第十六話:「鉄砲三千の雷鳴──長篠に散る、武田の夢」
ドォン。
空気が、震えた。
ドォン。
ドォン。
ドォンドォンドォンドォン──
「……」
羽柴秀吉は、
その音を聞きながら、
ただ立ち尽くしていた。
三千の鉄砲が、
途切れることなく吼え続けている。
設楽原の空に、
白煙が立ち上る。
馬が倒れる。
人が倒れる。
それでも武田の騎馬隊は来る。
また倒れる。
また来る。
また、倒れる。
「……終わらんのか」
秀吉の声は、
自分でも気づかないほど、
小さかった。
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◇
話は、三日前に遡る。
三河国・設楽原。
信長が地図を広げ、
静かに言った。
「武田勝頼が動いた。
長篠城を包囲している。
家康から援軍の要請が来た」
秀吉は地図を覗き込んだ。
(長篠城……三河の東端や。
武田と正面からぶつかることになる)
「殿、武田の騎馬は天下無双です。
正面から受けるのは──」
「受けん」
信長が遮った。
「罠に嵌める」
「罠?」
「馬防柵を三重に張る。
騎馬が突入できぬよう」
信長は静かに続けた。
「そして──」
「鉄砲を、三千挺、揃えた」
沈黙が落ちた。
秀吉の隣で、
家臣たちが息を呑む音がした。
《戦国時代の一般的な合戦における鉄砲数:数十〜数百挺。
三千挺は当時の常識を遥かに超える数値です》
(ナニワよ、俺も驚いとるがね)
(黙っといてくれ)
◇
その夜。
秀吉は一人で、
星空を眺めていた。
「ナニワ」
『はい』
「この戦……どうなる」
眼鏡の奥が、
ゆっくりと瞬いた。
少し、間があった。
『……聞きたいですか』
「聞きたい。
けど、お前が「言えん」言うなら
一つだけ教えてくれ。
俺は死ぬか?」
また、間があった。
『……死にません』
「そか」
秀吉は空を見上げたまま、
静かに息を吐いた。
「武田は?」
『…………』
「武田は、どうなる」
ナニワは、
しばらく答えなかった。
それから、ゆっくりと言った。
『この戦いで、
武田の精鋭は──
多くが、散ります』
「そか」
「……そか」
秀吉はもう何も聞かなかった。
ただ、夜風が、
冷たく頬を撫でた。
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◇
決戦当日の朝。
小一郎が横に来た。
「兄者」
「なんや」
「……メシ、食うたか?」
「食うとらん」
「いかんがや! 食わんと体が動かんぞ!」
「お前はいつもそれだな」
「そりゃそうだがね!
天下の大将が空腹で戦ったら
恥ずかしいがや!」
秀吉は苦笑した。
小一郎が差し出した握り飯を、
ぱくりと食った。
「……うまいがや」
「当たり前だがね。
俺が作ったんもんで」
「お前が作ったんか!?」
「文句あるんか!」
「いや……ありがとう」
小一郎が、
ちょっと照れたように
鼻を掻いた。
「……無事で帰ってきてくれよ、兄者」
「当たり前だわ」
秀吉は、
弟の頭をわしわしと撫でた。
◇
「構え!」
信長の声が、
設楽原に響き渡った。
鉄砲衆、三千。
馬防柵の内側に
ずらりと並ぶ。
武田の旗印が、
山の向こうから現れた瞬間──
地鳴りが、起きた。
『……来ます』
ナニワの声が、
かすかに緊張していた。
「わかっとる」
秀吉は歯を食いしばった。
武田の騎馬隊。
その数、
およそ一万五千。
これまで誰も止められなかった。
川中島でも。
三方ヶ原でも。
この赤備えの突撃を、
誰も──
「放てーっ!」
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轟音。
世界が、揺れた。
一列目が撃つ。
下がりながら弾込め。
二列目が前に出て、撃つ。
また下がる。
三列目が前に出て、撃つ。
また下がる。
一列目が再び前に出て──
撃つ。
撃つ。
撃つ。
途切れることのない、
鉄砲の嵐。
『……三段撃ち』
ナニワが呟いた。
「そーだわ」
秀吉は静かに言った。
「去年の冬、殿に耳打ちしたんや。
一列ずつ交代で撃てば、
弾込めの隙間がなくなるって」
『…………』
「殿が「使える」言うてくれた」
『……秀吉』
「なんや」
『歴史の記録では、
信長様の発案と……』
「そら、殿が実行したんやがね。
俺はちょっと耳打ちしただけやがや」
ナニワは、
しばらく黙っていた。
『……あなたは本当に、
自分の手柄を主張しませんね』
「そんなこと、どうでもええ」
秀吉の目は、
戦場だけを見ていた。
◇
武田の騎馬隊が、
柵の前で次々と倒れていく。
それでも、来る。
また来る。
「止まらんのか……」
秀吉は拳を握った。
(強い)
(信玄公が鍛えた軍は、
本当に強い)
(それでも──)
ドォン。
ドォン。
ドォン。
鉄砲の音が止まらない。
馬が倒れる。
騎手が倒れる。
倒れる。
倒れる。
倒れる。
「……人が死んどる」
秀吉の声が、
震えた。
それは怒りでも恐れでもなく、
ただ、
剥き出しの悲しみだった。
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◇
夕刻。
設楽原は、
静かになった。
山縣昌景。
馬場信春。
内藤昌豊。
武田の名将たちが、
この地に散った。
「勝ったーっ!」
陣営に歓声が上がる。
信長が鷹揚に頷く。
家臣たちが抱き合う。
でも秀吉は、
一人で戦場の方を
見ていた。
「ナニワ」
『はい』
「武田は……これで終わりか」
しばらく間があった。
『……はい。
武田家の精鋭は、ここで失われました。
あとは、時間の問題です』
「…………」
「信玄殿が生きとったら、
どうなっとっただろな」
『……おそらく、信長様は天下を取れなかったと思います』
「せやろな」
秀吉は目を細めた。
「そしたら俺も、
天下人にはなれとらんかった」
風が、吹いた。
煙の匂いが、
まだ残っていた。
◇
「兄者!」
小一郎が駆けてくる。
「無事だったか!」
「当たり前だがや。
右翼の押さえやったで
戦らしい戦もなかったわ」
「それでも心配しとったんだがね!」
「心配性なやつだわ、お前は」
秀吉は、
弟の頭をまたわしわしと撫でた。
さっきまでの震えが、
少しだけ、おさまった気がした。
「メシはあるか」
「ありますよ! 兄者の分、ちゃんと取っといたってやったわ!」
「……ほんまに気が利くがや、お前は」
小一郎が照れながら走っていく。
その背中を見ながら、
(こいつには、
こんな戦場をあまり見せとうないわ)
と、秀吉は思った。
◇
夜。
陣営の喧騒が遠くなった頃、
秀吉は一人で、
また空を見ていた。
「ナニワ」
『はい』
「この勝利を、
俺は喜んでええんか?」
ナニワは、
すぐには答えなかった。
それから、静かに言った。
『……喜んでいいと思います。
でも』
「でも?」
『あなたが喜べないなら、
それも、あなたらしい』
秀吉は小さく笑った。
「なんだそれ」
「まあ……ええか」
「天下一統のために、必要な戦やった。
それは変わらん。
だけんども──」
秀吉は夜空を見上げた。
「泣いたらあかんけど、
こういう気持ちを
なくしてもあかんがね」
『……はい』
ナニワの声が、
柔らかかった。
『それが、あなたです』
満天の星が、
設楽原を静かに照らしていた。
戦があった日とは思えないほど、
穏やかな夜だった。
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天正三年(一五七五年)五月二十一日。
長篠・設楽原の戦い。
武田の騎馬隊、壊滅。
天下統一への道が、
また一歩、開かれた。
でも羽柴秀吉はその夜、
弟と並んで握り飯を食いながら、
ただ静かに、
空を見上げていた。
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