第二十四話:「兵糧なき城──三木の干し殺しと、俺の苦悩」
静かだった。
戦場なのに、
静かだった。
剣の音も、
鉄砲の音も、
馬の嘶きも──
何も、なかった。
あるのは、
ただ。
「……腹が、減った」
という、
声だけだった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
天正六年(一五七八年)三月。
播磨国・三木城。
別所長治が、
謀反を起こした。
秀吉に問われた時、
長治は言ったという。
「織田に従うよりも、
滅びる方を選ぶ」
二十五歳の、
若い城主だった。
◇
「兵糧を断て」
秀吉は命じた。
「正面からぶつかるな。
ただ、包囲し続けろ」
家臣たちが頷く。
「干し殺し」と呼ばれる戦法。
相手の兵糧を断ち、
飢えさせる。
「ナニワ」
秀吉は小声で言った。
「これで勝てるか」
『……勝てます。
ただし』
「時間がかかる」
『はい。
非常に、時間がかかります』
「どんくらいだ」
ナニワは一拍置いた。
『……二年近く』
秀吉は目を閉じた。
「二年か」
「その間、城の中の人間は──」
『飢えます』
「わかっとる」
声が、沈んだ。
「わかっとるがや」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◇
一ヶ月が過ぎた。
三木城からの声が、
少しずつ、変わっていった。
最初は、
怒声だった。
「出てこい、羽柴!
正面から戦え!」
それが、
三ヶ月後には──
「……米を、くれ」
になった。
◇
秀吉の陣営に、
三木城から脱走した農民が
連れてこられた。
骨と皮だけになった男が、
震えながら言った。
「城の中は……
もう食うものが、ない」
「草を食い、
革を煮て食い……
それも尽きて」
男が、崩れ落ちた。
「子どもが、死んでいく……
子どもが……」
秀吉は、
それ以上聞けなかった。
「……食い物を与えてやれ」
家臣に命じると、
立ち上がって、
外に出た。
◇
「ナニワ」
夜空を見上げながら、
秀吉は言った。
「俺は……正しいことを
しとるんか?」
ナニワは、
すぐには答えなかった。
風が吹いた。
遠くに、
三木城の灯りが見えた。
『……秀吉様』
「なんだ」
『あなたは今、
何を求めていますか』
「正解だがね」
『正解?』
「俺がしとることが
正しいのか、正しくないのか。
それを、誰かに決めてほしい」
ナニワは、
しばらく黙っていた。
『……私には、決められません』
「そうだろな」
『ただ』
「ただ?」
『あなたが苦しんでいることは──
正しいと思います』
「苦しむことが、正しい?」
『苦しまない人間が
この命令を出すより、
苦しみながら出している方が──
まだ、いい』
秀吉は、
しばらく黙っていた。
「……慰めになってないがね」
『慰めるつもりは、ありませんでした』
「そかよ」
秀吉は、
力なく笑った。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◇
半年が過ぎた。
一年が過ぎた。
三木城の灯りが、
少しずつ、少しずつ、
減っていった。
秀吉は毎夜、
その灯りを数えた。
数えながら、
眠れない夜を過ごした。
「官兵衛」
ある夜、
秀吉は参謀を呼んだ。
「はい」
「お前は……
これで正しいと思うか」
官兵衛は、
少し黙った。
「正しい、とは
何を基準にするかによります」
「天下統一のためには、正しい。
人の命の重さで考えれば、
正しくない」
「答えになっとらんがね」
「答えが出ない問いです」
官兵衛が、
まっすぐに秀吉を見た。
「ですが──」
「なんだ」
「この苦しみを忘れないでください」
秀吉が眉を上げた。
「忘れるな?」
「はい。
天下を取った後も、
この夜のことを覚えていれば──
同じことを、繰り返さないかもしれない」
秀吉は、
しばらく官兵衛を見た。
「……お前は、怖い男だがね」
「そうですか」
「褒めとるがや」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◇
天正八年(一五八〇年)一月。
三木城から、
使者が来た。
「別所長治様より
申し伝えます」
「──城兵と領民の命を助けるならば、
我らは開城する」
秀吉は、
静かに答えた。
「城兵と領民は、
助ける」
「……ただし」
「長治どのには、
切腹をお願いしたい」
使者が頭を垂れた。
「……御意に、ございます」
◇
一月十七日。
別所長治は、
妻と弟とともに、
静かに自刃した。
享年──二十九歳。
その辞世の句が、
秀吉のもとに届いた。
「今はただ
恨みもあらじ
諸人の
命にかはる
我が身と思えば」
秀吉は、
その紙を、
しばらく見ていた。
「……恨みもあらじ、か」
声が、
震えた。
「この年で……
こんな句が詠めるんか」
紙を、
そっと折りたたんだ。
「ナニワ」
『はい』
「長治どのは──
俺を恨んどらんと言っとる」
『……はい』
「でも俺は」
秀吉の声が、
途切れた。
「俺は、長治どのを
恨んどらんかったがね」
「ただ、邪魔やった。
天下への道の、
邪魔やった。
それだけだがね」
「それだけで──
二十九の命が、消えた」
ナニワは、
何も言わなかった。
言葉が、なかった。
ただ──
青い光が、
ゆっくりと揺れた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◇
三木城が開いた日。
秀吉は一人で、
城の中へ入った。
誰も連れていかなかった。
城の中は、
静寂だった。
飢えて倒れた者の痕跡が、
いたるところにあった。
秀吉は、
ゆっくりと歩いた。
何も言わず、
ただ、歩いた。
「……ナニワ」
『はい』
「記録してくれ」
『何を?』
「この景色を。
俺が見たものを。
全部」
『……はい』
「お前が記録してくれるなら、
俺が忘れても
残っとるから」
ナニワは、
静かに言った。
『忘れません。
あなたも、忘れないでください』
「……わかっとる」
秀吉は、
城の中心に立ち、
しばらく、
動かなかった。
春の風が、
廃城となった三木城を
静かに吹き抜けていった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
天正八年(一五八〇年)一月。
三木城、落城。
別所長治、自刃。
「三木の干し殺し」と呼ばれた
この包囲戦は──
羽柴秀吉の名を
天下に知らしめた。
だが秀吉は、
生涯この戦いを
自慢しなかった。
誰かに問われると、
ただ、黙った。
それが──
この男の、答えだった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
《補記:
天正八年一月十七日。
別所長治、享年二十九。
辞世「今はただ 恨みもあらじ 諸人の
命にかはる 我が身と思えば」
この句を読んだ秀吉の顔を、
私は記録できなかった。
あまりにも、複雑すぎて》
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【次回、第二十五話】
天正九年(一五八一年)。
因幡国・鳥取城。
今度は──
水ではなく、
兵糧だけが武器になる。
「渇え殺し」ではなく、
「干し殺し」の再来。
だが、
この戦いには──
前とは違う、
絶望があった。
第二十五話「鳥取城の哭き声──渇え殺しと、俺の限界」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




