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第十一話:「天下最強の男が、消えた──武田信玄の影」

信長が、怖がっていた。





元亀三年(一五七二年)冬。


その知らせは、凍えるような夜に届いた。


「家康様が……三方ヶ原で大敗」


「武田軍、無傷」


「信長様への援軍も……間に合わなかった」


藤吉郎は、文を読んだ。


何度も読んだ。


(家康様が……負けた)


徳川家康。


関東随一の猛将が、野戦で完膚なきまでに叩き潰された。





翌朝、信長の顔を見て、藤吉郎は息を呑んだ。


信長が、黙っていた。


ただ黙って、地図を見ていた。


怒鳴らない。


笑わない。


何も言わない。


それが一番、怖かった。


(信長様が……こんな顔をする)


(そんな相手が、西から来とる)



廊下を歩きながら、藤吉郎はナニワに囁いた。


「武田信玄は……本当に上洛してくるんか」


眼鏡の光が、静かに瞬いた。


『……兵力二万八千。現在、三河国まで侵攻中です』


「こっちはどのくらいおる?」


『信長様の兵と合わせても……正面から当たれば、厳しい状況です』


「勝てるんか?」


沈黙。


ナニワが答えなかった。


珍しいことだった。


「ナニワ?」


『……』


「聞こえてるか? 勝てるんか? って聞いとるんやがね」


また、沈黙。


『……聞こえています』


「なんで答えんのや」


長い間があった。


『少し、待ってください』


(なんや……歯切れが悪いがね)



信長包囲網が、完成しつつあった。


北の朝倉。


東の浅井。


西の本願寺。


そして南から上ってくる武田信玄。


四方を敵に囲まれた信長に、逃げ場はない。


その夜、藤吉郎は眠れなかった。


「ナニワ」


『はい』


「正直に言ってくれ。俺たちは……どうなる?」


眼鏡の光が、複雑に揺れた。


『……藤吉郎様』


「なんや」


『私は、答えられないことがあります』


「なんで」


『未来を知っているからこそ、言えないことがある。私が話すことで、本来の流れが変わってしまうかもしれない。それが怖いんです』


「……お前が、怖い?」


『はい』


「ナニワが、怖がるんか」


『……私にも、わからないことがあります。未来を知っているとはいえ、私の言葉一つで何かが変わったとき……それが良い変化なのか、悪い変化なのか。私には判断できない』


藤吉郎は、しばらく黙った。


「……そっか」


「難しいんやな、お前も」





冬が終わり、春が来た。


天正元年(一五七三年)四月。


「武田信玄……死去」


その報は、まるで春雷のように届いた。


藤吉郎は、三度読み直した。


「……死んだ?」


「信玄が……死んだんか?」


使者が頷く。


「はい。西上の途上、病が悪化し……」


「上洛を果たせず、信州の駒場にて……享年五十三歳」





周りの武将たちが、どよめいた。


「信じられん……」


「天下最強が……病で」


「上洛まで、あと少しだったのに」


藤吉郎は、動かなかった。


一つのことだけ、考えていた。


(ナニワが、答えなかった理由)





その夜。


一人になった部屋で、藤吉郎は眼鏡に向かって言った。


「……知っとったな」


静寂。


「ナニワ。お前、知っとったんだろ」


眼鏡の光が、揺れた。


揺れて、揺れて、止まらなかった。


『……はい』


「冬から、ずっと」


『……はい』


「なんで言わんかった」


長い沈黙。


ナニワの光が、小さくなった。


まるで、目を伏せているみたいだった。


『……言おうとしました。でも』


「でも?」


『もし私が「信玄様は春に死にます」と言ったら……藤吉郎様は、どうしましたか?』


藤吉郎は、少し考えた。


「……多分、信長様に言った」


『はい。そして信長様は?』


「……もっと積極的に動いたかもしれん」


『それで、何かが変わっていたかもしれない。信玄様の死を利用して先手を打ち、浅井や朝倉への動き方が変わり……その結果、今ここで生きている誰かが、死んでいたかもしれない』


藤吉郎は、目を閉じた。


『私には、その「変わった先」が見えません。だから……言えなかった』


「……」


『ごめんなさい』



しばらく、二人とも黙っていた。


夜風が、窓を揺らした。


やがて藤吉郎は、ゆっくりと口を開いた。


「ナニワ」


『はい』


「お前が謝ることじゃないわ」


『でも』


「お前は……俺のために考えてくれた。そういうことだで」


眼鏡の光が、かすかに揺れた。


「お前が知っとることを、全部教えてくれんでもええ」


「ただ……一緒にいてくれ。それだけでええ」


『……藤吉郎様』


「なんや」


『私は、あなたのそばにいます。ずっと』


藤吉郎は、眼鏡を手に取った。


小さな光が、手のひらで瞬いていた。


(天下最強が、消えた)


(でも、まだ終わっていない)


(これから、本当の戦が始まる)





翌朝。


信長が、久しぶりに声を出して笑った。


「禿鼠! 聞いたか、信玄が死んだぞ!」


「聞きました」


「あの爺が、上洛できずに死におった!」


「はい」


「天がついておるわ、俺には!」


信長は、本当に嬉しそうだった。


藤吉郎は、その笑顔を見ながら、ふと思った。


(信長様は……信玄を、本当に怖がっとった)


(誰よりも)


(天下を目指す男の、唯一の恐怖が……消えた)


「信長様」


「なんだ」


「これからが、本番ですよ」


信長は、鼻を鳴らした。


「わかっておる」


「……わかっていないと困りますよ。油断した瞬間が、一番危ない」


信長は、珍しく真顔になった。


しばらく、藤吉郎を見た。


「……禿鼠が、説教か」


「はい」


「生意気だな」


「ありがとうございます」


信長が、また笑った。


今度は、少し違う笑い方だった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


天正元年(一五七三年)四月十二日。


武田信玄、信州・駒場にて病没。享年五十三歳。


天下最強と恐れられた男が、上洛を果たせぬまま逝った。


そしてナニワは、初めて「知っていても言えないこと」を 藤吉郎に告げた。


二人の間に、新しい信頼が生まれた夜だった。


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