第三十三話:「たぬきの壁──小牧・長久手、家康との初対決」
天正十二年(一五八四年)春。
羽柴秀吉の前に──
初めて、
越えられない壁が現れた。
その壁の名は──
徳川家康。
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◇
「徳川どのが動いた」
報せを聞いた秀吉は、
珍しく、
すぐに動かなかった。
「……信雄どのと組んだか」
官兵衛が頷いた。
「はい。
織田信雄殿が徳川殿と同盟を結び、
殿に対抗する構えです」
「信雄どのは……」
秀吉は少し苦く笑った。
「清洲会議で三法師様を立てたことが、
不満やったんだわな」
「はい。
自分が後継者になれなかった恨みかと」
「しゃあないがね」
秀吉は地図を見た。
「問題は、徳川どのだがね」
◇
「ナニワ」
秀吉は静かに呼んだ。
『はい』
「徳川家康という男を、
どう見る」
ナニワは、
いつもより長く
間を置いた。
《人物分析:徳川家康》
《性格:忍耐強い・慎重・冷静》
《戦歴:三方ヶ原で信玄に大敗するも立て直す》
《特徴:感情を表に出さない》
《弱点:────》
『……弱点が、見つかりません』
「弱点がないんか」
『正確には──
弱点を見せない、です』
「どう違うんだ」
『弱点がない人間はいません。
でも家康殿は、
弱点を徹底的に隠す』
秀吉は眉を上げた。
「読めない男か」
『私の計算では──
最も予測が難しい人物です』
「ほう」
秀吉は腕を組んだ。
「ナニワが読めん男か。
それは……初めてだがな」
『……はい。
お気をつけください』
「気をつけるって、
具体的になにするんだ」
ナニワが静かに言った。
『正面からぶつからないことです。
あの方は──
正面から来る相手に対して、
完璧な備えをする』
官兵衛が頷いた。
「同意見です。
徳川殿は待ちの戦略を取るはずです」
「こちらが動けば、
その隙を突いてくる」
秀吉は、
しばらく地図を見た。
「……じゃあ、こっちも待つか」
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◇
小牧山。
家康が陣を構えた。
秀吉は、
対岸に陣を張り、
にらみ合った。
「……動かんがな、たぬきめ」
秀吉は呟いた。
小一郎が横に来た。
「兄者、たぬきって誰のことや」
「家康やがね」
「……たぬき?」
「腹の中が読めんがね。
たぬきみたいだがや」
小一郎が少し笑った。
「兄者がそう言うのは珍しいがね」
「珍しいだろ。
俺が読めん男は、そうおらんがや」
『……秀吉』
ナニワが言った。
「なんや」
『徳川殿の陣の動きに、
変化があります』
「どんな変化や」
『一部の部隊が──
南へ向かっています』
秀吉が、
目を鋭くした。
「南?」
「官兵衛!」
官兵衛が飛んできた。
「見ていました。
池田恒興殿の部隊を
迂回させて──」
「三河を急襲しようと
しているのでは?」
ナニワが即座に言った。
《試算中》
《家康の本拠・三河を急襲する作戦の可能性:高》
『……その通りです。
秀吉、止めてください』
「止める?」
「池田どのを?」
官兵衛が言った。
「あの方は清洲会議からの仲間です。
命令を受けてくれるかどうか──」
「すぐに使いを出せ!」
◇
だが──
使いは、間に合わなかった。
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◇
長久手。
池田恒興の部隊は、
家康の軍に待ち伏せされた。
電光石火の反撃。
池田恒興、討ち死に。
森長可、討ち死に。
報せが届いた瞬間、
秀吉は石のように固まった。
「……恒興どのが」
「討ち死に……?」
使者が頭を垂れた。
「はい……
長久手にて」
「…………」
秀吉の手が、
震えた。
(恒興どの)
(清洲会議で──
三法師様を抱いた日に、
あなたの目が揺れていたのを覚えとる)
(信長様の乳兄弟やったがね)
(あなたが俺に従ってくれたのは、
信長様への義理からだったんだろな)
「……俺のせいだがね」
秀吉が低く言った。
「あの別動を止められれば」
官兵衛が言った。
「羽柴殿──」
「わかっとる」
秀吉が遮った。
「自分を責めてもしゃあない。
わかっとるがや」
「でも」
声が、
震えた。
「でも、つらいがね」
◇
「ナニワ」
秀吉は小声で呼んだ。
『はい』
「家康は……
最初からわかっとったんか。
俺が別動隊を動かすことを」
ナニワが、
少し間を置いた。
『……おそらく、はい。
家康殿は──
あなたが動かしたくなるような状況を、
意図的に作ったかもしれません』
「罠か」
『違います。
プレッシャーです』
「どう違うんだ」
『罠は、相手を嵌める。
でも徳川殿は──
あなたが自分で動くように、
状況を整えた。
あなた自身の判断を利用した』
秀吉は、
奥歯を噛んだ。
「……一枚上やったがな、
今日は」
『……はい』
「認めるのは悔しいがね。
でも──認めるがや」
ナニワが静かに言った。
『それが──
あなたの強さです』
「負けを認めることが?」
『はい。
負けを認められない人間は、
同じ失敗を繰り返します』
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◇
にらみ合いが続いた。
秀吉は動かなかった。
家康も動かなかった。
「……たぬきめ」
秀吉は毎日、
家康の陣を遠くから見た。
「なんで動かんのだがね」
「動かなければ──
こっちが焦る。
そうわかっとるんだろな」
小一郎が言った。
「兄者も動かなければいいがや」
「そだがね」
「でも俺は、
待つのが苦手だがや」
「知っとるがね」
小一郎が苦笑した。
「だから官兵衛どのが
横にいるんだがね」
◇
「官兵衛」
秀吉が呼んだ。
「はい」
「どうする」
官兵衛が、
静かに言った。
「……信雄殿と、
和睦します」
「家康と戦わんで?」
「信雄殿は家康殿の同盟者です。
でも──根本の理由は、
自分が後継者になれなかった不満です」
「その不満を解消すれば──」
官兵衛が続けた。
「家康殿は大義名分を失います。
同盟を続ける理由がなくなる」
秀吉は、
少し考えた。
「……戦わずに終わらせる、か」
「はい。
これ以上戦えば、
双方に傷が深くなるだけです」
「恒興どのの死を、
無駄にせんためにも」
秀吉は、
しばらく黙っていた。
「……わかった。
信雄どのに使いを出せ」
◇
その夜。
秀吉は一人で
家康の陣の方角を見ていた。
「ナニワ」
『はい』
「家康は……
いつか俺に従うか」
ナニワは、
少し間を置いた。
『……従います』
「本当か」
『はい。
ただし──』
「ただし?」
『時間がかかります。
あの方は──
絶対に損をしない方向を
選ぶ人間です』
「待てばええんか」
『待てれば、です』
秀吉は苦く笑った。
「俺が一番苦手なやつだがね」
『……家康殿は、
あなたの弱点を
わかっているかもしれません』
「弱点?」
『あなたは「待てない」。
動きたくなる。
人と繋がりたくなる』
「それが弱点か」
『強さでもあります。
でも──家康殿に対しては、
弱点になり得る』
秀吉は、
しばらく遠くを見ていた。
「……たぬきめ」
もう一度、呟いた。
でも──
今度は、
少し笑いが混じっていた。
◇
程なくして、
信雄との和睦が成立した。
大義名分を失った家康は、
兵を引いた。
「……引いたがや」
秀吉は、
遠くを見た。
「たぬきめ、
また会うでな」
「次は──
刀やなく、頭で来い」
「俺も、頭で行くがね」
◇
「ナニワ」
『はい』
「家康と……
いつか、酒を飲める日が来るかな」
ナニワは、
少し間を置いた。
『……来ると思います』
「本当か?」
『はい。
あの方は──
最終的には、
あなたのことを
認めると思います』
「俺も、あいつのことは
認めとるがね」
「負けた相手だし」
秀吉は、
素直に言った。
「今日は、俺の負けやがね」
ナニワが静かに言った。
『……素直ですね』
「当たり前だがね。
負けを認めん奴は、
強くなれんがね」
《記録:
天正十二年。
小牧・長久手の戦い。
局地的敗北。
しかし政治的決着により収束。
家康という人物は──
私の計算では最も読みにくい。
でも》
《この男が、
秀吉の後に何かを引き継ぐとしたら──
それは、悪くないかもしれない》
ナニワは、
その記録を、
誰にも見せなかった。
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天正十二年(一五八四年)。
小牧・長久手の戦い、収束。
羽柴秀吉、
初めての「負け」を経験する。
だが──
この男は、負けから学んだ。
「たぬき」と呼んだ家康は、
やがて秀吉に頭を下げる。
そして──
遥か未来に、
その「たぬき」が
ある「もの」を拾うことになるのを、
ナニワだけが
静かに知っていた。
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【次回、第三十四話】
天正十三年(一五八五年)七月。
京・内裏。
農民の倅が──
関白になる日が、来た。
そして──
ナニワの、
異変が始まる。
第三十四話「天下人の椅子──関白、豊臣秀吉」
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