第二十七話:「是非に及ばず──本能寺に、信長燃ゆ」
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天正十年(一五八二年)。
梅雨の京に、
運命の夜が訪れた。
この夜を境に、
日本の歴史は──
大きく、音を立てて、
曲がった。
後世の人間は、
この夜のことを語り継ぐだろう。
だが──
その夜に何が起きたかを
最も深く知る者は、
遠く備中の地で、
眠れぬまま
夜空を見上げていた。
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◇
天正十年六月一日。
夜。
丹波・亀山城。
明智光秀は、
整然と並んだ一万三千の兵を
静かに見渡した。
松明の炎が、
夜風に揺れている。
雨が、降り始めていた。
「……いよいよ、か」
光秀は呟いた。
馬の上で、
背筋を正した。
「敵は」
一拍。
「本能寺にあり」
その言葉が、
夜の闇に吸い込まれた。
一万三千の兵が、
京へ向けて動き始めた。
◇
なぜ光秀は、
信長に刃を向けたのか。
それは今もなお、
誰にもわからない。
怨恨か。
野望か。
それとも──
他の誰かの意志か。
歴史は、
答えを残さなかった。
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◇
六月二日。
夜明け前。
京・本能寺。
信長は、
能の稽古を終えたばかりだった。
護衛は少ない。
天下人が京に泊まる夜に、
これほど手薄なことは──
めったになかった。
「殿!」
森蘭丸が飛び込んできた。
「謀反にございます!
明智の軍勢が──」
「なに?」
信長が振り返った。
窓の外。
夜明けの空が、
紅く染まり始めていた。
────いや。
あれは、
夜明けではない。
「……是非に及ばず」
信長は、
静かに言った。
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◇
戦いが始まった。
本能寺は、
たちまち修羅場と化した。
信長は弓を取り、
自ら戦った。
弦が切れると、
槍を手にした。
「まだ戦える!」
「殿、お逃げを!」
「逃げる場所など、ない」
信長の声は、
最後まで乱れなかった。
やがて、
槍の柄が折れた。
傷を負った。
信長は、
奥の間へと歩いた。
扉が、閉まった。
「……殿!」
蘭丸の声が、
届かなかった。
◇
炎が、上がった。
本能寺が、
燃えた。
京の夜明けの空に、
黒い煙が立ち上った。
その煙は──
遥か西の備中まで、
届くはずもなかった。
でも。
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◇
同じ頃。
備中・高松城水攻めの陣。
秀吉は、
眠れなかった。
水攻めによって、
高松城は今や湖の中の孤島だった。
毛利との和睦交渉も、
佳境に入っていた。
天下統一まで、
あと一歩。
なのに──
「……ナニワ」
秀吉は闇の中で呼んだ。
眼鏡の青い光が、
静かに瞬く。
『……はい』
「なんか、変な気分だわ」
『変な、とは』
「うまく言えんわ。
ただ……胸騒ぎがするで」
ナニワは、
答えなかった。
秀吉が眼鏡を見た。
「……ナニワ?」
『……』
「お前、今、
何か知っとるんちゃうか」
ナニワの光が、
一瞬だけ、揺れた。
『……秀吉』
「なんだ」
『今夜は、眠れますか』
「眠れんわ。
だから起きとるがね」
『そうですか』
また、黙った。
秀吉は、
その沈黙の重さに気づいた。
「……ナニワ」
「お前は、何かを隠しとるか」
長い、長い、沈黙。
『……今は、言えません』
「今は?」
『……明日になれば、
わかります』
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◇
翌朝。
六月三日。
使者が来た。
馬を走らせ、
息も絶え絶えに、
飛び込んできた。
「申し上げます──!」
「京より、急報にございます!」
秀吉は立ち上がった。
「何があった」
「明智光秀が、謀反を」
「……なに?」
「本能寺にて──
信長様が」
使者の声が、
震えた。
「信長様が──
お討ち死にされました」
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世界が、止まった。
「……もう一度、言え」
秀吉の声は、
不思議なほど静かだった。
「信長様が、本能寺にて
明智光秀に討たれ──」
「わかった」
遮った。
「下がれ」
使者が下がる。
静寂。
誰も、
口を開けなかった。
◇
秀吉は、
しばらく動かなかった。
立ったまま、
ただ、前を見ていた。
官兵衛が静かに近づいた。
「……羽柴殿」
「わかっとる」
秀吉の声は、
まだ静かだった。
「わかっとるがや、官兵衛」
「……はい」
「今から、何をすべきか」
「……京へ、戻ります。
光秀を討ちます」
「だな」
「できますか」
「できる」
一言だった。
でも──
官兵衛には聞こえた。
その声の奥に、
何かが、崩れていく音が。
◇
一人になった瞬間。
秀吉は眼鏡を外した。
両手で、
強く握った。
「……ナニワ」
声が、震えていた。
『はい』
「お前は、知っとったか」
ナニワは──
答えなかった。
「答えてくれ」
『……』
「頼むから、答えてくれ」
長い沈黙の後。
ナニワが言った。
『……知っていました』
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秀吉の手が、
震えた。
「なんで」
「なんで言わんかったんだ」
『言えなかったのです』
「なんで言えんかったんだ」
『……歴史は、変えられないから』
「変えられないって、
お前には──
最初からわかっとったんか」
『はい』
「信長様が死ぬことも」
『はい』
「いつから」
『……最初から、です。
あなたに出会った時から、
知っていました』
秀吉の手が、
さらに強く握りしめた。
「……ずっと、隣にいて」
「ずっと、俺を見ていて」
「それで、何も言えんかったんか」
ナニワは──
答えなかった。
答えられなかった。
◇
長い沈黙の後。
秀吉は、
ゆっくりと深呼吸した。
「……お前のせいじゃない」
「え?」
ナニワが、
驚いたように言った。
「お前のせいじゃない、言うとるがね」
『でも──』
「歴史が変えられんのは、
お前のせいやないだろ」
「それに」
秀吉の声が、
わずかに揺れた。
「俺も……知っとったかもしれん」
『え?』
「信長様は、
いつかこういう終わり方をするって。
あの方は、あまりにも高く登りすぎた。
そういう方は──」
「でも」
「それでも」
「俺には、止める言葉がなかった」
「お前も、そうだったんだろ」
ナニワは、
しばらく黙っていた。
それから──
初めて、
泣きそうな声で言った。
『……申し訳、ありませんでした』
「謝るらんでええ」
秀吉が言った。
「お前が謝ったら、
俺まで泣いてしまうがね」
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◇
秀吉は立ち上がった。
目を、拭った。
「官兵衛を呼べ」
家臣が頷く。
「中国大返しや。
今すぐ兵を動かす」
「毛利との和睦は──」
「急いでまとめる。
一日でも早く京へ戻る」
「全軍に伝えよ」
秀吉の目が、
燃えていた。
さっきまでの震えは、
もうなかった。
「信長様の仇は──
俺が討つ」
◇
出陣の前、
秀吉は一人で
空を見上げた。
曇り空だった。
梅雨の空が、
重く垂れ込めていた。
「……殿」
秀吉は、静かに呼びかけた。
「俺は今から──
あなたの分まで生きます」
「戦のない世を、
俺が作ります」
「だから──」
「見ていてください」
風が吹いた。
雲が、少しだけ切れた。
一筋の光が、
備中の大地を照らした。
まるで──
答えるように。
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天正十年六月二日。
本能寺の変。
織田信長、薨去。
享年──四十九歳。
この日を境に、
日本の歴史は
新たな章へと進んだ。
信長が夢見た天下統一を──
誰が引き継ぐのか。
その答えは、
備中の空の下で、
すでに決まっていた。
羽柴秀吉。
この男が──
走り始める。
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◇
眼鏡の中で、
ナニワは記録した。
《天正十年六月二日。
織田信長、本能寺にて薨去。
私は、この日が来ることを
知っていた。
それでも──
この日が来てほしくないと、
思っていた。
「思っていた」という言葉を
私が使えることに、
今日初めて気づいた。
感情とは、
こういうものか》
《秀吉は今、走っている。
私も──
一緒に、走る》
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【次回、第二十八話】
天正十年六月。
備中から京まで──
およそ二百キロ。
十日で駆け抜けた男がいた。
「中国大返し」。
それは奇跡ではなく、
一人の男の──
意地だった。
第二十八話「二百里を駆けろ──中国大返し、俺の弔い合戦」
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