第十四話:「時代が、終わった夜──室町幕府、二百三十七年の幕」
二百三十七年が、一夜で消えた。
◇
天正元年(一五七三年)八月。
知らせが、長浜城に届いた。
「朝倉義景……自刃」
秀吉は、文を持ったまま動けなかった。
金ヶ崎で背中を守った敵。
比叡山を巡って戦った敵。
あの朝倉が、従弟に裏切られて死んだ。
「……従弟に、裏切られたんか」
小一郎が、静かに頷いた。
「逃げた先で、囲まれたらしい。自刃する間際まで、信じとったそうや」
秀吉は、目を閉じた。
(人を信じたまま死ぬのは……幸せなんか、不幸なんか)
◇
それより一月前。
将軍・足利義昭が、京を追われた。
室町幕府。
一三三六年から続いた、二百三十七年の歴史。
信長はそれを、追い払うように終わらせた。
殺しもしなかった。
ただ、追い出した。
(それが……余計に怖いがね)
◇
「ナニワ」
「二百三十七年って、どのくらいや」
眼鏡の奥で、光がゆっくりと瞬いた。
『藤吉郎様のご先祖が農民として畑を耕し始めた頃から、ずっと続いていた秩序です』
「……そんなに昔から」
『はい。あなたが生まれる遥か前から、日ノ本はその秩序の中で動いていました』
「それが……消えた」
『はい。今夜、消えました』
秀吉は、琵琶湖を見た。
水面が、月明かりを映してゆらゆらと揺れていた。
何も変わっていない。
なのに、すべてが変わった気がした。
◇
翌朝。
信長から使者が来た。
「大将が、呼んどる」
◇
安土への道を馬で走りながら、秀吉はナニワに聞いた。
「将軍様は……今、どこにいるんや」
『足利義昭様は、まだ生きています。今後も各地を転々とするでしょう』
「殺さんかったんやな、大将は」
『はい。殺せば幕府の残党が反発します。生かして、無力を示した方が効果的だと判断したのでしょう』
「……冷たいな」
『合理的です』
「それが……怖いんやがね」
◇
信長は、縁側に座っていた。
庭の紅葉が、早くも色づき始めていた。
「禿鼠」
「はい」
「時代が変わった」
「……はい」
「わかるか、その意味が」
秀吉は、少し考えた。
「将軍がいなくなった。つまり……次の秩序を作る者が、まだいない、ということですか」
信長が、鼻を鳴らした。
「まあ、そういうことだ」
「信長様が……作るんですか」
信長は、庭を見たまま答えなかった。
しばらくの沈黙。
「禿鼠。天下とは何だと思う」
「……」
「俺が聞いておる」
秀吉は、真っすぐに信長を見た。
「すべての民が、明日の飯を心配せずに眠れる世の中……ではないですか」
信長は、初めて秀吉の方を向いた。
「……農民らしい答えだな」
「生まれは農民ですので」
信長が、かすかに笑った。
「それでいい」
◇
帰り道。
秀吉は馬を止めた。
夕暮れの琵琶湖が、赤く染まっていた。
「ナニワ」
『はい』
「次の時代が、始まるんだな」
『はい』
「信長様が……天下を取る時代が」
『はい』
秀吉は、深く息を吸った。
(そしてその後、俺の時代が来る)
(ナニワは、知っとるはずや)
「ナニワ」
『はい』
「俺が……信長様の次に、天下を取ると……知っとるか」
長い沈黙。
眼鏡の光が、静かに揺れた。
『……知っています』
「そっか」
「怖くないか、俺のことが」
『なぜですか』
「百姓が天下を取るなんて、おかしいわ」
ナニワは、少し間を置いた。
『藤吉郎様』
『二百三十七年続いた幕府が、今夜終わりました』
『「おかしい」ことが起きる時代です』
秀吉は、笑いそうになった。
「……そうだわな」
「おかしいことが、当たり前になる時代だがね」
夕焼けの中で、琵琶湖が燃えるように輝いていた。
◇
その夜、長浜城に戻った秀吉は、一通の手紙を書いた。
宛先は、中村の母・なか。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
母上、お元気ですか。
今日、二百三十七年続いた室町幕府が終わりました。
日ノ本の秩序が、なくなりました。
でも俺は、怖くないです。
これから、新しい世の中が始まります。
その世の中を、作る一人に、俺はなるつもりです。
農民の息子が、偉そうなことを言っていると笑ってください。
でも、本当のことです。
羽柴秀吉より
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
手紙を書き終えて、秀吉は眼鏡を外した。
膝の上に乗せると、光がほわりと揺れた。
「ナニワ、聞いとるか?」
『はい』
「母ちゃんに手紙、書いたわ」
『読んでいました』
「内緒にしとったのに」
『いつも読んでいます』
「……盗み見かい」
『一緒にいるので』
秀吉は、苦笑した。
「そやな。一緒やな」
夜の琵琶湖が、静かに光っていた。
一つの時代が終わった夜に、新しい何かが、確かに動き始めていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
天正元年(一五七三年)。
室町幕府、二百三十七年の歴史に幕。
朝倉義景、自刃。足利義昭、追放。
そして羽柴秀吉は、次の時代を見据えて──静かに、拳を握った。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




