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第三十一話:「賤ヶ岳に燃ゆ──鬼柴田との決着、そしてお市の方の最期」


天正十一年(一五八三年)春。

近江国・賤ヶ岳。

清洲会議から半年。

柴田勝家が、

ついに動いた。

この戦いの結末は──

天下の行方だけでなく、

一人の女性の、

命をも決することになる。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「勝家どのが動いた」

報せを聞いた秀吉は、

即座に立ち上がった。

「兵力は」

「越前・近江の兵を合わせ、

 約三万にございます」

「こちらは?」

官兵衛が答えた。

「かき集めれば、五万は動かせます。

 ただし──」

「ただし?」

「前田利家殿が、

 勝家殿に加勢しています」

秀吉は少し間を置いた。

「利家どのか……」

「はい。

 元は勝家殿の配下。

 義理で動く方です」


「ナニワ」

秀吉は小声で呼んだ。

『はい』

「前田利家どのを

 どう見る」

《人物分析:前田利家》

《性格:義理人情を重んじる》

《信長様との関係:古参の家臣》

《現在の心理:勝家への義理と、羽柴への共感の間で揺れている》

『……迷っています』

「迷っとる?」

『利家殿は、

 あなたとも古い付き合いです。

 勝家殿への義理で動いているが、

 心の底では──

 勝てない戦だとわかっているかもしれない』

「つまり」

『戦場で接触できれば、

 動揺する可能性があります』

秀吉は、

静かに笑った。

「利家どのは──

 友だがね、俺の」

『……はい』

「友に刃を向けるのは、

 つらいがや」

『でも、向けなければ

 勝てません』

「わかっとるわ」

秀吉は空を見た。

「天下を取るってのは、

 こういうことやだがね」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


四月。

賤ヶ岳。

琵琶湖を望む山地に、

二つの軍勢が向かい合った。

「全軍──前へ!」

秀吉の号令が響く。

戦いが始まった。

勝家の軍は強かった。

「鬼柴田」の名は伊達ではない。

正面からぶつかれば、

秀吉軍は押される。

「ナニワ」

『はい』

「右翼の状況は』

《右翼:拮抗状態》

《左翼:やや押されています》

《中央:均衡》

「左翼に援軍を回せ。

 中央は引くな」

「官兵衛!」

「既に動かしています」

「さすがだがや」

その時──

「申し上げます!」

使いの者が飛び込んできた。

「前田利家殿の部隊が──

 撤退を始めました!」

静寂。

官兵衛が、

目を細めた。

「……来ましたね」

「利家どのが」

秀吉は、

少しだけ目を閉じた。

(利家……)

(お前は──

 最後は、こっちを選んでくれたんか)

「全軍──総攻撃ッ!」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


前田利家の離脱が、

戦局を一変させた。

勝家軍の左翼が崩れた。

中央が揺らいだ。

賤ヶ岳の七本槍──

福島正則、加藤清正らが

勝家軍に突入した。

「退けッ! 退けッ!」

勝家軍が、

次第に瓦解していった。


「勝家どのが……

 北ノ庄城へ退きます!」

秀吉は、

その報せを静かに聞いた。

「……追うな」

「え?」

「今日は追わん」

官兵衛が眉を上げた。

「なぜですか。

 今追えば北ノ庄まで

 一気に落とせます」

「わかっとる」

秀吉は、

遠くの煙を見ながら言った。

「でも……

 今日は追わんがね」

ナニワが、

静かに言った。

『……お市の方のことを、

 考えていますか』

秀吉は、

答えなかった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


数日後。

北ノ庄城を包囲した。

秀吉は、

使者を送った。

「お市の方に、

 伝えてくれ」

「……なんと」

「命は助ける、と。

 娘たちも、共に」

使者が頷いた。

「お伝えします」


しばらくして、

使者が戻ってきた。

「……お市の方より、

 お言葉がございます」

「聞かせてくれ」

使者が、

静かに読み上げた。

「──秀吉殿のご配慮、

 ありがたく存じます」

「されど、

 私はもはや

 生き残ることはできません」

「小谷の城を出た日から──

 私の命は、

 一度終わっていました」

「お気持ちだけ、

 受け取ります」

「娘たちのことは──

 頼みます」


秀吉は、

動かなかった。

「……そか」

「そか……」

小一郎が隣に来た。

「兄者」

「……小谷の城で、

 俺はお市の方を助けた」

秀吉の声が、

低くなった。

「あの時、

 娘たちを抱いたお市の方が

 俺に言ったんや」

「「この子たちを頼みます」と」

「俺は「必ず」と言った」

小一郎は黙って聞いていた。

「なのに──

 またこうなるんか」

「またこうなるんかや」

声が、震えた。

「俺が守れるのは、

 娘たちだけか」

『……秀吉』

ナニワが静かに言った。

『あなたは、

 できる限りのことをしました。

 それは……本当のことです』

「でも、お市の方は」

『お市の方は、

 ご自分で選ばれました』

「……」

『誰かの選択を、

 あなたが背負う必要はありません。

 でも──』

「でも?」

『悲しむことは、

 やめなくていいです』

秀吉は、

目を閉じた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


四月二十四日。

北ノ庄城が、

燃えた。

炎が、夜空に上がった。

城内から、

太鼓の音が聞こえた。

勝家が、

最期に敵を鼓舞する

太鼓を叩かせていた。

「……漢だがね」

秀吉が呟いた。

「どこまでも、漢だがね、

 勝家どのは」

炎の中で、

柴田勝家は自害した。

享年──六十二歳。

お市の方も、

夫の後を追った。

享年──三十七歳。

尾張で生まれ

小谷城で失い、

北ノ庄城で逝った。

一人の女性の、

数奇な生涯だった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


翌朝。

城の外で待っていた秀吉のもとへ、

三人の姉妹が連れてこられた。

茶々。

初。

江。

先頭に立つ茶々は、

秀吉をまっすぐに見た。

その目は、

泣いていなかった。

ただ──

強く、

燃えていた。

「……茶々どの」

秀吉が言った。

「小谷城以来だがね」

茶々は、

答えなかった。

じっと、

秀吉を見ていた。

「母上は──」

秀吉が続けた。

「立派な最期でした」

「…………」

「あなたたちを、

 俺が守ります」

「お市の方との約束だわ」

茶々は、

しばらく黙っていた。

それから──

静かに言った。

「母は──

 あなたを恨んでいなかった」

秀吉が、

目を見開いた。

「最期に言っていました」

茶々の声が、

わずかに揺れた。

「「秀吉は、

 悪い男ではない」と」

「……」

「でも私は」

茶々が、

目を細めた。

「まだ、わかりません」

秀吉は、

何も言わなかった。

ただ──

深く、頭を下げた。


小一郎が、

三姉妹を奥へ連れていった。

一人になった秀吉は、

炎の消えた北ノ庄城を

しばらく見ていた。

「ナニワ」

『はい』

「勝家どのは──

 最後まで、漢だったがね」

『……はい』

「清洲会議で、

 俺にはめられたと気づいた時──

 あの方の目を見た」

「怒りやなく……

 悔しさがあった」

「その悔しさが、

 今日の戦になった」

「それは……

 俺のせいだがな」

『……』

「でも後悔はしとらん。

 天下を取るためには、

 必要なことだった」

秀吉の声が、

静かに揺れた。

「それでも──

 お市の方だけは」

「また、守れんかった」

ナニワは、

しばらく黙っていた。

それから、

静かに言った。

『……小谷城の時も、

 北ノ庄城の時も』

『あなたは、

 手を伸ばし続けました』

『届かなかったのは──

 あなたのせいではない』

「そだな」

「でも」

秀吉は目を閉じた。

「届かなかった事実は、

 変わらんがね」

風が吹いた。

北ノ庄の灰が、

空に舞い上がった。

お市の方の──

最後の欠片のように。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


その夜。

秀吉は、

三姉妹の部屋の前に立った。

障子の向こうから、

泣き声が聞こえた。

初と江が、

泣いていた。

でも茶々の声は、

聞こえなかった。

(泣かんのか)

(泣けんのか)

(それとも──

 もう泣き尽くしたのか)

秀吉は、

障子には触れなかった。

ただ──

「……守ります」

と、小声で言って、

静かに立ち去った。


ナニワが記録した。

《天正十一年四月二十四日。

 北ノ庄城落城。

 柴田勝家、享年六十二、自害。

 お市の方、享年三十七、殉死。

 茶々・初・江の三姉妹、保護。

 秀吉は、その夜──

 誰にも見せない顔で、

 三姉妹の部屋の前に立っていた。

 「守ります」という言葉を、

 私だけが聞いた。

 その言葉が本物かどうかは──

 これからの歳月が、

 証明する》

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


天正十一年(一五八三年)。

賤ヶ岳の戦い、終わる。

柴田勝家、散る。

お市の方、逝く。

そして──

羽柴秀吉は、

名実ともに

織田家の後継者となった。

天下まで、

あと一歩。

だが──

三姉妹の長女・茶々が、

この男の運命に

再び絡みつく日が──

来ることを、

ナニワだけが、

知っていた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【次回、第三十二話】

天正十一年(一五八三年)秋。

摂津国・大坂。

信長が果たせなかった夢──

天下の中心となる城を、

秀吉が建てる。

大坂城、築城開始。

第三十二話「天下の城──大坂に、俺の夢を建てる」

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