第十二話:「小谷城の花──散る前に、摘め」
天正元年(一五七三年)八月。
「小谷城を落とす」
信長の命が下った。
浅井長政。
金ヶ崎で背中を刺した男。
だが、信長の妹・お市の方の夫でもある男。
藤吉郎には、複雑な気持ちがあった。
(お市様は……どうなる)
◇
小谷城は、山の上にあった。
難攻不落と呼ばれる天然の要塞。
だが今、兵糧は尽き、援軍の望みもなかった。
織田の大軍が、山を囲んでいた。
「ナニワ、城内の状況は?」
『兵力は激減しています。浅井長政様は……最後の抵抗を続けるつもりのようです』
「お市様と、子供たちは?」
長い沈黙。
『城の奥にいます。まだ、生きています』
「……急がなあかん」
◇
八月二十八日。
藤吉郎に、使者が届いた。
差出人は──浅井長政。
「……なんや、これは」
小一郎が読み上げる。
「『お市と子供たちを、頼む』」
それだけだった。
たった、それだけ。
藤吉郎は、手紙をしばらく見つめた。
(頼む……か)
(敵の大将が、俺に頼んどるんか)
「……小一郎、行くで」
「どこへ」
「城の裏口や。お市様を迎えに行く」
◇
城の裏門が、静かに開いた。
最初に出てきたのは、小さな手だった。
続いて、幼い顔。
年かさの娘が、二人の妹を抱えるようにして立っていた。
六つくらいの茶々。
四つの初。
二つの江。
三人とも、泣いていなかった。
(この子らは……)
その後ろに、白い着物の女が立っていた。
お市の方だった。
美しい人だった。
それよりも、まっすぐな目をした人だった。
「木下藤吉郎どのですか」
「はい」
「長政が……頼んだと聞きました」
「はい」
お市の方は、一度だけ城を振り返った。
夫がいる場所を。
「……よろしくお願いします」
深々と、頭を下げた。
◇
その夜、小谷城は落ちた。
浅井長政、自害。
三代で続いた浅井の家が、消えた。
藤吉郎は、三人の娘を膝の上に乗せながら、遠くの炎を見ていた。
一番上の茶々が、藤吉郎の眼鏡を、じっと見た。
「……その眼鏡、光ってる」
「光っとるか?」
「うん。ふしぎ」
茶々の目が、炎の色を映して揺れていた。
(この子が……大きくなったら)
ナニワが、静かに言った。
『藤吉郎様』
「わかっとる」
『……わかっていますか?』
「わかっとる。でも、今は言わんで」
この子の未来を、今は知りたくなかった。
「茶々ちゃん」
「なに」
「お父様のこと、好きやったか?」
茶々は、少し考えた。
「……うん」
「そっか」
「強くて、優しかった」
「そっか」
藤吉郎は、茶々の頭に手を置いた。
(浅井長政……お前は強い父親やったんやろな)
(俺には、子供はまだおらんけど)
(こんな目をした子供が持てたら、幸せやろな)
◇
小一郎が、お市の方に水を持っていく場面を、藤吉郎は横目で見ていた。
小一郎は不器用に、でも真剣に、お市の方に話しかけていた。
お市の方が、小さく微笑んだ。
(あいつ……どんな顔しとるんや)
(赤くなっとらんか、耳が)
ナニワが、くすりと笑った気がした。
『どんな場所にも、人の縁はあるものですね』
「そやな」
「世の中、捨てたもんやないがね」
◇
翌朝、出発の前。
お市の方が、藤吉郎の前に立った。
「木下殿」
「はい」
「あの眼鏡は……特別なものですか?」
「ただの眼鏡ですよ」
お市の方は、静かに笑った。
「嘘が下手ですね」
「よく言われます」
「長政も……言っていました」
一瞬の、沈黙。
「あの禿鼠は、眼鏡に何か隠しとる、と」
「……」
「大切に、してあげてください」
お市の方は、そう言って歩き出した。
三人の娘が、後に続く。
茶々が振り返り、藤吉郎の眼鏡に向かって、小さく手を振った。
眼鏡の奥で、光が優しく揺れた。
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天正元年(一五七三年)九月。
小谷城、落城。浅井家、滅亡。
お市の方と三姉妹──茶々・初・江──は、生き延びた。
そして茶々と藤吉郎の、因縁の糸が。
この日、静かに結ばれた。
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