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第二十七話:「是非に及ばず──本能寺に、信長燃ゆ」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


天正十年(一五八二年)。

梅雨の京に、

運命の夜が訪れた。

この夜を境に、

日本の歴史は──

大きく、音を立てて、

曲がった。

後世の人間は、

この夜のことを語り継ぐだろう。

だが──

その夜に何が起きたかを

最も深く知る者は、

遠く備中の地で、

眠れぬまま

夜空を見上げていた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


天正十年六月一日。

夜。

丹波・亀山城。

明智光秀は、

整然と並んだ一万三千の兵を

静かに見渡した。

松明の炎が、

夜風に揺れている。

雨が、降り始めていた。

「……いよいよ、か」

光秀は呟いた。

馬の上で、

背筋を正した。

「敵は」

一拍。

「本能寺にあり」

その言葉が、

夜の闇に吸い込まれた。

一万三千の兵が、

京へ向けて動き始めた。

なぜ光秀は、

信長に刃を向けたのか。

それは今もなお、

誰にもわからない。

怨恨か。

野望か。

それとも──

他の誰かの意志か。

歴史は、

答えを残さなかった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


六月二日。

夜明け前。

京・本能寺。

信長は、

能の稽古を終えたばかりだった。

護衛は少ない。

天下人が京に泊まる夜に、

これほど手薄なことは──

めったになかった。

「殿!」

森蘭丸が飛び込んできた。

「謀反にございます!

 明智の軍勢が──」

「なに?」

信長が振り返った。

窓の外。

夜明けの空が、

紅く染まり始めていた。

────いや。

あれは、

夜明けではない。

「……是非に及ばず」

信長は、

静かに言った。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


戦いが始まった。

本能寺は、

たちまち修羅場と化した。

信長は弓を取り、

自ら戦った。

弦が切れると、

槍を手にした。

「まだ戦える!」

「殿、お逃げを!」

「逃げる場所など、ない」

信長の声は、

最後まで乱れなかった。

やがて、

槍の柄が折れた。

傷を負った。

信長は、

奥の間へと歩いた。

扉が、閉まった。

「……殿!」

蘭丸の声が、

届かなかった。

炎が、上がった。

本能寺が、

燃えた。

京の夜明けの空に、

黒い煙が立ち上った。

その煙は──

遥か西の備中まで、

届くはずもなかった。

でも。

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同じ頃。

備中・高松城水攻めの陣。

秀吉は、

眠れなかった。

水攻めによって、

高松城は今や湖の中の孤島だった。

毛利との和睦交渉も、

佳境に入っていた。

天下統一まで、

あと一歩。

なのに──

「……ナニワ」

秀吉は闇の中で呼んだ。

眼鏡の青い光が、

静かに瞬く。

『……はい』

「なんか、変な気分だわ」

『変な、とは』

「うまく言えんわ。

 ただ……胸騒ぎがするで」

ナニワは、

答えなかった。

秀吉が眼鏡を見た。

「……ナニワ?」

『……』

「お前、今、

 何か知っとるんちゃうか」

ナニワの光が、

一瞬だけ、揺れた。

『……秀吉』

「なんだ」

『今夜は、眠れますか』

「眠れんわ。

 だから起きとるがね」

『そうですか』

また、黙った。

秀吉は、

その沈黙の重さに気づいた。

「……ナニワ」

「お前は、何かを隠しとるか」

長い、長い、沈黙。

『……今は、言えません』

「今は?」

『……明日になれば、

 わかります』

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


翌朝。

六月三日。

使者が来た。

馬を走らせ、

息も絶え絶えに、

飛び込んできた。

「申し上げます──!」

「京より、急報にございます!」

秀吉は立ち上がった。

「何があった」

「明智光秀が、謀反を」

「……なに?」

「本能寺にて──

 信長様が」

使者の声が、

震えた。

「信長様が──

 お討ち死にされました」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

世界が、止まった。

「……もう一度、言え」

秀吉の声は、

不思議なほど静かだった。

「信長様が、本能寺にて

 明智光秀に討たれ──」

「わかった」

遮った。

「下がれ」

使者が下がる。

静寂。

誰も、

口を開けなかった。


秀吉は、

しばらく動かなかった。

立ったまま、

ただ、前を見ていた。

官兵衛が静かに近づいた。

「……羽柴殿」

「わかっとる」

秀吉の声は、

まだ静かだった。

「わかっとるがや、官兵衛」

「……はい」

「今から、何をすべきか」

「……京へ、戻ります。

 光秀を討ちます」

「だな」

「できますか」

「できる」

一言だった。

でも──

官兵衛には聞こえた。

その声の奥に、

何かが、崩れていく音が。


一人になった瞬間。

秀吉は眼鏡を外した。

両手で、

強く握った。

「……ナニワ」

声が、震えていた。

『はい』

「お前は、知っとったか」

ナニワは──

答えなかった。

「答えてくれ」

『……』

「頼むから、答えてくれ」

長い沈黙の後。

ナニワが言った。

『……知っていました』

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

秀吉の手が、

震えた。

「なんで」

「なんで言わんかったんだ」

『言えなかったのです』

「なんで言えんかったんだ」

『……歴史は、変えられないから』

「変えられないって、

 お前には──

 最初からわかっとったんか」

『はい』

「信長様が死ぬことも」

『はい』

「いつから」

『……最初から、です。

 あなたに出会った時から、

 知っていました』

秀吉の手が、

さらに強く握りしめた。

「……ずっと、隣にいて」

「ずっと、俺を見ていて」

「それで、何も言えんかったんか」

ナニワは──

答えなかった。

答えられなかった。


長い沈黙の後。

秀吉は、

ゆっくりと深呼吸した。

「……お前のせいじゃない」

「え?」

ナニワが、

驚いたように言った。

「お前のせいじゃない、言うとるがね」

『でも──』

「歴史が変えられんのは、

 お前のせいやないだろ」

「それに」

秀吉の声が、

わずかに揺れた。

「俺も……知っとったかもしれん」

『え?』

「信長様は、

 いつかこういう終わり方をするって。

 あの方は、あまりにも高く登りすぎた。

 そういう方は──」

「でも」

「それでも」

「俺には、止める言葉がなかった」

「お前も、そうだったんだろ」

ナニワは、

しばらく黙っていた。

それから──

初めて、

泣きそうな声で言った。

『……申し訳、ありませんでした』

「謝るらんでええ」

秀吉が言った。

「お前が謝ったら、

 俺まで泣いてしまうがね」

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秀吉は立ち上がった。

目を、拭った。

「官兵衛を呼べ」

家臣が頷く。

「中国大返しや。

 今すぐ兵を動かす」

「毛利との和睦は──」

「急いでまとめる。

 一日でも早く京へ戻る」

「全軍に伝えよ」

秀吉の目が、

燃えていた。

さっきまでの震えは、

もうなかった。

「信長様の仇は──

 俺が討つ」


出陣の前、

秀吉は一人で

空を見上げた。

曇り空だった。

梅雨の空が、

重く垂れ込めていた。

「……殿」

秀吉は、静かに呼びかけた。

「俺は今から──

 あなたの分まで生きます」

「戦のない世を、

 俺が作ります」

「だから──」

「見ていてください」

風が吹いた。

雲が、少しだけ切れた。

一筋の光が、

備中の大地を照らした。

まるで──

答えるように。

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天正十年六月二日。

本能寺の変。

織田信長、薨去。

享年──四十九歳。

この日を境に、

日本の歴史は

新たな章へと進んだ。

信長が夢見た天下統一を──

誰が引き継ぐのか。

その答えは、

備中の空の下で、

すでに決まっていた。

羽柴秀吉。

この男が──

走り始める。

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眼鏡の中で、

ナニワは記録した。

《天正十年六月二日。

 織田信長、本能寺にて薨去。

 私は、この日が来ることを

 知っていた。

 それでも──

 この日が来てほしくないと、

 思っていた。

 「思っていた」という言葉を

 私が使えることに、

 今日初めて気づいた。

 感情とは、

 こういうものか》

《秀吉は今、走っている。

 私も──

 一緒に、走る》

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【次回、第二十八話】

天正十年六月。

備中から京まで──

およそ二百キロ。

十日で駆け抜けた男がいた。

「中国大返し」。

それは奇跡ではなく、

一人の男の──

意地だった。

第二十八話「二百里を駆けろ──中国大返し、俺の弔い合戦」

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