表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

28/44

第二十八話:「二百里を駆けろ──中国大返し、俺の弔い合戦」

天正十年(一五八二年)六月三日。

信長の死から、

一日が経った。

備中・高松城水攻めの陣で、

一人の男が決断した。

二百里(約二百キロ)を、

十日で駆け抜ける。

後世、

「中国大返し」と呼ばれるこの奇跡は──

一人の天才AIと、

一人の冷徹な軍師と、

一人の優しい弟の力によって

成し遂げられた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「まず、やることが三つある」

報せを受けた直後。

秀吉は、

官兵衛と小一郎を

陣幕の前に呼んだ。

泣いていない。

震えていない。

目だけが、

燃えていた。

「一つ。毛利と和睦する。

 二つ。兵を京へ向ける。

 三つ。光秀を討つ」

「……順番に行くぞ」

官兵衛が静かに言った。

「羽柴殿。

 一つ目が最も難しい」

「わかっとる」

「毛利は、まだ

 信長様の死を知らないはずです。

 知られる前に和睦を結ばねばなりません」

「それが俺にはできんのだわ。

 官兵衛、頼めるか」

官兵衛が、

一瞬だけ目を閉じた。

「……承知しました」


その横で、

ナニワが静かに動き始めていた。

《試算開始》

『秀吉様』

「なんだ」

『備中高松から山崎まで、

 最速ルートを計算します』

「頼む」

《進軍ルート分析中》

《地形データ参照》

《雨季の道路状況:不良》

《兵員約三万の移動速度:計算中》

『……聞いてください』

「言え」

『一日の行軍距離を

 通常の一・五倍にする必要があります。

 ただし──』

「ただし?」

『無理に急げば脱落者が出ます。

 重要なのは、速さではなく──

 全員が戦える状態で山崎に着くことです』

秀吉が頷く。

「どうすりゃええ」

『補給地点を事前に確保してください。

 食料、水、草鞋。

 各宿場に手配すれば、

 止まらずに補給できます』

「誰がそれをやるんだ」

小一郎が、

すっと手を挙げた。

「俺がやるがね、兄者」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


小一郎は、

地図を広げた。

「ナニワ、補給地点を教えてくれ」

『はい。

 備中を出て──

 まず沼城、次に龍野、

 姫路で一泊、尼崎で再補給。

 そこから山崎へ』

「姫路は官兵衛どのの城だがね。

 兵糧は確保できる」

「龍野と尼崎は俺が手配する。

 各地の代官に今すぐ使いを出す」

秀吉が目を細めた。

「小一郎……」

「兄者は戦のことだけ考えてれりゃええ。

 兵站は俺に任せてといて」

小一郎が、

まっすぐに兄を見た。

「俺が支えるがね」

「……頼む」

「任せてくれ」


ナニワが続けた。

『さらに──

 兵の士気を保つために

 一つ提案があります』

「なんや」

『信長様の死を、

 兵に正直に伝えてください』

家臣たちが、

ざわめいた。

「それは……士気が下がるのでは」

『逆です』

ナニワが静かに言った。

『隠せば噂が広がる。

 噂は事実より恐ろしい。

 でも──秀吉が正直に言えば、

 兵は「この人についていく」と思います』

秀吉は少し考えた。

「……そだな」

「俺はそういうやり方しか

 できんがね」


全軍を前に、

秀吉は言った。

「信長様が──

 本能寺にて、お討ち死にされた」

静寂。

数秒後。

どよめきが広がった。

「落ち着けッ!」

秀吉の声が、

陣営に響き渡った。

「俺は今から──

 信長様の弔い合戦をする。

 ついてこいとは言わん。

 でも、俺はどんなことがあっても

 京へ向かう」

「信長様のお命に──

 俺の命で、応える」

誰も、

口を開かなかった。

しばらくして──

一人が、立った。

また一人が、立った。

やがて──

三万の兵が、

全員立ち上がった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


同じ頃。

毛利の陣。

官兵衛は、

毛利方の使者・安国寺恵瓊と

向かい合っていた。

「和睦の条件を、

 今すぐ決めてください」

「急ぎすぎではないか」

「急ぎすぎということは、

 ありません」

官兵衛の目が、

鋭く光った。

「今この瞬間にも、

 戦況は動いています。

 決断が遅れれば──

 毛利にとっても、

 よくない結果になります」

恵瓊が眉を上げた。

「何か、あったのか」

官兵衛は、

表情を変えなかった。

「何もありません。

 ただ──」

「時間は、待ってくれません」

恵瓊は、

この男の目を見た。

何かを、隠している。

でも──

何かを隠している人間が、

これほど落ち着いていられるのか。

「……和睦、承知する」


条件がまとまった瞬間、

官兵衛は陣を飛び出した。

「羽柴殿!

 和睦、成立しました!」

「早いがね!」

「信長様の死が

 毛利に届く前でした。

 ギリギリです」

秀吉が官兵衛の肩を叩いた。

「よくやったがね!」

「礼は後で。

 今すぐ動いてください」

「わかっとる。

 ──全軍、出陣ッ!」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


六月四日。

進軍が始まった。

雨が、降っていた。

梅雨の備中の道は、

ぬかるんでいた。

泥が、足に絡みつく。

それでも、兵は走った。


ナニワが、

刻々と情報を更新した。

《現在地:沼城付近》

《予定より三十分早い》

《次の補給地点まで:約二里》

『秀吉、この早さで大丈夫です。

 無理に急がなくていい』

「わかっとるがや。

 でも、足が勝手に動くんだわ」

『……信長様のことを、考えていますか』

「考えとるがね。

 ずっと考えとる」

秀吉は、

雨の中で馬を走らせながら、

続けた。

「殿は俺に、

 たくさんのことを教えてくれた」

「草履取りの俺を、

 一国の主にしてくれた」

「俺の夢を、笑わんかった」

「……そういう方を、

 守れんかった」

声が、

雨に溶けた。


姫路城。

小一郎が先回りして、

兵糧を山積みにして待っていた。

「兄者! メシにしろ!」

「止まっとる暇は──」

「止まれ!」

小一郎が、珍しく怒鳴った。

「食わんと動けんがや!

 三十分だけ休め!

 飯を食って、草鞋を替えて、

 また走れ!」

秀吉は、

弟の顔を見た。

目が、赤かった。

(こいつも、泣いとったんか)

(信長様のことを、泣いとったんか)

「……わかった」

「三十分だわ」

「三十分でええ、兄者」


兵たちが、

次々と飯を掻き込んだ。

草鞋を替えた。

雨の中で、

小一郎が一人一人に声をかけた。

「よう走った。

 もう少しだ」

「信長様の分まで、

 走ってくれ」

「俺たちが走らんと、

 誰が走るんだ」

その声に、

兵たちが立ち上がった。

ナニワが記録した。

《秀長殿の行動により、

 兵の疲労回復率が想定より高い》

《このペースなら、

 山崎到着は予定通り》

『秀吉様』

「なんだ」

『小一郎様は──

 本当に、すごい方です』

「知っとるがね」

秀吉は、

弟の背中を見ながら言った。

「あいつがいるから、

 俺は前だけ向いていられる」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


六月九日。

尼崎。

「ここまで来たら──」

官兵衛が言った。

「羽柴殿、あと一言、

 兵に言ってやってください」

「何を?」

「この戦いに勝てば、

 あなたが天下人になれる、と」

秀吉は、

官兵衛を見た。

「……お前、

 信長様の報せを聞いた時から

 それを考えとったんか」

「はい」

「……えぐい男だがね」

「あなたが天下を取るために

 仕えています。

 当然の計算です」

秀吉は、

しばらく官兵衛を見た。

「……お前には、

 勝てんがや」

「勝てなくて、ちょうどいいのです」


全軍の前で、

秀吉は言った。

「信長様の弔い合戦に、

 勝つ」

「そして──」

「天下を、一つにする」

「信長様が夢見た、

 戦のない世を、

 俺が作る」

「それが──

 俺たちの戦だがね!」

雨の中で、

三万の兵が吼えた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


六月十二日。

摂津・山崎が見えた。

「……着いた」

秀吉が呟いた。

雨は止んでいた。

「ナニワ」

『はい』

「十日かかると思っとったが──」

『九日です。

 予定より一日早い』

「お前のおかげだわ」

『違います。

 官兵衛殿の交渉と、

 小一郎様の兵站と、

 三万の兵の足のおかげです』

「お前もやだがね」

『……私は、計算しただけです』

「計算してくれんかったら、

 こうはならんかっただろ」

ナニワは、

しばらく黙っていた。

『……ありがとうございます』


小一郎が馬を寄せてきた。

「兄者、顔色悪いがね」

「そうか?」

「食うとるか? 寝とるか?」

「走りながら食うて、

 馬の上で寝とったがね」

「それは寝たうちに入らんがね!」

「うるさいがや!」

秀吉は笑った。

こんな時でも、

弟は弟だった。

「小一郎」

「なに」

「……お前がいてくれて、よかったわ」

小一郎が、

少し照れた顔をした。

「当たり前だがや。

 俺は兄者の弟だがね」

官兵衛が、

少し離れたところで

それを見ていた。

そっと、目を細めた。

(羽柴殿には──

 本当に、いい弟がいる)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


その夜。

明智軍の動向が入ってきた。

「光秀は今、

 山崎に布陣しています」

「兵数は?」

「およそ一万六千」

「こちらは三万」

官兵衛が地図を広げた。

「天王山を押さえれば──

 勝てます」

秀吉は、

地図を見つめた。

「明日、決着をつける」

「……信長様」

秀吉は、

空を見上げた。

星が、出ていた。

「見ていてください」

「俺が──

 弔い合戦、勝ってみせます」

ナニワが、

静かに記録した。

《天正十年六月十二日。

 中国大返し、完了。

 備中高松から山崎まで──

 九日間。

 この行軍を支えたのは、

 官兵衛の冷静な戦略と、

 小一郎の温かい兵站と、

 三万の兵の意地だった。

 そして秀吉の、

 信長への誓いだった。

 私は、ただ計算した。

 でも──

 計算を超えたものが、

 この大返しを成し遂げた》

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


九日間。

二百里。

三万の兵。

羽柴秀吉の中国大返しは、

後の世に語り継がれる

奇跡となった。

だが──

当事者たちは、

奇跡とは思っていなかった。

官兵衛は「計算通り」と言い、

小一郎は「当たり前」と言い、

秀吉は「間に合わんかったら

 どうするだて」と言った。

翌日、山崎の戦いが始まる。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【次回、第二十九話】

天正十年六月十三日。

山崎。

天王山の麓に、

二つの軍勢が対峙した。

羽柴秀吉──三万。

明智光秀──一万六千。

勝負は、

わずか数時間で決まった。

第二十九話「天王山に賭けろ──山崎の戦い、光秀散る」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ