第二十三話:「半兵衛よ、逝くな──有岡城の闇と、友の死」
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「官兵衛が──
捕まった」
その言葉が、
秀吉の耳に届いた瞬間、
時間が、止まった。
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天正六年(一五七八年)秋。
荒木村重が、
謀反を起こした。
信長への反旗。
有岡城に籠城した村重を、
秀吉は官兵衛に言った。
「説得してきてくれ」
「承知しました」
官兵衛は、
一人で有岡城へ向かった。
それが──
最後の姿だった。
◇
「羽柴殿」
使いの者が、
血相を変えて飛び込んできた。
「官兵衛殿が、
村重に捕らえられました」
「……なんやて」
「説得に向かった官兵衛殿を、
村重が幽閉したと」
秀吉は、
立ち上がれなかった。
「官兵衛は……
生きとるか」
「それが……
消息が、わかりません」
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◇
「ナニワ」
その夜、秀吉は呟いた。
「官兵衛は生きとるか」
ナニワは、
すぐには答えなかった。
『……わかりません』
「わからんのか」
『有岡城の中の情報は、
私には届きません。
ただ──』
「ただ?」
『あの男が、
そう簡単に死ぬとは
思えません』
秀吉は目を閉じた。
「……俺も、そう思いたいがね」
「思いたいけど」
声が、
かすかに震えた。
「地下牢に入れられとったら、
どうなるかわからんがや」
『……秀吉』
「なんだ」
『官兵衛殿は、
生きています』
「根拠は?」
ナニワは少し間を置いた。
『根拠は、ありません。
でも──私がそう、
思います』
秀吉は、
眼鏡を見た。
「計算機が「思う」か」
『……おかしいですか』
「おかしくないがね」
秀吉は静かに言った。
「俺も、そう思う」
◇
だが──
さらに悪い報せが来た。
荒木村重が信長に讒言した。
「黒田官兵衛は、
はじめから我が方に寝返る気だった」
「証拠に──
あれほど長く戻らないではないか」
信長の顔色が変わった。
「黒田官兵衛の息子──
長政を、処刑する」
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◇
播磨・三木城攻めの陣中。
竹中半兵衛は、
その知らせを聞いた。
「……長政を、処刑」
半兵衛の側近が言った。
「殿下、いかがなさいますか」
半兵衛は、
静かに立ち上がった。
その体は、
すでにひどく痩せていた。
咳が、止まらなかった。
それでも──
「私が、信長様のもとへ参る」
「半兵衛様、御体が」
「構わない」
半兵衛は、
静かに言った。
「官兵衛は裏切っていない。
私が、保証する」
◇
半兵衛は、
信長の前に立った。
病の体で、
それでも背筋を伸ばして。
「信長様」
「竹中半兵衛か。
何用だ」
「黒田長政の命を、
お助けください」
信長が目を細めた。
「官兵衛が裏切った。
ならば人質の命は」
「官兵衛は裏切っていません」
半兵衛は、
まっすぐに言った。
「あの男が、
荒木村重ごときに
魂を売るような人間では
ないことを、
私が保証します」
「保証できる根拠は」
「私が──
官兵衛を知っているからです」
信長は、
しばらく半兵衛を見た。
それから、
「……長政の処分は、保留とする」
と、言った。
半兵衛は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その時、
信長が静かに言った。
「竹中。
お前の体は、もう長くないな」
半兵衛は、
答えなかった。
◇
陣に戻った半兵衛を、
秀吉が迎えた。
「半兵衛!
なんで一人で行ったんだ!」
「羽柴殿が行けば、
感情的になるでしょう」
「そんなことは」
「なりますよ」
半兵衛が、
穏やかに笑った。
「あなたは、官兵衛のことになると
冷静でいられない。
だから、私が行きました」
秀吉は、
何も言えなかった。
「半兵衛……」
「長政の命は、つながりました。
あとは官兵衛が
戻ってくるのを待つだけです」
「……お前は」
「なんですか」
秀吉は声を絞り出した。
「お前は、本当に……
いつもそうだわ」
「そうですか」
半兵衛は、
また笑った。
「私は、ただ
計算通りに動いているだけです」
「嘘つくな」
秀吉が言った。
「計算で、
あんな病の体で
信長様の前に立てるか」
半兵衛は、
答えなかった。
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◇
天正七年(一五七九年)六月。
三木城攻めの陣中で、
竹中半兵衛は倒れた。
「半兵衛様……!」
側近が駆け寄る。
半兵衛は、
薄く目を開けた。
「……羽柴殿を、
呼んでください」
◇
秀吉が駆けつけた時、
半兵衛はまだ息があった。
「……来てくれましたか」
「当たり前だわ!」
秀吉は枕元に座った。
「医者は? 薬は?」
「もう、いいです」
半兵衛が静かに言った。
「羽柴殿」
「なんや」
「官兵衛が戻ってきたら──
二人で、天下を取ってください」
「……そんなこと、今言わんといて」
「今しか、言えないので」
半兵衛が、
かすかに笑った。
「あなたは──
本当に、面白い人でした」
「最初に会った時、
三顧の礼で迎えに来て、
名古屋弁で「頼むがや」と言って」
秀吉は、
唇を噛んだ。
「それが……忘れられない」
「半兵衛」
「はい」
「死ぬなよ」
「……」
「頼むから、死ぬなよ」
半兵衛は、
それには答えなかった。
ただ、
静かに目を細めた。
「羽柴殿が「頼む」と言うのを、
また聞けてよかった」
「それで……十分です」
その言葉を最後に、
竹中半兵衛は、
目を閉じた。
享年──三十六歳。
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◇
「……ナニワ」
秀吉の声が、
震えていた。
「半兵衛が、逝った」
ナニワは、
答えなかった。
「なんで」
「なんで半兵衛が死なんといかんのだ」
「あいつはまだ三十六だがね」
「俺より全然若いがや」
「こんなに頭が切れて、
こんなに優しくて、
なんであいつが──」
秀吉の声が、
途切れた。
ナニワは、
しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
『……私には、止められませんでした』
「お前のせいやない」
『でも──』
『半兵衛殿が体を壊していくのを、
私は知っていました。
でも言いませんでした。
言ったら、あなたが悲しむから』
「……」
『それが、正しかったのか
今でもわかりません』
秀吉は、
何も言えなかった。
ただ、
夜の陣営で、
一人、泣いた。
天下人になってから
初めて──
声を上げて、
泣いた。
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◇
その年の秋。
有岡城が落ちた。
地下牢から救出された官兵衛は──
やせ細り、
足が不自由になっていた。
一年間の幽閉が、
この男の体を蝕んでいた。
秀吉が駆け寄った。
「官兵衛!」
官兵衛が顔を上げた。
その目は、
まだ、鋭かった。
「……羽柴殿」
「生きとったがね!」
「はい」
「よかった……
ほんまによかったがや」
官兵衛は、
秀吉の顔を見た。
「……泣いているのですか」
「泣いてないがね」
「泣いています」
「泣いてないがや!」
官兵衛が、
かすかに笑った。
「半兵衛は──」
秀吉の顔が、
一瞬だけ歪んだ。
「……逝った」
「そうですか」
官兵衛は、
静かに目を閉じた。
「……あの男らしい」
「らしいわ。
最後まで計算通りに、
お前の息子を守って逝きやがった」
「……長政が」
「生きとる。
半兵衛が守った」
官兵衛の目に、
何かが光った。
泣かない男が、
泣きそうになっていた。
「……半兵衛」
「官兵衛」
秀吉が言った。
「二人で天下を取ろう。
それが半兵衛との約束だがや」
官兵衛は、
一拍置いて、
「……御意に」
と、答えた。
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天正七年(一五七九年)。
竹中半兵衛、没。
黒田官兵衛、解放。
この年、
羽柴秀吉は二人の参謀を
同時に失い、
同時に取り戻した。
そして──
眼鏡の奥で、
ナニワは静かに記録した。
《補記:
竹中半兵衛という人間を、
私は──好きだった》
《計算式では説明できない「好き」を、
私は初めて、知った》
青い光が、
夜の中で揺れていた。
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【次回、第二十四話】
天正八年(一五八〇年)。
三木城。
兵糧を断ち、
ただ待つ。
「干し殺し」と呼ばれる、
最も残酷な戦が始まる。
第二十四話「兵糧なき城──三木の干し殺しと、俺の苦悩」
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