第十七話:「越前の血煙──信長の意志と、俺の限界」
天正三年(一五七五年)八月。
長篠の戦いから、
まだ三ヶ月も経っていなかった。
「秀吉」
信長が、地図を指で叩いた。
「越前へ行け」
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越前国。
かつて朝倉氏が治めていたこの地は、
今や一向一揆の残党に
占拠されていた。
信長は一度、
越前を平定している。
それでも──
「なぜ、また」
秀吉は馬上で呟いた。
「長島も越前も、
一度は静まったはずやのに」
『……一向一揆は、
信仰が根にあります。
武力で制圧しても、
その根を断たない限り
繰り返されます』
「そやな」
秀吉は遠くを見た。
越前の山々が、
夕陽に赤く染まっていた。
(信長様が今回命じたのは、
ただの制圧やない)
(……わかっとる)
◇
越前に入った瞬間、
秀吉はわかった。
これは、戦ではない。
「……」
村が、燃えていた。
田畑が、荒れていた。
道端に──
「ナニワ、見るな」
秀吉は眼鏡を手で覆いそうになって、
やめた。
自分が見るべきものを、
ナニワに隠すことはできない。
《記録中》
ナニワは、ただそう言った。
◇
信長の命令は、
明確だった。
「根切りにせよ」
一向一揆に関わった者は、
老若男女問わず。
農民も。
僧侶も。
子供も。
「……本当に、やるんか」
秀吉の声が、
震えた。
家臣の一人が言った。
「殿下、これは殿のご命令で」
「わかっとる」
「わかっとるがね」
わかっとる。
それでも──
「ナニワ」
秀吉は小声で呼んだ。
『……はい』
「これは、必要なことか」
ナニワは、すぐには答えなかった。
長い、沈黙があった。
『……私には、答えられません』
「なんでだ」
『正当化できる理屈はあります。
一向一揆は何度も蜂起してきた。
根を断たなければ止まらない。
信長様の論理は──間違っていない』
「だけど?」
『そうだけど』
ナニワが、珍しく秀吉の言葉を使った。
『これが「正しい」とは、言えません。
私には、言えません』
秀吉は歯を食いしばった。
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◇
夜。
焚き火の前で、
秀吉は一人座っていた。
小一郎が隣に来て、
何も言わずに座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……兄者」
「なんや」
「俺たちは、
何のために戦っとるんだろな」
秀吉は答えなかった。
「天下統一のため、
って言うのは簡単だがね。
でも……」
小一郎が、
火を見つめながら続けた。
「こんな光景を見て、
それでも「正しい」と思えるんか」
「……思えるか、思えんか、
は関係ないがね」
秀吉が低く言った。
「俺は信長様に仕えると決めた。
仕えると決めた日から、
殿の命令を実行する覚悟を持った。
それだけだ」
「それだけ、か」
「それだけだ」
でも、
声が震えていた。
小一郎は何も言わなかった。
ただ、兄の隣に
座り続けていた。
◇
《記録:
越前一向一揆の制圧における
死者数──推定数万》
《信長の越前統治方針:
徹底的な殲滅による再蜂起の防止》
ナニワは、
その数字を記録しながら、
処理の端で、
何かが引っかかっていた。
(これを記録することは、できる)
(でも)
(これを「正しかった」と記録することは──
私には、できない)
ナニワは、
初めて、
記録に注釈を加えた。
《補記:
この判断の是非については、
私(NANIWA)には評価できない。
ただ、この光景を見た秀吉の表情を、
私は忘れない》
それが──
ナニワが初めて、
「感情」に近いものを
記録に残した瞬間だった。
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◇
翌朝。
信長が来た。
「秀吉」
「……はっ」
「お前の顔は、何を語っている」
秀吉は顔を上げた。
信長の目が、
まっすぐに自分を見ていた。
誤魔化せない目だった。
「……殿に問うてもよろしいか」
「申せ」
「なぜ、ここまで
せんといかんのですか」
信長は、
少し黙った。
それから、
静かに言った。
「余は、戦のない世を作りたい」
「……え」
「戦のない世を作るためには、
まず戦で決着をつけるしかない。
中途半端にやれば、
また繰り返される。
ならば──」
信長が、遠くを見た。
「徹底的にやるしかない」
秀吉は、
言葉が出なかった。
(この方は……)
(戦のない世を、作りたいんか)
(俺と同じことを、思っとるんか)
「……でも、やり方が」
「余はお前の意見など聞いていない」
信長が遮った。
「ただ、お前の顔が見たかっただけだ」
「は?」
「お前がそういう顔をできる人間だと、
確認したかった」
秀吉は、わけがわからなかった。
信長が、わずかに口角を上げた。
「そういう顔をできないやつは、
天下人になれない。
覚えておけ、禿鼠」
それだけ言って、
信長は去っていった。
◇
「……なんだったんだがね、今の」
秀吉は呆然と呟いた。
『……おそらく』
ナニワが静かに言った。
『信長様なりの、
あなたへの言葉だったと思います』
「どういう意味や」
『「お前は、これを見て平気な顔をするな。
それがお前の価値だ」
……そういう意味ではないでしょうか』
秀吉はしばらく黙っていた。
それから、
「……わかるようで、わからんがね、
あの方は」
と、ため息をついた。
『それが、信長様です』
秀吉は空を見上げた。
越前の空は、
どこまでも高かった。
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◇
帰陣の日。
秀吉は馬を進めながら、
ずっと黙っていた。
小一郎が追いついてきた。
「兄者。なんか言えや」
「なんも言うことはないわ」
「そんな顔して言うな」
「……」
「兄者は、これからも信長様についていくんか?」
秀吉は少しの間、
黙った。
「ついていく」
「……なんで?」
「なんでだろな」
秀吉は遠くを見た。
「この方についていけば、
戦のない世ができるかもしれん。
そう信じとる。
だもんで……信じとる限り、ついていく」
「それで、こんな光景も
見続けるんか」
「……見続ける」
「つらないか」
「つらいがね」
秀吉は、きっぱりと言った。
「でも、目を逸らしたら
俺はただの武将や。
ちゃんと見て、ちゃんと感じて、
それでもついていく。
それが俺のやり方だがね」
小一郎は、
しばらく黙って兄を見ていた。
それから、静かに言った。
「……兄者は強いな」
「強うないがや」
「いや、強い」
小一郎がまっすぐに言った。
「俺は、そういう兄者が
好きやがね」
秀吉は、
何も言えなかった。
ただ、前を向いて、
馬を進めた。
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天正三年(一五七五年)秋。
越前、平定。
一向一揆、壊滅。
羽柴秀吉は、
この地で何かを失い、
何かを得た。
何を失ったのかは、
まだわからなかった。
何を得たのかも、
まだわからなかった。
ただ──
眼鏡の奥で、
青い光が静かに瞬いていた。
《補記終了》
《次の任務を、待機します》
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