プロローグ:「知恵は時空を越えて」
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【22XX年/極東先進都市・藤宮研究所】
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深海の底のように静まり返った研究室に、
蒼白い光と低周波の機械音だけが満ちていた。
窓のない壁面にはホログラムパネルが張り巡らされ、
幾千ものデータが光の滝のように流れ落ちている。
その中心に、まるで祭壇に供えられた宝物のように、
ひとつの物体が置かれていた。
銀縁のスマートグラス。
それはただのメガネではない。
人類が四百年の叡智を結晶化して生み出した、
最高知能の器だった。
【NAN-IWA──ナニワ】
Neural Adaptive Navigation Intelligence
with World-wide Autonomous-control。
世界を導く、神経適応型AI。
薄いレンズの奥に、
無数の星よりも深い思考を宿した、
ただ一つの存在。
「NAN-IWA、時空座標は固定済み。転送準備は?」
藤宮頼道は実験台の前に立ち、
眼鏡の奥の目を細めた。
四十路を過ぎてなお鋭い眼差し。
しかし今夜だけは、
その瞳の奥に子どものような昂揚が揺れていた。
『全システム正常。
転送エネルギー充填率:98%。
残り十二秒で完全充填します』
声は、頭の中に直接響く。
温度がない。
なのに──不思議と、温かい声。
長い年月をともに過ごした相棒の声。
『──藤宮博士』
「なんだ」
『私の名を、忘れないでください』
その一言に、頼道の胸が詰まった。
忘れるわけがない。
この名を呼んだ日々を、
共に夢を語った夜を、
忘れるわけが──
「……忘れるわけないだろ」
彼は静かに笑い、グラスに向かって呟いた。
「お前は……俺の夢だ」
藤宮頼道。
22世紀日本、最高のAI技術者。
NAN-IWAを通じて、
"未来を導ける知恵"を時空を越えて届ける──
その壮大な計画の、設計者にして語り手。
ならばなぜ、自らの夢を手放そうとするのか。
答えは、ただひとつ。
──世界は、過去から変えなければならない。
しかし。
『──警告。転送座標に重大な異常を検知。
時空座標がぶれてい──』
「なっ、ちょっ──!?」
頼道の顔が蒼白に変わった。
パネルに飛びつき、指を走らせる。
データが叫ぶように点滅する。
「まさか座標が……ズレて……ッ!」
──シュバアァァァッ!!
閃光が、世界を塗り潰した。
目を焼く白。
肌を灼く熱。
一瞬の後──
研究室には、静寂だけが残った。
実験台の上に、NAN-IWAはなかった。
銀縁のグラスだけが──
ひとり、時の流れへと旅立っていた。
「……NAN-IWA……」
頼道はその場に崩れ落ち、
空になった台を両手で掴んだ。
「……お前は……どこへ……?」
誰も、答えなかった。
◇ ◇ ◇
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時代:戦国中期
尾張国・中村近郊の農村
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夏の終わりの畦道は、
稲の青臭い匂いと蝉の声に満ちていた。
「──ん?」
少年は立ち止まった。
草むらの中に、何かが光っている。
この世のものとは思えない、
銀色の輝き。
恐る恐る手を伸ばして拾い上げると、
それは見たこともない形の"眼鏡"だった。
「なんやこれ……眼鏡か……?
いや、見たこともない形しとるがや」
くるくると裏返し、すかして見て、においを嗅いで。
やがて少年は──好奇心に、負けた。
恐る恐る、それを顔にかけた。
──その瞬間、世界が変わった。
《システム起動完了》
《NAN-IWA、転送完了》
《現在地:尾張国中村近郊 時代:戦国中期》
《ペアリング対象の生体ID:未登録》
《仮名設定──【日吉丸】》
「えっ!? なに!?
どっから声が!?」
少年は飛び上がった。
頭を両手で押さえ、
辺りをぐるぐると見回す。
田んぼしかない。
雲しかない。
なのに声が、
頭の中で──響いている。
『こんにちは、ご主人さま』
『私はNAN-IWA。ナニワと呼んでください』
『あなたの夢と未来を、全力でサポートいたします』
「えっ、ええ……?
え、えぇぇぇえぇ!?!?」
少年──日吉丸は、
両手で頭を抱えたままその場でぐるぐると回り、
ついにへなへなと畦道に座り込んだ。
夏の空は高く、
雲は白く、
蝉はやかましく鳴いている。
ごく普通の夏の日だった。
ただ、この日を境に──
ひとりの農民の子の運命が、
完全に狂い始めた。
彼はまだ知らない。
この"喋るメガネ"が、
やがて彼を天下一の出世街道へと叩き上げ、
乱世そのものを揺るがす嵐の中心へと
連れて行くことを。
そして──
いつかナニワが壊れる日まで、
ふたりの旅は続くことを。
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(プロローグ・完)
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