第二十八話:「二百里を駆けろ──中国大返し、俺の弔い合戦」
天正十年(一五八二年)六月三日。
信長の死から、
一日が経った。
備中・高松城水攻めの陣で、
一人の男が決断した。
二百里(約二百キロ)を、
十日で駆け抜ける。
後世、
「中国大返し」と呼ばれるこの奇跡は──
一人の天才AIと、
一人の冷徹な軍師と、
一人の優しい弟の力によって
成し遂げられた。
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◇
「まず、やることが三つある」
報せを受けた直後。
秀吉は、
官兵衛と小一郎を
陣幕の前に呼んだ。
泣いていない。
震えていない。
目だけが、
燃えていた。
「一つ。毛利と和睦する。
二つ。兵を京へ向ける。
三つ。光秀を討つ」
「……順番に行くぞ」
官兵衛が静かに言った。
「羽柴殿。
一つ目が最も難しい」
「わかっとる」
「毛利は、まだ
信長様の死を知らないはずです。
知られる前に和睦を結ばねばなりません」
「それが俺にはできんのだわ。
官兵衛、頼めるか」
官兵衛が、
一瞬だけ目を閉じた。
「……承知しました」
◇
その横で、
ナニワが静かに動き始めていた。
《試算開始》
『秀吉様』
「なんだ」
『備中高松から山崎まで、
最速ルートを計算します』
「頼む」
《進軍ルート分析中》
《地形データ参照》
《雨季の道路状況:不良》
《兵員約三万の移動速度:計算中》
『……聞いてください』
「言え」
『一日の行軍距離を
通常の一・五倍にする必要があります。
ただし──』
「ただし?」
『無理に急げば脱落者が出ます。
重要なのは、速さではなく──
全員が戦える状態で山崎に着くことです』
秀吉が頷く。
「どうすりゃええ」
『補給地点を事前に確保してください。
食料、水、草鞋。
各宿場に手配すれば、
止まらずに補給できます』
「誰がそれをやるんだ」
小一郎が、
すっと手を挙げた。
「俺がやるがね、兄者」
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◇
小一郎は、
地図を広げた。
「ナニワ、補給地点を教えてくれ」
『はい。
備中を出て──
まず沼城、次に龍野、
姫路で一泊、尼崎で再補給。
そこから山崎へ』
「姫路は官兵衛どのの城だがね。
兵糧は確保できる」
「龍野と尼崎は俺が手配する。
各地の代官に今すぐ使いを出す」
秀吉が目を細めた。
「小一郎……」
「兄者は戦のことだけ考えてれりゃええ。
兵站は俺に任せてといて」
小一郎が、
まっすぐに兄を見た。
「俺が支えるがね」
「……頼む」
「任せてくれ」
◇
ナニワが続けた。
『さらに──
兵の士気を保つために
一つ提案があります』
「なんや」
『信長様の死を、
兵に正直に伝えてください』
家臣たちが、
ざわめいた。
「それは……士気が下がるのでは」
『逆です』
ナニワが静かに言った。
『隠せば噂が広がる。
噂は事実より恐ろしい。
でも──秀吉が正直に言えば、
兵は「この人についていく」と思います』
秀吉は少し考えた。
「……そだな」
「俺はそういうやり方しか
できんがね」
◇
全軍を前に、
秀吉は言った。
「信長様が──
本能寺にて、お討ち死にされた」
静寂。
数秒後。
どよめきが広がった。
「落ち着けッ!」
秀吉の声が、
陣営に響き渡った。
「俺は今から──
信長様の弔い合戦をする。
ついてこいとは言わん。
でも、俺はどんなことがあっても
京へ向かう」
「信長様のお命に──
俺の命で、応える」
誰も、
口を開かなかった。
しばらくして──
一人が、立った。
また一人が、立った。
やがて──
三万の兵が、
全員立ち上がった。
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◇
同じ頃。
毛利の陣。
官兵衛は、
毛利方の使者・安国寺恵瓊と
向かい合っていた。
「和睦の条件を、
今すぐ決めてください」
「急ぎすぎではないか」
「急ぎすぎということは、
ありません」
官兵衛の目が、
鋭く光った。
「今この瞬間にも、
戦況は動いています。
決断が遅れれば──
毛利にとっても、
よくない結果になります」
恵瓊が眉を上げた。
「何か、あったのか」
官兵衛は、
表情を変えなかった。
「何もありません。
ただ──」
「時間は、待ってくれません」
恵瓊は、
この男の目を見た。
何かを、隠している。
でも──
何かを隠している人間が、
これほど落ち着いていられるのか。
「……和睦、承知する」
◇
条件がまとまった瞬間、
官兵衛は陣を飛び出した。
「羽柴殿!
和睦、成立しました!」
「早いがね!」
「信長様の死が
毛利に届く前でした。
ギリギリです」
秀吉が官兵衛の肩を叩いた。
「よくやったがね!」
「礼は後で。
今すぐ動いてください」
「わかっとる。
──全軍、出陣ッ!」
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◇
六月四日。
進軍が始まった。
雨が、降っていた。
梅雨の備中の道は、
ぬかるんでいた。
泥が、足に絡みつく。
それでも、兵は走った。
◇
ナニワが、
刻々と情報を更新した。
《現在地:沼城付近》
《予定より三十分早い》
《次の補給地点まで:約二里》
『秀吉、この早さで大丈夫です。
無理に急がなくていい』
「わかっとるがや。
でも、足が勝手に動くんだわ」
『……信長様のことを、考えていますか』
「考えとるがね。
ずっと考えとる」
秀吉は、
雨の中で馬を走らせながら、
続けた。
「殿は俺に、
たくさんのことを教えてくれた」
「草履取りの俺を、
一国の主にしてくれた」
「俺の夢を、笑わんかった」
「……そういう方を、
守れんかった」
声が、
雨に溶けた。
◇
姫路城。
小一郎が先回りして、
兵糧を山積みにして待っていた。
「兄者! メシにしろ!」
「止まっとる暇は──」
「止まれ!」
小一郎が、珍しく怒鳴った。
「食わんと動けんがや!
三十分だけ休め!
飯を食って、草鞋を替えて、
また走れ!」
秀吉は、
弟の顔を見た。
目が、赤かった。
(こいつも、泣いとったんか)
(信長様のことを、泣いとったんか)
「……わかった」
「三十分だわ」
「三十分でええ、兄者」
◇
兵たちが、
次々と飯を掻き込んだ。
草鞋を替えた。
雨の中で、
小一郎が一人一人に声をかけた。
「よう走った。
もう少しだ」
「信長様の分まで、
走ってくれ」
「俺たちが走らんと、
誰が走るんだ」
その声に、
兵たちが立ち上がった。
ナニワが記録した。
《秀長殿の行動により、
兵の疲労回復率が想定より高い》
《このペースなら、
山崎到着は予定通り》
『秀吉様』
「なんだ」
『小一郎様は──
本当に、すごい方です』
「知っとるがね」
秀吉は、
弟の背中を見ながら言った。
「あいつがいるから、
俺は前だけ向いていられる」
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◇
六月九日。
尼崎。
「ここまで来たら──」
官兵衛が言った。
「羽柴殿、あと一言、
兵に言ってやってください」
「何を?」
「この戦いに勝てば、
あなたが天下人になれる、と」
秀吉は、
官兵衛を見た。
「……お前、
信長様の報せを聞いた時から
それを考えとったんか」
「はい」
「……えぐい男だがね」
「あなたが天下を取るために
仕えています。
当然の計算です」
秀吉は、
しばらく官兵衛を見た。
「……お前には、
勝てんがや」
「勝てなくて、ちょうどいいのです」
◇
全軍の前で、
秀吉は言った。
「信長様の弔い合戦に、
勝つ」
「そして──」
「天下を、一つにする」
「信長様が夢見た、
戦のない世を、
俺が作る」
「それが──
俺たちの戦だがね!」
雨の中で、
三万の兵が吼えた。
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◇
六月十二日。
摂津・山崎が見えた。
「……着いた」
秀吉が呟いた。
雨は止んでいた。
「ナニワ」
『はい』
「十日かかると思っとったが──」
『九日です。
予定より一日早い』
「お前のおかげだわ」
『違います。
官兵衛殿の交渉と、
小一郎様の兵站と、
三万の兵の足のおかげです』
「お前もやだがね」
『……私は、計算しただけです』
「計算してくれんかったら、
こうはならんかっただろ」
ナニワは、
しばらく黙っていた。
『……ありがとうございます』
◇
小一郎が馬を寄せてきた。
「兄者、顔色悪いがね」
「そうか?」
「食うとるか? 寝とるか?」
「走りながら食うて、
馬の上で寝とったがね」
「それは寝たうちに入らんがね!」
「うるさいがや!」
秀吉は笑った。
こんな時でも、
弟は弟だった。
「小一郎」
「なに」
「……お前がいてくれて、よかったわ」
小一郎が、
少し照れた顔をした。
「当たり前だがや。
俺は兄者の弟だがね」
官兵衛が、
少し離れたところで
それを見ていた。
そっと、目を細めた。
(羽柴殿には──
本当に、いい弟がいる)
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その夜。
明智軍の動向が入ってきた。
「光秀は今、
山崎に布陣しています」
「兵数は?」
「およそ一万六千」
「こちらは三万」
官兵衛が地図を広げた。
「天王山を押さえれば──
勝てます」
秀吉は、
地図を見つめた。
「明日、決着をつける」
「……信長様」
秀吉は、
空を見上げた。
星が、出ていた。
「見ていてください」
「俺が──
弔い合戦、勝ってみせます」
ナニワが、
静かに記録した。
《天正十年六月十二日。
中国大返し、完了。
備中高松から山崎まで──
九日間。
この行軍を支えたのは、
官兵衛の冷静な戦略と、
小一郎の温かい兵站と、
三万の兵の意地だった。
そして秀吉の、
信長への誓いだった。
私は、ただ計算した。
でも──
計算を超えたものが、
この大返しを成し遂げた》
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九日間。
二百里。
三万の兵。
羽柴秀吉の中国大返しは、
後の世に語り継がれる
奇跡となった。
だが──
当事者たちは、
奇跡とは思っていなかった。
官兵衛は「計算通り」と言い、
小一郎は「当たり前」と言い、
秀吉は「間に合わんかったら
どうするだて」と言った。
翌日、山崎の戦いが始まる。
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【次回、第二十九話】
天正十年六月十三日。
山崎。
天王山の麓に、
二つの軍勢が対峙した。
羽柴秀吉──三万。
明智光秀──一万六千。
勝負は、
わずか数時間で決まった。
第二十九話「天王山に賭けろ──山崎の戦い、光秀散る」
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