第十八話:「安土の光──変わりゆく男と、変わらぬ俺」
でかい。
でかすぎる。
「……なんだこれ」
天正四年(一五七六年)春。
琵琶湖のほとり、
安土山。
そこに、
信長が建て始めた城を見て、
羽柴秀吉は
しばらく言葉が出なかった。
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石垣が、山を覆っている。
職人たちが蟻のように動き、
巨大な石を運んでいる。
まだ完成すらしていないのに、
その規模は──
「七層って」
秀吉は呟いた。
「天主が七層……」
『地下一階・地上六階。
最上層には金箔の瓦が葺かれる予定です』
「金箔!?」
『城全体に施されます』
「……どんな金持ちだがね」
秀吉は思わず素で言った。
『キャッスルの概念を根本から──』
「なんやそれ」
『あ、失礼しました。
城の概念を、根本から
覆す建築です』
「キャッスルて何」
『城のことです』
「それやったら最初から城て言やぁ」
◇
安土城の普請奉行は、
丹羽長秀が担っていた。
秀吉が挨拶に行くと、
長秀は疲れた顔で笑った。
「羽柴殿。
驚いただろ」
「驚いたどころじゃないですわ。
殿はいったい何を作りたいんです」
「さあな」
長秀がため息をついた。
「俺にもわからん。
でも、殿の命令だ。
やるしかない」
「完成はいつですか」
「三年後……いや、
もっとかかるかもしれん」
「そんなに」
「でかすぎるんだ、なにもかも」
長秀が苦笑した。
「羽柴殿、あの方は──
本当に、人間か?」
冗談めかして言ったが、
その目は、
冗談ではなかった。
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◇
夜。
秀吉は琵琶湖のほとりに
一人で座っていた。
湖面に、
月が映っていた。
「ナニワ」
『はい』
「信長様は……変わってきとるか」
少し、間があった。
『……何と比べてですか』
「俺が最初に仕えた頃の、
殿と比べて」
『…………』
『変わっています』
秀吉は黙って続きを待った。
『最初は──
革新的で、合理的で、
でも人間らしい怒りや笑いがある方でした。
でも今の信長様は』
「今は?」
『……孤独が、深くなっています』
「孤独?」
秀吉は少し驚いた。
「あれだけの城を作って、
天下に名を知られて、
孤独なんか」
『だからこそ、
孤独なのかもしれません』
ナニワが静かに続けた。
『高くなるほど、
周りに同じ目線の人間がいなくなる。
誰も本音で言えなくなる。
誰も、笑いながら叱れなくなる』
「……」
「そら……寂しいわ」
『はい』
『あなたには、小一郎様がいます。
でも信長様には──
今、誰がいますか』
秀吉は答えなかった。
湖面の月が、
揺れていた。
◇
翌日。
信長に呼ばれた。
「秀吉」
「はっ」
「この城に、
余を祀る社を作る」
秀吉は、
一瞬、聞き間違えたかと思った。
「……社、でございますか」
「そうだ。
余の誕生日を祭日とする。
家臣は余を神として拝め」
「…………」
(神として、拝め)
(この方は今──
何を言っとる)
秀吉は平静を保とうとしたが、
心の中で、
何かが揺れた。
「……ご命令とあらば」
「そうだ、ご命令だ」
信長がまっすぐに秀吉を見た。
「お前は今、
何を思っている」
「何も思っておりません」
「嘘をつくな」
信長が低く言った。
「お前の顔は、正直だ」
◇
秀吉は、
少しの間だけ黙った。
それから、
「……殿は、神になりたいんですか」
と、聞いた。
家臣が息を呑む気配がした。
信長は──
笑った。
「神になる必要はない。
神だと思わせれば、
人は従う」
「それは……」
「政治だ」
信長が言った。
「人は見えないものを信じる。
ならば、余が神であるという
「見えないもの」を作ればいい。
それだけだ」
秀吉は、
言葉が出なかった。
(この方は……本当に)
(怖い方や)
《信長の宗教政策:
自身への神格化により、
精神的な求心力を確保する狙いがあったと
分析されています》
『……秀吉』
ナニワが耳元で囁いた。
『信長様は今、
天下統一の最終局面に向けて
あらゆる手段を使っています。
これも、その一つです』
(わかっとる)
(わかっとるがや)
(それでも──
なんか、怖いわ)
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◇
帰り道。
小一郎が待っていた。
「兄者、顔色悪いがや」
「そうか?」
「何かあったんか?」
「……殿がな」
秀吉は少し考えてから、
言った。
「殿が、神になるって言っとった」
小一郎が目を丸くした。
「……は?」
「神様だがね。
拝めって」
「……えっと」
小一郎が少し言葉に詰まった。
「それは……どう受け取ったらええんや」
「俺もわからんがや」
秀吉は苦笑した。
「ただ」
「信長様は変わっとるけど、
この方についていくという気持ちは
変わらんがね、俺は」
「……なんでや」
「まだ、信じとるから」
「何を?」
「この方が、本当に
戦のない世を作ろうとしとるって」
小一郎は、
少し黙った。
それから、静かに言った。
「……兄者は、優しいな」
「違うがや。
ただの意地っ張りだがね」
秀吉は笑った。
小一郎も、つられて笑った。
◇
その夜。
秀吉は眼鏡を外して、
両手で包んだ。
「ナニワ」
『はい』
「信長様は──
この先、どうなる」
ナニワは、
答えなかった。
「……言えんのか」
『言えません』
「そか」
秀吉はため息をついた。
「まあ、ええわ」
「知りたいような、
知りたくないような、
そういうことってあるがね」
『……あなたは』
ナニワが、
静かに言った。
『知っていて、
それでも進む人間だと、
私は思っています』
「どういう意味だ」
『もし私が未来を全部話しても、
あなたはきっと止まらない。
それがあなたです』
秀吉は少しだけ笑った。
「……褒めとるんか、けなしとるんか」
『褒めています』
「そうか」
秀吉は眼鏡を掛け直した。
琵琶湖の夜風が、
そっと頬を撫でた。
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天正四年(一五七六年)。
安土城、建設中。
信長は、
人間から何か別のものに
なろうとしていた。
それが何なのか、
秀吉にはまだわからなかった。
でも──
「俺は俺のままでええわ」
と、秀吉は思った。
天下人になっても。
関白になっても。
百姓の倅のまま、
突き進む。
それが──
羽柴秀吉だった。
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【次回、第十九話】
天正五年(一五七七年)九月。
加賀国・手取川。
上杉謙信が、
ついに動いた。
「越後の龍」と「織田の猿」が
初めてぶつかる。
第十九話「越後の龍、南へ──手取川に吼える」
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