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第三十話:「刀なき戦──清洲会議、俺の天下取り」


天正十年(一五八二年)六月二十七日。

尾張国・清洲城。

山崎の戦いから、

わずか十四日。

羽柴秀吉は、

刀を鞘に収めたまま、

次の戦場へと向かった。

戦場の名は──清洲会議。

だが──

この戦いは、

会議が始まる前に、

すでに終わっていた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


六日前。

官兵衛が秀吉の前に座った。

「清洲会議まで、六日あります」

「短いがや」

「十分です」

官兵衛が、

静かに家系図を広げた。

「四人の重臣が集まります。

 柴田勝家。

 丹羽長秀。

 池田恒興。

 そして羽柴殿」

「知っとるがね」

「勝家殿は敵です。

 では──

 長秀殿と恒興殿を、

 今すぐ押さえる必要があります」

秀吉が、

眉を上げた。

「今すぐ?

 会議の前に?」

「はい。

 会議の場で説得するのでは、

 遅すぎます」

官兵衛が、

まっすぐに秀吉を見た。

「戦と同じです。

 陣を張る前に、

 すでに勝負はついている」

「ナニワ」

官兵衛が、

珍しく眼鏡に向かって言った。

「長秀殿と恒興殿の

 人物分析を頼む」

ナニワが即座に動いた。

《人物分析:丹羽長秀》

《性格:義理堅い・筋目を重んじる》

《信長様への忠義:極めて深い》

《弱点:感情に訴えられると動く》

《人物分析:池田恒興》

《性格:実利主義・損得に敏感》

《信長様との関係:乳兄弟・特別な絆》

《弱点:具体的な利益の提示で動く》

『分析完了です』

「官兵衛どの」

ナニワが言った。

『長秀殿には──

 信長様への「筋目」と「義理」で動いていただく。

 三法師様が正統後継者であるという

 論理と感情、両方で』

『恒興殿には──

 遺領分配における

 具体的な配慮を先に約束する。

 数字で示してください』

官兵衛が頷いた。

「その通りです。

 では羽柴殿──

 長秀殿は私が動きます。

 恒興殿は、

 あなた自身が会いに行ってください」

「俺が?」

「あなたの顔で頼む方が、

 効く相手です」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


翌日。

秀吉は池田恒興のもとを訪ねた。

「恒興どの」

「……羽柴殿か。

 いきなり何の用だ」

「折り入って話がしたくて」

二人きりになった部屋で、

秀吉は率直に言った。

「清洲会議のことやだがね」

恒興の目が、

鋭くなった。

「……先手を打ちに来たか」

「そうですわ」

秀吉は笑った。

「俺は、三法師様を推します。

 恒興どのには──

 摂津国の遺領を、

 しかるべく配慮します」

「条件交渉か」

「そう取ってもらっていいがね。

 でも俺はそれより──」

秀吉の声が、

少し変わった。

「信長様が一番信頼しとった方は、

 あなただがね。

 乳兄弟だから」

「……」

「信長様の孫が──

 誰かに食い物にされるのを、

 あなたが一番見たくないはずだわ」

恒興は、

しばらく黙っていた。

「……三法師様を、

 本当に守れるのか」

「俺の命を懸けて」

恒興の目から、

鋭さが消えた。

「……わかった」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


同じ頃。

官兵衛は、

丹羽長秀のもとにいた。

「長秀殿」

「官兵衛殿か。

 ……用件を聞こう」

「単刀直入に申し上げます。

 清洲会議で、

 三法師様を後継者として

 ご支持いただけますか」

長秀が、

少し間を置いた。

「それは……」

「筋目の問題です」

官兵衛が静かに続けた。

「信忠様の嫡子が、

 三法師様にございます。

 信長様の血統を正統に継ぐのは

 この方のみ」

「勝家殿が推す信孝様は

 三男にございます。

 長子の血筋を退けて

 三男を立てることは──

 信長様への義理を

 欠くことになりませんか」

長秀は、

静かに目を閉じた。

「……一つ聞く」

「はい」

「羽柴殿は、

 本当に三法師様をお守りするつもりか。

 自分の権力のための

 道具にするつもりではないか」

官兵衛は、

一拍だけ置いた。

「……私には、

 羽柴殿の心の中は

 わかりません」

「だが」

「あの方は、信長様の草履を

 自分の懐で温めた男です。

 主を大切にすることを──

 体で知っています」

長秀は、

しばらく黙っていた。

それから、

静かに言った。

「……御意に」


陣に戻った官兵衛が、

ナニワに報告した。

「長秀殿、取れました」

『恒興殿も、羽柴殿が取りました。

 これで──』

「会議の前に、

 三対一が確定しました」

官兵衛が、

静かに言った。

「あとは会議の場で、

 勝家殿が気づかないうちに

 既成事実を作るだけです」

ナニワが続けた。

『ただし──

 気をつけてください』

「何をですか」

『勝家殿は、

 鋭い方です。

 会議の場で自分が

 孤立していることに

 気づく可能性がある』

「気づいたとしても、

 もう遅い」

『はい。

 ですが──

 気づいた時の勝家殿が

 どう動くか』

官兵衛は、

少し考えた。

「……賤ヶ岳に向かう、

 ということですか」

『その可能性を、

 計算に入れておいてください』

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


六月二十七日。

清洲城・大広間。

四人の重臣が、

顔を揃えた。

秀吉は勝家の顔を見た。

(まだ気づいておらん)

(会議が始まれば、

 わかるんだけど)

「信長様のご後継について、

 皆の意見を聞きたい」

長秀が切り出した。

勝家が、

即座に言った。

「信孝様じゃ。

 三男・信孝様こそが

 織田家を継ぐに相応しい」

「……長秀殿は」

長秀が、

静かに口を開いた。

「三法師様を、

 推します」

勝家の目が、

動いた。

「丹羽……?」

「嫡流の筋目を通すべきと

 考えます」

「恒興殿は」

恒興が、

頷いた。

「三法師様に」


沈黙。

勝家の顔が、

みるみる変わった。

(長秀が、恒興が──)

(なぜだ)

(なぜ、こいつらが

 羽柴の方に……)

勝家の目が、

秀吉を見た。

秀吉は、

静かに座っていた。

表情を、

変えなかった。

その瞬間──

勝家は、

すべてを理解した。

(やられた)

(会議が始まる前から、

 こいつは手を回していた)

(俺だけが、

 知らなかっただけだ)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「……秀吉」

勝家の声が、

低くなった。

「お前の意見を聞こうか」

「三法師様を推します」

「三対一だな」

「そういう算段になりますな」

秀吉は、

あっさりと言った。

勝家の目に、

炎が宿った。

「……最初から、

 仕組んでいたか」

「仕組む、とは

 人聞きが悪いがね」

秀吉が立ち上がった。

「正しいことを、

 正しい方々に

 正しく説明しただけだがね」


それから──

秀吉は部屋を出た。

しばらくして戻ってきた。

その腕の中に、

三歳の幼子が、いた。

三法師。

信長の孫。

ふわふわした頬で、

きょとんとした目で、

大広間を見渡した。

「この方が──

 信長様の正統な後継者です」

静寂。

三法師が、

秀吉の顔を見た。

それから──

小さな手で、

秀吉の頬を触った。

「……あったかい」

幼子が言った。

大広間が、

静まり返った。

長秀が目を閉じた。

恒興が、

唇を噛んだ。

そして──

勝家は、

拳を握った。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


会議が終わった。

後継者──三法師。

事前の工作通り、

会議はあっけなく終わった。

廊下で、

勝家が秀吉の前に立った。

周りに、

誰もいなかった。

「……秀吉」

「なんのようだ、勝家どの」

「俺は──はめられたんか」

秀吉は、

少しだけ間を置いた。

「……はめた、とは思っとりません」

「ならなんと言う」

「先に動いた、だけだがね」

勝家の顔が、

歪んだ。

「同じことだ」

「戦と同じだがね」

秀吉が静かに言った。

「先に陣を取った方が、

 有利になる。

 それは戦も、

 政も、同じだがね」

「……」

「俺はただ、

 信長様の孫を守りたかった。

 そのために動いた。

 それだけだわ」

勝家は、

しばらく秀吉を見た。

その目に、

怒りがあった。

悔しさがあった。

そして──

何か別のものがあった。

「……羽柴秀吉」

「はい」

「お前は──

 信長様より、

 ずっと狡い」

秀吉は、

その言葉を黙って受けた。

「覚えておけ」

勝家が、

静かに言った。

「俺はまだ、

 終わっておらん」

「次は──刀で決着をつける」

踵を返して、

歩き去った。

その背中を見ながら、

秀吉は、

ため息をついた。

「……ナニワ」

『はい』

「俺は……

 正しいことをしたんか」

ナニワは、

少し間を置いた。

『正しいことと、

 きれいなことは──

 違います』

「そだな」

「きれいやなかったわ、

 今日の俺は」

『でも──

 三法師様を守ることは、

 正しかった』

秀吉は、

空を見た。

「……信長様は、

 今日の俺を見て

 何と言うだろな」

ナニワが、

静かに言った。

『きっと──』

『「禿鼠らしい」

 と笑うと思います』

秀吉は、

少しだけ笑った。

「そだな」

「それで、ええがね」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


その夜。

官兵衛が秀吉のもとに来た。

「……勝家殿の様子は」

「怒っとったがね」

「当然です。

 察していましたから」

「お前は最初から、

 勝家どのが気づくとわかっとったか」

「はい」

「それでも、やった」

「はい」

官兵衛が、

静かに言った。

「気づかれることは、

 構いません。

 問題は、

 気づいた時には

 もう遅かった、ということです」

秀吉は、

官兵衛を見た。

「……お前は、

 怖い男だがね」

「あなたの軍師ですから」

「それで、次は?」

「勝家殿は必ず動きます」

官兵衛が、

静かに続けた。

「来年の春──

 賤ヶ岳で、決着をつけることになるでしょう」

《試算:賤ヶ岳の戦い勝率》

《現時点での推定:羽柴軍・優勢》

『ただし──』

ナニワが言った。

『勝家殿が、

 お市の方を娶れば

 状況が変わる可能性があります』

秀吉の目が、

わずかに揺れた。

「……お市の方」

「小谷城で──

 救えなかった、あの方か」

『はい。

 勝家殿と婚姻を結べば、

 対織田家の正統性が

 高まります』

秀吉は、

しばらく黙っていた。

「……お市の方が、

 どう選ぶかは

 お市の方が決めることだがね」

「俺には、なんもできん」

ナニワが記録した。

《清洲会議──

 事前工作により三対一。

 羽柴秀吉、主導権掌握。

 次の戦場は賤ヶ岳。

 そして──

 お市の方が、再び

 歴史の中に現れる》

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


天正十年六月二十七日。

清洲会議、終わる。

刀なき戦で──

羽柴秀吉が勝った。

だが柴田勝家は、

負けを認めていなかった。

この日の屈辱が、

やがて賤ヶ岳の炎となって

燃え上がることを──

秀吉は、

すでに知っていた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【次回、第三十一話】

天正十一年(一五八三年)。

近江国・賤ヶ岳。

柴田勝家との、

最後の決着。

お市の方が──

再び、炎の中に立つ。

第三十一話「賤ヶ岳に吼えろ──鬼柴田との決着、そしてお市の方の最期」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


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