第十話:「神仏の山が、燃える夜──禿鼠の涙」
元亀二年(一五七一年)九月。
軍議の席で、藤吉郎は立ち上がった。
「……お待ちください」
場が、静まり返った。
信長が、目だけで藤吉郎を見た。
「なんだ」
「比叡山を焼くのは……お待ちいただけませぬか」
また沈黙。
佐久間信盛も口を開いた。
「禿鼠の言う通り、お待ちを。あの山には僧だけでなく、女子供も──」
「焼く」
信長は、二文字で切った。
「逆らうなら、お前たちも焼く」
誰も、何も言えなかった。
◇
その夜。
藤吉郎は天幕の外で、ナニワに話しかけた。
「……止められんかった」
『……はい』
「俺が何か言うても、大将は聞かんかった」
『はい』
「なんで……なんでそこまでするんや」
眼鏡の光が、ゆっくりと揺れた。
『延暦寺は浅井・朝倉の逃げ込み場所になっていました。信長様にとっては、敵の砦と同じです』
「それはわかっとる」
「でも……」
藤吉郎は、暗闇の中に座った。
「山には、何も知らん人もおるんです」
ナニワは、しばらく黙っていた。
『……私には、止める力がありません』
「俺にも、なかった」
『藤吉郎様』
「なんや」
『これが、権力の本質です。誰かの判断一つで、世界が変わる。だから……あなたが上に立つことに、意味があります』
「俺が……?」
『もし藤吉郎様が頂点に立てば、今夜のような夜を減らせるかもしれない』
藤吉郎は、空を見上げた。
星は、変わらず輝いていた。
(俺が……天下人になれば)
(こんな夜を、なくせるか)
◇
翌朝、夜明けとともに命令が下った。
藤吉郎は自ら動いた。
「女子供は逃がせ! 見つけたら、その者だけは見逃せ!!」
命令を超えた、命令だった。
部下たちは黙って従った。
どれだけの命を救えたか、わからない。
それでも。
やらないよりは、ましだと思った。
◇
夕暮れ。
比叡山が、赤く染まった。
炎の色と、夕焼けの色が混じり合って、山全体が燃えているように見えた。
根本中堂の鐘が、一度だけ鳴った。
やがて、沈黙した。
藤吉郎は、その音を聞きながら、目を閉じた。
泣かなかった。
泣いたら、死んでいった者たちに失礼な気がした。
(俺は覚えとる)
(忘れんで、ずっと覚えとる)
(だから、先に進む)
◇
竹中半兵衛が、静かに隣に立った。
「木下殿」
「……半兵衛さん」
「あなたは、今日、できることをしました」
「足りんかった」
「はい、足りませんでした」
正直な言葉だった。
慰めではなかった。
「でも」
半兵衛は、燃える山を見ながら続けた。
「足りないとわかっていても、やった。それは、何もしないより遥かに大事なことです」
藤吉郎は、何も言わなかった。
ただ、半兵衛の言葉を胸の奥にしまった。
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元亀二年(一五七一年)九月。
比叡山延暦寺、炎に包まれる。
木下藤吉郎は、反対し、それでも従い、できる限りを尽くした。
その夜の炎が、藤吉郎の中で──消えることなく、燃え続けた。
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