表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

26/44

第二十五話:「鳥取城の哭き声──渇え殺しと、俺の限界」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

風が、運んでくる。

城の方から、

風が運んでくる。

それが何の匂いか、

秀吉にはわかった。

でも──

わかりたくなかった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

天正九年(一五八一年)夏。

因幡国・鳥取城。

秀吉は、

この戦いの前に

一つの「策」を打った。

「鳥取周辺の米を、

 全部買い占めろ」

「高値でも構わん。

 とにかく、全部だ」

家臣たちが顔を見合わせた。

「それは……何のために」

「城の中に、入れさせんためだわ」

秀吉は静かに言った。

「籠城する前に補給路を断てば、

 最初から兵糧がない状態で

 戦いが始まる」

官兵衛が、

静かに頷いた。

「完璧な策です」

「……褒めるな」

秀吉が遮った。

「完璧な策だ、とは言うな」

官兵衛が、

黙った。


包囲が始まった。

最初の一ヶ月は、

まだ声が聞こえた。

「出てこい羽柴!」

「卑怯者め!」

それが──

二ヶ月後には、

静かになった。

「ナニワ」

秀吉は小声で呼んだ。

『はい』

「城の中は……

 今、どうなっとる」

ナニワは少し間を置いた。

《城内情報:入手困難》

『……脱走者の証言によれば』

「言わんでええわ」

秀吉が遮った。

「……やっぱり、聞かせてくれ」

ナニワが、

静かに続けた。

『草が、なくなったそうです。

 城内の草を、

 食べ尽くしたと』

「……」

『次は、革を煮ているようです』

「それも尽きたら」

ナニワは、

答えなかった。

答えられなかった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


三ヶ月が過ぎた頃。

城から、

声が聞こえなくなった。

怒声も。

悲鳴も。

ただ──

時々、

風に乗って届くものがあった。

「……子どもの、泣き声か」

秀吉は呟いた。

「ナニワ」

『はい』

「俺は今──

 何をしとるんだがね」

ナニワは答えなかった。

答えを知っていたが、

言えなかった。

官兵衛が来た。

「羽柴殿」

「なんや」

「毛利の援軍は、来ません。

 あと少しで開城するはずです」

「……そうか」

「もうすぐ、終わります」

「終わる」

秀吉は繰り返した。

「終わる、か」

「……なあ、官兵衛」

「はい」

「この戦い──

 俺は勝てば勝つほど、

 何かを失っとる気がするがね」

官兵衛は、

しばらく黙っていた。

それから言った。

「……はい」

「そうだと思います」

「お前も、そう思うか」

「はい。

 ですが──」

官兵衛がまっすぐに言った。

「失うことを知っている人間だけが、

 本当の意味で

 天下人になれると、

 私は思っています」

秀吉は、

何も言えなかった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


十月。

鳥取城から、

使者が来た。

やせ細った若い兵士が、

膝をついた。

「城主・吉川経家様より

 申し伝えます」

「城兵と領民の命を、

 お助けください」

「その代わりに──

 経家様が、自刃なさいます」

秀吉は、

目を閉じた。

(また、だ)

(また、城主が自分の命で

 家臣を助けようとしとる)

(なんで──)

(なんで、こんなことに

 なるんだがね)

「……城兵と領民は、全員助ける」

秀吉は言った。

「それだけは、約束する」

使者が深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

その顔は、

骨と皮だけだった。


十月二十五日。

吉川経家、自刃。

享年──三十九歳。

その辞世の句が届いた時、

秀吉は受け取れなかった。

「……読んでくれ、ナニワ」

『はい』

ナニワが静かに読んだ。

『「武士の

  道と知りつつ

  三とせまで

  待ちかねてける

  鳥取の城」』

「……三年、待ったんか」

『はい。

 経家殿は三年間、

 この城を守り続けました』

「三年間……」

秀吉の声が、

低くなった。

「それだけ守った男が──

 こんな死に方をするんか」

『……はい』

「なんでだがね」

返事は、

なかった。


「ナニワ」

秀吉が言った。

「俺は今──

 限界だわ」

『……限界?』

「こういう戦い方が、

 もうできんくなってきた」

「三木の時も、つらかった。

 でも、今回は──」

秀吉は手を見た。

「俺の手で、

 やっとることだがね」

「米を買い占めたのは俺や。

 包囲を命じたのは俺や。

 長治どのを死なせたのも、

 経家どのを死なせたのも──」

「全部、俺や」

ナニワは、

しばらく黙っていた。

それから、静かに言った。

『秀吉』

「なんだ」

『あなたが「限界だ」と言える人間でいることが、

 今の私には──

 一番大切に思えます』

「どういう意味だ」

『限界を感じなくなった時が──

 本当に、怖い時だから』

秀吉は、

ナニワを見た。

「……お前は、

 俺がそうなると思っとるんか」

ナニワは、

答えなかった。

長い、沈黙があった。

『……わかりません』

「でも──」

『でも、今のあなたは

 まだ、限界を感じている』

『だから、今は──

 まだ、大丈夫です』

秀吉は、

空を見た。

鳥取の秋空は、

透き通るほど高かった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


城門が開いた日。

秀吉は城に入らなかった。

三木城の時は、

中に入った。

でも今回は──

「入れん」

と、思った。

「ナニワ」

『はい』

「記録してくれ」

『はい』

「俺が入れんかったことも、

 ちゃんと記録してくれ」

『……はい』

「それが、俺の正直なところやから」

ナニワは、

静かに記録した。

《天正九年十月。

 鳥取城、落城。

 吉川経家、享年三十九、自刃。

 秀吉は城に入らなかった。

 理由を問うと、

 秀吉は答えなかった。

 ただ、城の方を、

 しばらく見ていた》

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

天正九年(一五八一年)秋。

鳥取城、落城。

羽柴秀吉は、

この日──

「限界」という言葉を

初めて、口にした。

でも──

まだ、終わらなかった。

天下への道は、

まだ、続いていた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【次回、第二十六話】

天正十年(一五八二年)。

備中国・高松城。

今度は──水だった。

城を、

水で、

沈める。

「高松城の水攻め」。

そして──

その陣中に、

信長からの報せが届く。

第二十六話「水没する城と、届かなかった報せ──高松、そして本能寺へ」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ