表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/44

第十二話:「小谷城の花──散る前に、摘め」

天正元年(一五七三年)八月。

「小谷城を落とす」

信長の命が下った。

浅井長政。

金ヶ崎で背中を刺した男。

だが、信長の妹・お市の方の夫でもある男。

藤吉郎には、複雑な気持ちがあった。

(お市様は……どうなる)

小谷城は、山の上にあった。

難攻不落と呼ばれる天然の要塞。

だが今、兵糧は尽き、援軍の望みもなかった。

織田の大軍が、山を囲んでいた。

「ナニワ、城内の状況は?」

『兵力は激減しています。浅井長政様は……最後の抵抗を続けるつもりのようです』

「お市様と、子供たちは?」

長い沈黙。

『城の奥にいます。まだ、生きています』

「……急がなあかん」

八月二十八日。

藤吉郎に、使者が届いた。

差出人は──浅井長政。

「……なんや、これは」

小一郎が読み上げる。

「『お市と子供たちを、頼む』」

それだけだった。

たった、それだけ。

藤吉郎は、手紙をしばらく見つめた。

(頼む……か)

(敵の大将が、俺に頼んどるんか)

「……小一郎、行くで」

「どこへ」

「城の裏口や。お市様を迎えに行く」

城の裏門が、静かに開いた。

最初に出てきたのは、小さな手だった。

続いて、幼い顔。

年かさの娘が、二人の妹を抱えるようにして立っていた。

六つくらいの茶々。

四つの初。

二つの江。

三人とも、泣いていなかった。

(この子らは……)

その後ろに、白い着物の女が立っていた。

お市の方だった。

美しい人だった。

それよりも、まっすぐな目をした人だった。

「木下藤吉郎どのですか」

「はい」

「長政が……頼んだと聞きました」

「はい」

お市の方は、一度だけ城を振り返った。

夫がいる場所を。

「……よろしくお願いします」

深々と、頭を下げた。

その夜、小谷城は落ちた。

浅井長政、自害。

三代で続いた浅井の家が、消えた。

藤吉郎は、三人の娘を膝の上に乗せながら、遠くの炎を見ていた。

一番上の茶々が、藤吉郎の眼鏡を、じっと見た。

「……その眼鏡、光ってる」

「光っとるか?」

「うん。ふしぎ」

茶々の目が、炎の色を映して揺れていた。

(この子が……大きくなったら)

ナニワが、静かに言った。

『藤吉郎様』

「わかっとる」

『……わかっていますか?』

「わかっとる。でも、今は言わんで」

この子の未来を、今は知りたくなかった。

「茶々ちゃん」

「なに」

「お父様のこと、好きやったか?」

茶々は、少し考えた。

「……うん」

「そっか」

「強くて、優しかった」

「そっか」

藤吉郎は、茶々の頭に手を置いた。

(浅井長政……お前は強い父親やったんやろな)

(俺には、子供はまだおらんけど)

(こんな目をした子供が持てたら、幸せやろな)

小一郎が、お市の方に水を持っていく場面を、藤吉郎は横目で見ていた。

小一郎は不器用に、でも真剣に、お市の方に話しかけていた。

お市の方が、小さく微笑んだ。

(あいつ……どんな顔しとるんや)

(赤くなっとらんか、耳が)

ナニワが、くすりと笑った気がした。

『どんな場所にも、人の縁はあるものですね』

「そやな」

「世の中、捨てたもんやないがね」

翌朝、出発の前。

お市の方が、藤吉郎の前に立った。

「木下殿」

「はい」

「あの眼鏡は……特別なものですか?」

「ただの眼鏡ですよ」

お市の方は、静かに笑った。

「嘘が下手ですね」

「よく言われます」

「長政も……言っていました」

一瞬の、沈黙。

「あの禿鼠は、眼鏡に何か隠しとる、と」

「……」

「大切に、してあげてください」

お市の方は、そう言って歩き出した。

三人の娘が、後に続く。

茶々が振り返り、藤吉郎の眼鏡に向かって、小さく手を振った。

眼鏡の奥で、光が優しく揺れた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

天正元年(一五七三年)九月。

小谷城、落城。浅井家、滅亡。

お市の方と三姉妹──茶々・初・江──は、生き延びた。

そして茶々と藤吉郎の、因縁の糸が。

この日、静かに結ばれた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ