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第三十三話:「たぬきの壁──小牧・長久手、家康との初対決」


天正十二年(一五八四年)春。

羽柴秀吉の前に──

初めて、

越えられない壁が現れた。

その壁の名は──

徳川家康。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「徳川どのが動いた」

報せを聞いた秀吉は、

珍しく、

すぐに動かなかった。

「……信雄どのと組んだか」

官兵衛が頷いた。

「はい。

 織田信雄殿が徳川殿と同盟を結び、

 殿に対抗する構えです」

「信雄どのは……」

秀吉は少し苦く笑った。

「清洲会議で三法師様を立てたことが、

 不満やったんだわな」

「はい。

 自分が後継者になれなかった恨みかと」

「しゃあないがね」

秀吉は地図を見た。

「問題は、徳川どのだがね」


「ナニワ」

秀吉は静かに呼んだ。

『はい』

「徳川家康という男を、

 どう見る」

ナニワは、

いつもより長く

間を置いた。

《人物分析:徳川家康》

《性格:忍耐強い・慎重・冷静》

《戦歴:三方ヶ原で信玄に大敗するも立て直す》

《特徴:感情を表に出さない》

《弱点:────》

『……弱点が、見つかりません』

「弱点がないんか」

『正確には──

 弱点を見せない、です』

「どう違うんだ」

『弱点がない人間はいません。

 でも家康殿は、

 弱点を徹底的に隠す』

秀吉は眉を上げた。

「読めない男か」

『私の計算では──

 最も予測が難しい人物です』

「ほう」

秀吉は腕を組んだ。

「ナニワが読めん男か。

 それは……初めてだがな」

『……はい。

 お気をつけください』

「気をつけるって、

 具体的になにするんだ」

ナニワが静かに言った。

『正面からぶつからないことです。

 あの方は──

 正面から来る相手に対して、

 完璧な備えをする』

官兵衛が頷いた。

「同意見です。

 徳川殿は待ちの戦略を取るはずです」

「こちらが動けば、

 その隙を突いてくる」

秀吉は、

しばらく地図を見た。

「……じゃあ、こっちも待つか」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


小牧山。

家康が陣を構えた。

秀吉は、

対岸に陣を張り、

にらみ合った。

「……動かんがな、たぬきめ」

秀吉は呟いた。

小一郎が横に来た。

「兄者、たぬきって誰のことや」

「家康やがね」

「……たぬき?」

「腹の中が読めんがね。

 たぬきみたいだがや」

小一郎が少し笑った。

「兄者がそう言うのは珍しいがね」

「珍しいだろ。

 俺が読めん男は、そうおらんがや」

『……秀吉』

ナニワが言った。

「なんや」

『徳川殿の陣の動きに、

 変化があります』

「どんな変化や」

『一部の部隊が──

 南へ向かっています』

秀吉が、

目を鋭くした。

「南?」

「官兵衛!」

官兵衛が飛んできた。

「見ていました。

 池田恒興殿の部隊を

 迂回させて──」

「三河を急襲しようと

 しているのでは?」

ナニワが即座に言った。

《試算中》

《家康の本拠・三河を急襲する作戦の可能性:高》

『……その通りです。

 秀吉、止めてください』

「止める?」

「池田どのを?」

官兵衛が言った。

「あの方は清洲会議からの仲間です。

 命令を受けてくれるかどうか──」

「すぐに使いを出せ!」


だが──

使いは、間に合わなかった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


長久手。

池田恒興の部隊は、

家康の軍に待ち伏せされた。

電光石火の反撃。

池田恒興、討ち死に。

森長可、討ち死に。

報せが届いた瞬間、

秀吉は石のように固まった。

「……恒興どのが」

「討ち死に……?」

使者が頭を垂れた。

「はい……

 長久手にて」

「…………」

秀吉の手が、

震えた。

(恒興どの)

(清洲会議で──

 三法師様を抱いた日に、

 あなたの目が揺れていたのを覚えとる)

(信長様の乳兄弟やったがね)

(あなたが俺に従ってくれたのは、

 信長様への義理からだったんだろな)

「……俺のせいだがね」

秀吉が低く言った。

「あの別動を止められれば」

官兵衛が言った。

「羽柴殿──」

「わかっとる」

秀吉が遮った。

「自分を責めてもしゃあない。

 わかっとるがや」

「でも」

声が、

震えた。

「でも、つらいがね」


「ナニワ」

秀吉は小声で呼んだ。

『はい』

「家康は……

 最初からわかっとったんか。

 俺が別動隊を動かすことを」

ナニワが、

少し間を置いた。

『……おそらく、はい。

 家康殿は──

 あなたが動かしたくなるような状況を、

 意図的に作ったかもしれません』

「罠か」

『違います。

 プレッシャーです』

「どう違うんだ」

『罠は、相手を嵌める。

 でも徳川殿は──

 あなたが自分で動くように、

 状況を整えた。

 あなた自身の判断を利用した』

秀吉は、

奥歯を噛んだ。

「……一枚上やったがな、

 今日は」

『……はい』

「認めるのは悔しいがね。

 でも──認めるがや」

ナニワが静かに言った。

『それが──

 あなたの強さです』

「負けを認めることが?」

『はい。

 負けを認められない人間は、

 同じ失敗を繰り返します』

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


にらみ合いが続いた。

秀吉は動かなかった。

家康も動かなかった。

「……たぬきめ」

秀吉は毎日、

家康の陣を遠くから見た。

「なんで動かんのだがね」

「動かなければ──

 こっちが焦る。

 そうわかっとるんだろな」

小一郎が言った。

「兄者も動かなければいいがや」

「そだがね」

「でも俺は、

 待つのが苦手だがや」

「知っとるがね」

小一郎が苦笑した。

「だから官兵衛どのが

 横にいるんだがね」


「官兵衛」

秀吉が呼んだ。

「はい」

「どうする」

官兵衛が、

静かに言った。

「……信雄殿と、

 和睦します」

「家康と戦わんで?」

「信雄殿は家康殿の同盟者です。

 でも──根本の理由は、

 自分が後継者になれなかった不満です」

「その不満を解消すれば──」

官兵衛が続けた。

「家康殿は大義名分を失います。

 同盟を続ける理由がなくなる」

秀吉は、

少し考えた。

「……戦わずに終わらせる、か」

「はい。

 これ以上戦えば、

 双方に傷が深くなるだけです」

「恒興どのの死を、

 無駄にせんためにも」

秀吉は、

しばらく黙っていた。

「……わかった。

 信雄どのに使いを出せ」


その夜。

秀吉は一人で

家康の陣の方角を見ていた。

「ナニワ」

『はい』

「家康は……

 いつか俺に従うか」

ナニワは、

少し間を置いた。

『……従います』

「本当か」

『はい。

 ただし──』

「ただし?」

『時間がかかります。

 あの方は──

 絶対に損をしない方向を

 選ぶ人間です』

「待てばええんか」

『待てれば、です』

秀吉は苦く笑った。

「俺が一番苦手なやつだがね」

『……家康殿は、

 あなたの弱点を

 わかっているかもしれません』

「弱点?」

『あなたは「待てない」。

 動きたくなる。

 人と繋がりたくなる』

「それが弱点か」

『強さでもあります。

 でも──家康殿に対しては、

 弱点になり得る』

秀吉は、

しばらく遠くを見ていた。

「……たぬきめ」

もう一度、呟いた。

でも──

今度は、

少し笑いが混じっていた。


程なくして、

信雄との和睦が成立した。

大義名分を失った家康は、

兵を引いた。

「……引いたがや」

秀吉は、

遠くを見た。

「たぬきめ、

 また会うでな」

「次は──

 刀やなく、頭で来い」

「俺も、頭で行くがね」


「ナニワ」

『はい』

「家康と……

 いつか、酒を飲める日が来るかな」

ナニワは、

少し間を置いた。

『……来ると思います』

「本当か?」

『はい。

 あの方は──

 最終的には、

 あなたのことを

 認めると思います』

「俺も、あいつのことは

 認めとるがね」

「負けた相手だし」

秀吉は、

素直に言った。

「今日は、俺の負けやがね」

ナニワが静かに言った。

『……素直ですね』

「当たり前だがね。

 負けを認めん奴は、

 強くなれんがね」

《記録:

 天正十二年。

 小牧・長久手の戦い。

 局地的敗北。

 しかし政治的決着により収束。

 家康という人物は──

 私の計算では最も読みにくい。

 でも》

《この男が、

 秀吉の後に何かを引き継ぐとしたら──

 それは、悪くないかもしれない》

ナニワは、

その記録を、

誰にも見せなかった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


天正十二年(一五八四年)。

小牧・長久手の戦い、収束。

羽柴秀吉、

初めての「負け」を経験する。

だが──

この男は、負けから学んだ。

「たぬき」と呼んだ家康は、

やがて秀吉に頭を下げる。

そして──

遥か未来に、

その「たぬき」が

ある「もの」を拾うことになるのを、

ナニワだけが

静かに知っていた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【次回、第三十四話】

天正十三年(一五八五年)七月。

京・内裏。

農民の倅が──

関白になる日が、来た。

そして──

ナニワの、

異変が始まる。

第三十四話「天下人の椅子──関白、豊臣秀吉」

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