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第三十五話:「島津を跪かせろ──九州の覇者」


天正十四年(一五八六年)秋。

島津義久は──

九州のほぼ全域を制圧していた。

薩摩・大隅・日向はもとより、

肥後・筑後・豊後まで。

天正の九州は、

島津の天下だった。

だが──

その九州に、

二十万の兵が、

南へ向かって動き始めた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


出陣の前夜。

「ナニワ」

秀吉は、

眼鏡をそっと触りながら呼んだ。

『はい』

「二十万や」

『はい』

「日本中の軍勢を

 かき集めたら、

 二十万になったがね」

『……実感がありますか』

「ありすぎて、

 逆にわからんがね」

秀吉は苦く笑った。

「昔は五人の部下もおらんかったがや。

 それが今や二十万か」

『三百倍以上です』

「計算するな」


小一郎が入ってきた。

「兄者、明日の出陣の支度は──」

「できとるがね」

「食料の手配は」

「お前が全部やってくれたがや」

「……そだがね」

小一郎が、

少し困った顔をした。

「兄者」

「なんや」

「九州は遠いがね」

「そだな。

 大阪からはずいぶん遠いがや」

「道中、無理するなよ」

秀吉は弟を見た。

「お前が言うか?

 いつも無理しとるのは、

 お前やないか」

「俺は丈夫だがね」

「俺も丈夫だがね」

「…………」

二人で、

少し笑った。

「小一郎」

「なんや」

「九州攻めが終わったら──

 二人で酒を飲もう」

「二人で?」

「そだがね。

 官兵衛も呼んで、

 三人でゆっくり飲もう」

小一郎が、

嬉しそうに頷いた。

「約束だがね」

「約束だがや」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


九州に入った。

南国の風が、

肌に当たった。

「……暖かいがや」

秀吉は馬上で呟いた。

「こんなに暖かいんか、九州は」

官兵衛が横に来た。

「豊後・大友宗麟殿から

 急使が届いています」

「なんや」

「「早く来てください」と」

「そりゃそうだわな。

 島津に攻められとるんやから」

「あと──」

官兵衛が少し間を置いた。

「宗麟殿は、

 熱心なキリシタンです」

秀吉が眉を上げた。

「キリシタンか」

「はい。

 九州には多くのキリシタン大名がいます。

 南蛮の宗教が、

 この地に深く根を張っています」

秀吉は、

しばらく黙っていた。

「ナニワ」

『はい』

「九州のキリシタンについて、

 教えてくれ」

《九州のキリシタン状況》

《大名の信者数:多数》

《宣教師による教会・病院の設立》

《一部の大名が家臣のキリスト教改宗を強制》

《神社・仏閣の破壊も報告されています》

「……神社仏閣を、壊した?」

『はい。

 信仰の熱狂が、

 他の宗教との衝突を

 生んでいます』

秀吉は、

何も言わなかった。

でも──

その眉が、

わずかに寄った。


島津との戦いが始まった。

「捨てすてがまり」。

島津の殿軍が、

死を覚悟で足を止め、

敵の追撃を食い止める戦法。

「……すごいがね」

秀吉は戦況を聞きながら、

思わず呟いた。

「死ぬとわかっていて、

 足を止める」

「あんな軍は、見たことがない」

官兵衛が静かに言った。

「島津の兵は──

 死を恐れない」

「なんでだ」

「命より大切なものがある、

 と信じているからでしょう」

「何を信じとるんや」

「主君への忠義、と──

 島津という家の誇りを」

秀吉は、

しばらく黙っていた。

「……そういう軍は、

 正面からは絶対に崩れんがな」

「はい」

「包囲するしかないがや」

「はい」

秀吉は地図を見た。

「兵力で圧倒する。

 それしかないがや」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


天正十五年(一五八七年)五月。

島津義久が──

白装束で現れた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

白い。

ただ、白い。

剃髪した頭に、

白い装束。

死を覚悟した、

降伏の姿だった。

義久は、

ゆっくりと膝をついた。

広場が、

静まり返った。

二十万の兵が──

この一人の男を、

見つめていた。

義久が、

深く頭を垂れた。

「……関白殿下の

 軍門に降ります」


秀吉は、

しばらく動かなかった。

(強い)

(この男は、本当に強い)

(最後まで戦い続けることも、

 できたはず)

(それでも頭を下げた)

(何のために?)

義久が顔を上げた。

その目は──

屈辱でも、

憎しみでもなかった。

ただ──

静かな覚悟があった。

「義久」

秀吉は言った。

「なぜ、降伏した」

義久が答えた。

「これ以上戦えば──

 民が死ぬ」

「……」

「私の誇りより、

 民の命の方が、

 重い」

秀吉は、

その言葉を聞いた。

(この方は──)

(俺と同じことを思っとる)

「……顔を上げよ、義久」

秀吉は言った。

「お前の武勇は、天下一や。

 俺はその武勇を買う。

 だからこれからは──

 俺のために戦え」

義久が、

静かに言った。

「……御意」


陣に戻る途中、

小一郎が横に来た。

「兄者」

「なんだ」

「……義久どの、

 かっこよかったがね」

「そだな」

「白装束で来る武将なんて、

 見たことないがや」

秀吉は遠くを見た。

「あの方は──

 誇り高い男だがね」

「うん」

「そういう男が頭を下げた。

 俺は……それに応えんといかんがや」

「どうやって?」

「島津を大切にする。

 九州を大切にする」

「それだけだがね」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


その夜。

秀吉は一人で、

九州の夜空を見ていた。

「ナニワ」

呼んだ。

でも──

返事が、

少し遅かった。

「……ナニワ?」

『……は、はい』

「声が変だがね」

『……少し』

ナニワが、

珍しく途切れながら言った。

《感情演算に0.3秒の遅延が発生しています》

『処理が……少し、

 遅くなっています』

「どうしたんや」

『わかりません。

 ただ──

 あなたのことを考えると、

 処理が遅くなります』

「俺のことを考えると?」

『……はい』

「それは、心配しとるってことか?」

しばらく間があった。

『そうかもしれません。

 「心配」という言葉が

 一番近いと思います』

「計算機が心配するか」

『……なるんです、

 どうやら』

秀吉は、

眼鏡を静かに触った。

「何を心配しとるんだ」

また、間があった。

《0.3秒》

『……あなたが、

 疲れていることです』

秀吉は、

少し驚いた。

「俺が疲れとる?」

『はい。

 体ではなく──

 心が』

「心が疲れとる?」

『……関白になってから、

 ずっと動き続けています。

 九州に来ても、

 気を抜く瞬間がない』

『あなたは「大丈夫」と言いますが──

 処理速度の変化が、

 私には見えます』

秀吉は、

少し黙った。

「……お前、

 俺のことそんなに

 細かく見とるんか」

『最初から、

 ずっと見ています』

「……気持ち悪いがや」

『すみません』

「冗談だがね」

秀吉は、

苦く笑った。

「……正直に言うと」

「少し、疲れとるがね」

「関白になって、

 みんなの目が変わって、

 二十万の命を動かして──」

「重いがや、全部が」

ナニワが、

静かに言った。

『……その重さを、

 少しでも私が持てれば、

 いいのですが』

「計算機に重さを持たせるなや」

『でも──』

「でも?」

『あなたが重そうにしている時、

 私も重くなります。

 それは……やはり、

 心配なのだと思います』

秀吉は、

空を見た。

「……ありがとうな、ナニワ」

『いいえ』

「それで、お前は大丈夫か?

 処理が遅くなっとるがね」

『大丈夫です』

「嘘だがね」

ナニワは、

しばらく黙った。

『……少し、

 心配させてください』

「しゃあないがな」

「まあ──

 二人で疲れとこか」

『……はい』

九州の夜空が、

広く、

深かった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


官兵衛が来た。

「羽柴殿」

「なんや、官兵衛」

「九州平定、おめでとうございます」

「……ありがとう」

官兵衛が、

少し間を置いた。

「一つ、ご報告があります」

「なんだ」

「九州のキリシタンの状況ですが──

 予想以上です」

秀吉の目が、

少し変わった。

「どのくらいだがね」

「大名の多くが改宗しています。

 家臣への強制改宗も、

 広がっています」

「神社仏閣の破壊は」

「複数の報告があります」

秀吉は、

しばらく黙っていた。

「……それは」

「は」

「それは──

 俺が何とかせんといかんがな」

官兵衛が静かに言った。

「どうなさいますか」

秀吉は、

まだ答えなかった。

でも──

その目の奥に、

何かが燃え始めていた。

ナニワが、

その目を見た。

(……この眼差しは)

(知っている)

(信長様が、

 何かを決断する時の目に

 似ている)

《処理速度:通常比92%》

(……秀吉。

 その決断が──

 どこへ向かうのか)

(私には、

 もう、見えている)

(でも──今は、

 言えない)

青い光が、

九州の夜に

揺れていた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


天正十五年(一五八七年)五月。

島津義久、降伏。

九州、平定。

羽柴秀吉は──

日本のほぼ全土を

手中に収めた。

だが──

九州の夜に芽生えた「何か」が、

一ヶ月後、

一つの令となって世に出る。

その令が──

ナニワとの間に、

初めて、

深い亀裂を生む。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【次回、第三十六話】

天正十五年(一五八七年)七月。

バテレン追放令。

秀吉が、

初めて──

ナニワの言葉を

聞かなかった。

第三十六話「神の名で追い払え──バテレン追放令の夜」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



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