返す日も、物語の途中
渡すまでがバレンタイン、渡した後が物語
の続きのお話しです。
三月十四日の朝は、二月の朝より少しだけ軽い。
空気の冷たさが「刺す」から「触れる」に変わっていて、校門を抜ける風に、ほんの少し春の匂いが混ざっている。
それなのに、私の心臓だけは二月のままだ。
むしろ、よけいに忙しい。
(ホワイトデー)
昇降口で上履きに履き替えながら、私はリュックの口をのぞきこんだ。
……何も入っていない。入っているはずもない。
確認したいのは荷物じゃなくて、自分の期待のほうだ。
「日菜、おはよ」
背中から声がして、私は反射で肩をすくめた。
振り向くと茉莉が、いつも通りの顔で、いつも通りじゃない目をしている。
「おはよ……」
「今日ね」
「言わないで」
「言わない。けど、顔に書いてある」
茉莉は笑って、私の額を指で軽くつついた。
「“期待してません”って」
「それ、期待してる人の顔だよ」
「だから書いてあるって言ってる」
ひどい。
でも否定できない。
二月十四日。私は渡した。
渡して終わりじゃなくて、渡した後が物語だと言われて。
薄い月が浮かぶ廊下で、言い訳を捨てて。
それから一ヶ月。
私と蓮先輩の「駅までの五分」は、少しずつ増えた。
五分の日もある。
十分の日もある。
自販機で缶ココアを二本買って、改札の前で少しだけ話す日もあった。
私は、少しずつ慣れてきた。
先輩と歩く道の歩幅に。
会話の間に。
でも今日は、慣れたくない。
今日は、ちゃんと怖い。
返ってくるかもしれない日。
返ってこないかもしれない日。
(期待しない、期待しない、期待しない)
念仏みたいに心の中で唱えると、逆に期待の輪郭が濃くなるのが困る。
⸻
午前中は卒業式の片付けで、校内がいつもより落ち着かなかった。
三年生の教室から運び出された花台や椅子が廊下に並び、体育館の扉の向こうからは笑い声と、少しだけ寂しい空気が漏れてくる。
「先輩、今日、生徒会室来ますかね」
作業の合間に、私はつい口に出してしまった。
「来るでしょ。蓮先輩、責任感の塊だもん」
茉莉が即答する。
責任感の塊。
それが先輩の良いところで、たまに、私を不安にするところでもある。
(責任で返すのか、気持ちで返すのか)
そう考えた瞬間、頬が熱くなった。
(……何考えてるの、私)
⸻
昼休み。
私は食堂に向かうふりをして、昇降口のほうへ歩いた。
窓際の廊下はまだ冷たくて、頭の中の余計な音を止めてくれる。
そこに、モップの音があった。
清掃員の斎藤さん。
背が高くて、声は低いのに柔らかい。話し方が、包む感じの大人。
斎藤さんは床の光り具合を確かめながら、きれいなところをさらにきれいにしていた。
慌てない動きは、見ているだけで深呼吸になる。
「お、日菜さん。こんにちは」
「こんにちは……」
「今日は、目が忙しいな」
私は一瞬だけ黙って、観念した。
「……忙しいです」
「だろうな」
斎藤さんは笑いもせず、当たり前みたいに言う。
「返す日ってのは、渡す日より落ち着かない」
「どうして分かるんですか」
「床ってのはな、足の裏の気持ちが出るんだよ」
「出ませんよ」
「出る」
即答がずるい。
私は笑いそうになって、でも笑うと緊張までこぼれそうで、口元を押さえた。
斎藤さんはモップを止めずに続ける。
「合図ってのは、返事が来るまでが一番怖い。けどな」
モップが床をすべって、きゅ、と小さく鳴った。
「返事がどうであれ、合図を出したやつは、もう一段強い」
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
「……私、強いですか」
「強い。少なくとも、二月の自分よりは」
斎藤さんの言葉は短いのに、温度がある。
「で、日菜さん」
「はい」
「返ってきても、返ってこなくても、顔は落ち着かないだろ」
「……はい」
「だったら、困っていい。困ったまま歩け」
斎藤さんはモップをひと息動かして、ぽつりと付け足した。
「物語ってのは、そういう日で増える」
私は小さく頷いた。
困っていい。
それだけで、今日を歩ける気がした。
⸻
放課後。
生徒会室は紙とテープと段ボールの匂いがした。
片付け途中の机の上に名簿や備品リストが広がり、誰かのハサミの音が小さく響く。
「日菜、これ仕分けお願い」
「はい!」
返事は元気にできる。手も動く。
なのに耳だけがずっと、廊下の足音を探している。
(来るかな)
(来るよね)
(期待しない)
期待しないと思うほど、期待が立ち上がってくるのがほんとに嫌だ。
そのとき、生徒会室の扉が開いた。
「遅くなった」
聞き慣れた声。
蓮先輩が入ってきた。コートの裾に冷たい空気を連れて、髪が少しだけ乱れている。
「先輩、お疲れさまです」
声が裏返らないように、私は丁寧に言った。
先輩は私を見て、目を少し細める。
「日菜もお疲れ。……落ち着かない顔してる」
心臓が跳ねた。
「してません」
「してる」
「……たぶん」
「たぶん、も落ち着かない」
先輩が少し笑った。
二月より、近い笑い方だった。
作業はいつも通り進んだ。
先輩は段取りが早い。手が迷わない。
私はその背中を追いながら、今日の“返事”のことだけが頭から離れない。
やがてひと段落して、先輩が鍵を閉める時間になった。
廊下に出ると、窓の外は夕方。
二月の薄い月とは違って、今日は空が少し明るい。春の手前の青だ。
先輩が鍵を閉めて、私の横に並ぶ。
「日菜」
「はい」
「駅まで、歩く?」
いつもの合図。
いつもの続き。
「はい」
頷いた瞬間、今日を“いつもの日”のふりで終わらせてしまいそうで、焦った。
(今日は、いつもじゃない)
⸻
外はまだ冷たい。
でも二月の冷たさとは違う。歩けばちゃんと温まる冷たさ。
駅までの道。
私たちは少しだけゆっくり歩いた。先輩が、私の歩幅に合わせているのが分かる。
自販機の明かりが見えたところで、先輩が立ち止まった。
「日菜、これ」
先輩は鞄から小さな紙袋を出した。
白くてシンプルで、余計な飾りがない。
でも角がきれいで、持ち手のひもがねじれていない。
丁寧に選んだのが、見ただけで分かる。
私は息を止めた。
「……え」
「今日だろ」
先輩は少し照れたみたいに視線を逸らす。
「遅いと思った?」
「……思ってません」
嘘だ。
一日中思ってた。
「思ってた顔してる」
先輩が笑って、紙袋を私の手の上にそっと置いた。
置き方が、二月に私がチョコを渡した時と同じくらい丁寧で、胸がきゅっとなる。
「ありがとうって言うのも、遅いけど」
「二月、言ってました」
「言った。でも、足りなかった」
先輩は息を吸って、まっすぐ言った。
「日菜がくれたの、甘すぎないやつって言ってたろ。あれ、すごく嬉しかった」
私は紙袋を持ったまま固まった。
「覚えてたんですか」
「覚えるよ」
即答。
ずるい。
「俺も、甘すぎないやつがいいと思って。……選ぶの、意外と難しかった」
先輩が苦笑する。
その顔が、少しだけ子どもっぽく見えた。
「家で開けて」
「……はい」
「でも、ひとつだけ。今、言っていい?」
先輩の目が私を捕まえた。
逃げ道がない目。
でも、逃げない。
私は頷いた。
「……はい」
先輩は少し唇を噛んでから、言葉を選ぶみたいに話し出した。
「俺、忙しくなるって言っただろ。あれ、言い訳にしたくなかった」
「言い訳……?」
「忙しいからって、距離が減るのが当たり前になるのが嫌だった」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「二月の日菜、すごかった」
「……すごくないです」
「すごい。渡すって決めて、渡した。逃げなかった」
先輩は困ったみたいに笑って、でも目は真剣だった。
「だから、俺も逃げないって決めた」
心臓が、二月より大きく鳴った。
「日菜」
名前で呼ばれるだけで、足元がふわっとする。
「これからも、帰り道、一緒に歩きたい」
先輩は、ちゃんとした声で言った。
「五分じゃ足りない日も増やしたい。……ダメ?」
私は紙袋をぎゅっと握った。
潰れない程度に。自分の心が逃げない程度に。
「……ダメじゃないです」
声が震えた。でも言えた。
「増やしたいです。私も」
先輩の肩がふっと落ちた。
息を吐いたみたいに、少しだけ安心した顔になる。
「よかった」
その一言が、春の匂いみたいにやさしい。
⸻
改札の前。
いつもの場所。いつもの別れ。
でも今日は、紙袋が私の手にある。
中身の重さが、二月の箱とは違う重さで、私の手を温めている。
「……開けるの、帰ってからですね」
「うん。落ち着いて」
「はい」
少し沈黙が落ちた。
でもその沈黙は怖くない。
先輩が言った。
「今日、斎藤さんに会った?」
「会いました」
「なんか言われた?」
私は迷ってから、正直に言う。
「“困っていい。困ったまま歩け。物語ってのは、そういう日で増える”って」
先輩が笑った。
「それ、正しい」
「先輩もそう思います?」
「思う」
先輩は少しだけ間を置いて、続けた。
「……日菜が困ってる顔、嫌いじゃない」
「え」
「今のは忘れて」
「無理です」
「じゃあ、覚えてて」
先輩が照れたみたいに視線を逸らす。
その照れが、二月よりずっと近い。
電車の到着音が鳴った。
「じゃあ」
先輩が軽く手を振る。
私も手を振る。
そのとき先輩が、もう一度言った。
「日菜。今日、ありがとな」
私は紙袋を胸に抱えて頷いた。
「こちらこそ……ありがとうございます」
先輩が改札の向こうへ消える。
私はガラスに映る自分を見た。
まだ落ち着かない顔をしてる。
でも、悪くない。
返す日も、物語の途中。
私は紙袋の中身を想像して、ふっと笑った。
春はまだ遠い。
でも帰り道は、もう少しだけ長くなっていく気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
バレンタインが「合図を出す日」なら、ホワイトデーは「合図を受け取って、また出し返す日」だと思っています。待つ側の落ち着かなさ、返す側の不器用さ。その両方があるから、たった一言が重くなる。そんな静かな熱を描きたくて、この続きを書きました。
自販機の明かりは、冬と春の境目の小さな舞台です。紙袋の角のきれいさや、持ち手のひもの整い方に「丁寧さ」を込めました。
日菜の“忙しい顔”も、恥ずかしいのに愛しい忙しさ。物語が動いている証拠です。
春はまだ遠くても、帰り道は少しずつ長くなる。そんな余韻が残っていたら嬉しいです。




