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第九話:「退き口──禿鼠と麒麟が、背中を預ける夜」

元亀元年(一五七〇年)四月。

知らせは、夕暮れとともに来た。

「浅井が裏切った……!!!」

越前・金ヶ崎城。

藤吉郎は、その一報を聞いて三秒だけ固まった。

(浅井長政が……? 信長さまの妹婿が……?)

三秒で、現実に戻る。

状況は単純だ。

前に朝倉。

後ろに浅井。

四方が敵。

逃げ道は、ない。

「ナニワ」

『……はい』

声が、震えていた。

ナニワの声が震えるのを、藤吉郎は初めて聞いた気がした。

「逃げ道はあるか?」

長い、長い沈黙。

『……一つだけ、あります』

「言え」

『京へ向かう道。山間を抜ける細い山道です。敵はまだ封鎖していない。ただし、誰かが後ろで食い止めなければ、主力が逃げられません』

(誰かが……殿をやらなあかん)

藤吉郎は、立ち上がった。

本陣に向かうと、すでに騒然としていた。

「殿軍は誰がやる!」

「儂はやらんぞ! 死にに行くようなもんだ!」

「朝倉と浅井に挟まれたら、ひとたまりもない!」

武将たちが怒鳴り合っている。

その中に、一人だけ静かに立っている男がいた。

長身。

涼しい目。

整った顔に、何かを見定めるような光がある。

明智光秀だった。

藤吉郎と目が合った。

光秀が、先に言った。

「木下殿」

「明智殿」

「殿軍をやる気ですか」

「……やる気です」

「私もです」

二人して、少し黙った。

(この人も、同じこと考えとったか)

光秀が、静かに続ける。

「お互い、お荷物が多いですね」

「え?」

光秀は藤吉郎の眼鏡を、ちらりと見た。

「噂は聞いています。あの眼鏡、何か特別なものでしょう」

「……ただの眼鏡ですよ」

「そうですか」

光秀は、追及しなかった。

(この人……全部お見通しかもしれんがね)

信長に申し出ると、一瞬だけ目が揺れた。

ほんの一瞬。

だが藤吉郎は、見逃さなかった。

「…………行け」

それだけだった。

信長は振り向かず、前だけを見て言った。

「生きて戻れ」

「はい」

「命令だ」

「……はい」

(大将。あんたは今、泣きそうになっとったな)

(わかっとるよ)

夜、山道。

五百の兵で、朝倉・浅井の追手を引き受ける。

前方では信長の主力が、ナニワの示した山道を駆けている。

藤吉郎は光秀と並んで、後方を守った。

「木下殿、その眼鏡に聞いてみてください」

「何を?」

「敵の動きです。先手が読めれば、損害を減らせる」

藤吉郎は眼鏡に触れた。

「ナニワ、敵の追手は?」

『北東の山道に、おそらく二百から三百。東の林に、五十ほどの物見がいます』

「北東に三百、東の林に五十や」

光秀が、すぐに動いた。

「佐々を北東に。池田殿の一隊を東の林に先回りさせます」

「早い……!」

「無駄な思考は省くのが合理というものです」

(この人、ナニワみたいなこと言うがね)

夜が深まるにつれ、追手との小競り合いが続いた。

刀の音。

松明の光。

泥と血と汗の匂い。

藤吉郎は荷駄隊を束ねながら、ナニワの声を聞き続けた。

『左から十二人。槍を持っています』

「左に槍衾!」

『右の岩陰に三人。弓です』

「右の岩、盾を!」

光秀が、隣で感心したように言う。

「木下殿、情報の出どころを聞いてもいいですか」

「野山の勘です」

「……そうですか」

また追及しない。

(この人、本当に賢いがね)

(敵に回したら、恐ろしいだろな)

その考えが浮かんだとき、藤吉郎は自分でも驚いた。

(なんでそんなことを思うんやろ……)

夜明け前。

主力が山道を抜けたという知らせが来た。

「信長さまが、抜けた……!」

兵たちがどよめいた。

「退けーっ! 全軍、退けーっ!!!」

藤吉郎と光秀は、最後尾に並んだ。

「木下殿」

光秀が、静かに言った。

「今日のこと、忘れません」

「わたしもですよ、明智殿」

「……あなたは不思議な人だ。禿鼠と呼ばれておきながら、その眼には大きなものが見えている」

藤吉郎は、少し考えた。

「明智殿は? 何が見えてます?」

光秀は、東の空を見た。

夜明けの光が、山の端を染め始めていた。

「……理想、というものを」

「理想?」

「正しい世の形というものが、私には見えているような気がします」

「それは……」

「信長公と、重なるときもある。重ならないときも、ある」

それだけ言って、光秀は走り始めた。

藤吉郎は、その背中を見送った。

(重ならないとき……か)

胸に、何かが引っかかった。

京に戻ったとき、信長は待っていた。

珍しく、自分から出てきた。

藤吉郎の顔を見るなり。

「……生きておったか」

「命令ですので」

信長は、一瞬だけ何か言いかけた。

言葉にならずに、消えた。

代わりに。

「ご苦労」

たった三文字。

だが、藤吉郎には十分だった。

(大将……あんたと一緒にいられて、よかったわ)

その夜。

藤吉郎は一人で星を見ながら、ナニワに聞いた。

「今日の明智さん、どう思った?」

眼鏡の光が、ゆっくりと揺れた。

『……優秀な人物です。論理的で、感情的でなく、状況判断が速い』

「そやな」

『ただ……』

「ただ?」

『彼の中に、折り合いのつかない何かがあります。それが、いつか大きくなるかもしれません』

藤吉郎は、目を細めた。

(折り合いのつかない何か……か)

「ナニワは、未来を知っとるんやろ」

『……』

「明智さんは……どうなる?」

長い、長い沈黙。

『……今は、言えません』

「そっか」

藤吉郎は、それ以上聞かなかった。

知らなくていいことも、世の中にはある。

(今は、今を生きるだけや)

星が、静かに輝いていた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

元亀元年(一五七〇年)四月。

金ヶ崎の退き口。

木下藤吉郎と明智光秀、背中を預け合う。

二人の道は、やがて──大きく、分かれていく。

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