第7章。 『沈黙を破る者たち。』
静寂を破ったのは、仲間を想う叫びか、それとも国家を揺るがす野望か――
東部森林地帯にて、ついにレオンハルトたちは包囲網の中に追い込まれる。
選択肢は二つ。命を削るか、立ち向かうか。
一方、政府内では、ノーゼンの盟友の命令で影が動き始めた。
忠誠と欲望、支配と愛が交錯する中、暗躍するアストリッドの計画が静かに進行していた。
運命の歯車は音を立てて回り始める――
『……沈黙は終わった。次に動くのは、誰だ?』
運命に抗う者たちと、支配を目論む者たち。
それぞれの意思が、今、戦場で交差する。
東部森林地帯・隠された地下壕。【レオンハルトの視点】
やっと少しは落ち着けるかと思ったんだ。
ようやく自力で起き上がれて、腹の中には食い物も入って、身体も少しずつ動かせるようになってきた。
けど、いつものことながら――
平和なんて、飢えた子どもの前のアメ玉くらいの寿命しかなかった。
ピ――ィィン……!
その鋭い警告音は、空気を矢のように突き抜けた。小さいくせに、耳の奥に刺さるような音。
リッカさんのブレスレットが赤く点滅し、振動を始めた。
「……チッ、まさか……こんなに早く……!」
リッカさんは歯を食いしばり、険しい表情で呟いた。
俺は反射的に体を起こした。
心臓の鼓動が早くなっていくのが、自分でも分かった。
「い、今の音……何だったんですか?」
「通信じゃない。――これはマナアラートよ」
ミューラー先生がこちらに歩いてきながら答えた。
「森へ続くルートに、魔力感知式のトラップを仕掛けておいたの。そこは数ヶ月、いや数年誰も通ってないはずなのに……反応が出たってことは、魔導師が接近してる可能性が高い。しかも、軍のよ」
リッカさんが端末を操作しながら、手首の上に浮かぶ魔導投影を睨んだ。
宙に浮かび上がった地図には、簡易的な地区のマップが表示されていた。そして、東側の林道入口にある三つのルーンが、強烈な赤い光を放っていた。
「来るわね……観光客じゃないわ、確実に」
ミューラー先生が冷静だが緊張感を滲ませた声で言った。
「そんな……到着まで、どれくらいですか?」
俺がそう尋ねると――
「……二分。もしかしたら、それ以下」
リッカさんの返答は、鋭く、迷いがなかった。
「じゃあ……テレポートさせる。前回、レオンを逃がした時と同じように。このままじゃ、戦っても勝ち目はない」
そう言って、リッカさんは空中に光の軌跡を描き始めた。ルーンの線が幾重にも重なっていく。
「バカ言わないで!」
ミューラー先生がその手首をガッと掴んだ。
「でも、他に方法が――!今の私たち、まともに戦えないわよ!」
リッカさんが食い下がる。
「……それで、また自分の命を削って私たちを助けるつもりだったの?本気でそれが正解だと思ってるの?」
「……またって? 命を削るって、どういう意味ですか?」
俺は思わず眉をひそめて口を挟んだ。
《……テレポート魔法で死ぬ?いや、そんなの聞いたことないぞ》
ミュラー先生が俺の方を向いた。その表情は、怒りと焦りが入り混じったような、複雑なものだった。
「リッカが使う転移魔法は……普通のとは違うのよ。一般的な転移魔法は、一人しか移動させられないし、そもそも使用できる人間も限られてる。でも彼女の使うやつは、複数人を一度に転移させることができる。ただし……その代償に、魔力だけじゃなくて、生命力まで消費するの。使うたびに、寿命が縮まっていくのよ」
……言葉を失った。
ミュラー先生の反応、そしてその説明に、全てが繋がった気がした。
「……で、そんな魔法をまた気軽に使おうとしてたのかよ?」
「私の判断だよ。誰かに無理やり言われたわけじゃないし……」
リッカさんは、少し肩をすくめるようにして言った。
「だけど、俺は――俺は、黙って見てるなんてできない!」
気がついたら叫んでいた。
自分でも驚くほど、声が出てた。
《……あれ? 今の、なんか……主人公っぽくなかった? 俺、ちょっとだけこの世界に馴染んできた……かも?》
リッカさんがこちらを見た。
その表情は少し驚いていて、でもほんのりと温かさが宿っていた。
「ふふ……じゃあ、『即席の指揮官さん』、なにか名案でもあるの?」
うっ……そう言われるとキツい。正直、全然考えてなかったけど――
ここで引き下がるわけにはいかない。
「あるよ……まあ、たぶん……」
ごまかすように笑いながら、知ってる情報を必死に組み合わせた。
「高位魔法は使えないってことは……つまり地上を移動するしかない。リスクは高いけど、リッカさんが命を削るよりマシだ。このままヒロインごっこされても困るしな」
「で? どこに向かうつもりなの?」
リッカさんが問い返す。
「私に心当たりがあるわ」
ミュラー先生が口を開いた。
「森を抜けた先に、昔『ファクション』が一時的な避難場所として使ってた古い山小屋があるの。今でも使えるか分からないけど……敵から隠れるには悪くない場所よ」
「森の反対側……? それって、どのくらいの距離があるんですか?」
「……およそ三、四キロってところね。でも、そこまで辿り着ければ、連絡を取って応援を呼べるわ」
ミュラー先生の提案は、実に理にかなっていた。――ただし、一つだけ気になることがあった。
「でも……もしもう俺たちがマークされてるなら、国中の通信なんて全部傍受されてるんじゃないですか?すぐに見つかるかも……」
「心配しないで。その小屋には古い型の通信装置があるの。今の情報機関じゃ、もう使われてないと思われてるし、それに場所自体が古い結界で覆われてるから、かなり目立たないわ。
……とにかく、そこまで行ければ、少しでも時間を稼げる。君の回復にも役立つはずよ」
さすがは天才科学者……とは思ってたけど、ここまで地理にも詳しくて、通信や戦術まで把握してるとは思わなかった。
《……すげぇ……前世で俺が憧れてた理想の上司って、まさにこんな人だったよな……》
「……まぁ、他に選択肢もないしね」
口に出した時は適当だったけど、心の中ではどこか興奮していた。
そう、アドレナリンが――高鳴っていた。
ミュラー先生は部屋の隅にある、古びた金属の箱へと向かう。
蓋を開けると、ギィィ……と金属がこすれるような音が鳴った。
中にあったのは、古代文字のような模様が刻まれた球体。……魔法式の発信装置らしい。
「これは、魔法式モールス信号装置。今ではほとんど使われてないけど、『ファクション』では今でもこれを通信手段として使ってるの。遅いけど……安全よ」
「ってことは……これさえあれば、普通の通信機は必要ないですね」
俺がそう言うと、先生は頷いて、すぐさま指示を出した。
「そう。さっき君が言った通り、今は通信が傍受される危険がある。だから……リッカ、端末を外して…すぐに」
「……はいはい、わかってるよ……」
リッカさんは小さく舌打ちしながら、腕の端末を乱暴に外し、地面に投げつけてからブーツで思い切り踏みつけた。
「せっかく魔力センサーと同期させたのに……」
「もう役目は終えたわ。これ以上、無駄なリスクは取らないこと」
ミュラー先生は、まるで子供を叱る母親のような笑みを浮かべながら、そう言い切った。
必要な物を急いでまとめながら、ふと気づいた。
――誰も、俺の提案に異論を唱えなかった。つまり、今の俺が、進むべき道を決める責任を背負っているってことだ。……俺たちの命すら左右するかもしれない判断を。
「……もし途中で追いつかれたら……」
そう口に出しかけた瞬間、
「――戦うわ」
リッカさんが、食い気味に答えた。
ミュラー先生も静かに頷き、言葉を続ける。
「その前に通信は送っておくわ。運が良ければ、『ファクション』が先に気づいてくれるかもしれない」
「……よし、それじゃ、行こう」
深く息を吸い込み、覚悟を決める。
私たちはバンカーの裏側にある、小さな転送口へと向かった。
リッカさんが魔力を流し込むと、表面に刻まれた転移用のルーンが淡く輝き、鍵のように石の扉を開いた。
狭くて湿った石の通路を進んでいくと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。その先に広がっていたのは――
もやに包まれた、東の森だった。
霧は分厚く、まるでそれ自体が生きているかのようにうごめいていた。木々はねじれた骨のようで、黒ずんだ樹皮がうろこ状に浮き上がっていた。枝は細長く、まるで空へと手を伸ばす亡者のようだった。
「夢見の森へようこそ――」
ミュラー先生が、わざとらしく不吉な口調で呟く。
「……それって歓迎? それとも警告?」
俺が肩をすくめて聞くと、
「……両方よ」
彼女はそう言って、森の中へと一歩踏み出した。
遠くで響く、不気味な咆哮。それは人間のものではなく、動物とも違っていた。
「昔、この森は魔力保全区域だったの。けど、戦争中に流れ込んだ魔力の残滓が原因で、今は異常個体の巣になってるわ。霊魂、魔獣、名もなき存在――……誰も近づかないのも当然ね」
《うわぁ……そりゃ最高だな……俺たちはそのど真ん中を突っ切るのか……》
「……つまり、軍だけじゃなくて、森の化け物にも注意しろってことね」
俺の冗談に、リッカさんが笑う……が、その笑顔にはユーモアのかけらもなかった。
「……さっさと進もう。私、虫が大の苦手なのよ……この森、絶対ヤバいのがいっぱいいるし」
「え? でも俺たちが初めて出会った時、リッカさん……昆虫型の魔獣と戦ってなかったっけ?」
わざとらしく首を傾げながら言ってみる。
「ぜんっぜん違うのよ……ゴキブリとかクモとか見たら、私たぶん即死する……」
リッカさんがそう言いながら身震いした。
「ふふふ……じゃあ、今度部屋に勝手に入ったら、いいイタズラ思いついちゃったかも~」
俺がからかうように笑うと、
「やったら殺すから」
そう一言、リッカさんは完全にヤンデレ顔で俺を睨みつけた。
《えっ……? あれ、怒らせちゃった……?》
***
ヴィレリア共和国・首相官邸――私室。
部屋は、灰色の光に包まれていた。
アーチ型の大きな窓の両脇には、黒いビロードのカーテンが重く垂れ下がっている。壁にはヴィレリア全土の古地図が飾られ、ワニ革で装丁された分厚い書籍が並ぶ棚は、蝋燭のような淡い光を反射していた。
家具は全て重厚な漆黒の木製で、金の装飾が点々と散りばめられており、まるで薄暗がりに閉じ込められた宝石のようだった。空気には、ほのかな香とスパイスワインの匂いが混じっていた。
その奥――
一人の女が、グラスにワインを注いでいた。
無駄のない、正確な動作。何千回も繰り返されたような優雅な所作だった。
――アストリッド・フォン・オイレンベルク。
高身長でスレンダー。
軍礼服は漆黒に鋼鉄色の縁取りが施され、身体にぴったりと沿うそのデザインは、まるで呪われたオートクチュールのようだった。
艶やかな黒髪は肩まで真っ直ぐに落ち、暗褐色の瞳は嵐の前触れのように重く、目の前の国家地図をまるで私物のように見つめていた。
ヒールの音が、じゅうたん越しにわずかに響き、それだけで場の空気を支配していた。
「……来たわね、アイリーン」
アストリッドは振り返ることなく、そう呟いた。
部屋の中央、背筋を伸ばして直立するもう一人の女性――
アイリーン・アルヴェルト司令。
短く整えた髪。引き締まった体と真っ直ぐな視線。
完璧にアイロンのかけられた軍服の下、首筋を一筋の汗が伝っていた。
「アストリッド閣下からのご命令であれば、いつでも参ります」
アイリーンの声は震えてはいなかったが、どこか緊張の色が見えた。
アストリッドはゆっくりと振り返り、ワイングラスを手にしながら近づいていく。
そして、彼女の顔すれすれにまで顔を近づけ――
その指先で、アイリーンの顎をそっと持ち上げた。
「忠実ね……。でも、仮に命じたのが規則を外れたことだったら?それでも従うかしら?」
――妖艶な囁きが、アイリーンの耳に絡みついた。
アイリーンは、アストリッドの吐息を頬に感じるほどの距離にいた。
その熱も匂いも、全てが支配の証だった。
「……ご命令とあらば、なんでも……」
視線を逸らすことなく、アイリーンはそう答えた。
アストリッドは一歩だけ後ろに下がり、わずかに唇を吊り上げた。
その笑みは優しさを一切含まない、氷のように冷たい優雅な微笑――
だがその目は、完全にアイリーンを掌の中に収めている女王のそれだった。
もう一度ワインを口に含んだあと、彼女は再びアイリーンの間合いに踏み込み、低く、甘く、囁いた。
「あなた、私をただの上司とは見ていないわよね?」
「……私は……アストリッド様の力に……その美しさに、そして…どんな時でも優雅に全てを制する姿に、心から敬服しております……」
「ふふ……欲しいの?誰にも否定されない、あなたの望む世界を。自分の想いを押し殺さずに済む国。跪かせる側になれる場所を」
アストリッドはそう言って、手袋をしたままの手でアイリーンの胸元に触れ、そっと撫でた。
アイリーンの呼吸は、もう限界に近かった。
「……はい……でも、それは……アストリッド様と共にあるならば、です」
その答えに満足したのか、アストリッドは小指でアイリーンの鼻先を優しくなぞった。
その手は氷のように冷たかったが、アイリーンの内側は燃え上がるマグマのようだった。
「……じゃあ、果たしなさい。あなたの役目を」
「壊すべきものは壊して。排除すべき者は、躊躇なく消すの。全てが終わったとき――
あなたは、私の影としてではなく、私の愛人として、共に玉座に立つのよ」
アイリーンの瞳孔が開いた。
顔は熱を帯び、理性が溶けていくような陶酔に包まれていく。
「……必ず……お応えします……誓います」
アストリッドは、まるで舞うような優雅さでその場を離れ、自らの机へと歩を進めた。
その歩き方一つでさえ、アイリーンを狂わせるには十分すぎた。
「害虫には、すでに対処させてあるわ」
アイリーンは、呼吸を整えながら報告を続けた。
「『ファクション』と名乗るあのネズミ共ですね。今までは泳がせていましたが……そろそろ、本当に駆除する頃合いでしょう」
アストリッドの唇が、冷笑と共に吊り上がる。
「はい、現在までに判明している裏切り者は二人。リッカ・リューベックとサラ・ミューラー。通信の干渉を逆手に取って、彼女たちが東部森林地帯されたバンカーで密会していたことが分かりました。今まさに、精鋭の魔導部隊を派遣して包囲中です」
アイリーンは一言一言を丁寧に告げた。
「……で、リッカ・リューベック、別名『バーサーカー』を相手に、その程度の戦力で足りるとでも思っているの?」
「……はい。ですが、リューベックは今、仲間を守りながらの戦闘を強いられるはずです。全力を出せない状態なら、勝機はあるかと」
「ふぅん……では、あのはぐれ仔羊はどう?
――ヘレナ・フォン・ライゲンシュタールは?」
その名前を口にした瞬間、アストリッドの声には一瞬の静寂が混じった。
「……彼女に関しても、処分の命令を出しました。将来有望だと思っていたのだけれど……残念ね」
「ですが……ヘレナはリッカよりも遥かに強い魔導師です。正面から戦えば、部隊ごと消し飛ぶ恐れも……」
「それも織り込み済みよ。きっと彼女は、今リューベックと合流しようとしているはず。だから私は、都市内部に伏兵を配置したわ。あの子の性格からして、民間人に危害が及びそうになれば、抵抗せずに投降する。――そう読んでいるの」
アストリッドはグラスを口に運び、深く一口を飲み込んだあと、重々しい声で言った。
「油断しないことよ、アイリーン。小さな虫ほど、群れると厄介になる。彼女たちが合流する前に……確実に潰すのよ」
そう言って、彼女はふと視線を横にずらす。
「……ところで、例の少年について何か進展はあったかしら?」
アイリーンの表情が少しだけ強張る。
「……はい。現在、リッカ・リューベックの保護下にあるようです。申し訳ありません、私の手には戻せませんでした」
「……まあ、いいわ。すぐにお友だちが来てくれる予定だから。その子の処理は、彼らに任せましょう」
アストリッドがわずかに微笑みながら言うと、アイリーンは小さく問い返した。
「……ノーゼンの……アルヴァ・クロイツ様のことですか?」
その言葉を聞いた瞬間――アストリッドは一歩で距離を詰めた。
アイリーンの腰に手を回し、その顔を自身の顔に近づける。唇が触れるほどの距離。
「シーッ……アイリーン。その件を知っているのは、あなただけよ?だからこそ、声に出しては駄目」
アイリーンは、もはや言葉を理解していたかどうかさえ怪しかった。
彼女の頭の中は、目前にある女神のような存在でいっぱいになっていた。
アストリッドは再びアイリーンから離れ、くるりと背を向けた。
「さて……そろそろ政治の話に戻りましょうか。どう思う?」
「……では、評議会を招集しますか?」
アイリーンはまだ頬を赤らめたまま、息を整えながら答えた。
「ええ。政治劇場を開幕する時間よ」
アイリーンはすぐに通信端末を起動し、真剣な表情で報告を始めた。だが、その頬には、敬愛と陶酔が入り混じったような光が残っていた。
「こちら、アイリーン・アルヴェルト司令 。全軍司令評議会メンバーに緊急招集を命じます。議題:ヘレナ・フォン・ライゲンシュタール小隊長の反逆および、反乱分子による細胞活動の可能性。ただちに集合、理由問わず出席義務あり」
中央テーブルの投影機から、次々とホログラムが浮かび上がる。
現れたのは、ヴィレリア全土の各師団を率いる女司令官たちの顔ぶれだった。
驚きと戸惑いが交錯する中、一人だけ違った表情を見せた者がいた。
それは、ソフィア・ウェーバー中佐。
彼女は例のサディスティックな笑みを浮かべたまま、静かに頷いていた。
――あの夜、ヘレナに『偶然』情報を与えた張本人。だがその笑みは、単なる狂気ではなかった。観察と計算の影に潜む、策略家の顔だった。
「会議は五分後に開始する。それまでに準備を。時間がないので、今回はこの通信回線を使用して進行する」
「了解」
全員の返答が一斉に重なった。
アイリーンは通信を切ると、アストリッドの方へ視線を戻す。
アストリッドは薄く笑みを浮かべたまま、まるでご褒美を与えるように囁いた。
「よくやったわ、アイリーン……近いうちに、あなたは私と共に玉座に立つことになるわ……そして――良い子にしていたら、その夜はベッドの上でもね?」
アイリーンは跪くように深く頭を下げた。肩はわずかに震えている。
「……あ、ありがとうございます……アストリッド様。……私は……あなたのものです……」
アストリッドはワインの入ったグラスを持ち上げた。その深紅の液体をじっと見つめながら、ゆっくりと口に運ぶ。
そして、最後の一滴を飲み干すと――
パキィンッ。
静寂を破ったのは、彼女の手の中で砕けたワイングラスの音。
その音は、まるで王国の未来が砕け散る合図のように響いた。
***
西部戦線基地。【ヘレナの視点】
もう、迷っている時間はなかった。
私は廊下を駆け抜け、基地の側通路へと向かった。照明は抑えられ、薄暗い光が壁に影を落としていた。今夜は珍しく人が少ない。まるで誰かが意図的に監視の目を外してくれたかのように、静かだった。
外では警備が強化されているというのに、この矛盾が不気味に思えた。
東棟の窓をかすめる外の霧――それ以上に、この基地そのものの空気が重かった。息苦しいほどの緊張感。まるで何かが、今にも崩れ落ちそうな気配。
無言のまま進み、やがて格納庫セクションにたどり着く。
ここへのアクセスには高位許可カードが必要だが、私は昇進して以来、基地内で入れない場所などなかった。
手をスキャンパネルにかざすと、システムは即座に認証を完了した。
扉が開いた瞬間、魔力を帯びた空気が私の顔に吹きつけた。
そこに広がっていたのは──ヴィレリアの軍事力の結晶。
地下に築かれた、戦争の大聖堂だった。
魔力を帯びた装甲輸送車がずらりと並び、それぞれの外装には高位防爆ルーンが刻まれていた。
魔導砲戦車、浮遊砲塔──圧縮されたマナの核が脈動し、琥珀色の光を放っていた。
黒鋼の装甲を持つ車両には、結界展開用の魔結晶が組み込まれている。
戦場で何度も見てきたはずなのに……こうして至近距離で見ると、その存在感は桁違いだった。
「魔導技術班……よくここまで造り上げたものね」
そう呟いたとき、格納庫のさらに奥──狭いエリアに、私の目当てのものが見えた。
それは、空を駆けるための宝──魔導バイク。
古代の飛行箒をベースに、現代技術と戦術を組み合わせた、新世代の飛行兵装。
その機体は細身で流線型。
フレームは魔力伝導性の高い金属とオリハルコン繊維で強化されており、
マナを吸収することでエンジンが稼働する設計になっていた。
つまり、操縦者の魔力がそのまま推進力になる。
手をハンドルから離しても操作できるこの構造は、戦闘中の自由度を飛躍的に高めるのだ。
少なくとも理論上では……
このビークルは、最近開発されたばかりの最新型で、まだ実戦配備されていない試作機だった。
私は一台に近づいた。漆黒の機体に、電光のようなブルーのライン。
左右にはシールド投射用のチャンネルが二つ備えられている。ウエストにフィットする形のシート。クリーンな魔導推進装置。
直進での最高速度は、およそ時速420キロ──
「……まあ、何事にも初めてはあるものよね」
私は小さく息を吐き、三つ編みをきつく結び直し、装備を整えた。
気温変化への耐性を持つ熱吸収型の戦術マント。
魔力核を内蔵した両刃のランス──『私のお気に入り』
それに、暗視と感覚増幅機能を備えた戦術マスク。
バイクに跨がると、中央の魔結晶が私の魔力に反応し、淡く脈打ち始めた。
機体は数センチ浮上し──そして、一気に上昇。
格納庫を抜けて、弾丸のように斜め上空へ飛び出す。
ヴィレリアの街が、私の眼下に広がった。その景色はまるで、光を失った織物のように静かだった。
低層区画の家々には、かすかに灯る明かり。眠る街。その影では、戦争の気配が確かに蠢いていた。
「……綺麗だけど、風景を楽しんでる時間はない」
高度を維持したままでは目立ちすぎる。私はすぐに高度を落とし、建物の間を縫うように滑空した。
霧が巻き上がる。
魔導エンジンの低音が、私の規則的な呼吸と共鳴する。
「チャンスは一度きり……今しかない」
そう呟いたその時だった。
左側、わずか数メートルの地点で、魔力弾が炸裂した。
衝撃波がバイクを大きく揺らし、私は咄嗟にマニュアルで安定装置を起動。機体を急旋回させて右へと滑り込んだ。
「……待ち伏せか。やっぱりね……」
目の前には、ヴィレリア軍の正式な紋章を掲げた三台の魔導バイクが現れた。いずれも軽装備とはいえ、十分な火力を持つ兵装を搭載している。
機体の上にまたがっていたのは、中流階級の魔術師将校。
その制服の肩章から、彼女たちが第一級の中尉であることが一目で分かった。見習いではない、本物の戦闘要員だ。
先頭にいたのは、金髪に鋭い眼差しの女性。
バイクに乗ったまま、彼女は手にした魔杖を高く掲げた。
「――ヘレナ・フォン・ライゲンシュタール。あなたは政府に対する反逆の罪で逮捕されます。抵抗せずに投降しなさい!」
その声は毅然としていたが、その瞳には迷いや恐れが宿っていた。まるで『戦闘にはなりたくない』と心の奥で願っているかのように。
私は息を乱さず、静かに、だが確かに言い返した。
「……申し訳ないけど、反逆者は私じゃない。あなたたちに危害を加えたくないの。どうか、道を開けて」
彼女は眉をひそめ、指で合図を送った。
次の瞬間、三発の巨大な魔弾が私に向かって飛んできた。
燃え上がる彗星のように、紅蓮の軌跡を描いて――
私は即座にバイクの側面シールドを展開した。
発光したルーンが一発目を防いだが、残る二発はかすめるように通過し、太腿に熱が走った。
けれども、止まらなかった。
回避と同時に、一気に前方へと突き進む。
時間を無駄にしている余裕はない。だが、それが追撃の始まりだった。
市街地での戦闘は避けたかった。民間人を巻き込むわけにはいかない。だから私は、高度を再び上げていった。
「……このバイク、手を使わずに操縦できるのが唯一の救いね」
私はランスに魔力を集中させた。先端を前に突き出し、追ってくる隊長の魔杖を狙う。
狙いは一点。
――破壊ではなく、魔力のチャンネルを断つこと。
鋭く圧縮したマナの衝撃波が、一直線に飛ぶ。一瞬の後、魔杖が弾け飛ぶように砕け散った。
ランスはブーメランのように回転しながら私の元へ戻ってきた。私は空中で一回転し、その軌道に合わせてキャッチする。
「……ふふ、これはクセになりそう」
中尉のバイクが一時的に制御不能となり、螺旋を描いて落下していくのが見えた。
両側から、残った二台の魔導バイクが私に迫ってきた。
そのうちの一人が、魔法で生成した鎖を投げてきた――私の動きを封じるつもりだ。
だが、私は即座にバイクに供給するマナの量を増やし、速度を一気に引き上げた。
斜めに加速し、鎖をかわしてすれすれでバイクの横を通過する。
その瞬間、私はランスの柄で相手のバイクを打ちつけた。
たとえ高速での接近だったとしても、特殊なゴーグルのおかげで視界はクリアだった。
訓練だけじゃなく、実戦経験で培った感覚を最大限に活かす。
狙い通り、相手バイクの魔力源を断ち切った。
完全な破壊ではなく、しばらく浮遊したまま制御不能にさせる方法。
搭乗者が大怪我をせずに脱出できるよう、ギリギリの加減で仕留めた。
私は旋回し、青い稲妻のように次の敵へと向かって急降下する。
あの人が即座にシールドを展開しようとしたが――私はそれを予測していた。
「ふぅんっ!」
気合いと共に、私はバイクを横からぶつけた。
もちろん、衝突の直前に魔法シールドを強化していたので、こちらは無傷だ。
彼女はとっさにバイクから飛び降り、自動展開されたルーン式パラシュートで落下していった。
「これは訓練じゃなくて、実戦で鍛えた技術よ……私を甘く見ないで」
落下する彼女たちにそう言い放ち、私は残る一機――リーダーに視線を移した。
彼女は明らかに怒りに満ちていた。悔しさと屈辱がその表情ににじみ出ている。
再び魔杖を掲げ、今度は人間の頭ほどのサイズの火球を形成しながら叫んだ。
「逃がさないわ! 正義は必ず勝つ!」
――正義?
「……その言葉、今この国で口にするにはあまりにも無知ね」
私は、冷えきった声で言い返す。戦場で使うあの声で。
「今から、この国の正義は私よ。その軽々しい口で正義なんて言葉を使わないことね。……覚えておきなさい、私はエレナ・フォン・ライゲンシュタール」
私の言葉が、まるで魔法のように、彼女の自信を削ぎ落としていく。
威圧。恐怖。敗北感。
それでも、彼女はまだ闘志を捨てていなかった。
「はあ……困ったわね。せっかく手加減してあげたのに」
ランスが青白く光り、私は一直線に彼女へと飛び込んだ。
相手は、残ったマナのほとんどを込めて巨大な火球を撃ち放ってきた。
私は空中で高速スピンを決めて、それをギリギリで回避する。
火球は紙一重で私の脇をかすめた。彼女の覚悟が、熱として伝わってきた。
《この子……もしかしたら将来、有望な戦力になるかもしれない。
――未来があれば、だけど……いや、私たちがその未来をつかむんだ》
「邪魔しないでよ、無駄に熱血女ァ!」
私は叫びながら、魔力を最大限に込めたランスで一撃を加えた。
衝突と同時に、相手のバイクが空中で爆発した。彼女の体は衝撃で反対方向へと吹き飛ばされる。
幸いにも、地面すれすれの高度だった。落下先には建物の足元に積まれていた木箱があって、衝撃を緩和してくれたようだ。
「……よかった。今は誰一人、犠牲にしたくないのよ」
一瞬だけ胸を撫で下ろした私は、再び速度を上げて飛行軌道に戻った。
目指すは、東部森林地帯 。その向こうにある――仲間たちのもとへ。
***
東部森林地帯 。
数分後、ようやくたどり着いた。視界の下には濃霧が立ち込めていた。
……だが、その霧の中に、動く影があった。
古いバンカー周辺を取り囲むように、兵士たちが布陣している。
魔導兵。ざっと見ただけでも四十……いや、五十名近くいる。
《まさか……前線に送る兵数と同じくらいの規模を、たった三人のために? 本気で潰す気だな……あの女狐》
そして、視界の端に見えた。
バンカーの裏手から森に向かって走る三人の姿――
レオンハルト、リッカ、そしてミューラー先生。
武装しているのはリッカだけ。小さなショートソード一本。
《……遠距離戦にも耐えられない装備じゃない。間に合った。》
私は歯を噛みしめた。
ランスを回転させ、青いエネルギーを再びまとわせる。
そのまま、私は霧を切り裂いて降下した。
流星のごとく、兵のど真ん中めがけて――
「全員、吹き飛べえええぇッッ!!」
轟音が森に響き渡り、全ての兵士たちの視線が私に集中した。
前と同じく、中級レベルの女性魔導士たちが数人いたが――
今回はさらに、男性兵士たちの姿もあった。
おそらく、魔導士たちの盾役、あるいは森の魔獣に対する囮として配置されたのだろう。
「ふふ……ずいぶんと舐められたもんね。もし最初からこの人数を出してたら、少しは足止めできたかもしれないのに……じゃない?」
背後から、茂みをかき分けて飛び出してくる気配――
「ヘレナ隊長! ヘレナ!」
声を揃えて駆け寄ってきたのは、レオンハルトとリッカだった。
私はちらりとだけ彼らに視線を向け、あえて余裕のある口調で答える。
「……無事そうで何より。それに――リッカ、ちゃんと約束守ったみたいね」
「友達なら、当たり前でしょ?」
リッカが微笑んでそう返した。
「……ふん。まあ、作戦くらいはあるんでしょ?」
「あるにはあるけど……」
「安心して。そっちは任せた。私はここの雑魚どもを片付けるだけ。また後で落ち合いましょ」
「うん! ……頼りにしてるよ」
その一言に、リッカの表情が少しだけ緩んだ。
私の言葉で、迷いなく動き出す。三人はすぐにその場を離れ、森の奥へと駆け出していった。
だが、背後から一人の魔導士が彼らを狙い、飛び出す――
「おい... どこへ行くつもりだ、このクソ野郎?」
私は瞬時にその魔導士の前に立ちはだかり、掌から放った衝撃波で彼女を数メートル後方へ吹き飛ばした。
「はぁ……本当は戦いたくなんてないのよね。できれば誰も傷つけたくない。だから提案――みんなで大人しく基地に帰ってくれない?」
……返事はなかった。
全員が武器を構え、引く様子もなければ、迷いすらない。
「……やっぱりこうなるんだよね。優しさって報われないなぁ」
私は首を回し、体勢を整える。
背中のマントが風に舞い、視界を遮る霧が静かに流れていく。
《――大切なものを守るためには、時に沈黙の鎖を断ち切らなきゃいけない》
その一言が、私の脳裏を駆け抜けた。
そして――
戦いが、始まった。
次回:『空間に裂ける真実。』