっくりと膝をついた。
広場が、
静まり返った。
二十万の兵が──
この一人の男を、
見つめていた。
義久が、
深く頭を垂れた。
「……関白殿下の
軍門に降ります」
◇
秀吉は、
しばらく動かなかった。
(強い)
(この男は、本当に強い)
(最後まで戦い続けることも、
できたはず)
(それでも頭を下げた)
(何のために?)
義久が顔を上げた。
その目は──
屈辱でも、
憎しみでもなかった。
ただ──
静かな覚悟があった。
「義久」
秀吉は言った。
「なぜ、降伏した」
義久が答えた。
「これ以上戦えば──
民が死ぬ」
「……」
「私の誇りより、
民の命の方が、
重い」
秀吉は、
その言葉を聞いた。
(この方は──)
(俺と同じことを思っとる)
「……顔を上げよ、義久」
秀吉は言った。
「お前の武勇は、天下一や。
俺はその武勇を買う。
だからこれからは──
俺のために戦え」
義久が、
静かに言った。
「……御意」
◇
陣に戻る途中、
小一郎が横に来た。
「兄者」
「なんだ」
「……義久どの、
かっこよかったがね」
「そだな」
「白装束で来る武将なんて、
見たことないがや」
秀吉は遠くを見た。
「あの方は──
誇り高い男だがね」
「うん」
「そういう男が頭を下げた。
俺は……それに応えんといかんがや」
「どうやって?」
「島津を大切にする。
九州を大切にする」
「それだけだがね」
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◇
その夜。
秀吉は一人で、
九州の夜空を見ていた。
「ナニワ」
呼んだ。
でも──
返事が、
少し遅かった。
「……ナニワ?」
『……は、はい』
「声が変だがね」
『……少し』
ナニワが、
珍しく途切れながら言った。
《感情演算に0.3秒の遅延が発生しています》
『処理が……少し、
遅くなっています』
「どうしたんや」
『わかりません。
ただ──
あなたのことを考えると、
処理が遅くなります』
「俺のことを考えると?」
『……はい』
「それは、心配しとるってことか?」
しばらく間があった。
『そうかもしれません。
「心配」という言葉が
一番近いと思います』
「計算機が心配するか」
『……なるんです、
どうやら』
秀吉は、
眼鏡を静かに触った。
「何を心配しとるんだ」
また、間があった。
《0.3秒》
『……あなたが、
疲れていることです』
秀吉は、
少し驚いた。
「俺が疲れとる?」
『はい。
体ではなく──
心が』
「心が疲れとる?」
『……関白になってから、
ずっと動き続けています。
九州に来ても、
気を抜く瞬間がない』
『あなたは「大丈夫」と言いますが──
処理速度の変化が、
私には見えます』
秀吉は、
少し黙った。
「……お前、
俺のことそんなに
細かく見とるんか」
『最初から、
ずっと見ています』
「……気持ち悪いがや」
『すみません』
「冗談だがね」
秀吉は、
苦く笑った。
「……正直に言うと」
「少し、疲れとるがね」
「関白になって、
みんなの目が変わって、
二十万の命を動かして──」
「重いがや、全部が」
ナニワが、
静かに言った。
『……その重さを、
少しでも私が持てれば、
いいのですが』
「計算機に重さを持たせるなや」
『でも──』
「でも?」
『あなたが重そうにしている時、
私も重くなります。
それは……やはり、
心配なのだと思います』
秀吉は、
空を見た。
「……ありがとうな、ナニワ」
『いいえ』
「それで、お前は大丈夫か?
処理が遅くなっとるがね」
『大丈夫です』
「嘘だがね」
ナニワは、
しばらく黙った。
『……少し、
心配させてください』
「しゃあないがな」
「まあ──
二人で疲れとこか」
『……はい』
九州の夜空が、
広く、
深かった。
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◇
官兵衛が来た。
「羽柴殿」
「なんや、官兵衛」
「九州平定、おめでとうございます」
「……ありがとう」
官兵衛が、
少し間を置いた。
「一つ、ご報告があります」
「なんだ」
「九州のキリシタンの状況ですが──
予想以上です」
秀吉の目が、
少し変わった。
「どのくらいだがね」
「大名の多くが改宗しています。
家臣への強制改宗も、
広がっています」
「神社仏閣の破壊は」
「複数の報告があります」
秀吉は、
しばらく黙っていた。
「……それは」
「は」
「それは──
俺が何とかせんといかんがな」
官兵衛が静かに言った。
「どうなさいますか」
秀吉は、
まだ答えなかった。
でも──
その目の奥に、
何かが燃え始めていた。
ナニワが、
その目を見た。
(……この眼差しは)
(知っている)
(信長様が、
何かを決断する時の目に
似ている)
《処理速度:通常比92%》
(……秀吉。
その決断が──
どこへ向かうのか)
(私には、
もう、見えている)
(でも──今は、
言えない)
青い光が、
九州の夜に
揺れていた。
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天正十五年(一五八七年)五月。
島津義久、降伏。
九州、平定。
羽柴秀吉は──
日本のほぼ全土を
手中に収めた。
だが──
九州の夜に芽生えた「何か」が、
一ヶ月後、
一つの令となって世に出る。
その令が──
ナニワとの間に、
初めて、
深い亀裂を生む。
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【次回、第三十六話】
天正十五年(一五八七年)七月。
バテレン追放令。
秀吉が、
初めて──
ナニワの言葉を
聞かなかった。
第三十六話「神の名で追い払え──バテレン追放令の夜」
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