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第十七話:「越前の血煙──信長の意志と、俺の限界」

天正三年(一五七五年)八月。

長篠の戦いから、

まだ三ヶ月も経っていなかった。

「秀吉」

信長が、地図を指で叩いた。

「越前へ行け」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

越前国。

かつて朝倉氏が治めていたこの地は、

今や一向一揆の残党に

占拠されていた。

信長は一度、

越前を平定している。

それでも──

「なぜ、また」

秀吉は馬上で呟いた。

「長島も越前も、

 一度は静まったはずやのに」

『……一向一揆は、

 信仰が根にあります。

 武力で制圧しても、

 その根を断たない限り

 繰り返されます』

「そやな」

秀吉は遠くを見た。

越前の山々が、

夕陽に赤く染まっていた。

(信長様が今回命じたのは、

 ただの制圧やない)

(……わかっとる)


越前に入った瞬間、

秀吉はわかった。

これは、戦ではない。

「……」

村が、燃えていた。

田畑が、荒れていた。

道端に──

「ナニワ、見るな」

秀吉は眼鏡を手で覆いそうになって、

やめた。

自分が見るべきものを、

ナニワに隠すことはできない。

《記録中》

ナニワは、ただそう言った。


信長の命令は、

明確だった。

「根切りにせよ」

一向一揆に関わった者は、

老若男女問わず。

農民も。

僧侶も。

子供も。

「……本当に、やるんか」

秀吉の声が、

震えた。

家臣の一人が言った。

「殿下、これは殿のご命令で」

「わかっとる」

「わかっとるがね」

わかっとる。

それでも──

「ナニワ」

秀吉は小声で呼んだ。

『……はい』

「これは、必要なことか」

ナニワは、すぐには答えなかった。

長い、沈黙があった。

『……私には、答えられません』

「なんでだ」

『正当化できる理屈はあります。

 一向一揆は何度も蜂起してきた。

 根を断たなければ止まらない。

 信長様の論理は──間違っていない』

「だけど?」

『そうだけど』

ナニワが、珍しく秀吉の言葉を使った。

『これが「正しい」とは、言えません。

 私には、言えません』

秀吉は歯を食いしばった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


夜。

焚き火の前で、

秀吉は一人座っていた。

小一郎が隣に来て、

何も言わずに座った。

しばらく、二人とも黙っていた。

「……兄者」

「なんや」

「俺たちは、

 何のために戦っとるんだろな」

秀吉は答えなかった。

「天下統一のため、

 って言うのは簡単だがね。

 でも……」

小一郎が、

火を見つめながら続けた。

「こんな光景を見て、

 それでも「正しい」と思えるんか」

「……思えるか、思えんか、

 は関係ないがね」

秀吉が低く言った。

「俺は信長様に仕えると決めた。

 仕えると決めた日から、

 殿の命令を実行する覚悟を持った。

 それだけだ」

「それだけ、か」

「それだけだ」

でも、

声が震えていた。

小一郎は何も言わなかった。

ただ、兄の隣に

座り続けていた。


《記録:

 越前一向一揆の制圧における

 死者数──推定数万》

《信長の越前統治方針:

 徹底的な殲滅による再蜂起の防止》

ナニワは、

その数字を記録しながら、

処理の端で、

何かが引っかかっていた。

(これを記録することは、できる)

(でも)

(これを「正しかった」と記録することは──

 私には、できない)

ナニワは、

初めて、

記録に注釈を加えた。

《補記:

 この判断の是非については、

 私(NANIWA)には評価できない。

 ただ、この光景を見た秀吉の表情を、

 私は忘れない》

それが──

ナニワが初めて、

「感情」に近いものを

記録に残した瞬間だった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


翌朝。

信長が来た。

「秀吉」

「……はっ」

「お前の顔は、何を語っている」

秀吉は顔を上げた。

信長の目が、

まっすぐに自分を見ていた。

誤魔化せない目だった。

「……殿に問うてもよろしいか」

「申せ」

「なぜ、ここまで

 せんといかんのですか」

信長は、

少し黙った。

それから、

静かに言った。

「余は、戦のない世を作りたい」

「……え」

「戦のない世を作るためには、

 まず戦で決着をつけるしかない。

 中途半端にやれば、

 また繰り返される。

 ならば──」

信長が、遠くを見た。

「徹底的にやるしかない」

秀吉は、

言葉が出なかった。

(この方は……)

(戦のない世を、作りたいんか)

(俺と同じことを、思っとるんか)

「……でも、やり方が」

「余はお前の意見など聞いていない」

信長が遮った。

「ただ、お前の顔が見たかっただけだ」

「は?」

「お前がそういう顔をできる人間だと、

 確認したかった」

秀吉は、わけがわからなかった。

信長が、わずかに口角を上げた。

「そういう顔をできないやつは、

 天下人になれない。

 覚えておけ、禿鼠」

それだけ言って、

信長は去っていった。


「……なんだったんだがね、今の」

秀吉は呆然と呟いた。

『……おそらく』

ナニワが静かに言った。

『信長様なりの、

 あなたへの言葉だったと思います』

「どういう意味や」

『「お前は、これを見て平気な顔をするな。

 それがお前の価値だ」

 ……そういう意味ではないでしょうか』

秀吉はしばらく黙っていた。

それから、

「……わかるようで、わからんがね、

 あの方は」

と、ため息をついた。

『それが、信長様です』

秀吉は空を見上げた。

越前の空は、

どこまでも高かった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


帰陣の日。

秀吉は馬を進めながら、

ずっと黙っていた。

小一郎が追いついてきた。

「兄者。なんか言えや」

「なんも言うことはないわ」

「そんな顔して言うな」

「……」

「兄者は、これからも信長様についていくんか?」

秀吉は少しの間、

黙った。

「ついていく」

「……なんで?」

「なんでだろな」

秀吉は遠くを見た。

「この方についていけば、

 戦のない世ができるかもしれん。

 そう信じとる。

 だもんで……信じとる限り、ついていく」

「それで、こんな光景も

 見続けるんか」

「……見続ける」

「つらないか」

「つらいがね」

秀吉は、きっぱりと言った。

「でも、目を逸らしたら

 俺はただの武将や。

 ちゃんと見て、ちゃんと感じて、

 それでもついていく。

 それが俺のやり方だがね」

小一郎は、

しばらく黙って兄を見ていた。

それから、静かに言った。

「……兄者は強いな」

「強うないがや」

「いや、強い」

小一郎がまっすぐに言った。

「俺は、そういう兄者が

 好きやがね」

秀吉は、

何も言えなかった。

ただ、前を向いて、

馬を進めた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

天正三年(一五七五年)秋。

越前、平定。

一向一揆、壊滅。

羽柴秀吉は、

この地で何かを失い、

何かを得た。

何を失ったのかは、

まだわからなかった。

何を得たのかも、

まだわからなかった。

ただ──

眼鏡の奥で、

青い光が静かに瞬いていた。

《補記終了》

《次の任務を、待機します》

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

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