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第二話:「名を得た百姓、そして旅立ち」

尾張の西、干ばつの続く農村地帯で、

噂が風のように広がっていた。


「奇妙な農民が、村を潤した」


水車もなければ数学も知らぬはずの百姓が、

見えない声の助言で水を操り、田を救ったという。


荒れ果てた土地が実りを取り戻したその話は、

やがて武家の耳にも届くほどになっていた。





粗末な旅支度で、日吉丸は大きな屋敷の門の前に立っていた。


格式ある門構え。

左右に控える門番の槍。


「……呼ばれたっちゅうことは、怒られるんかな。

 それとも……ええことがあるんかな……」


口の中でぼそぼそと呟きながら、

彼は足を踏み出せずにいた。



『落ち着いてください』



頭の中に、澄んだ声が響く。



『今川家臣・松下之綱。

 記録によれば人柄は穏やかかつ実利重視。

 恐れる必要はありません』



「いやぁ……ナニワはようそんな冷静でおれるがね……」



言いながらも、日吉丸はナニワの指示どおりに頭を下げ、

一歩、また一歩と、門をくぐった。





━━━━━━━━━━━━━━━━

松下家・屋敷内

━━━━━━━━━━━━━━━━



座敷の奥には、静かに威圧感を放つ男がいた。


今川家臣・松下之綱(まつした ゆきつな)


浜松・頭陀寺城を治める地侍にして、

戦国の動乱を生き抜いてきた知将。


その目は、値踏みをするように日吉丸を見ていた。



「おぬしが……日吉丸、という者か」



「はっ」



日吉丸は畳に手をついた。



「尾張の村にて農をしておりました、日吉丸でございます。

 このたびは噂が耳に入りましたゆえ、参上いたしました」



(ナニワ、今の言い回し……いけとったか?)



『文法は完璧です。

 語尾に訛りが残っておりますが、

 むしろ誠実さが伝わっております』



(ほっ……よかったがね)



松下はしばし黙した。

それから、静かに口を開いた。



「百姓が、用水を引いたというのは本当か?」



「……はっ。竹と桶を使って、

 回転する仕掛けを──」


「こう……水が勝手に上へ上がるように

 しまして……」



「それは、"水車"か?」



「い、いや、その……

 水車よりちょっとちゃうやつでして……」


「こう……くるくる回って、

 水が上がっていく感じで……!」



『ご主人様、落ち着いてください。

 ナニワ式螺旋揚水機は、

 この時代の記録に残らぬ超先進技術です。

 完全に理解していただく必要はありません』



(そっちが言わせたんやがね!?)



松下はしばらく日吉丸を見つめ──

それから、ニヤリと笑った。



「面白い」



短い一言だった。

だが、その目の奥に確かな光が宿っていた。



「才ある者には、相応の"名"が要る。

 おぬし、新たな名に改めよ」



日吉丸は、ごくりと唾を飲んだ。



「……では、幼き頃の異名より一字を取り、

 藤吉郎と申します」



「姓は、持たぬのであろう」



「……はい。姓など、いただいたことは

 なく……」



松下は少し目を細めた。



「そなた、わしの"下"に仕えるつもりはあるか?」



「は、はい……もちろんでございます!」



「ふむ」



男は一呼吸置いて、言った。



「では──"木下"と名乗れ」



「……木下……?」



『補足します。

 "木下"とは"松下の下"という意を含む名です。

 戦国時代における名付けの慣習として

 自然な形です』



(ああ、そういうことか……)



日吉丸は、深々と頭を下げた。

おでこが畳に触れるほど。



「恐れ多うございます……」


「木下藤吉郎、ここにお仕えいたします!」



『新しいIDを確認。

 名前を【木下藤吉郎】として記録しました』



こうして、一人の百姓が"名"を得た。



◇ ◇ ◇



それから数か月が経った。


木下藤吉郎は松下家で、

静かに、されど確実に頭角を現していた。


倉庫の帳簿を整理し、

農作物の保存法を改良し、

仕入れの見直しから倹約策の提案に至るまで、

その実務力は家中の者たちを驚かせた。


だが──

光が強ければ、影もまた濃い。



「あいつ、農民のくせに出しゃばりすぎだ」


「知恵があるからって、調子乗っとるんじゃないか」



密かに物が隠された。

行動の揚げ足が取られた。

命令を曲解した報告で、叱責されることもあった。


そして、ある秋の夕暮れに──事件は起きた。





「藤吉郎! おぬし、帳簿の銭が合わぬとのことだが、

 どういうことか説明せよ!」



筆頭家老が、座敷の中央で仁王立ちになっていた。

その後ろには、数人の同僚たちが並んでいる。


藤吉郎は、静かに頭を下げた。



「……身に覚えがございません」



「証人がおる! おぬしが倉から銭を

 持ち出すのを見た者がな!」



(ナニワ……これ、どうなっとる?)



『状況を分析しました。

 帳簿の不一致は三日前の仕入れ記録の誤記が原因です。

 藤吉郎様の行動との関係は、ありません』



(つまり……でっちあげ、ってことか)



藤吉郎は顔を上げた。


怒りはなかった。

驚きも、もうなかった。


ただ、静かな確信だけがあった。


──ここでは、わしはこれ以上大きくなれん。



「……申し開きは、ございません」



深々と、頭を下げた。





その夜、藤吉郎はひとりで廊下を歩いていた。


冷たい風が、縁側を吹き抜けていく。


月が出ていた。

丸く、白く、静かな月だった。



「藤吉郎」



声がした。


振り返ると、松下之綱が立っていた。

灯りも持たず、ひとりで。



「……殿」


「来い」



廊下の奥、人気のない小部屋へと

連れて行かれた。





障子を閉め、松下はゆっくりと

藤吉郎の前に座った。


長い沈黙のあと、口を開いた。



「……おぬしが盗んだとは、

 わしは思うておらん」



「殿……」



「だが」



松下は静かに続けた。



「わしの器では、おぬしを守りきれん。

 それもまた、事実だ」



藤吉郎は、黙っていた。


何か言おうとして──やめた。


松下の目に、嘘はなかった。



「おぬしの才は、この頭陀寺城には収まらぬ。

 わしはそれを、最初から知っておった」



松下はふところから、小さな袋を取り出した。


ずっしりとした重み。

銀色の光が、ぼんやりと漏れた。



「路銀だ。三十疋ある。遠慮なく受け取れ」



「……そのような」



「受け取れ、と言っておる」



藤吉郎は、震える手でそれを受け取った。


三十疋。

今川家の陪々臣の月給にも満たぬ金額。


されど──重かった。


この人の、誠意の重みが込められていた。



(ナニワ……)



『三十疋(現代換算で約三万円相当)ですが

──その価値は、金額では測れません』



(……わかっとる)



「殿。わしは──」



言葉が、続かなかった。


松下は静かに首を横に振った。



「礼はいい。ひとつだけ聞かせてくれ」


「……おぬしは、どこへ行く」



藤吉郎はまっすぐに、松下の目を見た。



「尾張へ。──織田家へ、参ります」



松下の目が、少しだけ細くなった。


それが驚きなのか、納得なのか、

藤吉郎には判断できなかった。


ただ、男はゆっくりとうなずいた。



「……そうか」


「行け」



一言だった。

それだけだった。


されど藤吉郎には、

その一言に込められたすべてが、

わかった気がした。



◇ ◇ ◇



夜明け前、藤吉郎は静かに屋敷を出た。


誰にも告げず。

誰にも見送られず。


ただ、腰の袋の中に、

松下之綱の路銀だけを携えて。



「ナニワ」



『はい、ご主人様』



「わしは……ちゃんとやれるかな」



しばらく、沈黙があった。


AIには、"しばらく"など必要ないはずなのに。



『データ上の成功確率は、申し上げられません』



『ですが──』



『あなたが今まで成し遂げてきたことは、

 すべてデータの外にあります』



「……なんだそれ」



藤吉郎は、思わず笑った。



「褒めとるんか、

 貶してるんか、ようわからんがね」



『褒めております』



「そか」



東の空が、うっすらと明るくなり始めていた。


彼が目指す先には──

まだ「うつけ者」と呼ばれていた若き当主がいる。


しかしナニワは、

その目に宿るものを、すでに見抜いていた。



『ターゲット:織田信長。

 "天下布武"の鍵となる人物。

 ご主人様の運命が、大きく動き出します』



藤吉郎は、前を向いた。


路銀の袋が、腰で静かに揺れている。


銀縁の眼鏡が、夜明けの光を受けて──

ほんのりと、輝いた。


未来からもたらされた唯一無二の"知"が、

まだ見ぬ明日へと、静かに光を放ち続けていた。



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    (第二話・完)

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