第十五話:「弟の目──小一郎、はじめての戦場」
帰ってきた弟の目が、違った。
◇
天正二年(一五七四年)九月。
長浜城の門が、夕暮れの中で開いた。
先頭に立っていたのは、小一郎だった。
泥と煤で汚れた鎧。
無傷の体。
だが。
(目が……違う)
秀吉は、すぐに気づいた。
いつもの無表情の中に、何か重いものが沈んでいた。
石でも飲み込んだような、そんな目だった。
◇
「……おかえり」
「ただいま」
「怪我は?」
「ない」
「飯は?」
「いらん」
「食わんといかんがね」
「……いらんと言うとる」
秀吉は、それ以上聞かなかった。
◇
夜。
縁側に並んで座った。
琵琶湖が、月明かりを映していた。
しばらく、二人とも黙っていた。
先に口を開いたのは、小一郎だった。
「……兄貴」
「なんだ」
「戦って……こういうものか」
秀吉は、答えなかった。
「信長様が、命令した」
「……うん」
「降伏した者も、逃げようとした者も……女も、子供も」
小一郎は、言葉を切った。
「……全員、焼いた」
◇
ナニワが、静かに言った。
《推定死者数:二万人以上》
秀吉は、眼鏡に手を当てた。
「ナニワ、今は黙っとってくれ」
『……はい』
◇
「俺は……止められんかった」
小一郎の声が、かすかに震えた。
「命令だから。信長様の命令だから、従うしかなかった」
「……そだな」
「でも……」
小一郎は、自分の手を見た。
大きな、百姓の手だった。
「この手で……やった」
「……」
「兄貴が行けばよかったんか?」
秀吉は、少し考えた。
「……俺が行っても、同じだっただろな」
小一郎は、目を閉じた。
「そうか」
「そうや」
「じゃあ……誰が行っても、同じだったんか」
「……うん」
「それが……一番、嫌だ」
◇
二人、また黙った。
遠くで、カエルが鳴いていた。
秀吉は、空を見上げた。
(比叡山の時も、思った)
(勝つことと、正しいことは、同じじゃない)
(でも俺は、信長様に従い続けている)
(いつか……俺が上に立てば、変えられるか)
(変えられるか、本当に)
「ナニワ」
小声で呟いた。
『……はい』
「天下を取った人間は……こういう夜を、何度経験するもんか?」
長い沈黙。
『……記録されている限り、数えきれないほどです』
「そっか」
「やっぱり、そうだわな」
◇
小一郎が、ぽつりと言った。
「兄貴」
「なんや」
「天下、早く取ってくれ」
秀吉は、驚いて弟を見た。
小一郎は、まだ手を見たまま言った。
「こういう夜が……これ以上増えんように」
「……小一郎」
「俺は、兄貴を手伝う。だから……早く取ってくれ」
秀吉は、しばらく黙った。
弟の横顔を見た。
中村で一緒に田んぼに入っていた、あの弟が。
今、こんな目をして、こんな言葉を言っている。
(お前が……そこまで言うんだな)
「わかった」
「……約束する」
小一郎は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ体の力が抜けた気がした。
◇
その夜遅く。
秀吉は一人、部屋でナニワに話しかけた。
「ナニワ。小一郎は……大丈夫だと思うか?」
『……体は大丈夫です』
「体の話やない」
眼鏡の光が、ゆっくりと揺れた。
『心の傷は……時間がかかります。でも』
「でも?」
『弟さんは、今夜、大事なことを覚えました』
「なにを?」
『「早く終わらせたい」という理由です』
『人が戦うとき、多くは「誰かを倒すため」に戦います。でも弟さんは……「これ以上増やさないため」に戦う理由を、今夜見つけた』
秀吉は、目を細めた。
「……小一郎が」
『はい』
「それは……俺より、立派だがね」
『……そうかもしれません』
秀吉は、苦笑した。
(弟に追い越されとるがね)
(でも……ええことだわ)
◇
翌朝。
小一郎は、いつもの顔で起きてきた。
無表情で、口数が少なくて。
「飯」
「食うんか、今日は」
「腹が減った」
「昨日はいらんゆうとっただろ」
「昨日は昨日だわ」
秀吉は、笑いそうになった。
「……よかった」
「何が」
「お前が、お前だで」
小一郎は、少しだけ目を細めた。
「……気持ち悪いこと言うな」
「ひどいなぁ」
◇
その日から、小一郎は変わった。
目に、何か宿った。
それは悲しみではなかった。
怒りでもなかった。
静かな、決意のようなものだった。
秀吉は、その目を見るたびに思った。
(こいつと一緒なら、俺は天下を取れる)
(こいつと一緒じゃないと、天下を取っても意味がない)
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天正二年(一五七四年)九月。
長島一向一揆、壊滅。
羽柴秀長、初めて独立した軍を率いて戦場に立つ。
そして弟は、兄のために戦う「理由」を見つけた。
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