第8章。 『空間に裂ける真実。』
血の匂い、裏切りの炎、森の奥から現れた。
空を飛ぶバイク、背中に走る焼けるような痛み――
レオンハルトは魔術の代償に倒れ、ミュラー先生とリッカの独自の治療に翻弄される中、再び力の使い方を問われる。
一方その頃、東部森林地帯ではヘレナが仲間に囲まれながら、かつての部下たちと非情な戦いに身を投じていた。
『殺さない』――その決意の裏で、徐々に追い詰められていく彼女の前に現れたのは、炎を操る副隊長、そして……この世界に属さぬ何か。
叫びと火の雨が交差するその森で、信頼と裏切り、命の重さが試される。
そして、最後に現れたのは――『ファクション』。
かつてない混沌と、謎の組織の影。誰が敵で、誰が味方なのか。
首相官邸。
会議室は青白い薄明かりに包まれていた。中央の会議テーブルには浮遊するスクリーンと、一定の間隔で魔力を脈動させるルーン柱が並んでいる。
ここは評議会の会議場とは異なっていたが、アイリーンが招集した緊急会議を行うには十分な機能を備えていた。
次々とヴィレリア全土に散らばる秘密ノードから、各司令官の半身ホログラムが投影されていく。
接続は完全に暗号化され、安全かつ突破不可能——少なくとも、彼女たちはそう信じていた。
そして、中央の席にはアイリーン・アルヴェルト司令 本人が実体として座っていた。
その軍服の上には、黒地に金の縁取りが入った外套が重ねられ、胸元にはアルヴェルト家の紋章と、かつての国境戦争で得た数々の勲章が輝いていた。
それはまるで、他の誰よりも高みに立つことを求めるかのような姿だった。しかし、それ以上に印象的だったのは、彼女の表情。——冷徹。決意。ほとんど頑ななほどの強さを宿していた。
アイリーンの鋭い視線が、投影された各司令官の顔を一人ずつ見据える。
「ヴィレリア軍の司令官の皆様……緊急招集に応じてくださり、感謝いたします。残念ながら、今回お伝えする内容は極めて深刻なものです」
その声には氷のような冷たさがあったが、同時に確かな響きがあった。彼女の言葉の残響が会議室に広がり、やがて静かに収束していく。
「私は中央地区司令官として、そして内政防衛の責任者として、
現在我が軍内に潜む反逆組織の存在を正式に報告します。その名は――《ファクション》。この組織は、我々の軍に潜伏しながら政府に対して反旗を翻す行動をとっています」
ホログラムの向こう側で、いくつかの司令官たちがわずかに眉をひそめる。
静かなざわめきと、抑えきれないため息が微かに響いた。
それでもアイリーンの口調は揺るがない。
「現在、明確に確認されているメンバーは以下の通りです。
反逆者――ヘレナ・フォン・ライゲンシュタール小隊長。元軍医にして現在逃亡中のサラ・ミュラー先生。特殊任務班出身の魔導士リッカ・リューベック。そして身元を偽装されていた元兵士レオンハルト・ヴィレル」
空中にそれぞれの顔写真と詳細情報が映し出された。まるで、戦場の駒が一つずつ落とされるように。
「彼らは機密情報を所持し、軍の避難所や兵の士気に対して直接的な破壊行動を行いました。ついては、即時の拘束作戦の承認を要請します。ヘレナ・フォン・ライゲンシュタールに至っては、未承認の試作兵器——飛行型機動魔導車両を強奪し、今まさに我々のエリート部隊と交戦中です」
都市監視カメラの映像が切り替わり、ヘレナの戦闘の様子が記録として投影された。
「さらに、通信追跡の結果、他の三名は東部森林地帯バンカー区域に潜伏していることが判明。すでに部隊を派遣し、確保に動いております」
重い沈黙が会議室を包み込んだ。
最初に口を開いたのは、南部国境防衛隊司令官であるアネット・グリューネヴァルトだった。
広がるホログラムの中でも彼女の存在感は群を抜いていた。鮮やかなエメラルドグリーンの髪を太い三つ編みに結い、制服の前をわずかに開けたその姿からは、数々の勲章が覗いていた。
それは『もはや証明する必要などない』という実績の証そのものだった。
「アルヴェルト殿。緊急性のある話であることは理解しています。ですが、承認云々の前に……一つだけ、避けて通れない質問があります」
その声は控えめながらも、鋭く全員の注意を引いた。腕を組んで、彼女はまっすぐにアイリーンを見つめる。
「反逆の話をする前に、答えていただきたい。——女王陛下は今どこにおられるのですか?緊急事態においては、必ず陛下、あるいはそれに準ずる立場の者が出席するはずです」
それは、静寂な池に石を投げ込んだような鋭い一撃だった。
他の司令官たちも、息を呑みながらこの見過ごしていた事実に気づき始める。何人かは目を細め、アイリーンの返答を待った。
アイリーンは唇を噛みしめた。
「……これも本会議の議題の一つです。ご存知の通り、女王陛下は以前より肺の持病を患っておられました。残念ながら——数日前に、容態が急変いたしました」
その言葉に、会議室中がざわついた。
情報が共有されていなかったことに、多くの司令官が驚きと苛立ちを露わにする。
すぐにアネットが声を張った。
「数日前? 陛下の容態が急変したのが『数日前』で、今日になってようやく私たちに知らされるのですか?反逆者の件がなければ、この会議さえ開かれなかったのでは?そんな状態で、どうやってあなたの言葉を信じろというのです? 陛下の現在の容態は?」
アイリーンの額にうっすらと汗が浮かんでいた。
正面からの問いに気圧されながらも、彼女は口を開く。
「し、陛下の容態は現在、専門の医療班によって確認中です。皆様もご存知の通り、陛下の体調は数ヶ月前から不安定でした。戦時中に不用意に情報を開示すれば、敵に我が国の脆さを晒すことになります。それこそが今回の会議の本来の主旨であり——」
言葉を整え、どうにか理詰めで場を収めようとするアイリーン。さすがは軍総司令官と呼ばれるだけの人物だった。
だが、アネットはそれでは納得しなかった。
「最初にそれを言えばよかったのです。あなたが最初に語ったのは反逆、内部崩壊、派閥の脅威でした。陛下の病状について言及したのは、私が問いただしてからです。それに——フォン・ライゲンシュタール隊長の経歴と功績を、ここにいる全員が知っているはずです。そんな彼女が、理由もなく裏切るなど……信じられません」
見えない亀裂が、空気に走った。
そこへ、最年少の司令官であるソフィア・ウェーバー中佐が口を挟んだ。
その態度は相変わらず小生意気で挑発的だったが、今回は不思議なことに——場を鎮める立場に回った。
「お二人とも……一理あります。ですが、今は内部の対立に労力を使う時ではないと思いますよ?」
視線を静かにアイリーンに送る。
「焦った行動は、むしろ我々を引き裂こうとする者たちにとって好都合ですから……ふふっ」
小さな皮肉を含んだ笑いと共に、ソフィアは話を締めくくった。
アイリーンは唇を引き結ぶ。議論の主導権が、次第に自分の手から離れていくのを感じていた。
——その時だった。
テーブル中央に新たなホログラムが浮かび上がった。
アイリーンの背後に座っていた存在、今まで黙ってこの騒動を見守っていたアストリッドが、ついにその沈黙を破った。
「ご心配、感謝いたします。皆様もご存じの通り、この数日間、私は女王陛下に付き添っておりました。しかし、現在の状況を鑑み——臨時的に政権の指揮を執る必要があると判断いたしました」
アストリッドの口調は、先ほどまでのアイリーンとの私語とは異なり、まるで高位の外交官のように冷静かつ上品だった。
「……つまり、陛下はすでに崩御なされた、ということでしょうか?もしそうであれば、本来は同じ王族の中から次代が立たれるべきでは?」
ある司令官が中立的な声色で問いかけた。
アストリッドは直接の答えを避け、わずかに頭を下げた。
「……今必要なのは、混乱を最小限に抑える指導力です。敵国にこの隙を突かれるわけにはいきません…だからこそ、正式な継承については後日、事態が落ち着いてから慎重に議論すべきと考えました」
幾つかのホログラムが互いに視線を交わす。
アイリーンとアストリッドの説明には多くの矛盾が残っており、それに気づいた司令官もいたが、若手の一部は頷いていた。
議会は確実に、分裂の兆しを見せていた。
アネットの顔には、一切の信頼が消えていた。
彼女は最初から、アイリーンの発言もアストリッドの言葉も信じていなかった。
そんな中、再びソフィア・ウェーバー中佐が口を開いた。
「ふうん……それにしても、アルヴェルト司令 。たしか、裏切り者を捕えるために魔導兵を派遣したとか言ってましたよね?でも本気で、あの程度の部隊でフォン・ライゲンシュタール隊長やリッカ・リューベックを抑えられるとでも?」
その声は冷ややかだった。
「……まるで、彼女たちの実力を知らないかのよう。もしかして——わざと死なせようとしてるんじゃありません?」
「わ、私は……我が軍の魔導兵を、心から信じております」
アイリーンは声を震わせながらも答えた。
だがその答えに、ソフィアは露骨に笑い出した。
「ふふふ……本気で言ってるの?じゃあこうしましょう。議会の承認が得られれば——東部森林地帯に特別増援部隊を派遣することを提案します…アルヴェルト司令が送った子たち、きっと感謝してくれるはずよ?」
アイリーンはソフィアの提案に驚いたように視線を向けた。
「……追加部隊など、必要ないと思いますが。皆様はどうお考えでしょうか?」
アイリーンの問いに、全員が同意の意を表した。
「ええ、当然でしょう?我々は同じ陣営に立つ仲間なのですから。仮に裏切りが真実だったとしても、魔導兵の損失は避けるべきです。ヘルマールの森の事件以来の停戦状態も、長くは続かないでしょう。兵力を温存するのは戦略上の義務です」
アネットの言葉には、誰も反論できなかった。
「それでは……お邪魔でなければ、私の部隊から増援を派遣させていただきますね」
ソフィアが口元に笑みを浮かべながら言った。
誰も反対しなかった。
唯一反応しなかったのはアイリーンであり、アストリッドですらその提案に異を唱えることはなかった。
ソフィアは抑えきれない満足感を隠そうとしたが、その余裕のある微笑は、会議の勝敗を物語っていた。
最終的に、アイリーンは無理に波風を立てることを避け、ウェーバー中佐による増援部隊の派遣を了承した。
また、王位継承に関する議題は、後日改めて王族の出席のもと議論されることが決定された——
が、実質的にはアストリッドが主導権を握ったままとなった。
会議が終了し、ホログラムが一人、また一人と消えていく中——
空気の中に漂ったのは、言葉にできない不協和音だった。
かつては安全保障と戦略的団結を目的とした軍事評議会であったが......今では、相容れない理想と野心によって目に見えて分裂したグループとなった。
***
東部森林地帯。【レオンハルトの視点】
枯れ枝を踏みしめるたび、不規則に、苦しげに音が鳴った。まるでこの森そのものが、我々の存在を嫌っているかのように。
湿った空気が肌にまとわりつく。霧から来るものではない。
それは、まるでこの世界に属さない何かがもたらした気配だった。
俺の足はようやく動きを取り戻しつつあった。痺れは少しずつ収まり、感覚が戻ってくるのが分かる。
だが、残る微かな痺れは、あの強力な魔力を使った代償——
俺の身体が、まだ未完成であるという現実を思い知らせていた。胸に巻かれた包帯は、あの『何か』との戦闘で負った傷の証だ。
《……はぁ、こっちの世界ならもっと無敵かと思ってたのにな》
先頭を歩くのはリッカだった。彼女は警戒を怠らず、道中の脅威を察知すれば即座に対応できるようにしていた。
その表情は鋭く、冷たい刃のよう。肩まで伸びた赤髪は、ミュラー先生が肩に浮かせている魔法の光源に照らされ、幽かな光を帯びていた。
先生は真ん中を歩き、リッカに進行方向を指示している。
俺は後方からついていく形だった……いや、ついていこうと必死になっていた、というのが正しい。
ヘレナと別れてから数分が経過した。彼女のことが頭から離れない。
あれほどの精鋭部隊と交戦している今、どれだけ強くても無事でいる保証はない——
そんな思考を読んだのか、リッカがふと振り返る。
「レオン、さっきからずっと黙ってるけど……大丈夫?」
「えっ? あ、うん。大丈夫。ちょっと疲れてるだけ、道が長かったしね」
そう返したが、リッカは納得していないようで、俺の目の前でぴたりと立ち止まった。
「……ヘレナのこと、心配してるんだね?」
もう、隠す意味はなかった。
「正直に言うと……そうだ。あの部隊を相手に、彼女一人で大丈夫だったのかって、どうしても不安でさ」
リッカは小さくため息をついた。
「そっか。まだあまり彼女のこと、知らないもんね。でもね、レオン……信じて。あの人、私よりも強いよ。あの程度の部隊じゃ、かすり傷一つ負わせられない」
「……そうだな。分かってても、やっぱり気になっちゃうよ」
そう呟きながら、俺は首筋を揉んだ。
すると、リッカが少しだけ微笑んで、冗談を口にした。
「もう〜……ちょっと嫉妬しちゃうなあ。私のことも、それくらい心配してくれると嬉しいんだけどな〜?」
今回は色気や軽い挑発ではなく、場を和ませるために言ってくれたのだと分かる。
その優しさが、ちょっとだけ心に沁みた。
「……もちろん、君のことだって心配するさ。何かあれば、絶対に」
「ふふ、頼りにしてるよ」
そんな空気を破るように、前方から煙草の香りと共に声が飛んできた。
「ちょっと、そこの二人。イチャイチャしてる暇ないでしょ。小屋はもうすぐそこ。ヘレナが時間を稼いでくれたのよ、無駄にしないで」
ミュラー先生が、咥えた煙草から小さく煙を立てながら言った。
彼女の声に我に返り、俺たちは足を速めた。
「あと少しだよ」
リッカが振り返ることなく、決意のこもった声でそう言った。
俺は黙って頷いた。汗が目に染みる。胸の包帯はびっしょり濡れていて、肋骨からの圧迫感が、まだ全快ではないことを物語っていた。
その時だった。小屋が見えてきたかというその瞬間——空気が揺れた。
そして、影が木々の間をすり抜けた。
次の瞬間、喉の奥から絞り出すような咆哮。それに続くのは、骨が砕けるような枝の音。
「強力な魔力を感じる……! 散開して!!」
リッカの声が響いたが、遅かった。
右側から現れたのは、異形の怪物だった。
巨大な猫科の獣のような形をしていたが、頭部は無数の牙と非対称の角が生えたおぞましい塊。膨張した魔力が渦巻く胴体、暗黒の痕跡が脈打つ結晶のような皮膚。
目は、形容しがたい色に光っていた。
名もなき恐怖、常識の外側からこちらを覗き込むような何かだった。
「これは……もう動物じゃない……いや、もうじゃないんだよ」
リッカが低く呟いた。
「……どういう意味だ?」俺は一歩後退しながら訊いた。
「この森は、毒素を含んだ魔力の残留が多すぎて、キャンプも観光も禁止されてる。人間には致死性はないけど、長期にわたると動物に変異を起こすのよ」
ミュラー先生が答えた。
「じゃあ……この怪物は……」
「そう。おそらく、元はピューマだったの。でも、毒素魔力によって、本来の形を忘れさせられた……しかも、通常はこういう変異体は洞窟や巣から出てこない。でも、森の中に強力な魔力が現れると——自分の縄張りを侵されたと感じて、出てくるのよ」
じっくりと見つめると分かった。
これは、ただの獣ではない。
毒素魔力が、あの生き物の記憶を歪め、ねじれた姿に変えた結果——
まるで自然が悲鳴を上げ、森がそれに応えて生まれた災厄だった。
リッカとミュラー先生が、同時に俺を見つめた。
「……バンカーにいた時から、音が聞こえ始めた理由が分かった」
リッカが呟く。
「まさか……嘘だろ、俺が……?」
俺は不安になりながら口を開いた。
「そう、レオンハルトくん。
——正確には、君の中にあるあの力が原因ね」
ミュラー先生の冷静な言葉が、ズシンと胸に響く。
その時、怪物が歪んだ咆哮をあげ、こちらへ向かって突進してきた。
もう、会話している暇などなかった。
反射的に、左手の魔力核を起動させた。
目の前に薄いエネルギーの壁が展開され、間一髪で衝突を防いだ。
衝撃で地面が揺れた。俺の体は吹き飛ばされ、膝から崩れ落ちた。
「ぐっ……いてぇ……!」
「レオン、援護して!」
リッカが叫ぶ。足元にはすでに魔法陣が浮かび上がっていた。
迷う余地はなかった。
俺は歯を食いしばり、残った魔力を左手に集中させて立ち上がった——
俺は斜めに走りながら、獣の足元に向かって魔力を集中させた弾を放った。
その注意を逸らすためだ。
「すげぇ……こんなこと、前は絶対できなかったのに……魔力の扱いが、少しはマシになってきたのかもな」
リッカは詠唱を終え、地面を操って尖った岩の槍を生成。
木の根の間から飛び出し、獣の脇腹を貫いた。
怪物が甲高く叫んだ。
溢れ出た血は黒く濃密で、水圧のかかったホースのように吹き出し、火花のように弾けた。
「サラ、今のうちに小屋へ行って! 急いで!」
リッカが叫んだ。
「えっ!? あんたたちはどうするの!? まさか……」
ミュラー先生が驚いたように声を上げた。
「こいつの相手は……俺たちがする!」
正直、勇気なんてなかった。ただ自分を鼓舞するために叫んだだけだ。
ミュラー先生はほんの一瞬だけ躊躇ったが、すぐに頷き、振り返って小屋へと駆け出した。
想像以上のスピードだった。あの年齢であの走りは……ちょっと反則だろ。
リッカと俺は、まるで何度も一緒に戦ったことがあるかのように連携を取った。
彼女は短く鋭い詠唱で、物体を操る魔法と攻撃速度の強化に特化した魔法を放ち、俺は彼女の死角をカバーするように動いた。
怪物はタフだった。
攻撃を加えるたびに、その身体がわずかに変化し、まるでこちらの戦術に適応していくようだった。
俺の体はもう限界に近かった。
包帯の中で血が染み出し、痛みが全身に走る。だが、それでも手は震えなかった。
——《震えてる場合じゃない。今だけは》
そのとき、リッカが小声で呟いた。
「……レオン、いい援護だった。動きが……前よりずっと良くなってる」
笑いそうになった。
でも、今じゃない。戦いが終わったらにしよう。
その瞬間、怪物が跳びかかってきた。俺の思考は途切れ、体が勝手に動いた。
「アトラメントゥム・ファートゥム」
影から伸びた血のような12本の糸が地面から現れ、獣の首に巻きついた。
それは生命力を吸い取り、まるで乾いた皮袋のように干からびて倒れた。
——そこから先の記憶は曖昧だった。体の痛みが消え、アドレナリンが全てを上書きしていく。
その間に、リッカは魔法で木の幹を尖らせ、それを怪物の頭部へと突き刺した。
「……油断は禁物。とどめはちゃんと刺すべきだよ」
リッカが小さくため息をつきながら呟いた。
怪物は最後のあがきのように身をよじらせ、耳障りな悲鳴を上げたあと、完全に動かなくなった。
「この鳴き声が、他の魔獣たちを遠ざけてくれるはず……今のところは安全ね、レオン」
俺は膝をついた。
あの呪文を使った直後の一瞬の高揚が去り、代わりに全身の痛みが一気に押し寄せてきた。
胸の包帯はまるで棘の縄のように締めつけてくる。
正直、今この場で死んでもおかしくない感覚だった。
リッカも疲れていたが、すぐに立ち上がった。さすがだ。
「……レオン、その魔法……」
彼女は驚いた様子で俺を見つめた。
「リッカさん、あれは……俺……」
何か言おうとしたが——
「もういい、後で話そう。今は……大丈夫? 倒れそうになってない?」
彼女は俺の言葉を遮り、真剣な目で聞いてきた。
……《今の状態を、気付かれるわけにはいかない》
そう思って、俺はすぐに立ち上がった。
胸の激痛で足元がぐらついたが、何とか笑みを浮かべながらごまかす。
「だ、大丈夫……たぶん、もう少しならこの魔法にも耐えられる」
「ふぅん……」
リッカは納得していないようだったが、追及はしてこなかった。
そこへ、ミュラー先生が現れて、手招きしてきた。小屋まで、あと50メートルといったところか。
「いいニュースと悪いニュースがあるわ」
小屋にたどり着くと、ミュラー先生は淡々と言った。
「……悪い方から、お願いしたいです」
俺が小声で答える。
「悪いニュースはね、しばらくここにいる間、君の魔力に引き寄せられて次から次へと魔獣が襲ってくる可能性が高いってこと」
「……で、いい方のニュースは?」
リッカが尋ねる。
「ファクションが、ここの場所を把握してて、援軍を送ってくれてるのよ。さっき……『彼女』と連絡が取れたの」
「彼女?」
俺が思わず聞き返すと、
ミュラー先生は静かにうなずき、目の奥に鋭い光が宿る。
「もう隠しても仕方ないわね。連絡を取ったのは、ファクションのリーダー——ソフィア・ウェーバー中佐よ」
「ソフィア・ウェーバー……中佐……?」
「たぶん見たことあると思うけど、話したことはないでしょうね指令室でいつもアイリーン・アルヴェルト司令の隣に立ってる……あの、眼鏡をかけた、ちょっとサディスティックな雰囲気の子よ」
俺はあの時のことを思い出した。
あの冷たい視線——あれがソフィアだったのか。
「……そっか、なんとなく思い出したよ」
一瞬、沈黙が流れた。
「彼女自身が通信に出たわ。連絡が来るとわかってたみたい。それで言われたの。今、私たちは反逆者として追われているって。すでに捕縛命令が出されてると」
「じゃあ、ヘレナ隊長も……!?」
俺が遮るように言うと、
「ええ。彼女もすでに襲撃を受けたそうよ。都市上空で戦ってる映像をアイリーンが会議で流したって。
……でも、あの子がここに辿り着いたってことは、切り抜けたってことね」
「なら……助けに戻るべきだわ」
リッカが即答する。
「落ち着いて。ソフィア中佐は、私たちを追ってくる兵たちへの偽の援軍を提案したの。でも、実際に送ったのは……」
「ファクションの仲間たち、ってこと?」
リッカが確認する。
「その通りよ。彼女たちはもうすぐ到着するはず……でも私は、まずヘレナの方を優先するように頼んでおいたわ。彼女なら大丈夫って思ってても、保険は必要でしょ?」
ミュラー先生は、煙草に火をつけながら、あくまで冷静だった。
リッカは眉をひそめたが、驚いた様子はなかった。
「……それで、全ての説明がつくわね」
俺は、正直話の半分も理解できていなかった。けれど、黙って話を聞くことしかできなかった。
そのとき、ミュラー先生が少し目を伏せた。
「……まだ確定じゃないんだけど、ソフィア中佐が言ってたの。ノーゼンから、ヴィレリアへの侵攻の兆候があるって」
言葉の意味は、すぐには頭に入ってこなかった。
「侵略……?まぁ、戦争中の相手国だからね。停戦中とはいえ、破られるのも時間の問題だと思ってたよ」
リッカがそう返した。
「私が言ってるのは、そういう類の侵略じゃないの」
「……どういうこと?」
「彼女が言っていたのは、もっと静かで目立たない作戦よ。ごく少数の人間による潜入工作。そして、その標的は――君よ」
そう言いながら、ミュラー先生が私を指差した。
「彼らは、君の中にある力を狙っているの。以前にも言ったけど、私たちの手に負えないような……異質な存在」
「やっぱりな……。詳しくは分からないけど、この胸の奥にずっと感じてたんだ。近づいてくる、大きな脅威の気配を……」
私は胸に手を当てて、静かに呟いた。
「とにかく、今は体力の回復とファクションとの合流が先決ね。それから今後の方針を立てる。無理をしても仕方ない……今は、他の仲間を信じましょう」
リッカが静かに言い、場に落ち着きをもたらした。
小屋に入った。
苔むした外壁と、古い魔法陣が刻まれた壁。まるで過去の時代から取り残されたような、そんな場所だった。内部には、古めかしいが稼働している通信装置もあった。
リッカは警戒して、即座に防御バリアを展開。
私は、用意されていた毛布の上に倒れ込んだ。
部屋の隅で腕を組み、片眉を上げたリッカが私を見下ろしていた。
「……これが平気の姿?」
「生きてるだろ?」
「今のところはね……」
彼女が、ずいっとこちらに歩み寄ってきた。
「シャツ、脱いで」
「……え?」
「脱げって言ってるの。見たいものがあるの」
逆らっても無駄だと直感した。たぶん脱がなければ無理やりでも――。
仕方なく従ってシャツを脱ぐと、胸に巻かれた包帯は血で赤く染まっていた。
「これは……どういうこと?あの呪文を使ったとき、でしょ?」
誤魔化しきれる状況じゃなかった。
「……うん、確かにあのとき。でも呪文そのもののせいというより、前の戦闘で負った傷が、あのときの圧力で悪化したんだと思う」
「信用できない……」
「でも、リッカさん――」
「彼の言う通りかもしれないわ、リッカ」
ミュラー先生が口を挟んだ。
「……どういう意味?」
「もし魔術が原因なら、今ごろ彼は意識を失ってるはず。でも彼は意識がはっきりしている。それに、彼の傷は表面だけだった。まだ完全には塞がってなかったから、この状況で出血するのは当然よ」
《本当に……助かりました、ミュラー先生》
「ほらね、リッカさん。心配することなんて何も――」
「それはどうかしら」
俺の言葉をさえぎるように、ミュラー先生が冷たく言った。
「えっ、また何かあるの?」
「自分の内に宿る魔力をちゃんと扱えるようになりなさい。毎回ボロボロになるようじゃ話にならないわ。それに……」
彼女の目が妖しく光った。
「このままじゃ傷口が化膿しちゃうかもね~?治療しないと」
不気味に笑いながら、ぐいっとこちらに寄ってくる。
「……あれ?……えええええっ?」
空気が一変した。少なくとも、彼女たちにとっては。
私にとっては地獄だった。
ミュラー先生は明らかに楽しそうに、治療と称して私を苦しめながら包帯を巻きなおし、リッカはと言えば、動けないのをいいことに身体のあちこちを触ってくる。
《いや、こんな状態で無防備にされて、これはちょっと……というか、なんで……なんで少し心地よく感じてるんだ俺!?おかしいだろ!!》
***
東部森林地帯。【ヘレナの視点】
魔力弾の唸りが空気を裂く。まるで狂った針の嵐のようだった。数メートル先で爆発が起き、大地を抉り、火花と石片が宙を舞う。
「ふーん……手加減するつもりはないのね」
私は地面に膝をつき、苔むした岩陰に身を隠した。手にした槍の柄が、手袋越しでもわかるほど震えていた。
バンカーの横に転がったままのバイク。
けれど、そこにたどり着くには、目の前に広がる複数の魔導兵と兵士たちを突破しなければならない。
つまり――不可能。
「最初から分かってたことよね……人を傷つけずに戦うなんて、ありえない」
独りごちて、私はゆっくりと立ち上がった。
その瞬間――
左肩に熱が走る。
魔力弾がかすめ、上着の布が焼け焦げた。でも、そんなことを気にしてる時間なんて――ない。
私は次の岩へと走り出し、小さな斜面を腹ばいで滑り降りながら、右手で拡散シールドを展開し、体をひねりつつ左手でエーテルの槍を投げた。
命中は完璧だった――
一人の兵士が気絶し、そのまま私の槍が手元へ戻ってくる。
「よし、一人減った……死なせてない。今のところはね」
最初から決めていた。誰一人、殺さないと。
たとえ今は敵として向かってきても、彼女たちは私の部下だった。
騙されているだけ。盲目的に命令に従っているだけ。彼女たちに罪はない。
私は前進しながら、高い木の枝に向かって空気圧の爆破魔法を放った。
それにより枝が後ろに落ち、後方からの追跡を遮断できる。
この魔法は父の黒曜石の短剣を媒介にして発動していた。
――とても優秀な魔力触媒だった。
だが、次の瞬間、思わぬ誤算が起きた。
落ちてきた枝に炎が走り――
まるで燃える雨のように、視界がふさがれてしまう。
「そんな……この魔力は……!」
「囲い込め!西側から回り込め!」
高台から響く、聞き覚えのある女性の声。
アリス・モーリッツ副隊長――
市街戦の魔導部隊に所属する魔導士。
素早く、冷酷で、正確。
そして――火属性魔法の使い手としては屈指の実力者。
「ふふっ……これはちょっと面倒になってきたわね」
私は体を沈め、右に跳びながら、茂みを転がって二人の兵士の背後に回り込む。
一人目の首筋を槍の柄で打ち、気絶させる。
二人目には黒曜石の短剣から放つ細い魔力の線で動きを封じ、同じく戦闘不能に。
《最近、魔法一つ一つの消耗が激しくなってきてる……》
呼吸が荒くなり、汗も止まらない。
「バイクで無理しすぎたな……あれで魔力をかなり使ってしまった。早く終わらせないと……」
私は槍を地面に突き立て、あえて見えるように置いた。
――囮だ。
そして、一気に木へと跳び、幹を蹴って高い枝へと飛び移る。
そこからなら――
視界が、ひらけた。
私はすぐに跳び上がり、約二十メートル先にいたアリスに向かって一直線に飛び出した。
彼女に気づかれる前に魔力の奔流で気絶させるつもりだった。
――しかし、彼女は私の狙いを完全に読んでいた。
私が飛び出した瞬間を狙って振り返り、すでに高位の火属性魔法を詠唱していたのだ。
その顔には自信に満ちた笑み。両手に宿ったのは炎の矢――
一見すると、ただの魔法の一撃に思えるかもしれない。
だが、私はこの魔法を過去に見たことがある。
恐ろしいのはその威力でも熱でもなく、内側に凝縮された魔力の密度と発射の速さだ。
「気を悪くしないでくださいね、フォン・ライゲンシュタール隊長……でも、ここまでです」
そう言って彼女は魔力を解き放った。
猛烈な勢いで炎の矢がこちらに飛来し、距離があるにもかかわらず、その膨大な魔力の圧に肌が震えた。
――まともに食らえば即死は免れない。
「チッ……恨むなよ。今からその実力差を教えてやる!」
私は空中で近くの木の梢を使って急ブレーキをかけようとし、枝を掴もうとした。
だが、速度が速すぎて枝を掴むことができなかった。
「くっそ……!」
しかし、完全に無駄ではなかった。
私の足の一つが枝に引っかかり、その衝撃で体の軌道がわずかに逸れる。
完璧とは言えないが――直撃を避けられただけでも十分だ。
炎の矢が私の背中すれすれを通り過ぎ、熱気が制服を焦がした。
耐火素材のはずの服に火がつくほどの温度だった。
このとき私には二つの選択肢があった。
一つは火を消すこと。もう一つはアリスへの奇襲攻撃。
選択は明白だった。
「喰らいなさい。私を舐めた代償よ!」
落下の勢いを利用し、黒曜石の短剣に大量の魔力を込めて投げつけた。
狙いはアリスのうなじ――だが殺すつもりはない。
短剣が彼女のすぐ背後を通り抜け、魔力の波動を解き放って気絶させるのが狙いだった。
そして、狙いは的中した。
アリスはその場に崩れ落ち、私はというと魔力の枯渇も相まって木の幹に背中から激突した。
「ふぅ……まさか、同じ国の魔導師たちとここまでやり合う羽目になるとはね」
背中に火傷を負っていた。耐火素材でも熱は完全に防げない。
加えて、空中バイクで魔力を消耗しすぎたせいで、今や残りの魔力はほとんどゼロ。
本当なら、ここでしばらく横になって休みたい。
でも――
目の前にはまだ多くの魔導士と兵士たちが立ちはだかっていた。
アリスが倒れたのを見ても、誰一人として降伏する様子はない。
私はすぐに立ち上がり、火照った防弾ベストを脱ぎ捨てた。
「さあ……次は誰?私のお気に入りの制服を台無しにしたんだから、手加減はしないわよ?」
そう言って、汗を拭いながら不敵に笑ってみせた。
全員が一斉に陣形を組み、どうやら同時に攻撃を仕掛けてくるつもりらしかった。
《……マズい。さっきの言葉で退くと思ったのに……》
仕方なく、残りの魔力を全て振り絞って応戦する覚悟を決めた――その時だった。
地面が微かに震えた。
「……なに?」
それは存在感だった。人間でもなく、動物でもない。
地面の根がうねり、空気が腐臭を帯びていく。
そして――
森の闇から、それは現れた。
この世界に属さぬ異形の存在。空間さえも歪ませる異様な存在感。
体は巨大なヒルのように粘液質で節くれだち、無数の口が全身にばらばらと開閉している。
目もあった。だが、あまりに多すぎて、どこにあるのかさえ分からなかった。
「……あれは……あんなの、生き物じゃない……」
部隊に残った魔導士たちが反応しようとした。
誰かが指示を叫ぼうとしたが――その言葉は最後まで届かなかった。
異形のヒルが襲い掛かったのだ。
――数秒で、森の広場は悲鳴に包まれた。
絶望の悲鳴。
逃げようとする者、魔法障壁を張ろうとする者――しかしその全てが、異形の牙により粉々に砕かれた。
私が反応するよりも早く、既に誰一人として動かなくなっていた。
私が先に気絶させていた数人以外は、全滅だった。
――虐殺。
それ以上の言葉が見つからない。
だがそれだけでは終わらなかった。ヒルの化け物は、ゆっくりと、私へと目を向けた。
「っ……くそっ……!」
何かしなければならない。だが、今の私にはもう魔力の余裕がない。
せめて武器だけでも――そう思い、私は岩陰に置いた槍に滑り込みながら向かった。
黒曜石の短剣は、アリスを気絶させるために遠くへ投げてしまった。今、手元にはない。
「……ああ、もっと早くあの攻撃を見逃してればよかった……今はアリスの魔法が必要だ……!」
ヒルの怪物は、ぬるぬると滑るような速度でこちらへと迫ってくる。
――戦うしかない。
わかっていた。今の私は一撃しかチャンスがない。失敗すれば、そこで終わりだ。
私は全速力で前へ駆け出し、地面を滑りながらその化け物の背にある、うごめく黒い核のような部位を狙った。
「喰らいなさいっ……ッッ!! ハアアアアアッ!!」
槍を突き刺す。魔力の衝撃波が辺りに響きわたった。
……一瞬、勝ったかと思った。
だが――無駄だった。
化け物の尾が私を強烈に薙ぎ払い、私は数メートル吹き飛ばされ、湿った土の上に叩きつけられた。
感覚が遠のいていく。魔力が指の隙間から砂のように抜けていくのが分かった。
唇が自然と動く。
「……こんな終わり方……なんて……レオンハルトも……リッカも、守れなかったのに……」
ヒルの怪物が這い寄ってくる。
無数の口が気味悪い音を立てて開閉していた。
私の槍は、数メートル先。黒曜石の短剣に至っては、もはや見えない場所にある。
そして、私自身には、それを取りに行く力も残されていなかった。
「……結局、これまでか……」
そのときだった。
まるで雷雨のように――
天から、光の嵐が降り注いだ。
正確無比な雷撃、圧縮された魔弾、氷の槍、音波の爆裂。
それらがヒルの怪物を包み込み、動きを封じるように電撃の魔法陣が形成された。
木々の間に、いくつもの人影が見えた。
黒の制服に銀の腕章。
魔導戦闘部隊。女性の魔導士たち、男性も数名。
見覚えのある顔も、ない顔もあった。
彼女たちの武器は、ルーン装置と融合された特殊なものだった。
「……また、厄介な連中か……」私は小さくつぶやいた。
一人の女性がこちらへと歩いてくる。
顔は見えなかったが、彼女の声ははっきり聞こえた。
「フォン・ライゲンシュタール隊長。遅れて申し訳ありません。ソフィア・ウェーバー中佐の命により参上いたしました」
あの忌まわしい、出発前の緊張感に満ちた会話を思い出した。
「私たちはファクションの一員です。支援のために来ました。ご一緒できることを光栄に思います」
返事をする間もなく――
ヒルの怪物が、苦悶の咆哮をあげたかと思うと、その巨体を闇に紛らわせて姿を消した。
再び現れるかもしれない。あるいは、もう戻らないかもしれない。
だが今は、そんなことはどうでもよかった。
私はその場に崩れ落ちた。
口の中には泥と血の味。
けれど、その混ざり合った苦味の中で、私はほんの少しだけ、微笑んでしまった。
――助かったんだ。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
そう……
守れなかった命が、そこにあったから。
次回: 『本当の脅威。』