第十九話「越後の龍、南へ──手取川の敗走」
その男は、
神ではない。
人間だ。
でも──
越後の山から南へ向かう
その軍勢を見た者は、
みな、同じことを言った。
「毘沙門天が、降りてきた」
と。
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天正五年(一五七七年)九月。
上杉謙信、
加賀へ南下。
兵、およそ二万。
その報せが安土に届いた瞬間、
信長の顔色が変わった。
◇
柴田勝家が総大将として
軍を率いる。
秀吉も、その一員として
北へ向かった。
馬上でナニワが言った。
『……秀吉様』
「なんや」
『謙信様は──』
「「様」をつけるなや、
今から戦う相手やぞ」
『失礼しました。
謙信は──』
ナニワが少し間を置いた。
『私の記録の中で、
最も評価が難しい人物の一人です』
「なんでだ」
『勝つための戦をしない、
義のために戦う、
生涯に一度も背いたことがない──
そういう人間は、
計算式に当てはまらないのです』
秀吉は少し黙った。
「……計算できん人間が、
一番怖いがね」
『はい』
『だから──』
ナニワの声が、
珍しく、硬かった。
『この戦は、
気をつけてください』
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◇
加賀の陣営。
秀吉は柴田勝家の前に立った。
「鬼柴田」と呼ばれる男。
その顔は、
今日も厳しかった。
「羽柴。
明日、謙信と正面からぶつかる」
「……お待ちください、柴田殿」
「何だ」
「謙信は今、
攻め上がってきたばかりで気が充実しています。
正面から受ければ、
こちらが不利です」
「臆したか」
勝家の目が細くなった。
秀吉は怯まなかった。
「臆したのではありません。
勝てる戦をすべきと言っています」
「貴様には関係ない」
「あります」
「俺の配下の者が死ぬなら、
大いに関係ありますがね」
◇
陣営に緊張が走った。
勝家と秀吉は、
互いに目を逸らさなかった。
「羽柴秀吉」
勝家がゆっくりと言った。
「お前は、怖いのか」
「怖いです」
秀吉は即答した。
「怖くない人間は馬鹿だがね。
謙信が怖くない武将は、
死ぬか、会ったことがないかの
どちらかだと思います」
「……」
「ですが俺が言っているのは
そういうことではない。
怖いからこそ、
正面からぶつかることが
愚策だと言っています」
勝家が、
低い声で言った。
「引っ込め、秀吉。
余計な口を出すな」
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◇
その夜。
秀吉は天幕の中で、
ナニワに言った。
「……俺、明日引くわ」
『え?』
「この戦、勝てん。
俺の兵だけでも下がる」
『……それは』
ナニワが少し躊躇した。
『柴田殿との関係が』
「知っとる。
後で信長様に何を言われるかも
わかっとる」
秀吉は静かに続けた。
「でも俺の兵を、
勝てない戦で死なせたない。
それだけや」
『……』
「ナニワ、俺は間違えとるんか?」
ナニワは、
しばらく黙っていた。
それから言った。
『……正しいとも、間違っているとも、
私には言えません』
『ただ──』
『あなたが自分の兵を守ろうとしていることは、
間違いなく本当のことです』
秀吉は目を閉じた。
「それだけで、ええわ」
◇
翌朝。
羽柴軍は、
静かに陣を引いた。
後ろから、
勝家の怒号が飛んだ。
「羽柴ァ! どこへ行くッ!」
秀吉は振り返らなかった。
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◇
そして──
手取川の戦いは、
起きた。
秀吉が陣を引いた、
その翌日。
上杉謙信の軍勢が、
手取川を渡ってきた柴田軍に
一気に襲いかかった。
川を渡る途中の兵は、
逃げることもできない。
流れに飲まれる者。
踏み潰される者。
織田軍は、
壊滅した。
◇
報せを聞いた時、
秀吉は馬を止めた。
「……死者は」
「千を超えると」
「……」
「勝家殿は?」
「ご無事で、ご撤退されました」
「そか」
秀吉は、
少しだけ目を閉じた。
(俺が引いたことで、
助かった命もある)
(でも──
俺がいれば、
止められたかもしれない命もある)
どちらが正しかったのか、
今は、わからなかった。
「ナニワ」
『はい』
「謙信は……どんだけ強かったんだ」
ナニワが静かに答えた。
『手取川の戦いは、
一方的でした。
謙信の用兵は──
私の計算式では、
説明がつかない部分があります』
「計算式で説明がつかない?」
『はい。
地形の読み方、
兵の動かし方、
タイミングのすべてが──
まるで、未来を知っているかのようです』
秀吉は、
思わず苦く笑った。
「まるで、俺みたいだがね」
『…………』
「……ナニワ、今、何か言いかけたやろ」
『いいえ、何も』
「絶対嘘やがね」
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◇
帰陣後。
信長からの使いが来た。
秀吉は覚悟して対面した。
信長は、
最初は黙って秀吉を見ていた。
長い、沈黙。
そして──
「なぜ引いた」
「勝てない戦だったからです」
「勝家の命令を無視したな」
「はい」
「処罰を受ける覚悟はあるか」
「あります」
信長は、
また黙った。
それから──
「謙信と戦って、お前の兵が全滅したとして、
その方がよかったと思うか」
「……思いません」
「ならば──」
信長が、
ふっと息を吐いた。
「今回は許す」
秀吉は顔を上げた。
信長が続けた。
「ただし、覚えておけ。
逃げる理由と引く理由は違う。
お前は今日、引いた。
それを一生、忘れるな」
「……はっ」
「謙信は──強いか」
「天下無双です」
信長が、
窓の外を見た。
「余もいずれ、
あの男と決着をつけねばならん」
その目は、
遠くを見ていた。
◇
陣を出た後。
秀吉は空を見上げた。
「……ナニワ」
『はい』
「謙信は、この先どうなる」
ナニワは──
珍しく、
すぐに答えた。
『……来年の春、
突然倒れます』
「えっ」
秀吉が振り返った。
眼鏡の奥の青い光が、
静かに瞬いていた。
『これだけは、言えます。
謙信様は──』
また、「様」をつけていた。
『来年の春に、
その生涯を終えます』
秀吉は、
しばらく言葉が出なかった。
「……それは」
「確かか?」
『はい』
「なんで今、言うた」
『……あなたに、
今のうちに知っておいてほしかったから』
「今のうちに?」
『謙信様が生きている間に──
一度だけでも、
直接見ておいてほしかった』
「……なんでだ」
『あの方は』
ナニワが、静かに言った。
『天下の趨勢に関係なく、
ただ義のために生きた人間です。
そういう人間が、
この時代に一人いたということを──
あなたに覚えていてほしかったのです』
秀吉は、
しばらく空を見ていた。
風が、吹いた。
越後の方から来る、
冷たい風だった。
「……わかった」
「覚えとくわ」
「上杉謙信という男が、
この時代に生きていたことを」
眼鏡の奥で、
青い光が優しく瞬いた。
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天正五年(一五七七年)秋。
手取川の敗戦。
羽柴秀吉は、
戦場から引いた。
勝ったわけでも、
負けたわけでもない。
でも──
「引く勇気」を持った日として、
秀吉はこの日を
生涯、忘れなかった。
そしてその冬、
秀吉は一人で北の空を見ながら、
まだ見ぬ越後の龍に、
心の中で手を合わせた。
【次回、第二十話】
天正五年(一五七七年)十月。
大和国・信貴山城。
爆発した。
城が──
爆発した。
松永久秀、最期の日。
そしてその爆発の中に、
「最初の実験体」があった。
第二十話「爆ぜる茶釜──松永久秀と、最初の声」




