第三十一話:「賤ヶ岳に燃ゆ──鬼柴田との決着、そしてお市の方の最期」
天正十一年(一五八三年)春。
近江国・賤ヶ岳。
清洲会議から半年。
柴田勝家が、
ついに動いた。
この戦いの結末は──
天下の行方だけでなく、
一人の女性の、
命をも決することになる。
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◇
「勝家どのが動いた」
報せを聞いた秀吉は、
即座に立ち上がった。
「兵力は」
「越前・近江の兵を合わせ、
約三万にございます」
「こちらは?」
官兵衛が答えた。
「かき集めれば、五万は動かせます。
ただし──」
「ただし?」
「前田利家殿が、
勝家殿に加勢しています」
秀吉は少し間を置いた。
「利家どのか……」
「はい。
元は勝家殿の配下。
義理で動く方です」
◇
「ナニワ」
秀吉は小声で呼んだ。
『はい』
「前田利家どのを
どう見る」
《人物分析:前田利家》
《性格:義理人情を重んじる》
《信長様との関係:古参の家臣》
《現在の心理:勝家への義理と、羽柴への共感の間で揺れている》
『……迷っています』
「迷っとる?」
『利家殿は、
あなたとも古い付き合いです。
勝家殿への義理で動いているが、
心の底では──
勝てない戦だとわかっているかもしれない』
「つまり」
『戦場で接触できれば、
動揺する可能性があります』
秀吉は、
静かに笑った。
「利家どのは──
友だがね、俺の」
『……はい』
「友に刃を向けるのは、
つらいがや」
『でも、向けなければ
勝てません』
「わかっとるわ」
秀吉は空を見た。
「天下を取るってのは、
こういうことやだがね」
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◇
四月。
賤ヶ岳。
琵琶湖を望む山地に、
二つの軍勢が向かい合った。
「全軍──前へ!」
秀吉の号令が響く。
◇
戦いが始まった。
勝家の軍は強かった。
「鬼柴田」の名は伊達ではない。
正面からぶつかれば、
秀吉軍は押される。
「ナニワ」
『はい』
「右翼の状況は』
《右翼:拮抗状態》
《左翼:やや押されています》
《中央:均衡》
「左翼に援軍を回せ。
中央は引くな」
「官兵衛!」
「既に動かしています」
「さすがだがや」
◇
その時──
「申し上げます!」
使いの者が飛び込んできた。
「前田利家殿の部隊が──
撤退を始めました!」
静寂。
官兵衛が、
目を細めた。
「……来ましたね」
「利家どのが」
秀吉は、
少しだけ目を閉じた。
(利家……)
(お前は──
最後は、こっちを選んでくれたんか)
「全軍──総攻撃ッ!」
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◇
前田利家の離脱が、
戦局を一変させた。
勝家軍の左翼が崩れた。
中央が揺らいだ。
賤ヶ岳の七本槍──
福島正則、加藤清正らが
勝家軍に突入した。
「退けッ! 退けッ!」
勝家軍が、
次第に瓦解していった。
◇
「勝家どのが……
北ノ庄城へ退きます!」
秀吉は、
その報せを静かに聞いた。
「……追うな」
「え?」
「今日は追わん」
官兵衛が眉を上げた。
「なぜですか。
今追えば北ノ庄まで
一気に落とせます」
「わかっとる」
秀吉は、
遠くの煙を見ながら言った。
「でも……
今日は追わんがね」
ナニワが、
静かに言った。
『……お市の方のことを、
考えていますか』
秀吉は、
答えなかった。
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◇
数日後。
北ノ庄城を包囲した。
秀吉は、
使者を送った。
「お市の方に、
伝えてくれ」
「……なんと」
「命は助ける、と。
娘たちも、共に」
使者が頷いた。
「お伝えします」
◇
しばらくして、
使者が戻ってきた。
「……お市の方より、
お言葉がございます」
「聞かせてくれ」
使者が、
静かに読み上げた。
「──秀吉殿のご配慮、
ありがたく存じます」
「されど、
私はもはや
生き残ることはできません」
「小谷の城を出た日から──
私の命は、
一度終わっていました」
「お気持ちだけ、
受け取ります」
「娘たちのことは──
頼みます」
◇
秀吉は、
動かなかった。
「……そか」
「そか……」
小一郎が隣に来た。
「兄者」
「……小谷の城で、
俺はお市の方を助けた」
秀吉の声が、
低くなった。
「あの時、
娘たちを抱いたお市の方が
俺に言ったんや」
「「この子たちを頼みます」と」
「俺は「必ず」と言った」
小一郎は黙って聞いていた。
「なのに──
またこうなるんか」
「またこうなるんかや」
声が、震えた。
「俺が守れるのは、
娘たちだけか」
『……秀吉』
ナニワが静かに言った。
『あなたは、
できる限りのことをしました。
それは……本当のことです』
「でも、お市の方は」
『お市の方は、
ご自分で選ばれました』
「……」
『誰かの選択を、
あなたが背負う必要はありません。
でも──』
「でも?」
『悲しむことは、
やめなくていいです』
秀吉は、
目を閉じた。
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◇
四月二十四日。
北ノ庄城が、
燃えた。
炎が、夜空に上がった。
城内から、
太鼓の音が聞こえた。
勝家が、
最期に敵を鼓舞する
太鼓を叩かせていた。
「……漢だがね」
秀吉が呟いた。
「どこまでも、漢だがね、
勝家どのは」
炎の中で、
柴田勝家は自害した。
享年──六十二歳。
お市の方も、
夫の後を追った。
享年──三十七歳。
尾張で生まれ
小谷城で失い、
北ノ庄城で逝った。
一人の女性の、
数奇な生涯だった。
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◇
翌朝。
城の外で待っていた秀吉のもとへ、
三人の姉妹が連れてこられた。
茶々。
初。
江。
先頭に立つ茶々は、
秀吉をまっすぐに見た。
その目は、
泣いていなかった。
ただ──
強く、
燃えていた。
「……茶々どの」
秀吉が言った。
「小谷城以来だがね」
茶々は、
答えなかった。
じっと、
秀吉を見ていた。
「母上は──」
秀吉が続けた。
「立派な最期でした」
「…………」
「あなたたちを、
俺が守ります」
「お市の方との約束だわ」
茶々は、
しばらく黙っていた。
それから──
静かに言った。
「母は──
あなたを恨んでいなかった」
秀吉が、
目を見開いた。
「最期に言っていました」
茶々の声が、
わずかに揺れた。
「「秀吉は、
悪い男ではない」と」
「……」
「でも私は」
茶々が、
目を細めた。
「まだ、わかりません」
秀吉は、
何も言わなかった。
ただ──
深く、頭を下げた。
◇
小一郎が、
三姉妹を奥へ連れていった。
一人になった秀吉は、
炎の消えた北ノ庄城を
しばらく見ていた。
「ナニワ」
『はい』
「勝家どのは──
最後まで、漢だったがね」
『……はい』
「清洲会議で、
俺にはめられたと気づいた時──
あの方の目を見た」
「怒りやなく……
悔しさがあった」
「その悔しさが、
今日の戦になった」
「それは……
俺のせいだがな」
『……』
「でも後悔はしとらん。
天下を取るためには、
必要なことだった」
秀吉の声が、
静かに揺れた。
「それでも──
お市の方だけは」
「また、守れんかった」
ナニワは、
しばらく黙っていた。
それから、
静かに言った。
『……小谷城の時も、
北ノ庄城の時も』
『あなたは、
手を伸ばし続けました』
『届かなかったのは──
あなたのせいではない』
「そだな」
「でも」
秀吉は目を閉じた。
「届かなかった事実は、
変わらんがね」
風が吹いた。
北ノ庄の灰が、
空に舞い上がった。
お市の方の──
最後の欠片のように。
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◇
その夜。
秀吉は、
三姉妹の部屋の前に立った。
障子の向こうから、
泣き声が聞こえた。
初と江が、
泣いていた。
でも茶々の声は、
聞こえなかった。
(泣かんのか)
(泣けんのか)
(それとも──
もう泣き尽くしたのか)
秀吉は、
障子には触れなかった。
ただ──
「……守ります」
と、小声で言って、
静かに立ち去った。
◇
ナニワが記録した。
《天正十一年四月二十四日。
北ノ庄城落城。
柴田勝家、享年六十二、自害。
お市の方、享年三十七、殉死。
茶々・初・江の三姉妹、保護。
秀吉は、その夜──
誰にも見せない顔で、
三姉妹の部屋の前に立っていた。
「守ります」という言葉を、
私だけが聞いた。
その言葉が本物かどうかは──
これからの歳月が、
証明する》
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天正十一年(一五八三年)。
賤ヶ岳の戦い、終わる。
柴田勝家、散る。
お市の方、逝く。
そして──
羽柴秀吉は、
名実ともに
織田家の後継者となった。
天下まで、
あと一歩。
だが──
三姉妹の長女・茶々が、
この男の運命に
再び絡みつく日が──
来ることを、
ナニワだけが、
知っていた。
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【次回、第三十二話】
天正十一年(一五八三年)秋。
摂津国・大坂。
信長が果たせなかった夢──
天下の中心となる城を、
秀吉が建てる。
大坂城、築城開始。
第三十二話「天下の城──大坂に、俺の夢を建てる」
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