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第二十九話:「天下分け目──山崎、光秀散る」

天正十年(一五八二年)六月十三日。

山城国・山崎。

淀川と天王山に挟まれた、

細い回廊のような地に──

日本の歴史を決める戦いが、

始まろうとしていた。

「天下分け目の天王山」。

後世、そう語り継がれるこの戦いは、

わずか数時間で決着した。

だが──

勝者の心の中では、

その余韻が、

生涯、消えることはなかった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


夜明け前。

秀吉は一人で、

天王山を見上げた。

標高二百七十。

山頂を制した方が、

地の利を得る。

「ナニワ」

『はい』

「天王山、先に取れるか」

《地形データ分析中》

《明智軍の現在地:山崎付近》

《我が軍の先鋒の位置:確認中》

『……今すぐ動けば、

 先に取れます。

 ただし──』

「なんだ」

『明智軍も同じことを

 考えているはずです。

 時間が惜しい』

「わかっとる」

秀吉は振り返った。

「中川清秀と高山右近の部隊に、

 今すぐ天王山へ向かわせろ!」


夜が、

明けようとしていた。

霧が、

山崎の低地に立ち込めていた。

その霧の向こうに、

明智の旗印が見えた。

「……光秀どの」

秀吉は、

小声で呟いた。

「なぜ、こうなったんだがね」

ナニワが静かに言った。

『……金ヶ崎を覚えていますか』

「覚えとる」

『あの時、光秀殿と

 一緒に殿軍を務めました』

「だな」

『あの時の光秀殿は──

 義理堅い、優秀な武将でした』

「だな」

「それが──」

秀吉は目を閉じた。

「なぜ、こうなったんだがね」

誰も、

答えられなかった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「天王山、制しました!」

報せが届いた瞬間、

秀吉は立ち上がった。

「全軍、前へ!」

轟音とともに、

三万の兵が動いた。

霧が、晴れ始めた。

天王山の頂に、

羽柴の旗が翻った。


《戦況分析》

《明智軍の左翼が崩れ始めています》

《中央突破のタイミング:今です》

『秀吉様、今です』

「全軍、突撃ッ!」

秀吉の声が、

山崎の空に響き渡った。


戦いは、

激しかった。

だが──短かった。

天王山を失った明智軍は、

地の利を失い、

次第に崩れていった。

「光秀様が逃げている!」

「退けッ!退けッ!」

明智の兵が、

四散し始めた。


『秀吉様』

ナニワが言った。

『……明智軍、壊滅しました』

秀吉は、

馬の上で動かなかった。

「……終わったか」

『はい。

 山崎の戦い、勝利です』

勝利。

その言葉が、

妙に空虚に響いた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


翌日。

光秀の首が、

届いた。

小栗栖の竹藪で、

土民に討たれたという。

秀吉は、

しばらく、

その首を見ていた。

「……光秀どの」

誰もいない部屋で、

秀吉は言った。

「あんたは──

 何がしたかったんだね」

返事は、

なかった。

「俺には、わからん」

「でも──」

秀吉は、

目を閉じた。

「金ヶ崎の夜を、

 俺は覚えとる」

「あんたと並んで、

 殿軍を務めた夜を」

「あの夜のあんたは──

 確かに、信長様の家臣だった」

「何が、あんたを変えたんだがね」


小一郎が、

静かに入ってきた。

「兄者」

「……なんや」

「飯にしよう」

「食えんがや」

「食え」

小一郎が、

きっぱりと言った。

「これで、弔い合戦は終わったがね。

 信長様に報告できる。

 それで……ええじゃないか」

「ええのかな」

「ええがね」

小一郎が静かに言った。

「兄者がこれ以上背負わんでも、

 信長様はわかっとってくれとるがね」

秀吉は、

弟の顔を見た。

目が、

また赤かった。

「……お前も、泣いとったんか」

「泣いてない」

「嘘つくなよ」

「泣いてないがね!」

しばらく、

二人は黙っていた。

それから、

どちらからともなく、

笑った。

泣き笑いのような、

でも確かな笑いだった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


その夜。

官兵衛が来た。

「羽柴殿」

「なんだ、官兵衛」

「……次を、考えてください」

秀吉が、

少し間を置いた。

「次?」

「はい。

 信長様が亡くなられた今──

 天下の行方は、

 まだ決まっていません」

官兵衛が、

静かに続けた。

「清洲会議が開かれます。

 柴田勝家、丹羽長秀、

 池田恒興、そしてあなた。

 四人の重臣が、

 信長様の後継者を決める」

「そこで──

 主導権を握らなければ、

 すべてが変わります」

秀吉は、

官兵衛を見た。

「……お前は、

 今日の戦いが終わった瞬間から

 もう次を考えとったんか」

「はい」

「……本当に、

 えぐい男だがね、お前は」

「あなたの軍師ですから」

秀吉は、

少しだけ笑った。

「わかっとる。

 でも──今夜だけは」

「今夜だけは、

 信長様のことだけを

 考えさせてくれ」

官兵衛は、

静かに頭を下げた。

「……御意に」


深夜。

一人になった秀吉は、

眼鏡をそっと外した。

両手で包んで、

空を見た。

「ナニワ」

『はい』

「信長様は……

 今、どこにおられるんだろな」

ナニワは、

しばらく黙っていた。

『……私には、わかりません』

「そだな」

「でも──」

秀吉は、

静かに言った。

「見ていてくださると、

 俺は思う」

『……はい』

「俺が天下を取るまで、

 見ていてくださると」

夜空に、

星が瞬いていた。

信長が好きだった、

という話は聞いたことがない。

でも──

この夜だけは、

星が、

答えているような気がした。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


ナニワが、

一人で記録した。

《天正十年六月十三日。

 山崎の戦い。

 羽柴秀吉、勝利。

 明智光秀、散る》

《この戦いで、

 一つの時代が終わった。

 信長という太陽が消えた夜に、

 新しい光が生まれようとしている。

 その光の名前を──

 私はすでに知っている。

 でも今夜だけは、

 記録するのをやめる》

《今夜は、ただ──

 信長様の、

 ご冥福を祈る》

青い光が、

夜の中で静かに瞬いた。

まるで、

祈るように。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


天正十年六月十三日。

山崎の戦い、終わる。

明智光秀、享年五十余歳。

「三日天下」と後に呼ばれた

その十三日間は──

光秀という男が、

いかに孤独だったかを

物語っていた。

そして羽柴秀吉は──

この日から、

日本でただ一人の

「信長の後継者」として

歩み始める。

次なる戦場は、

まつりごとだった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【次回、第三十話】

天正十年六月二十七日。

尾張国・清洲城。

「清洲会議」。

四人の重臣が集まり、

信長の後継者を巡って

激突する。

柴田勝家。

丹羽長秀。

池田恒興。

そして──羽柴秀吉。

刀を使わない戦が、

始まる。

第三十話「刀なき戦──清洲会議、俺の天下取り」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


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