第九話:「退き口──禿鼠と麒麟が、背中を預ける夜」
元亀元年(一五七〇年)四月。
知らせは、夕暮れとともに来た。
「浅井が裏切った……!!!」
◇
越前・金ヶ崎城。
藤吉郎は、その一報を聞いて三秒だけ固まった。
(浅井長政が……? 信長さまの妹婿が……?)
三秒で、現実に戻る。
状況は単純だ。
前に朝倉。
後ろに浅井。
四方が敵。
逃げ道は、ない。
「ナニワ」
『……はい』
声が、震えていた。
ナニワの声が震えるのを、藤吉郎は初めて聞いた気がした。
「逃げ道はあるか?」
長い、長い沈黙。
『……一つだけ、あります』
「言え」
『京へ向かう道。山間を抜ける細い山道です。敵はまだ封鎖していない。ただし、誰かが後ろで食い止めなければ、主力が逃げられません』
(誰かが……殿をやらなあかん)
藤吉郎は、立ち上がった。
◇
本陣に向かうと、すでに騒然としていた。
「殿軍は誰がやる!」
「儂はやらんぞ! 死にに行くようなもんだ!」
「朝倉と浅井に挟まれたら、ひとたまりもない!」
武将たちが怒鳴り合っている。
その中に、一人だけ静かに立っている男がいた。
長身。
涼しい目。
整った顔に、何かを見定めるような光がある。
明智光秀だった。
藤吉郎と目が合った。
光秀が、先に言った。
「木下殿」
「明智殿」
「殿軍をやる気ですか」
「……やる気です」
「私もです」
二人して、少し黙った。
(この人も、同じこと考えとったか)
光秀が、静かに続ける。
「お互い、お荷物が多いですね」
「え?」
光秀は藤吉郎の眼鏡を、ちらりと見た。
「噂は聞いています。あの眼鏡、何か特別なものでしょう」
「……ただの眼鏡ですよ」
「そうですか」
光秀は、追及しなかった。
(この人……全部お見通しかもしれんがね)
◇
信長に申し出ると、一瞬だけ目が揺れた。
ほんの一瞬。
だが藤吉郎は、見逃さなかった。
「…………行け」
それだけだった。
信長は振り向かず、前だけを見て言った。
「生きて戻れ」
「はい」
「命令だ」
「……はい」
(大将。あんたは今、泣きそうになっとったな)
(わかっとるよ)
◇
夜、山道。
五百の兵で、朝倉・浅井の追手を引き受ける。
前方では信長の主力が、ナニワの示した山道を駆けている。
藤吉郎は光秀と並んで、後方を守った。
「木下殿、その眼鏡に聞いてみてください」
「何を?」
「敵の動きです。先手が読めれば、損害を減らせる」
藤吉郎は眼鏡に触れた。
「ナニワ、敵の追手は?」
『北東の山道に、おそらく二百から三百。東の林に、五十ほどの物見がいます』
「北東に三百、東の林に五十や」
光秀が、すぐに動いた。
「佐々を北東に。池田殿の一隊を東の林に先回りさせます」
「早い……!」
「無駄な思考は省くのが合理というものです」
(この人、ナニワみたいなこと言うがね)
◇
夜が深まるにつれ、追手との小競り合いが続いた。
刀の音。
松明の光。
泥と血と汗の匂い。
藤吉郎は荷駄隊を束ねながら、ナニワの声を聞き続けた。
『左から十二人。槍を持っています』
「左に槍衾!」
『右の岩陰に三人。弓です』
「右の岩、盾を!」
光秀が、隣で感心したように言う。
「木下殿、情報の出どころを聞いてもいいですか」
「野山の勘です」
「……そうですか」
また追及しない。
(この人、本当に賢いがね)
(敵に回したら、恐ろしいだろな)
その考えが浮かんだとき、藤吉郎は自分でも驚いた。
(なんでそんなことを思うんやろ……)
◇
夜明け前。
主力が山道を抜けたという知らせが来た。
「信長さまが、抜けた……!」
兵たちがどよめいた。
「退けーっ! 全軍、退けーっ!!!」
藤吉郎と光秀は、最後尾に並んだ。
「木下殿」
光秀が、静かに言った。
「今日のこと、忘れません」
「わたしもですよ、明智殿」
「……あなたは不思議な人だ。禿鼠と呼ばれておきながら、その眼には大きなものが見えている」
藤吉郎は、少し考えた。
「明智殿は? 何が見えてます?」
光秀は、東の空を見た。
夜明けの光が、山の端を染め始めていた。
「……理想、というものを」
「理想?」
「正しい世の形というものが、私には見えているような気がします」
「それは……」
「信長公と、重なるときもある。重ならないときも、ある」
それだけ言って、光秀は走り始めた。
藤吉郎は、その背中を見送った。
(重ならないとき……か)
胸に、何かが引っかかった。
◇
京に戻ったとき、信長は待っていた。
珍しく、自分から出てきた。
藤吉郎の顔を見るなり。
「……生きておったか」
「命令ですので」
信長は、一瞬だけ何か言いかけた。
言葉にならずに、消えた。
代わりに。
「ご苦労」
たった三文字。
だが、藤吉郎には十分だった。
(大将……あんたと一緒にいられて、よかったわ)
◇
その夜。
藤吉郎は一人で星を見ながら、ナニワに聞いた。
「今日の明智さん、どう思った?」
眼鏡の光が、ゆっくりと揺れた。
『……優秀な人物です。論理的で、感情的でなく、状況判断が速い』
「そやな」
『ただ……』
「ただ?」
『彼の中に、折り合いのつかない何かがあります。それが、いつか大きくなるかもしれません』
藤吉郎は、目を細めた。
(折り合いのつかない何か……か)
「ナニワは、未来を知っとるんやろ」
『……』
「明智さんは……どうなる?」
長い、長い沈黙。
『……今は、言えません』
「そっか」
藤吉郎は、それ以上聞かなかった。
知らなくていいことも、世の中にはある。
(今は、今を生きるだけや)
星が、静かに輝いていた。
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元亀元年(一五七〇年)四月。
金ヶ崎の退き口。
木下藤吉郎と明智光秀、背中を預け合う。
二人の道は、やがて──大きく、分かれていく。
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