S2:開始5秒で魔王になった件
暗い。
異世界に来て、最初に意識したのはそれだった。
そして次の瞬間――圧倒的な何かを感じた。
言葉にできない。ただ、本能が叫んでいる。「逃げろ」と。
現実では決して感じることのなかった、純粋な恐怖。それが私の全身を駆け巡った。
気づけば、私は失禁していた。
恥ずかしいとか、そんな感情すら湧かない。ただ、圧倒的な何かの前で、体が勝手に反応してしまった。
そして――。
視界がぼやけ、意識が遠のいていく。
最後に見えたのは、巨大な何かが倒れる光景だった。
◆◆◆
彼には、ずっと罪の意識があった。
身体はスキル「憤怒」に飲み込まれ、自由に動かすことはできない。だが、意識だけははっきりと残っていた。
2000年。
気の遠くなるような時間、彼は自分の身体を取り戻そうと試み続けた。何度も、何度も。だが、「憤怒」の支配は強固で、わずかな隙も与えてくれなかった。
そして、ある日。
目の前に、突然小さな生物が現れた。
カメムシだった。体長わずか数センチの、か弱い虫。
だが、スキル「憤怒」により常時発生している覇気が、その小さな命を襲った。カメムシは恐怖のあまり、防御本能を発動させた。
刺激臭。
カメムシが身を守るために放つ、強烈な異臭。
普段なら気にも留めない程度のものだ。だが、2000年間スキル「憤怒」によって身体能力が極限まで向上し続けた彼の嗅覚には――それは毒だった。
一瞬、たった一瞬だけ、「憤怒」が怯んだ。
その瞬間を、彼は逃さなかった。
2000年待ち続けた、ほんの一瞬の隙。
彼は身体の主導権を取り戻すと、すぐに行動した。「憤怒」が再び身体を奪い返す前に、目の前の小さな生物に自分の権能を託した。
直感だった。
この小さき者なら――この世界を、蟲の世界を救ってくれる。
そう信じて。
これまでの罪を償うために。
蟲魔王は、自らの命を絶った。
◆◆◆
「目が覚めましたか?」
柔らかな声が聞こえた。
ゆっくりと目を開けると、目の前にはとても美しい女性が立っていた。白と淡い青を基調とした優雅なドレスに身を包み、背中には大きな天使の翼。頭上には光輪が輝いている。その姿はまさに、絵画に描かれる女神そのものだった。
「ここは……?」
そうだ、私は楽しみにしていたゲームを開始して――それから、何か恐ろしいものを感じて――。
「あなたは蟲魔王のオーラを感じて、気を失ってしまいました」
女性が優しく微笑む。
「蟲魔王?」
慌てて周囲を見渡すが、それらしき存在は見当たらない。
「蟲魔王は、あなたが倒しました」
「倒した? 私が?」
何を言っているんだ、この人は。
それより、待って。なんで私、普通に会話できてるの?
私、魔物でプレイを始めたはずなのに。カメムシになったはずなのに。
自分の姿を見下ろすと――そこには、初期設定で作ったアバターの姿があった。銀髪に赤い瞳の、人間の姿。
「混乱しているでしょうが、これまでの経緯をお話ししますね」
「経緯って……というか、あなた誰?」
「ああ、そういえばまだ名乗っていませんでしたね」
女性は優雅に一礼した。
「私の名前はアイシア。この世界を管理している者です」
「管理? ゲームの管理AIってこと?」
「いえ」
アイシアは首を横に振った。
「この世界は、ゲームではありません」
「……え?」
「まずは、あなたが蟲魔王を倒した経緯を説明しましょう」
アイシアが語り始める。だが、混乱しすぎて話が頭に入ってこない。
私が蟲魔王を倒した? この世界はゲームじゃない? どういうこと?
「あなたの種族は、カメムシでした」
「え? カメムシ?」
思わず声が裏返った。
「はい。そして、あなたのスポーン地点は――蟲魔王の目の前でした」
「なんで!?」
「さあ? プレイヤーのスポーン地点は精霊たちに任せているので、詳しくは分かりませんが」
アイシアは申し訳なさそうに微笑む。
「おそらく、担当の精霊が適当に決めたら、たまたまそこだったのでしょう」
「適当って……」
「はい。精霊にも色々な性格の者がいますので。なぜ蟲魔王の目の前だったのかは、私にも分かりません」
頭が痛くなってきた。
「で、どうやって蟲魔王が倒れたの? まさか私が戦ったわけじゃないでしょ?」
「あなたが蟲魔王のオーラを浴びて、恐怖のあまり失禁しました」
「うっ……」
思い出したくない記憶が蘇る。
「同時に、カメムシ特有の防御フェロモン――強烈な刺激臭が放たれました」
「防御フェロモン?」
「ええ。カメムシは危険を感じると、身を守るために刺激臭を放ちます。あなたも無意識に発動させたようです」
アイシアは続ける。
「その刺激臭があまりにも強烈で、蟲魔王が……倒れたと考えられます」
「……つまり、私の臭いで蟲魔王が死んだの?」
「監視役の精霊の証言によれば、そのようです」
アイシアが少し困ったような表情を浮かべる。
「精霊の証言?」
「はい。蟲魔王は大昔に暴走し、封印されていました。その封印が解けないよう、監視役の精霊を配置していたのです」
アイシアは説明を続ける。
「その精霊によると、あなたが蟲魔王の前に現れた直後、強烈な異臭が発生したそうです。あまりに臭かったので一時退避し、戻ってきたら蟲魔王が倒れていたと」
「精霊、逃げたんだ……」
「ええ。ですので、正確な状況は誰も見ていません。ただ、状況証拠から判断すると、あなたの刺激臭が原因で蟲魔王が倒れたという結論になります」
「なるほど……?」
まだ実感が湧かない。
「その証拠に、あなたは蟲魔王の権能を引き継いでいます」
「え?」
「『ステータスオープン』と唱えてみてください」
言われるままに、私は呟いた。
「ステータスオープン」
目の前に、半透明のウィンドウが現れた。
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名前:サラ
種族:蟲魔王
スキル:「異臭」「憤怒」「艶美」……
加護:「女神アイシアの加護」
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「うわ……」
ずらりと並ぶスキルのリスト。
スキル「異臭」が、元々カメムシが持っていた固有スキルだろう。そして「憤怒」や「艶美」が、蟲魔王から引き継いだスキル。
「スキル『憤怒』や『艶美』は、支配者階級のスキルです」
アイシアが説明する。
「支配者階級のスキルは、そのスキル保持者を倒すか、保持者に認められてスキルを譲り受けるかしないと手に入りません。つまり、あなたが蟲魔王を倒した――あるいは、認められたということです」
「認められた?」
「ええ。もしかしたら、蟲魔王があなたを認めてスキルを譲り、自害した可能性もあります」
アイシアは少し考え込むような表情を見せた。
「ただ、そうする理由が思いつきません。ですので、やはりあなたの刺激臭で倒れた、と考えるのが自然でしょう」
「一応、私はレディなんだけど……そんなに臭い臭いって言われると、ちょっと傷つくんだけど」
「あら、ごめんなさい」
アイシアがくすりと笑った。
「では、蟲魔王を倒した経緯の説明はここまでにして――この世界がゲームではないということについて、お話ししましょうか」
その言葉に、私の背筋が凍った。
ゲームじゃない?
それって、つまり――。
「この世界の成り立ちについて、説明させていただきますね」
アイシアが優しく、しかし真剣な表情で語り始めた。
そうして、私はこの世界の真実を知ることになる。
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