第二話:「名を得た百姓、そして旅立ち」
尾張の西、干ばつの続く農村地帯で、
噂が風のように広がっていた。
「奇妙な農民が、村を潤した」
水車もなければ数学も知らぬはずの百姓が、
見えない声の助言で水を操り、田を救ったという。
荒れ果てた土地が実りを取り戻したその話は、
やがて武家の耳にも届くほどになっていた。
◇
粗末な旅支度で、日吉丸は大きな屋敷の門の前に立っていた。
格式ある門構え。
左右に控える門番の槍。
「……呼ばれたっちゅうことは、怒られるんかな。
それとも……ええことがあるんかな……」
口の中でぼそぼそと呟きながら、
彼は足を踏み出せずにいた。
『落ち着いてください』
頭の中に、澄んだ声が響く。
『今川家臣・松下之綱。
記録によれば人柄は穏やかかつ実利重視。
恐れる必要はありません』
「いやぁ……ナニワはようそんな冷静でおれるがね……」
言いながらも、日吉丸はナニワの指示どおりに頭を下げ、
一歩、また一歩と、門をくぐった。
◇
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松下家・屋敷内
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座敷の奥には、静かに威圧感を放つ男がいた。
今川家臣・松下之綱。
浜松・頭陀寺城を治める地侍にして、
戦国の動乱を生き抜いてきた知将。
その目は、値踏みをするように日吉丸を見ていた。
「おぬしが……日吉丸、という者か」
「はっ」
日吉丸は畳に手をついた。
「尾張の村にて農をしておりました、日吉丸でございます。
このたびは噂が耳に入りましたゆえ、参上いたしました」
(ナニワ、今の言い回し……いけとったか?)
『文法は完璧です。
語尾に訛りが残っておりますが、
むしろ誠実さが伝わっております』
(ほっ……よかったがね)
松下はしばし黙した。
それから、静かに口を開いた。
「百姓が、用水を引いたというのは本当か?」
「……はっ。竹と桶を使って、
回転する仕掛けを──」
「こう……水が勝手に上へ上がるように
しまして……」
「それは、"水車"か?」
「い、いや、その……
水車よりちょっとちゃうやつでして……」
「こう……くるくる回って、
水が上がっていく感じで……!」
『ご主人様、落ち着いてください。
ナニワ式螺旋揚水機は、
この時代の記録に残らぬ超先進技術です。
完全に理解していただく必要はありません』
(そっちが言わせたんやがね!?)
松下はしばらく日吉丸を見つめ──
それから、ニヤリと笑った。
「面白い」
短い一言だった。
だが、その目の奥に確かな光が宿っていた。
「才ある者には、相応の"名"が要る。
おぬし、新たな名に改めよ」
日吉丸は、ごくりと唾を飲んだ。
「……では、幼き頃の異名より一字を取り、
藤吉郎と申します」
「姓は、持たぬのであろう」
「……はい。姓など、いただいたことは
なく……」
松下は少し目を細めた。
「そなた、わしの"下"に仕えるつもりはあるか?」
「は、はい……もちろんでございます!」
「ふむ」
男は一呼吸置いて、言った。
「では──"木下"と名乗れ」
「……木下……?」
『補足します。
"木下"とは"松下の下"という意を含む名です。
戦国時代における名付けの慣習として
自然な形です』
(ああ、そういうことか……)
日吉丸は、深々と頭を下げた。
おでこが畳に触れるほど。
「恐れ多うございます……」
「木下藤吉郎、ここにお仕えいたします!」
『新しいIDを確認。
名前を【木下藤吉郎】として記録しました』
こうして、一人の百姓が"名"を得た。
◇ ◇ ◇
それから数か月が経った。
木下藤吉郎は松下家で、
静かに、されど確実に頭角を現していた。
倉庫の帳簿を整理し、
農作物の保存法を改良し、
仕入れの見直しから倹約策の提案に至るまで、
その実務力は家中の者たちを驚かせた。
だが──
光が強ければ、影もまた濃い。
「あいつ、農民のくせに出しゃばりすぎだ」
「知恵があるからって、調子乗っとるんじゃないか」
密かに物が隠された。
行動の揚げ足が取られた。
命令を曲解した報告で、叱責されることもあった。
そして、ある秋の夕暮れに──事件は起きた。
◇
「藤吉郎! おぬし、帳簿の銭が合わぬとのことだが、
どういうことか説明せよ!」
筆頭家老が、座敷の中央で仁王立ちになっていた。
その後ろには、数人の同僚たちが並んでいる。
藤吉郎は、静かに頭を下げた。
「……身に覚えがございません」
「証人がおる! おぬしが倉から銭を
持ち出すのを見た者がな!」
(ナニワ……これ、どうなっとる?)
『状況を分析しました。
帳簿の不一致は三日前の仕入れ記録の誤記が原因です。
藤吉郎様の行動との関係は、ありません』
(つまり……でっちあげ、ってことか)
藤吉郎は顔を上げた。
怒りはなかった。
驚きも、もうなかった。
ただ、静かな確信だけがあった。
──ここでは、わしはこれ以上大きくなれん。
「……申し開きは、ございません」
深々と、頭を下げた。
◇
その夜、藤吉郎はひとりで廊下を歩いていた。
冷たい風が、縁側を吹き抜けていく。
月が出ていた。
丸く、白く、静かな月だった。
「藤吉郎」
声がした。
振り返ると、松下之綱が立っていた。
灯りも持たず、ひとりで。
「……殿」
「来い」
廊下の奥、人気のない小部屋へと
連れて行かれた。
◇
障子を閉め、松下はゆっくりと
藤吉郎の前に座った。
長い沈黙のあと、口を開いた。
「……おぬしが盗んだとは、
わしは思うておらん」
「殿……」
「だが」
松下は静かに続けた。
「わしの器では、おぬしを守りきれん。
それもまた、事実だ」
藤吉郎は、黙っていた。
何か言おうとして──やめた。
松下の目に、嘘はなかった。
「おぬしの才は、この頭陀寺城には収まらぬ。
わしはそれを、最初から知っておった」
松下はふところから、小さな袋を取り出した。
ずっしりとした重み。
銀色の光が、ぼんやりと漏れた。
「路銀だ。三十疋ある。遠慮なく受け取れ」
「……そのような」
「受け取れ、と言っておる」
藤吉郎は、震える手でそれを受け取った。
三十疋。
今川家の陪々臣の月給にも満たぬ金額。
されど──重かった。
この人の、誠意の重みが込められていた。
(ナニワ……)
『三十疋(現代換算で約三万円相当)ですが
──その価値は、金額では測れません』
(……わかっとる)
「殿。わしは──」
言葉が、続かなかった。
松下は静かに首を横に振った。
「礼はいい。ひとつだけ聞かせてくれ」
「……おぬしは、どこへ行く」
藤吉郎はまっすぐに、松下の目を見た。
「尾張へ。──織田家へ、参ります」
松下の目が、少しだけ細くなった。
それが驚きなのか、納得なのか、
藤吉郎には判断できなかった。
ただ、男はゆっくりとうなずいた。
「……そうか」
「行け」
一言だった。
それだけだった。
されど藤吉郎には、
その一言に込められたすべてが、
わかった気がした。
◇ ◇ ◇
夜明け前、藤吉郎は静かに屋敷を出た。
誰にも告げず。
誰にも見送られず。
ただ、腰の袋の中に、
松下之綱の路銀だけを携えて。
「ナニワ」
『はい、ご主人様』
「わしは……ちゃんとやれるかな」
しばらく、沈黙があった。
AIには、"しばらく"など必要ないはずなのに。
『データ上の成功確率は、申し上げられません』
『ですが──』
『あなたが今まで成し遂げてきたことは、
すべてデータの外にあります』
「……なんだそれ」
藤吉郎は、思わず笑った。
「褒めとるんか、
貶してるんか、ようわからんがね」
『褒めております』
「そか」
東の空が、うっすらと明るくなり始めていた。
彼が目指す先には──
まだ「うつけ者」と呼ばれていた若き当主がいる。
しかしナニワは、
その目に宿るものを、すでに見抜いていた。
『ターゲット:織田信長。
"天下布武"の鍵となる人物。
ご主人様の運命が、大きく動き出します』
藤吉郎は、前を向いた。
路銀の袋が、腰で静かに揺れている。
銀縁の眼鏡が、夜明けの光を受けて──
ほんのりと、輝いた。
未来からもたらされた唯一無二の"知"が、
まだ見ぬ明日へと、静かに光を放ち続けていた。
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(第二話・完)
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