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第十六話:「鉄砲三千の雷鳴──長篠に散る、武田の夢」

ドォン。

空気が、震えた。

ドォン。

ドォン。

ドォンドォンドォンドォン──

「……」

羽柴秀吉は、

その音を聞きながら、

ただ立ち尽くしていた。

三千の鉄砲が、

途切れることなく吼え続けている。

設楽原の空に、

白煙が立ち上る。

馬が倒れる。

人が倒れる。

それでも武田の騎馬隊は来る。

また倒れる。

また来る。

また、倒れる。

「……終わらんのか」

秀吉の声は、

自分でも気づかないほど、

小さかった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


話は、三日前に遡る。

三河国・設楽原。

信長が地図を広げ、

静かに言った。

「武田勝頼が動いた。

 長篠城を包囲している。

 家康から援軍の要請が来た」

秀吉は地図を覗き込んだ。

(長篠城……三河の東端や。

 武田と正面からぶつかることになる)

「殿、武田の騎馬は天下無双です。

 正面から受けるのは──」

「受けん」

信長が遮った。

「罠に嵌める」

「罠?」

「馬防柵を三重に張る。

 騎馬が突入できぬよう」

信長は静かに続けた。

「そして──」

「鉄砲を、三千挺、揃えた」

沈黙が落ちた。

秀吉の隣で、

家臣たちが息を呑む音がした。

《戦国時代の一般的な合戦における鉄砲数:数十〜数百挺。

 三千挺は当時の常識を遥かに超える数値です》

(ナニワよ、俺も驚いとるがね)

(黙っといてくれ)

その夜。

秀吉は一人で、

星空を眺めていた。

「ナニワ」

『はい』

「この戦……どうなる」

眼鏡の奥が、

ゆっくりと瞬いた。

少し、間があった。

『……聞きたいですか』

「聞きたい。

 けど、お前が「言えん」言うなら

 一つだけ教えてくれ。

 俺は死ぬか?」

また、間があった。

『……死にません』

「そか」

秀吉は空を見上げたまま、

静かに息を吐いた。

「武田は?」

『…………』

「武田は、どうなる」

ナニワは、

しばらく答えなかった。

それから、ゆっくりと言った。

『この戦いで、

 武田の精鋭は──

 多くが、散ります』

「そか」

「……そか」

秀吉はもう何も聞かなかった。

ただ、夜風が、

冷たく頬を撫でた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


決戦当日の朝。

小一郎が横に来た。

「兄者」

「なんや」

「……メシ、食うたか?」

「食うとらん」

「いかんがや! 食わんと体が動かんぞ!」

「お前はいつもそれだな」

「そりゃそうだがね!

 天下の大将が空腹で戦ったら

 恥ずかしいがや!」

秀吉は苦笑した。

小一郎が差し出した握り飯を、

ぱくりと食った。

「……うまいがや」

「当たり前だがね。

 俺が作ったんもんで」

「お前が作ったんか!?」

「文句あるんか!」

「いや……ありがとう」

小一郎が、

ちょっと照れたように

鼻を掻いた。

「……無事で帰ってきてくれよ、兄者」

「当たり前だわ」

秀吉は、

弟の頭をわしわしと撫でた。


「構え!」

信長の声が、

設楽原に響き渡った。

鉄砲衆、三千。

馬防柵の内側に

ずらりと並ぶ。

武田の旗印が、

山の向こうから現れた瞬間──

地鳴りが、起きた。

『……来ます』

ナニワの声が、

かすかに緊張していた。

「わかっとる」

秀吉は歯を食いしばった。

武田の騎馬隊。

その数、

およそ一万五千。

これまで誰も止められなかった。

川中島でも。

三方ヶ原でも。

この赤備えの突撃を、

誰も──

「放てーっ!」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

轟音。

世界が、揺れた。

一列目が撃つ。

下がりながら弾込め。

二列目が前に出て、撃つ。

また下がる。

三列目が前に出て、撃つ。

また下がる。

一列目が再び前に出て──

撃つ。

撃つ。

撃つ。

途切れることのない、

鉄砲の嵐。

『……三段撃ち』

ナニワが呟いた。

「そーだわ」

秀吉は静かに言った。

「去年の冬、殿に耳打ちしたんや。

 一列ずつ交代で撃てば、

 弾込めの隙間がなくなるって」

『…………』

「殿が「使える」言うてくれた」

『……秀吉』

「なんや」

『歴史の記録では、

 信長様の発案と……』

「そら、殿が実行したんやがね。

 俺はちょっと耳打ちしただけやがや」

ナニワは、

しばらく黙っていた。

『……あなたは本当に、

 自分の手柄を主張しませんね』

「そんなこと、どうでもええ」

秀吉の目は、

戦場だけを見ていた。

武田の騎馬隊が、

柵の前で次々と倒れていく。

それでも、来る。

また来る。

「止まらんのか……」

秀吉は拳を握った。

(強い)

(信玄公が鍛えた軍は、

 本当に強い)

(それでも──)

ドォン。

ドォン。

ドォン。

鉄砲の音が止まらない。

馬が倒れる。

騎手が倒れる。

倒れる。

倒れる。

倒れる。

「……人が死んどる」

秀吉の声が、

震えた。

それは怒りでも恐れでもなく、

ただ、

剥き出しの悲しみだった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


夕刻。

設楽原は、

静かになった。

山縣昌景。

馬場信春。

内藤昌豊。

武田の名将たちが、

この地に散った。

「勝ったーっ!」

陣営に歓声が上がる。

信長が鷹揚に頷く。

家臣たちが抱き合う。

でも秀吉は、

一人で戦場の方を

見ていた。

「ナニワ」

『はい』

「武田は……これで終わりか」

しばらく間があった。

『……はい。

 武田家の精鋭は、ここで失われました。

 あとは、時間の問題です』

「…………」

「信玄殿が生きとったら、

 どうなっとっただろな」

『……おそらく、信長様は天下を取れなかったと思います』

「せやろな」

秀吉は目を細めた。

「そしたら俺も、

 天下人にはなれとらんかった」

風が、吹いた。

煙の匂いが、

まだ残っていた。


「兄者!」

小一郎が駆けてくる。

「無事だったか!」

「当たり前だがや。

 右翼の押さえやったで

 戦らしい戦もなかったわ」

「それでも心配しとったんだがね!」

「心配性なやつだわ、お前は」

秀吉は、

弟の頭をまたわしわしと撫でた。

さっきまでの震えが、

少しだけ、おさまった気がした。

「メシはあるか」

「ありますよ! 兄者の分、ちゃんと取っといたってやったわ!」

「……ほんまに気が利くがや、お前は」

小一郎が照れながら走っていく。

その背中を見ながら、

(こいつには、

 こんな戦場をあまり見せとうないわ)

と、秀吉は思った。


夜。

陣営の喧騒が遠くなった頃、

秀吉は一人で、

また空を見ていた。

「ナニワ」

『はい』

「この勝利を、

 俺は喜んでええんか?」

ナニワは、

すぐには答えなかった。

それから、静かに言った。

『……喜んでいいと思います。

 でも』

「でも?」

『あなたが喜べないなら、

 それも、あなたらしい』

秀吉は小さく笑った。

「なんだそれ」

「まあ……ええか」

「天下一統のために、必要な戦やった。

 それは変わらん。

 だけんども──」

秀吉は夜空を見上げた。

「泣いたらあかんけど、

 こういう気持ちを

 なくしてもあかんがね」

『……はい』

ナニワの声が、

柔らかかった。

『それが、あなたです』

満天の星が、

設楽原を静かに照らしていた。

戦があった日とは思えないほど、

穏やかな夜だった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

天正三年(一五七五年)五月二十一日。

長篠・設楽原の戦い。

武田の騎馬隊、壊滅。

天下統一への道が、

また一歩、開かれた。

でも羽柴秀吉はその夜、

弟と並んで握り飯を食いながら、

ただ静かに、

空を見上げていた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

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