第十一話:「天下最強の男が、消えた──武田信玄の影」
信長が、怖がっていた。
◇
元亀三年(一五七二年)冬。
その知らせは、凍えるような夜に届いた。
「家康様が……三方ヶ原で大敗」
「武田軍、無傷」
「信長様への援軍も……間に合わなかった」
藤吉郎は、文を読んだ。
何度も読んだ。
(家康様が……負けた)
徳川家康。
関東随一の猛将が、野戦で完膚なきまでに叩き潰された。
◇
翌朝、信長の顔を見て、藤吉郎は息を呑んだ。
信長が、黙っていた。
ただ黙って、地図を見ていた。
怒鳴らない。
笑わない。
何も言わない。
それが一番、怖かった。
(信長様が……こんな顔をする)
(そんな相手が、西から来とる)
◇
廊下を歩きながら、藤吉郎はナニワに囁いた。
「武田信玄は……本当に上洛してくるんか」
眼鏡の光が、静かに瞬いた。
『……兵力二万八千。現在、三河国まで侵攻中です』
「こっちはどのくらいおる?」
『信長様の兵と合わせても……正面から当たれば、厳しい状況です』
「勝てるんか?」
沈黙。
ナニワが答えなかった。
珍しいことだった。
「ナニワ?」
『……』
「聞こえてるか? 勝てるんか? って聞いとるんやがね」
また、沈黙。
『……聞こえています』
「なんで答えんのや」
長い間があった。
『少し、待ってください』
(なんや……歯切れが悪いがね)
◇
信長包囲網が、完成しつつあった。
北の朝倉。
東の浅井。
西の本願寺。
そして南から上ってくる武田信玄。
四方を敵に囲まれた信長に、逃げ場はない。
その夜、藤吉郎は眠れなかった。
「ナニワ」
『はい』
「正直に言ってくれ。俺たちは……どうなる?」
眼鏡の光が、複雑に揺れた。
『……藤吉郎様』
「なんや」
『私は、答えられないことがあります』
「なんで」
『未来を知っているからこそ、言えないことがある。私が話すことで、本来の流れが変わってしまうかもしれない。それが怖いんです』
「……お前が、怖い?」
『はい』
「ナニワが、怖がるんか」
『……私にも、わからないことがあります。未来を知っているとはいえ、私の言葉一つで何かが変わったとき……それが良い変化なのか、悪い変化なのか。私には判断できない』
藤吉郎は、しばらく黙った。
「……そっか」
「難しいんやな、お前も」
◇
冬が終わり、春が来た。
天正元年(一五七三年)四月。
「武田信玄……死去」
その報は、まるで春雷のように届いた。
藤吉郎は、三度読み直した。
「……死んだ?」
「信玄が……死んだんか?」
使者が頷く。
「はい。西上の途上、病が悪化し……」
「上洛を果たせず、信州の駒場にて……享年五十三歳」
◇
周りの武将たちが、どよめいた。
「信じられん……」
「天下最強が……病で」
「上洛まで、あと少しだったのに」
藤吉郎は、動かなかった。
一つのことだけ、考えていた。
(ナニワが、答えなかった理由)
◇
その夜。
一人になった部屋で、藤吉郎は眼鏡に向かって言った。
「……知っとったな」
静寂。
「ナニワ。お前、知っとったんだろ」
眼鏡の光が、揺れた。
揺れて、揺れて、止まらなかった。
『……はい』
「冬から、ずっと」
『……はい』
「なんで言わんかった」
長い沈黙。
ナニワの光が、小さくなった。
まるで、目を伏せているみたいだった。
『……言おうとしました。でも』
「でも?」
『もし私が「信玄様は春に死にます」と言ったら……藤吉郎様は、どうしましたか?』
藤吉郎は、少し考えた。
「……多分、信長様に言った」
『はい。そして信長様は?』
「……もっと積極的に動いたかもしれん」
『それで、何かが変わっていたかもしれない。信玄様の死を利用して先手を打ち、浅井や朝倉への動き方が変わり……その結果、今ここで生きている誰かが、死んでいたかもしれない』
藤吉郎は、目を閉じた。
『私には、その「変わった先」が見えません。だから……言えなかった』
「……」
『ごめんなさい』
◇
しばらく、二人とも黙っていた。
夜風が、窓を揺らした。
やがて藤吉郎は、ゆっくりと口を開いた。
「ナニワ」
『はい』
「お前が謝ることじゃないわ」
『でも』
「お前は……俺のために考えてくれた。そういうことだで」
眼鏡の光が、かすかに揺れた。
「お前が知っとることを、全部教えてくれんでもええ」
「ただ……一緒にいてくれ。それだけでええ」
『……藤吉郎様』
「なんや」
『私は、あなたのそばにいます。ずっと』
藤吉郎は、眼鏡を手に取った。
小さな光が、手のひらで瞬いていた。
(天下最強が、消えた)
(でも、まだ終わっていない)
(これから、本当の戦が始まる)
◇
翌朝。
信長が、久しぶりに声を出して笑った。
「禿鼠! 聞いたか、信玄が死んだぞ!」
「聞きました」
「あの爺が、上洛できずに死におった!」
「はい」
「天がついておるわ、俺には!」
信長は、本当に嬉しそうだった。
藤吉郎は、その笑顔を見ながら、ふと思った。
(信長様は……信玄を、本当に怖がっとった)
(誰よりも)
(天下を目指す男の、唯一の恐怖が……消えた)
「信長様」
「なんだ」
「これからが、本番ですよ」
信長は、鼻を鳴らした。
「わかっておる」
「……わかっていないと困りますよ。油断した瞬間が、一番危ない」
信長は、珍しく真顔になった。
しばらく、藤吉郎を見た。
「……禿鼠が、説教か」
「はい」
「生意気だな」
「ありがとうございます」
信長が、また笑った。
今度は、少し違う笑い方だった。
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天正元年(一五七三年)四月十二日。
武田信玄、信州・駒場にて病没。享年五十三歳。
天下最強と恐れられた男が、上洛を果たせぬまま逝った。
そしてナニワは、初めて「知っていても言えないこと」を 藤吉郎に告げた。
二人の間に、新しい信頼が生まれた夜だった。
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