第二十九話:「天下分け目──山崎、光秀散る」
天正十年(一五八二年)六月十三日。
山城国・山崎。
淀川と天王山に挟まれた、
細い回廊のような地に──
日本の歴史を決める戦いが、
始まろうとしていた。
「天下分け目の天王山」。
後世、そう語り継がれるこの戦いは、
わずか数時間で決着した。
だが──
勝者の心の中では、
その余韻が、
生涯、消えることはなかった。
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◇
夜明け前。
秀吉は一人で、
天王山を見上げた。
標高二百七十。
山頂を制した方が、
地の利を得る。
「ナニワ」
『はい』
「天王山、先に取れるか」
《地形データ分析中》
《明智軍の現在地:山崎付近》
《我が軍の先鋒の位置:確認中》
『……今すぐ動けば、
先に取れます。
ただし──』
「なんだ」
『明智軍も同じことを
考えているはずです。
時間が惜しい』
「わかっとる」
秀吉は振り返った。
「中川清秀と高山右近の部隊に、
今すぐ天王山へ向かわせろ!」
◇
夜が、
明けようとしていた。
霧が、
山崎の低地に立ち込めていた。
その霧の向こうに、
明智の旗印が見えた。
「……光秀どの」
秀吉は、
小声で呟いた。
「なぜ、こうなったんだがね」
ナニワが静かに言った。
『……金ヶ崎を覚えていますか』
「覚えとる」
『あの時、光秀殿と
一緒に殿軍を務めました』
「だな」
『あの時の光秀殿は──
義理堅い、優秀な武将でした』
「だな」
「それが──」
秀吉は目を閉じた。
「なぜ、こうなったんだがね」
誰も、
答えられなかった。
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◇
「天王山、制しました!」
報せが届いた瞬間、
秀吉は立ち上がった。
「全軍、前へ!」
轟音とともに、
三万の兵が動いた。
霧が、晴れ始めた。
天王山の頂に、
羽柴の旗が翻った。
◇
《戦況分析》
《明智軍の左翼が崩れ始めています》
《中央突破のタイミング:今です》
『秀吉様、今です』
「全軍、突撃ッ!」
秀吉の声が、
山崎の空に響き渡った。
◇
戦いは、
激しかった。
だが──短かった。
天王山を失った明智軍は、
地の利を失い、
次第に崩れていった。
「光秀様が逃げている!」
「退けッ!退けッ!」
明智の兵が、
四散し始めた。
◇
『秀吉様』
ナニワが言った。
『……明智軍、壊滅しました』
秀吉は、
馬の上で動かなかった。
「……終わったか」
『はい。
山崎の戦い、勝利です』
勝利。
その言葉が、
妙に空虚に響いた。
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◇
翌日。
光秀の首が、
届いた。
小栗栖の竹藪で、
土民に討たれたという。
秀吉は、
しばらく、
その首を見ていた。
「……光秀どの」
誰もいない部屋で、
秀吉は言った。
「あんたは──
何がしたかったんだね」
返事は、
なかった。
「俺には、わからん」
「でも──」
秀吉は、
目を閉じた。
「金ヶ崎の夜を、
俺は覚えとる」
「あんたと並んで、
殿軍を務めた夜を」
「あの夜のあんたは──
確かに、信長様の家臣だった」
「何が、あんたを変えたんだがね」
◇
小一郎が、
静かに入ってきた。
「兄者」
「……なんや」
「飯にしよう」
「食えんがや」
「食え」
小一郎が、
きっぱりと言った。
「これで、弔い合戦は終わったがね。
信長様に報告できる。
それで……ええじゃないか」
「ええのかな」
「ええがね」
小一郎が静かに言った。
「兄者がこれ以上背負わんでも、
信長様はわかっとってくれとるがね」
秀吉は、
弟の顔を見た。
目が、
また赤かった。
「……お前も、泣いとったんか」
「泣いてない」
「嘘つくなよ」
「泣いてないがね!」
しばらく、
二人は黙っていた。
それから、
どちらからともなく、
笑った。
泣き笑いのような、
でも確かな笑いだった。
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◇
その夜。
官兵衛が来た。
「羽柴殿」
「なんだ、官兵衛」
「……次を、考えてください」
秀吉が、
少し間を置いた。
「次?」
「はい。
信長様が亡くなられた今──
天下の行方は、
まだ決まっていません」
官兵衛が、
静かに続けた。
「清洲会議が開かれます。
柴田勝家、丹羽長秀、
池田恒興、そしてあなた。
四人の重臣が、
信長様の後継者を決める」
「そこで──
主導権を握らなければ、
すべてが変わります」
秀吉は、
官兵衛を見た。
「……お前は、
今日の戦いが終わった瞬間から
もう次を考えとったんか」
「はい」
「……本当に、
えぐい男だがね、お前は」
「あなたの軍師ですから」
秀吉は、
少しだけ笑った。
「わかっとる。
でも──今夜だけは」
「今夜だけは、
信長様のことだけを
考えさせてくれ」
官兵衛は、
静かに頭を下げた。
「……御意に」
◇
深夜。
一人になった秀吉は、
眼鏡をそっと外した。
両手で包んで、
空を見た。
「ナニワ」
『はい』
「信長様は……
今、どこにおられるんだろな」
ナニワは、
しばらく黙っていた。
『……私には、わかりません』
「そだな」
「でも──」
秀吉は、
静かに言った。
「見ていてくださると、
俺は思う」
『……はい』
「俺が天下を取るまで、
見ていてくださると」
夜空に、
星が瞬いていた。
信長が好きだった、
という話は聞いたことがない。
でも──
この夜だけは、
星が、
答えているような気がした。
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◇
ナニワが、
一人で記録した。
《天正十年六月十三日。
山崎の戦い。
羽柴秀吉、勝利。
明智光秀、散る》
《この戦いで、
一つの時代が終わった。
信長という太陽が消えた夜に、
新しい光が生まれようとしている。
その光の名前を──
私はすでに知っている。
でも今夜だけは、
記録するのをやめる》
《今夜は、ただ──
信長様の、
ご冥福を祈る》
青い光が、
夜の中で静かに瞬いた。
まるで、
祈るように。
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天正十年六月十三日。
山崎の戦い、終わる。
明智光秀、享年五十余歳。
「三日天下」と後に呼ばれた
その十三日間は──
光秀という男が、
いかに孤独だったかを
物語っていた。
そして羽柴秀吉は──
この日から、
日本でただ一人の
「信長の後継者」として
歩み始める。
次なる戦場は、
政だった。
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【次回、第三十話】
天正十年六月二十七日。
尾張国・清洲城。
「清洲会議」。
四人の重臣が集まり、
信長の後継者を巡って
激突する。
柴田勝家。
丹羽長秀。
池田恒興。
そして──羽柴秀吉。
刀を使わない戦が、
始まる。
第三十話「刀なき戦──清洲会議、俺の天下取り」
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