第二十五話:「鳥取城の哭き声──渇え殺しと、俺の限界」
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風が、運んでくる。
城の方から、
風が運んでくる。
それが何の匂いか、
秀吉にはわかった。
でも──
わかりたくなかった。
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天正九年(一五八一年)夏。
因幡国・鳥取城。
秀吉は、
この戦いの前に
一つの「策」を打った。
「鳥取周辺の米を、
全部買い占めろ」
「高値でも構わん。
とにかく、全部だ」
家臣たちが顔を見合わせた。
「それは……何のために」
「城の中に、入れさせんためだわ」
秀吉は静かに言った。
「籠城する前に補給路を断てば、
最初から兵糧がない状態で
戦いが始まる」
官兵衛が、
静かに頷いた。
「完璧な策です」
「……褒めるな」
秀吉が遮った。
「完璧な策だ、とは言うな」
官兵衛が、
黙った。
◇
包囲が始まった。
最初の一ヶ月は、
まだ声が聞こえた。
「出てこい羽柴!」
「卑怯者め!」
それが──
二ヶ月後には、
静かになった。
「ナニワ」
秀吉は小声で呼んだ。
『はい』
「城の中は……
今、どうなっとる」
ナニワは少し間を置いた。
《城内情報:入手困難》
『……脱走者の証言によれば』
「言わんでええわ」
秀吉が遮った。
「……やっぱり、聞かせてくれ」
ナニワが、
静かに続けた。
『草が、なくなったそうです。
城内の草を、
食べ尽くしたと』
「……」
『次は、革を煮ているようです』
「それも尽きたら」
ナニワは、
答えなかった。
答えられなかった。
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◇
三ヶ月が過ぎた頃。
城から、
声が聞こえなくなった。
怒声も。
悲鳴も。
ただ──
時々、
風に乗って届くものがあった。
「……子どもの、泣き声か」
秀吉は呟いた。
「ナニワ」
『はい』
「俺は今──
何をしとるんだがね」
ナニワは答えなかった。
答えを知っていたが、
言えなかった。
◇
官兵衛が来た。
「羽柴殿」
「なんや」
「毛利の援軍は、来ません。
あと少しで開城するはずです」
「……そうか」
「もうすぐ、終わります」
「終わる」
秀吉は繰り返した。
「終わる、か」
「……なあ、官兵衛」
「はい」
「この戦い──
俺は勝てば勝つほど、
何かを失っとる気がするがね」
官兵衛は、
しばらく黙っていた。
それから言った。
「……はい」
「そうだと思います」
「お前も、そう思うか」
「はい。
ですが──」
官兵衛がまっすぐに言った。
「失うことを知っている人間だけが、
本当の意味で
天下人になれると、
私は思っています」
秀吉は、
何も言えなかった。
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◇
十月。
鳥取城から、
使者が来た。
やせ細った若い兵士が、
膝をついた。
「城主・吉川経家様より
申し伝えます」
「城兵と領民の命を、
お助けください」
「その代わりに──
経家様が、自刃なさいます」
秀吉は、
目を閉じた。
(また、だ)
(また、城主が自分の命で
家臣を助けようとしとる)
(なんで──)
(なんで、こんなことに
なるんだがね)
「……城兵と領民は、全員助ける」
秀吉は言った。
「それだけは、約束する」
使者が深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その顔は、
骨と皮だけだった。
◇
十月二十五日。
吉川経家、自刃。
享年──三十九歳。
その辞世の句が届いた時、
秀吉は受け取れなかった。
「……読んでくれ、ナニワ」
『はい』
ナニワが静かに読んだ。
『「武士の
道と知りつつ
三とせまで
待ちかねてける
鳥取の城」』
「……三年、待ったんか」
『はい。
経家殿は三年間、
この城を守り続けました』
「三年間……」
秀吉の声が、
低くなった。
「それだけ守った男が──
こんな死に方をするんか」
『……はい』
「なんでだがね」
返事は、
なかった。
◇
「ナニワ」
秀吉が言った。
「俺は今──
限界だわ」
『……限界?』
「こういう戦い方が、
もうできんくなってきた」
「三木の時も、つらかった。
でも、今回は──」
秀吉は手を見た。
「俺の手で、
やっとることだがね」
「米を買い占めたのは俺や。
包囲を命じたのは俺や。
長治どのを死なせたのも、
経家どのを死なせたのも──」
「全部、俺や」
ナニワは、
しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
『秀吉』
「なんだ」
『あなたが「限界だ」と言える人間でいることが、
今の私には──
一番大切に思えます』
「どういう意味だ」
『限界を感じなくなった時が──
本当に、怖い時だから』
秀吉は、
ナニワを見た。
「……お前は、
俺がそうなると思っとるんか」
ナニワは、
答えなかった。
長い、沈黙があった。
『……わかりません』
「でも──」
『でも、今のあなたは
まだ、限界を感じている』
『だから、今は──
まだ、大丈夫です』
秀吉は、
空を見た。
鳥取の秋空は、
透き通るほど高かった。
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◇
城門が開いた日。
秀吉は城に入らなかった。
三木城の時は、
中に入った。
でも今回は──
「入れん」
と、思った。
「ナニワ」
『はい』
「記録してくれ」
『はい』
「俺が入れんかったことも、
ちゃんと記録してくれ」
『……はい』
「それが、俺の正直なところやから」
ナニワは、
静かに記録した。
《天正九年十月。
鳥取城、落城。
吉川経家、享年三十九、自刃。
秀吉は城に入らなかった。
理由を問うと、
秀吉は答えなかった。
ただ、城の方を、
しばらく見ていた》
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天正九年(一五八一年)秋。
鳥取城、落城。
羽柴秀吉は、
この日──
「限界」という言葉を
初めて、口にした。
でも──
まだ、終わらなかった。
天下への道は、
まだ、続いていた。
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【次回、第二十六話】
天正十年(一五八二年)。
備中国・高松城。
今度は──水だった。
城を、
水で、
沈める。
「高松城の水攻め」。
そして──
その陣中に、
信長からの報せが届く。
第二十六話「水没する城と、届かなかった報せ──高松、そして本能寺へ」
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