第三十話:「刀なき戦──清洲会議、俺の天下取り」
天正十年(一五八二年)六月二十七日。
尾張国・清洲城。
山崎の戦いから、
わずか十四日。
羽柴秀吉は、
刀を鞘に収めたまま、
次の戦場へと向かった。
戦場の名は──清洲会議。
だが──
この戦いは、
会議が始まる前に、
すでに終わっていた。
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◇
六日前。
官兵衛が秀吉の前に座った。
「清洲会議まで、六日あります」
「短いがや」
「十分です」
官兵衛が、
静かに家系図を広げた。
「四人の重臣が集まります。
柴田勝家。
丹羽長秀。
池田恒興。
そして羽柴殿」
「知っとるがね」
「勝家殿は敵です。
では──
長秀殿と恒興殿を、
今すぐ押さえる必要があります」
秀吉が、
眉を上げた。
「今すぐ?
会議の前に?」
「はい。
会議の場で説得するのでは、
遅すぎます」
官兵衛が、
まっすぐに秀吉を見た。
「戦と同じです。
陣を張る前に、
すでに勝負はついている」
◇
「ナニワ」
官兵衛が、
珍しく眼鏡に向かって言った。
「長秀殿と恒興殿の
人物分析を頼む」
ナニワが即座に動いた。
《人物分析:丹羽長秀》
《性格:義理堅い・筋目を重んじる》
《信長様への忠義:極めて深い》
《弱点:感情に訴えられると動く》
《人物分析:池田恒興》
《性格:実利主義・損得に敏感》
《信長様との関係:乳兄弟・特別な絆》
《弱点:具体的な利益の提示で動く》
『分析完了です』
「官兵衛どの」
ナニワが言った。
『長秀殿には──
信長様への「筋目」と「義理」で動いていただく。
三法師様が正統後継者であるという
論理と感情、両方で』
『恒興殿には──
遺領分配における
具体的な配慮を先に約束する。
数字で示してください』
官兵衛が頷いた。
「その通りです。
では羽柴殿──
長秀殿は私が動きます。
恒興殿は、
あなた自身が会いに行ってください」
「俺が?」
「あなたの顔で頼む方が、
効く相手です」
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◇
翌日。
秀吉は池田恒興のもとを訪ねた。
「恒興どの」
「……羽柴殿か。
いきなり何の用だ」
「折り入って話がしたくて」
二人きりになった部屋で、
秀吉は率直に言った。
「清洲会議のことやだがね」
恒興の目が、
鋭くなった。
「……先手を打ちに来たか」
「そうですわ」
秀吉は笑った。
「俺は、三法師様を推します。
恒興どのには──
摂津国の遺領を、
しかるべく配慮します」
「条件交渉か」
「そう取ってもらっていいがね。
でも俺はそれより──」
秀吉の声が、
少し変わった。
「信長様が一番信頼しとった方は、
あなただがね。
乳兄弟だから」
「……」
「信長様の孫が──
誰かに食い物にされるのを、
あなたが一番見たくないはずだわ」
恒興は、
しばらく黙っていた。
「……三法師様を、
本当に守れるのか」
「俺の命を懸けて」
恒興の目から、
鋭さが消えた。
「……わかった」
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◇
同じ頃。
官兵衛は、
丹羽長秀のもとにいた。
「長秀殿」
「官兵衛殿か。
……用件を聞こう」
「単刀直入に申し上げます。
清洲会議で、
三法師様を後継者として
ご支持いただけますか」
長秀が、
少し間を置いた。
「それは……」
「筋目の問題です」
官兵衛が静かに続けた。
「信忠様の嫡子が、
三法師様にございます。
信長様の血統を正統に継ぐのは
この方のみ」
「勝家殿が推す信孝様は
三男にございます。
長子の血筋を退けて
三男を立てることは──
信長様への義理を
欠くことになりませんか」
長秀は、
静かに目を閉じた。
「……一つ聞く」
「はい」
「羽柴殿は、
本当に三法師様をお守りするつもりか。
自分の権力のための
道具にするつもりではないか」
官兵衛は、
一拍だけ置いた。
「……私には、
羽柴殿の心の中は
わかりません」
「だが」
「あの方は、信長様の草履を
自分の懐で温めた男です。
主を大切にすることを──
体で知っています」
長秀は、
しばらく黙っていた。
それから、
静かに言った。
「……御意に」
◇
陣に戻った官兵衛が、
ナニワに報告した。
「長秀殿、取れました」
『恒興殿も、羽柴殿が取りました。
これで──』
「会議の前に、
三対一が確定しました」
官兵衛が、
静かに言った。
「あとは会議の場で、
勝家殿が気づかないうちに
既成事実を作るだけです」
ナニワが続けた。
『ただし──
気をつけてください』
「何をですか」
『勝家殿は、
鋭い方です。
会議の場で自分が
孤立していることに
気づく可能性がある』
「気づいたとしても、
もう遅い」
『はい。
ですが──
気づいた時の勝家殿が
どう動くか』
官兵衛は、
少し考えた。
「……賤ヶ岳に向かう、
ということですか」
『その可能性を、
計算に入れておいてください』
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◇
六月二十七日。
清洲城・大広間。
四人の重臣が、
顔を揃えた。
秀吉は勝家の顔を見た。
(まだ気づいておらん)
(会議が始まれば、
わかるんだけど)
◇
「信長様のご後継について、
皆の意見を聞きたい」
長秀が切り出した。
勝家が、
即座に言った。
「信孝様じゃ。
三男・信孝様こそが
織田家を継ぐに相応しい」
「……長秀殿は」
長秀が、
静かに口を開いた。
「三法師様を、
推します」
勝家の目が、
動いた。
「丹羽……?」
「嫡流の筋目を通すべきと
考えます」
「恒興殿は」
恒興が、
頷いた。
「三法師様に」
◇
沈黙。
勝家の顔が、
みるみる変わった。
(長秀が、恒興が──)
(なぜだ)
(なぜ、こいつらが
羽柴の方に……)
勝家の目が、
秀吉を見た。
秀吉は、
静かに座っていた。
表情を、
変えなかった。
その瞬間──
勝家は、
すべてを理解した。
(やられた)
(会議が始まる前から、
こいつは手を回していた)
(俺だけが、
知らなかっただけだ)
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◇
「……秀吉」
勝家の声が、
低くなった。
「お前の意見を聞こうか」
「三法師様を推します」
「三対一だな」
「そういう算段になりますな」
秀吉は、
あっさりと言った。
勝家の目に、
炎が宿った。
「……最初から、
仕組んでいたか」
「仕組む、とは
人聞きが悪いがね」
秀吉が立ち上がった。
「正しいことを、
正しい方々に
正しく説明しただけだがね」
◇
それから──
秀吉は部屋を出た。
しばらくして戻ってきた。
その腕の中に、
三歳の幼子が、いた。
三法師。
信長の孫。
ふわふわした頬で、
きょとんとした目で、
大広間を見渡した。
「この方が──
信長様の正統な後継者です」
静寂。
三法師が、
秀吉の顔を見た。
それから──
小さな手で、
秀吉の頬を触った。
「……あったかい」
幼子が言った。
大広間が、
静まり返った。
長秀が目を閉じた。
恒興が、
唇を噛んだ。
そして──
勝家は、
拳を握った。
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◇
会議が終わった。
後継者──三法師。
事前の工作通り、
会議はあっけなく終わった。
廊下で、
勝家が秀吉の前に立った。
周りに、
誰もいなかった。
「……秀吉」
「なんのようだ、勝家どの」
「俺は──はめられたんか」
秀吉は、
少しだけ間を置いた。
「……はめた、とは思っとりません」
「ならなんと言う」
「先に動いた、だけだがね」
勝家の顔が、
歪んだ。
「同じことだ」
「戦と同じだがね」
秀吉が静かに言った。
「先に陣を取った方が、
有利になる。
それは戦も、
政も、同じだがね」
「……」
「俺はただ、
信長様の孫を守りたかった。
そのために動いた。
それだけだわ」
勝家は、
しばらく秀吉を見た。
その目に、
怒りがあった。
悔しさがあった。
そして──
何か別のものがあった。
「……羽柴秀吉」
「はい」
「お前は──
信長様より、
ずっと狡い」
秀吉は、
その言葉を黙って受けた。
「覚えておけ」
勝家が、
静かに言った。
「俺はまだ、
終わっておらん」
「次は──刀で決着をつける」
踵を返して、
歩き去った。
その背中を見ながら、
秀吉は、
ため息をついた。
「……ナニワ」
『はい』
「俺は……
正しいことをしたんか」
ナニワは、
少し間を置いた。
『正しいことと、
きれいなことは──
違います』
「そだな」
「きれいやなかったわ、
今日の俺は」
『でも──
三法師様を守ることは、
正しかった』
秀吉は、
空を見た。
「……信長様は、
今日の俺を見て
何と言うだろな」
ナニワが、
静かに言った。
『きっと──』
『「禿鼠らしい」
と笑うと思います』
秀吉は、
少しだけ笑った。
「そだな」
「それで、ええがね」
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◇
その夜。
官兵衛が秀吉のもとに来た。
「……勝家殿の様子は」
「怒っとったがね」
「当然です。
察していましたから」
「お前は最初から、
勝家どのが気づくとわかっとったか」
「はい」
「それでも、やった」
「はい」
官兵衛が、
静かに言った。
「気づかれることは、
構いません。
問題は、
気づいた時には
もう遅かった、ということです」
秀吉は、
官兵衛を見た。
「……お前は、
怖い男だがね」
「あなたの軍師ですから」
「それで、次は?」
「勝家殿は必ず動きます」
官兵衛が、
静かに続けた。
「来年の春──
賤ヶ岳で、決着をつけることになるでしょう」
《試算:賤ヶ岳の戦い勝率》
《現時点での推定:羽柴軍・優勢》
『ただし──』
ナニワが言った。
『勝家殿が、
お市の方を娶れば
状況が変わる可能性があります』
秀吉の目が、
わずかに揺れた。
「……お市の方」
「小谷城で──
救えなかった、あの方か」
『はい。
勝家殿と婚姻を結べば、
対織田家の正統性が
高まります』
秀吉は、
しばらく黙っていた。
「……お市の方が、
どう選ぶかは
お市の方が決めることだがね」
「俺には、なんもできん」
ナニワが記録した。
《清洲会議──
事前工作により三対一。
羽柴秀吉、主導権掌握。
次の戦場は賤ヶ岳。
そして──
お市の方が、再び
歴史の中に現れる》
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天正十年六月二十七日。
清洲会議、終わる。
刀なき戦で──
羽柴秀吉が勝った。
だが柴田勝家は、
負けを認めていなかった。
この日の屈辱が、
やがて賤ヶ岳の炎となって
燃え上がることを──
秀吉は、
すでに知っていた。
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【次回、第三十一話】
天正十一年(一五八三年)。
近江国・賤ヶ岳。
柴田勝家との、
最後の決着。
お市の方が──
再び、炎の中に立つ。
第三十一話「賤ヶ岳に吼えろ──鬼柴田との決着、そしてお市の方の最期」
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