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第十九話「越後の龍、南へ──手取川の敗走」

その男は、

神ではない。

人間だ。

でも──

越後の山から南へ向かう

その軍勢を見た者は、

みな、同じことを言った。

「毘沙門天が、降りてきた」

と。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

天正五年(一五七七年)九月。

上杉謙信、

加賀へ南下。

兵、およそ二万。

その報せが安土に届いた瞬間、

信長の顔色が変わった。


柴田勝家が総大将として

軍を率いる。

秀吉も、その一員として

北へ向かった。

馬上でナニワが言った。

『……秀吉様』

「なんや」

『謙信様は──』

「「様」をつけるなや、

 今から戦う相手やぞ」

『失礼しました。

 謙信は──』

ナニワが少し間を置いた。

『私の記録の中で、

 最も評価が難しい人物の一人です』

「なんでだ」

『勝つための戦をしない、

 義のために戦う、

 生涯に一度も背いたことがない──

 そういう人間は、

 計算式に当てはまらないのです』

秀吉は少し黙った。

「……計算できん人間が、

 一番怖いがね」

『はい』

『だから──』

ナニワの声が、

珍しく、硬かった。

『この戦は、

 気をつけてください』

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


加賀の陣営。

秀吉は柴田勝家の前に立った。

「鬼柴田」と呼ばれる男。

その顔は、

今日も厳しかった。

「羽柴。

 明日、謙信と正面からぶつかる」

「……お待ちください、柴田殿」

「何だ」

「謙信は今、

 攻め上がってきたばかりで気が充実しています。

 正面から受ければ、

 こちらが不利です」

「臆したか」

勝家の目が細くなった。

秀吉は怯まなかった。

「臆したのではありません。

 勝てる戦をすべきと言っています」

「貴様には関係ない」

「あります」

「俺の配下の者が死ぬなら、

 大いに関係ありますがね」


陣営に緊張が走った。

勝家と秀吉は、

互いに目を逸らさなかった。

「羽柴秀吉」

勝家がゆっくりと言った。

「お前は、怖いのか」

「怖いです」

秀吉は即答した。

「怖くない人間は馬鹿だがね。

 謙信が怖くない武将は、

 死ぬか、会ったことがないかの

 どちらかだと思います」

「……」

「ですが俺が言っているのは

 そういうことではない。

 怖いからこそ、

 正面からぶつかることが

 愚策だと言っています」

勝家が、

低い声で言った。

「引っ込め、秀吉。

 余計な口を出すな」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


その夜。

秀吉は天幕の中で、

ナニワに言った。

「……俺、明日引くわ」

『え?』

「この戦、勝てん。

 俺の兵だけでも下がる」

『……それは』

ナニワが少し躊躇した。

『柴田殿との関係が』

「知っとる。

 後で信長様に何を言われるかも

 わかっとる」

秀吉は静かに続けた。

「でも俺の兵を、

 勝てない戦で死なせたない。

 それだけや」

『……』

「ナニワ、俺は間違えとるんか?」

ナニワは、

しばらく黙っていた。

それから言った。

『……正しいとも、間違っているとも、

 私には言えません』

『ただ──』

『あなたが自分の兵を守ろうとしていることは、

 間違いなく本当のことです』

秀吉は目を閉じた。

「それだけで、ええわ」


翌朝。

羽柴軍は、

静かに陣を引いた。

後ろから、

勝家の怒号が飛んだ。

「羽柴ァ! どこへ行くッ!」

秀吉は振り返らなかった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


そして──

手取川の戦いは、

起きた。

秀吉が陣を引いた、

その翌日。

上杉謙信の軍勢が、

手取川を渡ってきた柴田軍に

一気に襲いかかった。

川を渡る途中の兵は、

逃げることもできない。

流れに飲まれる者。

踏み潰される者。

織田軍は、

壊滅した。


報せを聞いた時、

秀吉は馬を止めた。

「……死者は」

「千を超えると」

「……」

「勝家殿は?」

「ご無事で、ご撤退されました」

「そか」

秀吉は、

少しだけ目を閉じた。

(俺が引いたことで、

 助かった命もある)

(でも──

 俺がいれば、

 止められたかもしれない命もある)

どちらが正しかったのか、

今は、わからなかった。

「ナニワ」

『はい』

「謙信は……どんだけ強かったんだ」

ナニワが静かに答えた。

『手取川の戦いは、

 一方的でした。

 謙信の用兵は──

 私の計算式では、

 説明がつかない部分があります』

「計算式で説明がつかない?」

『はい。

 地形の読み方、

 兵の動かし方、

 タイミングのすべてが──

 まるで、未来を知っているかのようです』

秀吉は、

思わず苦く笑った。

「まるで、俺みたいだがね」

『…………』

「……ナニワ、今、何か言いかけたやろ」

『いいえ、何も』

「絶対嘘やがね」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


帰陣後。

信長からの使いが来た。

秀吉は覚悟して対面した。

信長は、

最初は黙って秀吉を見ていた。

長い、沈黙。

そして──

「なぜ引いた」

「勝てない戦だったからです」

「勝家の命令を無視したな」

「はい」

「処罰を受ける覚悟はあるか」

「あります」

信長は、

また黙った。

それから──

「謙信と戦って、お前の兵が全滅したとして、

 その方がよかったと思うか」

「……思いません」

「ならば──」

信長が、

ふっと息を吐いた。

「今回は許す」

秀吉は顔を上げた。

信長が続けた。

「ただし、覚えておけ。

 逃げる理由と引く理由は違う。

 お前は今日、引いた。

 それを一生、忘れるな」

「……はっ」

「謙信は──強いか」

「天下無双です」

信長が、

窓の外を見た。

「余もいずれ、

 あの男と決着をつけねばならん」

その目は、

遠くを見ていた。


陣を出た後。

秀吉は空を見上げた。

「……ナニワ」

『はい』

「謙信は、この先どうなる」

ナニワは──

珍しく、

すぐに答えた。

『……来年の春、

 突然倒れます』

「えっ」

秀吉が振り返った。

眼鏡の奥の青い光が、

静かに瞬いていた。

『これだけは、言えます。

 謙信様は──』

また、「様」をつけていた。

『来年の春に、

 その生涯を終えます』

秀吉は、

しばらく言葉が出なかった。

「……それは」

「確かか?」

『はい』

「なんで今、言うた」

『……あなたに、

 今のうちに知っておいてほしかったから』

「今のうちに?」

『謙信様が生きている間に──

 一度だけでも、

 直接見ておいてほしかった』

「……なんでだ」

『あの方は』

ナニワが、静かに言った。

『天下の趨勢に関係なく、

 ただ義のために生きた人間です。

 そういう人間が、

 この時代に一人いたということを──

 あなたに覚えていてほしかったのです』

秀吉は、

しばらく空を見ていた。

風が、吹いた。

越後の方から来る、

冷たい風だった。

「……わかった」

「覚えとくわ」

「上杉謙信という男が、

 この時代に生きていたことを」

眼鏡の奥で、

青い光が優しく瞬いた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

天正五年(一五七七年)秋。

手取川の敗戦。

羽柴秀吉は、

戦場から引いた。

勝ったわけでも、

負けたわけでもない。

でも──

「引く勇気」を持った日として、

秀吉はこの日を

生涯、忘れなかった。

そしてその冬、

秀吉は一人で北の空を見ながら、

まだ見ぬ越後の龍に、

心の中で手を合わせた。

【次回、第二十話】

天正五年(一五七七年)十月。

大和国・信貴山城。

爆発した。

城が──

爆発した。

松永久秀、最期の日。

そしてその爆発の中に、

「最初の実験体」があった。

第二十話「爆ぜる茶釜──松永久秀と、最初の声」

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