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第十四話:「時代が、終わった夜──室町幕府、二百三十七年の幕」

二百三十七年が、一夜で消えた。

天正元年(一五七三年)八月。

知らせが、長浜城に届いた。

「朝倉義景……自刃」

秀吉は、文を持ったまま動けなかった。

金ヶ崎で背中を守った敵。

比叡山を巡って戦った敵。

あの朝倉が、従弟に裏切られて死んだ。

「……従弟に、裏切られたんか」

小一郎が、静かに頷いた。

「逃げた先で、囲まれたらしい。自刃する間際まで、信じとったそうや」

秀吉は、目を閉じた。

(人を信じたまま死ぬのは……幸せなんか、不幸なんか)

それより一月前。

将軍・足利義昭が、京を追われた。

室町幕府。

一三三六年から続いた、二百三十七年の歴史。

信長はそれを、追い払うように終わらせた。

殺しもしなかった。

ただ、追い出した。

(それが……余計に怖いがね)

「ナニワ」

「二百三十七年って、どのくらいや」

眼鏡の奥で、光がゆっくりと瞬いた。

『藤吉郎様のご先祖が農民として畑を耕し始めた頃から、ずっと続いていた秩序です』

「……そんなに昔から」

『はい。あなたが生まれる遥か前から、日ノ本はその秩序の中で動いていました』

「それが……消えた」

『はい。今夜、消えました』

秀吉は、琵琶湖を見た。

水面が、月明かりを映してゆらゆらと揺れていた。

何も変わっていない。

なのに、すべてが変わった気がした。

翌朝。

信長から使者が来た。

「大将が、呼んどる」

安土への道を馬で走りながら、秀吉はナニワに聞いた。

「将軍様は……今、どこにいるんや」

『足利義昭様は、まだ生きています。今後も各地を転々とするでしょう』

「殺さんかったんやな、大将は」

『はい。殺せば幕府の残党が反発します。生かして、無力を示した方が効果的だと判断したのでしょう』

「……冷たいな」

『合理的です』

「それが……怖いんやがね」

信長は、縁側に座っていた。

庭の紅葉が、早くも色づき始めていた。

「禿鼠」

「はい」

「時代が変わった」

「……はい」

「わかるか、その意味が」

秀吉は、少し考えた。

「将軍がいなくなった。つまり……次の秩序を作る者が、まだいない、ということですか」

信長が、鼻を鳴らした。

「まあ、そういうことだ」

「信長様が……作るんですか」

信長は、庭を見たまま答えなかった。

しばらくの沈黙。

「禿鼠。天下とは何だと思う」

「……」

「俺が聞いておる」

秀吉は、真っすぐに信長を見た。

「すべての民が、明日の飯を心配せずに眠れる世の中……ではないですか」

信長は、初めて秀吉の方を向いた。

「……農民らしい答えだな」

「生まれは農民ですので」

信長が、かすかに笑った。

「それでいい」

帰り道。

秀吉は馬を止めた。

夕暮れの琵琶湖が、赤く染まっていた。

「ナニワ」

『はい』

「次の時代が、始まるんだな」

『はい』

「信長様が……天下を取る時代が」

『はい』

秀吉は、深く息を吸った。

(そしてその後、俺の時代が来る)

(ナニワは、知っとるはずや)

「ナニワ」

『はい』

「俺が……信長様の次に、天下を取ると……知っとるか」

長い沈黙。

眼鏡の光が、静かに揺れた。

『……知っています』

「そっか」

「怖くないか、俺のことが」

『なぜですか』

「百姓が天下を取るなんて、おかしいわ」

ナニワは、少し間を置いた。

『藤吉郎様』

『二百三十七年続いた幕府が、今夜終わりました』

『「おかしい」ことが起きる時代です』

秀吉は、笑いそうになった。

「……そうだわな」

「おかしいことが、当たり前になる時代だがね」

夕焼けの中で、琵琶湖が燃えるように輝いていた。

その夜、長浜城に戻った秀吉は、一通の手紙を書いた。

宛先は、中村の母・なか。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 母上、お元気ですか。

 今日、二百三十七年続いた室町幕府が終わりました。

 日ノ本の秩序が、なくなりました。

 でも俺は、怖くないです。

 これから、新しい世の中が始まります。

 その世の中を、作る一人に、俺はなるつもりです。

 農民の息子が、偉そうなことを言っていると笑ってください。

 でも、本当のことです。

         羽柴秀吉より

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

手紙を書き終えて、秀吉は眼鏡を外した。

膝の上に乗せると、光がほわりと揺れた。

「ナニワ、聞いとるか?」

『はい』

「母ちゃんに手紙、書いたわ」

『読んでいました』

「内緒にしとったのに」

『いつも読んでいます』

「……盗み見かい」

『一緒にいるので』

秀吉は、苦笑した。

「そやな。一緒やな」

夜の琵琶湖が、静かに光っていた。

一つの時代が終わった夜に、新しい何かが、確かに動き始めていた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

天正元年(一五七三年)。

室町幕府、二百三十七年の歴史に幕。

朝倉義景、自刃。足利義昭、追放。

そして羽柴秀吉は、次の時代を見据えて──静かに、拳を握った。

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