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第十話:「神仏の山が、燃える夜──禿鼠の涙」

元亀二年(一五七一年)九月。

軍議の席で、藤吉郎は立ち上がった。

「……お待ちください」

場が、静まり返った。

信長が、目だけで藤吉郎を見た。

「なんだ」

「比叡山を焼くのは……お待ちいただけませぬか」

また沈黙。

佐久間信盛も口を開いた。

「禿鼠の言う通り、お待ちを。あの山には僧だけでなく、女子供も──」

「焼く」

信長は、二文字で切った。

「逆らうなら、お前たちも焼く」

誰も、何も言えなかった。

その夜。

藤吉郎は天幕の外で、ナニワに話しかけた。

「……止められんかった」

『……はい』

「俺が何か言うても、大将は聞かんかった」

『はい』

「なんで……なんでそこまでするんや」

眼鏡の光が、ゆっくりと揺れた。

『延暦寺は浅井・朝倉の逃げ込み場所になっていました。信長様にとっては、敵の砦と同じです』

「それはわかっとる」

「でも……」

藤吉郎は、暗闇の中に座った。

「山には、何も知らん人もおるんです」

ナニワは、しばらく黙っていた。

『……私には、止める力がありません』

「俺にも、なかった」

『藤吉郎様』

「なんや」

『これが、権力の本質です。誰かの判断一つで、世界が変わる。だから……あなたが上に立つことに、意味があります』

「俺が……?」

『もし藤吉郎様が頂点に立てば、今夜のような夜を減らせるかもしれない』

藤吉郎は、空を見上げた。

星は、変わらず輝いていた。

(俺が……天下人になれば)

(こんな夜を、なくせるか)

翌朝、夜明けとともに命令が下った。

藤吉郎は自ら動いた。

「女子供は逃がせ! 見つけたら、その者だけは見逃せ!!」

命令を超えた、命令だった。

部下たちは黙って従った。

どれだけの命を救えたか、わからない。

それでも。

やらないよりは、ましだと思った。

夕暮れ。

比叡山が、赤く染まった。

炎の色と、夕焼けの色が混じり合って、山全体が燃えているように見えた。

根本中堂の鐘が、一度だけ鳴った。

やがて、沈黙した。

藤吉郎は、その音を聞きながら、目を閉じた。

泣かなかった。

泣いたら、死んでいった者たちに失礼な気がした。

(俺は覚えとる)

(忘れんで、ずっと覚えとる)

(だから、先に進む)

竹中半兵衛が、静かに隣に立った。

「木下殿」

「……半兵衛さん」

「あなたは、今日、できることをしました」

「足りんかった」

「はい、足りませんでした」

正直な言葉だった。

慰めではなかった。

「でも」

半兵衛は、燃える山を見ながら続けた。

「足りないとわかっていても、やった。それは、何もしないより遥かに大事なことです」

藤吉郎は、何も言わなかった。

ただ、半兵衛の言葉を胸の奥にしまった。

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元亀二年(一五七一年)九月。

比叡山延暦寺、炎に包まれる。

木下藤吉郎は、反対し、それでも従い、できる限りを尽くした。

その夜の炎が、藤吉郎の中で──消えることなく、燃え続けた。

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