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第二十四話:「兵糧なき城──三木の干し殺しと、俺の苦悩」

静かだった。

戦場なのに、

静かだった。

剣の音も、

鉄砲の音も、

馬の嘶きも──

何も、なかった。

あるのは、

ただ。

「……腹が、減った」

という、

声だけだった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

天正六年(一五七八年)三月。

播磨国・三木城。

別所長治が、

謀反を起こした。

秀吉に問われた時、

長治は言ったという。

「織田に従うよりも、

 滅びる方を選ぶ」

二十五歳の、

若い城主だった。


「兵糧を断て」

秀吉は命じた。

「正面からぶつかるな。

 ただ、包囲し続けろ」

家臣たちが頷く。

「干し殺し」と呼ばれる戦法。

相手の兵糧を断ち、

飢えさせる。

「ナニワ」

秀吉は小声で言った。

「これで勝てるか」

『……勝てます。

 ただし』

「時間がかかる」

『はい。

 非常に、時間がかかります』

「どんくらいだ」

ナニワは一拍置いた。

『……二年近く』

秀吉は目を閉じた。

「二年か」

「その間、城の中の人間は──」

『飢えます』

「わかっとる」

声が、沈んだ。

「わかっとるがや」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


一ヶ月が過ぎた。

三木城からの声が、

少しずつ、変わっていった。

最初は、

怒声だった。

「出てこい、羽柴!

 正面から戦え!」

それが、

三ヶ月後には──

「……米を、くれ」

になった。


秀吉の陣営に、

三木城から脱走した農民が

連れてこられた。

骨と皮だけになった男が、

震えながら言った。

「城の中は……

 もう食うものが、ない」

「草を食い、

 革を煮て食い……

 それも尽きて」

男が、崩れ落ちた。

「子どもが、死んでいく……

 子どもが……」

秀吉は、

それ以上聞けなかった。

「……食い物を与えてやれ」

家臣に命じると、

立ち上がって、

外に出た。


「ナニワ」

夜空を見上げながら、

秀吉は言った。

「俺は……正しいことを

 しとるんか?」

ナニワは、

すぐには答えなかった。

風が吹いた。

遠くに、

三木城の灯りが見えた。

『……秀吉様』

「なんだ」

『あなたは今、

 何を求めていますか』

「正解だがね」

『正解?』

「俺がしとることが

 正しいのか、正しくないのか。

 それを、誰かに決めてほしい」

ナニワは、

しばらく黙っていた。

『……私には、決められません』

「そうだろな」

『ただ』

「ただ?」

『あなたが苦しんでいることは──

 正しいと思います』

「苦しむことが、正しい?」

『苦しまない人間が

 この命令を出すより、

 苦しみながら出している方が──

 まだ、いい』

秀吉は、

しばらく黙っていた。

「……慰めになってないがね」

『慰めるつもりは、ありませんでした』

「そかよ」

秀吉は、

力なく笑った。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


半年が過ぎた。

一年が過ぎた。

三木城の灯りが、

少しずつ、少しずつ、

減っていった。

秀吉は毎夜、

その灯りを数えた。

数えながら、

眠れない夜を過ごした。

「官兵衛」

ある夜、

秀吉は参謀を呼んだ。

「はい」

「お前は……

 これで正しいと思うか」

官兵衛は、

少し黙った。

「正しい、とは

 何を基準にするかによります」

「天下統一のためには、正しい。

 人の命の重さで考えれば、

 正しくない」

「答えになっとらんがね」

「答えが出ない問いです」

官兵衛が、

まっすぐに秀吉を見た。

「ですが──」

「なんだ」

「この苦しみを忘れないでください」

秀吉が眉を上げた。

「忘れるな?」

「はい。

 天下を取った後も、

 この夜のことを覚えていれば──

 同じことを、繰り返さないかもしれない」

秀吉は、

しばらく官兵衛を見た。

「……お前は、怖い男だがね」

「そうですか」

「褒めとるがや」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


天正八年(一五八〇年)一月。

三木城から、

使者が来た。

「別所長治様より

 申し伝えます」

「──城兵と領民の命を助けるならば、

 我らは開城する」

秀吉は、

静かに答えた。

「城兵と領民は、

 助ける」

「……ただし」

「長治どのには、

 切腹をお願いしたい」

使者が頭を垂れた。

「……御意に、ございます」


一月十七日。

別所長治は、

妻と弟とともに、

静かに自刃した。

享年──二十九歳。

その辞世の句が、

秀吉のもとに届いた。

「今はただ

 恨みもあらじ

 諸人の

 命にかはる

 我が身と思えば」

秀吉は、

その紙を、

しばらく見ていた。

「……恨みもあらじ、か」

声が、

震えた。

「この年で……

 こんな句が詠めるんか」

紙を、

そっと折りたたんだ。

「ナニワ」

『はい』

「長治どのは──

 俺を恨んどらんと言っとる」

『……はい』

「でも俺は」

秀吉の声が、

途切れた。

「俺は、長治どのを

 恨んどらんかったがね」

「ただ、邪魔やった。

 天下への道の、

 邪魔やった。

 それだけだがね」

「それだけで──

 二十九の命が、消えた」

ナニワは、

何も言わなかった。

言葉が、なかった。

ただ──

青い光が、

ゆっくりと揺れた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


三木城が開いた日。

秀吉は一人で、

城の中へ入った。

誰も連れていかなかった。

城の中は、

静寂だった。

飢えて倒れた者の痕跡が、

いたるところにあった。

秀吉は、

ゆっくりと歩いた。

何も言わず、

ただ、歩いた。

「……ナニワ」

『はい』

「記録してくれ」

『何を?』

「この景色を。

 俺が見たものを。

 全部」

『……はい』

「お前が記録してくれるなら、

 俺が忘れても

 残っとるから」

ナニワは、

静かに言った。

『忘れません。

 あなたも、忘れないでください』

「……わかっとる」

秀吉は、

城の中心に立ち、

しばらく、

動かなかった。

春の風が、

廃城となった三木城を

静かに吹き抜けていった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

天正八年(一五八〇年)一月。

三木城、落城。

別所長治、自刃。

「三木の干し殺し」と呼ばれた

この包囲戦は──

羽柴秀吉の名を

天下に知らしめた。

だが秀吉は、

生涯この戦いを

自慢しなかった。

誰かに問われると、

ただ、黙った。

それが──

この男の、答えだった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

《補記:

 天正八年一月十七日。

 別所長治、享年二十九。

 辞世「今はただ 恨みもあらじ 諸人の

    命にかはる 我が身と思えば」

 この句を読んだ秀吉の顔を、

 私は記録できなかった。

 あまりにも、複雑すぎて》


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【次回、第二十五話】

天正九年(一五八一年)。

因幡国・鳥取城。

今度は──

水ではなく、

兵糧だけが武器になる。

「渇え殺し」ではなく、

「干し殺し」の再来。

だが、

この戦いには──

前とは違う、

絶望があった。

第二十五話「鳥取城の哭き声──渇え殺しと、俺の限界」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

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