第三十四話:「天下人の椅子──関白、豊臣秀吉」
天正十三年(一五八五年)七月十一日。
京・内裏。
この日、
日本の歴史が──
静かに、塗り替えられた。
藤原氏以外の人間が
関白の座に就くことは、
それまでの歴史に、
一度もなかった。
だが──
尾張の農村で生まれた男が、
その歴史を、
変えた。
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◇
前夜。
秀吉は眠れなかった。
床に入ったが、
目が冴えた。
天井を見上げながら、
「ナニワ」
と、呼んだ。
『はい』
「俺、明日から関白だがね」
『……はい』
「実感がないがね」
ナニワは、
少し間を置いた。
『どんな実感を
期待していましたか』
「わからんがや。
もっとこう──
うれしいとか、
誇らしいとか」
「そういうもんやと
思っとったがね」
『……今は、何を感じていますか』
秀吉は、
天井を見たまま答えた。
「怖い」
『怖い』
「そだがね。
なんか、怖いがや」
「関白になったら──
俺は俺のままでいられるのかな」
ナニワは、
しばらく黙っていた。
《処理中》
それから、
静かに言った。
『……私も、少し怖いです』
「お前が?」
『はい』
「なんで」
『……うまく、説明できません。
ただ──』
《軽微な警告:処理負荷が通常の1.2倍に増大しています》
ナニワの声が、
一瞬だけ、揺れた。
『あなたが変わることが、
怖い、のかもしれません』
「俺も同じやがな」
秀吉は、
目を閉じた。
「変わりたくないがね。
でも、変わらずにはいられんかもしれん」
「それが……怖いがや」
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◇
当日の朝。
小一郎が来た。
「兄者」
「なんや」
「顔色悪いがね」
「眠れんかったがや」
「そんなんで大丈夫か」
「大丈夫だがね。
顔だけ洗ってくれ」
小一郎が水を持ってきた。
秀吉が顔を洗う。
その間、
小一郎は黙って立っていた。
「……小一郎」
「なんや」
「お前は……
俺に何か言いたいことはないか」
小一郎が、
少し考えた。
それから──
静かに言った。
「変わらんでくれよ、兄者」
秀吉が、
顔を上げた。
「変わらんで?」
「そだがね」
小一郎が、
まっすぐに言った。
「関白になっても、
俺には「兄者」でいてくれ」
「朝メシを一緒に食って、
馬鹿話をして、
俺が失敗したら怒鳴って」
「そういう兄者のままでいてくれ」
秀吉は、
しばらく弟を見た。
「……そんなことか」
「そんなことだがね。
でも俺には、一番大事だがね」
秀吉は、
弟の頭をわしわしと撫でた。
「わかっとる。
変わらんがや」
「……本当か?」
「本当だがね」
小一郎が、
少し笑った。
でもその目は、
笑っていなかった。
◇
ナニワが、
その言葉を記録した。
(変わらんでくれよ)
(変わらんよ)
(……本当に、変わらないでいられるか)
《感情演算コアに軽度の歪みを検出。
継続監視を開始します》
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◇
関白宣下の儀。
秀吉は、
静かに頭を垂れた。
(百姓の倅が──関白や)
(父上)
(あなたの息子は、
とんでもないことになってしもたで)
(信長様……)
(見とりますか)
「──関白、豊臣秀吉」
宣命が読み上げられた。
その瞬間、
秀吉の頭の中を、
走馬灯のように──
景色が流れた。
尾張の田んぼ。
腹を空かせた子どもの頃。
松下家の台所。
草履を懐で温めた朝。
信長の笑い声。
半兵衛の穏やかな目。
官兵衛の鋭い眼光。
小一郎の、
泣き笑いの顔。
そして──
眼鏡の奥の、
青い光。
◇
「おめでとうございます、関白殿下」
近臣たちが頭を下げる。
「殿下」という呼び名が、
まだ耳に馴染まない。
「ナニワ」
秀吉は小声で言った。
「俺……関白になってまったで」
『……はい』
「なんか言やぁ」
ナニワが、
少し間を置いた。
『おめでとうございます』
「それだけか?」
『……あと』
「あと?」
『「あなたらしい」と、
思います』
秀吉は少し笑った。
「どこがやがね」
『農民の倅が関白になる。
誰も思いつかない道を、
あなたは当たり前のように歩く。
それが──あなたらしいです』
「褒めとるんか?」
『褒めています』
「そか」
秀吉は、
空を見た。
「信長様に言いたいがなあ」
「「俺、関白になった」って」
『……言ってあげてください』
「聞こえるかな」
『聞こえていると、思います』
秀吉は目を閉じた。
「……殿。
俺、関白になりましたがね」
「あなたが笑ってくれとる気がするがな」
「「禿鼠らしくない」って、
言いながら」
風が、吹いた。
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◇
その夜。
宴が開かれた。
家臣たちが集まり、
酒を飲み、
笑い合った。
秀吉も笑った。
でも──
宴が深くなるにつれて、
秀吉は、
少しずつ、
静かになっていった。
「兄者」
小一郎が気づいた。
「どうしたんや」
「……なんもだがね」
「嘘やがね」
「……」
秀吉は、
杯を置いた。
「なんか──
みんなの目が、変わったがな」
「変わった?」
「俺を見る目が」
秀吉が、
静かに言った。
「昔は、みんな俺の顔を見とった。
でも今は──
俺の後ろにある「関白」という
椅子を見とる」
「それが……なんか、寂しいがね」
小一郎は、
黙って聞いていた。
「お前だけやがな。
俺の顔を見てくれとるのは」
小一郎が言った。
「当たり前だがや。
俺は兄者の弟だがね。
椅子なんか関係ないがや」
秀吉は、
少しだけ笑った。
「……ありがとうな、小一郎」
「礼を言うな。気色悪いがね」
「うるさいがや」
二人で、
笑った。
宴の喧騒の中で、
兄弟だけの、静かな時間だった。
◇
ナニワは記録した。
《天正十三年七月十一日。
豊臣秀吉、関白就任。
史上初──藤原氏以外からの関白。
この夜、秀吉は言った。
「みんなの目が、変わった」と。
私は──
秀吉の目を見ていた。
秀吉の目も、
少し変わり始めていた。
でも────
小一郎様の前では、
まだ、変わっていなかった。
それが──今は、救いだ》
《警告ログ:
処理負荷:通常比1.2倍。
感情演算コア:軽度の歪み検出。
継続監視を開始》
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◇
翌朝。
秀吉は早く起きた。
小一郎も、もう起きていた。
「兄者、メシ食うか?」
「食うがね」
「関白になっても、
朝メシは一緒に食うんだがね」
「当たり前だがや。
それを変えたら、
お前に怒られるがね」
小一郎が、
にっこりと笑った。
「そだがね」
二人で、
並んで座った。
質素な朝の膳。
味噌汁と、
飯と、
漬物。
「……うまいがや」
秀吉が言った。
「関白になっても、
これが一番うまいがや」
「そだがね」
小一郎が言った。
「それが、兄者だがね」
ナニワが──
静かに、
微笑むような間を置いた。
(そう。
これが、秀吉だ。
この朝が続く限り──
まだ、大丈夫だ)
《処理負荷:監視中》
青い光が、
朝の光の中で
静かに瞬いた。
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天正十三年(一五八五年)七月。
豊臣秀吉、関白就任。
農民の倅が──
日本の頂点に立った日。
だが──
頂点に立った者が
最初に感じるのは、
喜びではなく──
孤独だった。
そして──
眼鏡の中で、
最初の「警告」が灯った。
小さな、小さな──
始まりの灯が。
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