第6章。 『仮面の裏に潜む者たち。』
三日間の眠りから目覚めたレオンハルトは、自身の中に潜む「何か」に気づき始める。仲間たちとの絆、そして過去から語りかけてくる名も知らぬ声——全てが、彼を運命の中心へと引き寄せていく。
一方、ノーゼンでは不穏な動きが始まり、ヴァイレリアの未来に暗い影が落ちる。
――運命に抗う覚悟はあるか?
静かに、しかし確実に、世界は崩れ始めていた。
東部森林地帯・隠された地下壕。【レオンハルトの視点】
……なんか、あったかい。
灼熱の砂漠とか、ジメジメした夏の熱気じゃない。
もっとこう、天日干ししたての毛布に包まれてる感じの、ふわっとしたぬくもり。
《……で、いい匂いがする。線香でも食べ物でも酒でもない。なんかフルーツっぽい。桃?いちご?いや、あのシャンプーの香り……》
《……え、まさか……これってリッカさんの匂い? ってことは……俺、まさか、天国来ちゃった? あれ、意外と悪くない?》
意識がふわふわしてて、夢か現実かわからない。でも、なんとなく今、自分の体に戻りかけてる感じがした。
ただし――この体、なんか変。
動かせないし、しゃべれないし、重いし……なんか借り物みたいでしっくりこない。
ほっぺたに、なにかが触れた。あったかくて、くすぐったい……え、これって……手?髪の毛?
……そして、その時だった。
耳元で、甘〜い声が聞こえた。
「ほら、起きないと……あたしが代わりにお風呂入れてあげるからね~。しかも、ちゃんと……全部、ゴシゴシするよ~」
……ゾクッ。
背筋に電気走った。
《な、なに言ってんだこの人!?!?!?》
反射的に意識が跳ね起きた。
一瞬でフラッシュバック。あの顔、赤い髪、首元のほくろ。
……って、マジでリッカさんじゃねぇか!?
ツッコミたい、笑いたい、なんか言いたい――でも出てきたのは、情けないうめき声だけ。
「……レオン? 起きたの!?」
声のトーンが一気に変わる。明らかに安心した様子。
額に触れる指先が、冷たい汗をそっとぬぐってくれる。
……その時、やっと気づいた。
あ、俺……震えてる。
寒くてじゃなくて、内側から。骨がブルブルしてるというか、ゼリーになりかけてるというか……
《……おいおい、俺の体、まさかドロドロに溶けてないよな?》
そのとき、不思議な響きを感じた。
まるで、感情と記憶がごちゃ混ぜになったようなビジョンが頭の中に流れ込んできた。
遠くの洞窟でゴォンと鳴った鐘のような、微かな震え。
魂の鼓動――そんな感じだった。
「ルクス……犠牲……時……命……死……」
知らない声。なのに、肋骨に刻まれてるかのような感覚。
それは言葉じゃなかった。轟きだった。誰かの記憶を、無理やり見せられてるような。
暗い空。雪の中で崩れ落ちる塔。形を持たない怪物が街を喰らう――そんな光景が、次々と脳裏に浮かんだ。
そして、その中で誰かが俺に話しかけてきた。
いや、俺じゃない名前で。
「……アルヴィエル」
……またか。
あの時計みたいなものの前で聞いた、あの女の声と同じだった。
その名前が、闇の中をふわふわと漂っていた。まるで、燃えてる紙切れみたいに。
《……アルヴィエルって誰だよ……なんで俺に向けて呼ぶんだ?死んでも落ち着けないとか、どんなバッドエンドだよ。俺はただ、平和な老後を夢見てただけなのに……》
目を開けようとした。
まぶたの裏に、薄暗い光が差し込んでくる。
……コンクリートで補強された天井。古い通気口。理科室みたいな作業机。横には棚と軍用品。
ここ……バンカーか?
辺りを見回したそのとき――
見覚えのある顔が、視界に飛び込んできた。
リッカさん。
目の下にはクマ。髪はボサボサ。制服の上着は開いていて、その中は……その……ギリギリ見えちゃいけないラインのブラ。
《……このままじゃ俺、百合に目覚めそうだぞ。いや、待て……今の俺は男……ってことは百合じゃなくてノーマル? ってことは百合なのか?……あーもう、どっちでもいいや!!》
「……あの、リッカさん? 申し訳ないけど、今ちょっと……重いです。体、押しつぶされそうで……」
彼女はぱちぱちとまばたきをして、俺が目を覚ましたと気づくと、にっこりと微笑んだ。
そして、俺が何かを言い終える前に勢いよく飛びついてきて、ぎゅうっと抱きしめた。
その笑顔は……安心と『枕ぶつけたいレベルの怒り』が絶妙にミックスされたような、そんな表情だった。
「バカ……三日も寝っぱなしで、起きて最初に言うのがそれって……」
小さく呟いた彼女の目は、無意識に潤んでいた。
「だってさ……果物のシャンプーって、お前が先に匂わせてきたんだろ……」
俺は咳き込んだ。胸が痛い。まるで鉛の入ったリュックを背負ってマラソンした後みたいに。
彼女は、くすっと笑った。いつもの小悪魔的な笑いじゃなくて、嵐を鎮めるような、優しいやつ。
「……もう、起きないかと思ってた」
「俺もだよ……またあの世に行ったかと思った。って、三日も寝てたのか?」
身体はまだ重くて、アスファルトに埋まってるみたいだったけど……少しは動ける。
リッカさんが、そっと俺の手を取った。彼女の指先は冷たかったけど、その握りはしっかりしていた。
「無理しないで。サラの話だと、あんたの魂、まだ『ズレてる』らしくて……無理するとまた昏睡に戻っちゃうって」
「ズレてる……? それってマニュアルある?……てか、サラ? ミューラー? ってことは、ここ病院か?」
「……いや、それが違うの。説明したいことは山ほどあるけど……お願い、話を最後までちゃんと聞いて」
その口調はいつになく真剣で、まっすぐ俺の心に届いた。
「お前がその声出すときって、だいたいヤバいやつだよな」
「……うん。今回はほんとにヤバい。笑えないくらい……ヴィレリアの未来が、かかってるの」
「なるほどな……。じゃあまず、俺たちがなんでこんなバンカーみたいなとこにいるのか教えてくれない?」
「あと数分待って。サラが来れば全部説明してくれる。私じゃ、うまく伝えられるか分からないから」
「……まあ、俺に選択肢があるわけでもないか。なら、その前に一つだけお願いがあるんだけど」
「……お願い?」
「うん。すごく大事なことなんだ」
「なに? 言ってごらん」
リッカさんは、少しだけ首を傾げた。
「リッカさん、俺……」
「……うん?」
なぜか、雰囲気が急に映画のワンシーンみたいになった。
ロマンチックなやつ。キス直前の、あの定番展開。
リッカさんの顔が、ゆっくりと俺の方へ近づいてきて――
「俺……」
「……お腹すいた」
その瞬間、リッカさんの表情が凍った。
バケツで冷水をぶっかけられたかのような、そんな顔。
「……あ、そう。棚に栄養バーとスポドリがあったと思うから……勝手に取って」
明らかにテンションが地面に落ちてた。声も棒読みだった。
彼女は渋々立ち上がり、棚からエナジーバーとドリンクを持ってきて、ベッドの隣にそっと置いた。
「リッカさん、ありがとうございます。命の恩人です」
「……どーいたしまして」
返事のトーンが低かった。ちょっと怖い。
《……あれ?なんか怒ってる?俺、変なこと言ったっけ……?》
ミュラー先生がバンカーに来るまでの間、あの言葉が頭から離れなかった。
――『運命を裂いた者は……目覚めることができるのか……?』
どこかで聞いた、あのささやき。俺の好奇心は、じわじわと熱を帯びていった。
***
奇跡の回復アイテムがスポドリだったのか、それとも死んでないってだけで元気が出たのか分からないけど――
とにかく、今はだいぶマシだった。
さっきまでの鉛のような体の重さも、少しずつ引いていく。
俺は、ベッドにもたれながら最後の栄養バーをムシャムシャとかじりついていた。
その食い意地っぷりは、もう『貴族的な優雅さ』とは真逆だったけど……いや、マジで腹減ってたんだ。許してくれ。
「……ここ、チョコついてる」
リッカさんがそう言って、俺の方へ身を乗り出してきた。
反応する暇もなかった。
湿らせたハンカチで、そっと頬を拭われる。彼女の顔がすぐそこにあった。
近すぎるくらい近い。
シャンプーの香りがした。甘酸っぱい果実の香り。ピーチ、ストロベリー、そしてほんのりバニラ。
リッカさんの唇が、少しだけ開く。何か言いかけたようだけど、言葉は出てこない。
代わりに、沈黙が二人の間に漂って──その空気は妙に…甘かった。
「リッカ……さん……」
自分でも、何を言おうとしてるのか分からなかった。
だって、彼女の柔らかいバストが……
俺の胸に、確かに触れていて……
しかも、開いたジャケットの隙間から、その谷間が……見えちゃってて……!
《神様、ごめんなさい……もう限界です……!》
──その時。
「はぁ!? 国が滅びそうな時に、あんたら何イチャついてんのよ!? フォーん……っごほっ、失礼、交尾寸前てどーいうこと!?」
ミュラー先生の怒鳴り声が、バンカーの入口から響いた。
……現実に引き戻される爆弾だった。
二人して、氷水ぶっかけられた猫みたいに飛びのいた。
俺はむせて咳き込み、リッカさんは何事もなかったかのように、通信端末をチェックするフリ。
ミュラー先生は、完全に呆れ顔で中に入ってきた。
首からはゴーグル、手にはボロボロの本。その姿は、疲れとストレスと『もう勘弁して』って感じが滲み出ていた。
***
東部森林地帯・隠された地下壕。【サラの視点】
中に入った瞬間、まさか甘くてちょっとエッチな空気をぶち壊すとは思わなかったけど……こっちは青春ドラマごっこに付き合ってる暇はないのよ。
一分一秒が金並みに貴重なんだから。
私は肘でバンカーのドアを閉め、そのまま本の束をテーブルにドサッと置いた。乾いた音が響く。
「まず最初に……私は形式とかマジで嫌いだから、敬語とか省くわね... レオンハルトくん。3日前の『それ』について話があるの」
彼はまだベッドの上、混乱した顔でこっちを見ていた。けど、目はちゃんと覚めてる。意識ははっきりしているみたい。
「『それ』って……あの化け物との戦いのことですか?」
「そうでもあるし、そうじゃないとも言えるわね」
「……え? すみません、ミューラー先生。意味がさっぱり……」
まぁ、混乱するのも当然か。
あの事件のあと、彼は意識を失ってそのまま眠りっぱなしだったんだから。
「ん~~……つまりね。共鳴を引き起こして、伝説でしか語られてなかった呪文をぶっ放して、それで魂を粉々にしかけた――って話よ」
私は例の古い本を開いた。あの時リッカに見せたやつ。
そこからさらに掘り下げて調べた結果、別の一冊を手に入れたの。
こちらは、より直接的な呪文と詠唱について記された禁書級の本。
ページを開くと、黒インクで書かれたゴシック体の文字が目に飛び込んできた。
幾何学的な図形が余白に浮かび上がり、光の角度でわずかに揺れて見える。
私はその中の一つ、涙を逆さに流す目のような、ひび割れた円形のシンボルを指差した。
「レオンハルトくん。このシンボル、見覚えある?」
彼は黙ってページをじっと見つめていた。
まあ、知ってるとは思ってなかったけど……この反応で、どこまで自覚してるかが分かる。
「正直……この本に書かれてることは全然分からない。でも、『それ』と戦ってたとき……それから眠ってた間にも……何か、変な夢を見た気がする」
「ふーん? へぇ~そうなんだ。じゃあ、全部話してくれる?」
私がそう言うと、レオンは一瞬だけリッカさんの方を見た。
まあね、私のことまだ信用してないのも分かるよ。これが二度目の対面だもん。
でも、リッカが小さくうなずいた瞬間――彼の顔から迷いが消えた。
***
【レオンハルトの視点】
ミュラー先生の言葉を聞いた瞬間――
不信感がこみ上げてきたのは、まあ当然だと思う。
だってさ、目を覚ましたらバンカーの中で、伝説級の呪文を唱えたとか言われて、しかも危うく童貞をロマンチックじゃない方法で失いかけたとか。
……ねぇ、どこのカオスアニメだよ。
そんな混乱の渦の中、俺はリッカさんの方を見た。
すると彼女はすぐにうなずいて、『大丈夫だよ』とでも言いたげに微笑んでくれた。
その表情を見て、少しだけ安心した。
「じゃあ……まず一つ聞きたいんですけど。ヘレナ隊長はどこに? 彼女は無事ですか?」
「心配しなくていいわ、レオン。あの人は……見た目と違って、かなりタフな女性よ」
リッカさんが優しく微笑みながら続けた。
「事件が起きた夜、彼女は命令を無視してでも基地の修復に協力してたの。でもそのせいで、今はあまり自由に動けないみたい。上層部にマークされてると感じてるから……用心してるのよ」
「……彼女、疑われてるの? なんで? ていうか、そもそもなんで病院じゃなくてバンカーにいるんですか?」
混乱はどんどん深まっていった。リッカさんは何から説明すればいいのか分からない様子だった。
そこへ、ミュラー先生が口を開いた。
「はぁ……やっぱり、誰かが言わないとね……」
「……」
白衣のポケットからタバコの箱を取り出し、一本くわえて火をつける。
「いい? レオンハルトくん君、大事な話が二つある。一つはこの国について。もう一つは、君自身について。……聞く覚悟はある?」
《俺のこと? ……まさか、あの時の診察で何かバレたのか?俺がこの世界の人間じゃないこととか?》
内心、嫌な汗が流れたが、今さら逃げるわけにもいかない。
「……はい、分かりました。お願いします」
ミュラー先生は煙を一息吐いて、ゆっくりと話し始めた。
「まずはヴィレリアの現状から話すわ。端的に言うと――
政府の中に、内通者がいるの。しかも複数」
「内通者? ノーゼンの?」
「……そう単純でもないのよ。実は、今の戦争の裏には、もっと深くて黒いものが隠されてる。まず、私たちが強く疑ってるのは――ノーゼンの大統領は、もう何ヶ月も前に暗殺されているってこと」
「……暗殺? 誰に?」
「ノーゼンの第一国務顧問――アルヴァ・クロイツ。彼こそが、今ノーゼンの実権を握っている張本人よ」
衝撃的な情報ではあったけど、まだ俺の疑問には答えていなかった。
「なるほど……でもそれと俺に何の関係が?」
「そこよ、焦らないで。――ヴィレリア政府の中にいる裏切り者たちは、クロイツとつながってる。彼らの目的は、ヴィレリアをノーゼンに併合させること。そしてその裏で進行しているのが、本当の計画――」
先生は一瞬、煙を吐きながら目を細めた。
「この大陸にいる魔導師たちを『魔力源』として生贄にし、太古の魔的存在――太陽と同等の力を持つ存在を復活させること。『ルクスの断片者』たちをね」
まるで古代神話の本から抜け出してきたような話だった。
だけど、ミュラー先生とリッカさんの表情があまりにも真剣で、冗談では済まされないことはすぐに分かった。
俺は……相変わらず、何が何だか分かっていなかった。
「……で、俺は? 俺がそれとどう関係あるんですか?」
ミュラー先生は相変わらずタバコをふかしていた。
煙が気になるのか、リッカさんは少し不満そうな顔をして立ち上がり、バンカーの中をうろうろ歩き始めた。
「じゃあ、こっちの本も見てもらおうかな」
そう言って、先生はさっきの本を俺の前に差し出した。
そのページに描かれていたものを見て、俺は思わず声を漏らした。
「……これって……」
「ええ、君が想像してる通りよ。三日前のあの事件で出てきた、あの『それ』よ。でも、それだけじゃないの」
そう言うと、ミュラー先生はもう一冊の本――さっきシンボルを見せてくれた本を開き、別のページをめくった。
そこには、ラテン語のような文字が並んでいた。
不思議なことに、ラテン語なんて勉強したこともないのに……
俺には、そこに書かれている言葉が、なぜか読めた。
「……アトラメントゥム・ファートゥム… ファトゥム・インフェルナーレ……」
「ふーん、やっぱり見覚えあるのね」と、先生が少しだけ口元をゆるめた」
「い、いえ……見覚えっていうか……分からないんです。だけど、なぜか読めてしまったんです。こんな言語、一度も学んだことないのに……」
ミュラー先生は無言でページをめくり、今度は別のイラストを見せてきた。
そこには、十二人の魔導士が互いに戦い、背景にはボロボロに崩壊した都市が描かれていた。
その瞬間――俺の脳裏に、あの時の夢がフラッシュバックした。
昏睡中に見た光景。そして、目覚める前の、あの幻覚のようなビジョン。
《……俺、正直、自分が頭おかしくなったんだと思ってた。でも、今なら分かる。あれ……ただの夢じゃなかったんだ》
俺はそのイラストの中の人物たちを指さした。
「この人たち……俺、見たんです。あのとき、眠ってる間に――」
ミュラー先生がタバコの火を灰皿に押し付けながら、片眉を上げた。
「……何を見たの? 全部、話して」
「……血の海の中、俺はなぜかその中の一人として立っていた。周囲には、倒れた仲間たちの死体。一面の雪景色の中、俺の目の前には、十二の断片が回る『光』のようなものが……」
「それだけ?」とミュラー先生が促す。
「……いいえ、それだけじゃありません。その後、時計のようなものから声が聞こえてきました。でも……俺の名前じゃなかった。
その声は、俺をアルヴィエルと呼んでいたんです。そして……『目覚め』についても話していました」
意味はまったく分からなかった。だけど、その言葉を思い出すだけで、骨の奥がきしむような痛みを感じる。
まるで、生まれた時から刻み込まれていたかのように。
「……あの『それ』と戦ってる時も、似たような感覚があった。あの時の魔法……自分で唱えた気がしなかった。誰かが、俺の中で勝手に詠唱してたような……それが、今この本に載ってる魔法と一致してるなんて……もうわけ分からん」
《……くそ、異世界転生ってこんなに疲れる設定だったか?もっとチート無双して、ハーレム作って、温泉イベントに行くんじゃなかったのか……?》
ミュラー先生は、すぐに二本目のタバコに火をつけた。その目線の先には、静かに頷くリッカさんがいた。
「……じゃあ、できるだけ簡単に説明するわね」
そう言って、彼女は俺の目をしっかりと見据える。
「今の状況、そしてあなたの話から判断して……おそらく、君の中には――神話に登場する『ルクスの十二断片者』のうちの一人の魂が眠っている」
「……は?」
「アカデミーでは教わらなかったの?」
いや、アカデミーどころか義務教育すら受けてない世界から来たんだが……
もちろんそんなことは言えない。面倒な展開になる未来しか見えない。
「そ、そうですね……あー、うん、なんか昔聞いたような……?」
ミュラー先生は小さくため息をついた。
「……まあ、いいわ。普通なら神話として片付けられる話だけど、最近の状況を見ていると、もはや笑えない。君が使った魔法、その反動、そしてあの夜に出現した『それ』……全部が、伝説と繋がってるのよ」
「……なるほど。でも、だからと言って、俺はどうすればいいんですか?だって、あの魔法が自分の意志で使えたわけじゃないし、
正直、もう一度戦えるかも分かりません。今だって、ようやく座れるようになったばかりですよ?」
俺の言葉に、リッカさんが優しく笑った。
「でも、さっきよりずっと元気そうじゃない?最初は腕しか動かせなかったのに、今は話もできてるし、ちゃんと座ってる。
……きっと、それは一時的なものだよ」
確かに、少しずつ体の自由が戻ってきていた。筋肉が固まっていただけなのかもしれない。
「とにかく、レオンハルトくん…君……ここからが一番大事なところよ」
そう言って、ミュラー先生が口を開いた。
「――君は、どうするの? どちらの側につくつもり?」
簡単な選択肢に見えるかもしれない。でも、正直言うと、話の内容が多すぎて、ちゃんと理解できている自信はなかった。
自分の中に古代の魔導士の魂が宿っているかもしれないこと。そして、ヴィレリアという国には、闇が渦巻いているということ。
「つまり……あなたたちはクーデターを企んでるってこと? 二人だけで?」
俺はそう問いかけた。
「違うわ。私たちだけじゃない」
リッカさんが答えた。
「『ファクション』と呼ばれる少数のグループがあって、ずっと前からヴィレリアの裏を調べ続けてるの」
「で……その人たちは今どこに?」
「それは、まだ教えられない」
ミュラー先生がきっぱり言った。
「君がどちらの側に立つのか……その答えを聞くまでは」
「……そうか」
リッカさんが命をかけて助けてくれたことを思えば、彼女の側につくのは当然だ。だが……クーデター。しかも戦時中に。
正直言って、それは簡単に決められることじゃなかった。
「神話を根拠にクーデターなんて……いくらなんでも安っぽすぎるよ……」
《あーあ、こういうのは隊長とか司令官が決めることでしょ。俺みたいなただの兵士に押し付けないでくれ……》
そして、俺は大切なことを一つ忘れていた。
――ヘレナ隊長との約束。
数日前、作戦会議室で俺は彼女に誓った。
「あなたに命を預けます」って。
その彼女に何も相談せず、勝手に決断するなんて……それでいいのか?
「……今は、決められません」
リッカさんの目が見開かれた。
彼女は一歩近づいてきて、必死な声で言った。
「どうして? ここまでの話を聞いて、まだ信じられないの?私たちのこと……私のこと、信じてないの……?私は……君を守りたいの。敵にはなりたくない」
「落ち着いて、リッカ」
ミュラー先生がすかさず口を挟む。
「彼の話をちゃんと聞いてからにしましょう」
リッカさんは静かにベッドの端に腰を下ろした。
「誤解しないで。信じてないわけじゃない。話してくれた内容も、あの本に描かれていたことも……三日前の事件や、俺が昏睡中に見たビジョンと完全に一致してる」
「じゃあ、何が君を迷わせてるの?」とリッカさんが問い返す。
……前世の俺は、ブラック企業で働く歴史オタクの陰キャOLだった。人間関係は苦手だったけど、両親に一つだけしっかり教えられたことがある。
――約束は、最後まで守るものだと。
深く息を吸い込む。
「俺は……ヘレナ隊長と約束したんだ。どんなことがあっても、彼女に忠誠を誓うって」
「どんな約束だったの?」とミュラー先生が尋ねる。
「彼女の命令だけに従うって……彼女に、100%忠誠を尽くすって」
ミュラー先生はタバコの煙を吐き出しながら言った。
「……じゃあ、もし彼女が政府側だったら? 君は私たちの敵になるの?」
《……なるほど。心理戦か。俺の覚悟を試すつもりらしい。》
「それなら……俺は、彼女を説得する」
「もしそれでも彼女がこちらに来なかったら? 彼女は信念の強い人よ。もしかしたら、あなたを裏切り者として通報するかも」
「それなら、とっくにしてるはずだろ。彼女は……俺を引き渡さなかった。上層部の疑いがあったのに、それでも俺を庇ってくれた。だからこそ、俺は彼女に背を向けたくない」
「……ふむ」
ミュラー先生はくるりと背を向け、無言のまま作業台へと歩いていった。
そのタイミングで、リッカさんが口を開いた。
「ねえ、レオン……実は、ヘレナとは幼い頃からの友達だったの。けど、大人になるにつれて少しずつ距離ができちゃって……。でもね、彼女は本当に頑固で、自分が正しいと思ったことには全力で立ち向かう人なの。見た目はクールで何も気にしてないように見えるけど……本当は、誰よりも優しくて、まっすぐな魂の持ち主なんだよ」
……リッカさんの表情には、ほんのりと懐かしさと敬意、そして少しの寂しさがにじんでいた。
「……彼女に、最後までついていこうとする人がいるって分かって、本当に嬉しいよ。それに、ただついていくだけじゃなくて……彼女に本当のことを気づかせようとしてる。
……それが君だっていうのが、何より嬉しいまだ早いかもしれないけど……君がそばにいる限り、ヘレナの命はきっと守られるって、そう思える」
そう言って、リッカさんの目からぽろりと涙がこぼれた。必死に感情を抑えようとしていたけど……ダメだったらしい。
「俺……」
「大丈夫。ヘレナを裏切る決断をする必要なんて、もうないの」
「え……?」
「ヘレナも、政府の異常さに気づき始めてる。そして、自分の立場を利用して、こっそり調査をしてくれてるの。実は、情報もいくつか渡してくれた」
「……マジで?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった重たい不安がスッと軽くなった気がした。
《はぁ~……よかった。リッカさんと戦わずにすみそうだ……正直、あの子、戦場じゃマジで殺し屋だからな……》
「でも……だからこそ、急がなきゃいけないの。政府にここを嗅ぎつけられるのも、時間の問題……そう思ってたけど――」
その時、リッカさんの腕に巻かれた通信端末がビリッと鋭い音を発した。
浮かび上がった警告メッセージが、目の前の空間にホログラムとして表示される。
『アーケイン・アラート:セクター7Bにて次元障害反応を検出。クラスC以上の存在による干渉。即時封鎖プロトコルを実行せよ』
ミュラー先生の表情が一気に険しくなる。
「……見つかったわね」
「思ったより……いや、かなり早かったみたいね」
まだ状況はよく分かっていなかったけど、ひとつだけはっきりしていた。
――これは、絶対にヤバいやつだ。
《はぁ……やっと一息つけるかと思ったのにな……タイミング最悪すぎる……》
***
ノーゼン王国・エルドリア市。政府宮殿 ――評議会の間。
照明はほの暗く、重たい空気が部屋を支配していた。
高くそびえる鍛鉄の燭台が、煙を出さずに静かに燃える青い炎を支えていた。
それは、時さえも足を止めたかのような、静寂と停滞の空気を部屋に漂わせていた。
床は磨き上げられた黒大理石で、まるで暗い湖のように、古代のルーン文字が刻まれた赤褐色の長机を映し出していた。
その奥には、現代の紋章学ではもはや忘れられた、『血光の花』の紋章を描いた深紅のタペストリーが垂れ下がっている。
長机の上座には、脚を組み、赤ワインのグラスを手にしたアルヴァ・クロイツが座っていた。
雪のように白い髪は完璧に束ねられ、漆黒のビロードのスーツには、星座を模した金の刺繍が施されていた。
その姿は、軍人でも政治家でもなかった。
……むしろ、混沌の錬金術師とでも言うべき存在だった。
鋭く整った顔立ちと、共感を一切感じさせないエメラルドグリーンの瞳が、その本質を物語っていた。
「……目覚めたか」
そう呟きながら、彼はグラスをゆっくりと回した。
その隣には、鋭い目をした褐色肌の女性が、記録官の装束を纏って控えていた。
彼女は静かに頷き、報告を始める。
「運命の断片者が三日前、ヴィレリアにて反応を示しました。報告によれば、制御不能なマナの溢出と、アストラ崩壊の時代以来記録されていない共鳴現象が確認されています。あの時、彼自身が他の11体を封印した瞬間と一致しています」
アルヴァは目を閉じ、言葉の余韻を味わうかのように微笑んだ。
「……で、空間の断片者の件は?」
「……進行中です。ヴィレリア西部の基地を襲った存在は、彼の意志の延長にすぎません。ただ、力を試すにはあまりにも危険でした。『器』がまだ完全ではなく、非常に不安定な状態です。このままでは、制御不能になる可能性もあります」
「そうだな……適合する縁を与えなければ、完全な復活はできない」
そう言いながら彼は静かに立ち上がり、グラスを黒曜石の台の上に置いた。
壁に隠された巨大な書棚へと歩き、何冊もの本の背表紙に指を滑らせていく。
そして、バジリスクの革で装丁された一冊の本に手を止めた。
──『コーデックス・ルクス ∞』。
「コーデックス・ルクス計画 は、ただの呪文ではない。これは生きた数式だ。十二の断片。十二の魂。十二の共鳴。ひとつが目覚めれば、残りもまた、揺らぎ始める……」
彼の指が、ゆっくりと書の表紙を撫でる。
「だが、この『コーデックス・ルクス』を起動するには、十二体すべてを制御できるだけの魔力が必要だ。さもなければ──全てが無意味になる」
もう一人の男が前へ出た。
若く、ノーゼンの将軍服に身を包んだ男だった。
「では、あの襲撃は失敗だったのですか?」
「いや……これは実験だった。あるいは、囁きとでも言うべきか。
──空間の断片者が揺れたのだ。別の断片者、恐らく…アルヴィエルの活性化によってな」
その名が放たれた瞬間、空気が毒のように淀んだ。
「……だが、もし他の十一体を完全に復活させれば……我々は飲み込まれる。エントロピーは、決して主を選ばない」
「構わん」
アルヴァは淡々と言い放った。
「『ルクス蝕の戦争』が終結してからというもの、私は長年、彼らの力を調べ続けてきた。最初は密かに。そして今は……この国を掌握することで、堂々と研究を進めている。あの愚かな元首を騙し、死後に全ての権限を引き継いだのも、この計画のためだ」
「……今必要なのは、アルヴィエルの魂を一時的に封印し、その力を封じること」
会議室が静まり返る。
「……それは、どういう意味ですか、アルヴァ様」
アルヴァの口元に、氷のような笑みが浮かんだ。
「空間の断片者の力を、今の段階で制御する術を見つけた。
──完全ではないが、一時的には抑えられる。この呪文を使えば、アルヴィエルの魂をこちら側へと引き寄せ、一時的に“魔力封印の器”に収めることが可能になる」
そして──
「……だが」
その言葉が落ちた瞬間、空気がまた一段と重くなる。
「これはあくまで暫定手段に過ぎん。真に必要なのは、鍵だ。一人の命では足りない。この大陸全ての魔力の本質──その総和が要る。軍事的な犠牲ではなく、大陸全土の共鳴儀式が必要なのだ」
アルヴァはゆっくりと前へ進みながら、冷ややかに続けた。
「まずは──ヴィレリアとノーゼンの魔導師たち。次に──他国、そして全世界の魔力を。外交ではなく、滅びによって結束させる」
彼の言葉が落ちた瞬間、周囲の女性官僚と将軍たちは静かに──
しかし熱狂的に、敬意を込めた拍手を送った。
それはまるで、神の託宣を聞いた信徒たちのようだった。
そして、記録官の女が、赤黒い血の封印が施された巻物を静かに差し出した。
「法則はすでに整った。三つの月が巡れば、首都の頂点が収束点へと沈む。
──それが、件の事件の翌日に、ヴィレリアに潜む協力者たちから届けられた知らせだ」
アルヴァは、壁に掛けられた一枚の巨大な絵画へと目を移した。
それは、割れた天穹を描いたもの。
一筋の彗星が空を駆けていたが──その軌道は逆さま。天から地ではなく、地から天へと堕ちていた。
「『コーデックス・ルクス』……今回は、誰にも邪魔はさせない。この瞬間を──六百年も待ち続けてきたのだからな」
彼はゆっくりと振り返る。
「よし。ではヴィレリアに小さな挨拶をしに行こうか。新しい制御呪文の実験も兼ねてな。ついでに、潜伏中の仲間たちに手助けもしてやらねば」
「承知しました、アルヴァ様。すぐに準備いたします」
記録官の女が静かに頭を下げた。
「『ルクスの断片者』たち……お前たちは、私の手のひらで踊る駒に過ぎん」
アルヴァは、作戦図が広げられた黒曜石のテーブルに手を置く。
そして、地図の中心に向かって、囁くように呟いた。
「裂け目はすでに開かれている。
──だが問うべきはただ一つ」
「……誰が、生き残る?この私が……神として誕生する時代に──な!」
彼の口元にゆっくりと笑みが浮かぶ。そして、それは狂気の笑いへと変わった。
「……フッ……フフ……フハハハハハハ!!!」
***
西部戦線基地。【ヘレナの視点】
夜は異様なほど静かだった。まるでこの駐屯地そのものが、何かを警戒するように息をひそめているかのように。
外では、霧に包まれた監視塔が一定のリズムで明かりを灯し、遠くからは魔動機関の低い唸り声が風に乗って響いていた。
あの事件以来、警備は格段に強化された。
私はベッドの縁に腰を下ろし、制服の上着を半分ほど脱いだ状態で、マントを椅子の背にかけた。
眠れない。――まただ。
あの夜から三日間、頭の中は形のない嵐のように思考がぐるぐると渦巻いていた。
作業机の上には、西部基地の損傷報告書が山積みにされていた。
中には血の跡がついたものや、修復作業に追われた兵士たちが走り書きしたメモもある。
私は、士官学校の時代からずっと持ち続けている小さな手鏡を取り出し、その中に映る自分の顔を見つめた。
鏡の中の私は、確かに凛としている。けれどその目には、疲労と迷いが色濃く滲んでいた。
この赤い瞳は、嘘をつけない。
――私たちは、一体何をしているの?
この沈黙の中で、一体何が始まろうとしているの?
その時だった。
扉が開く音も、足音も聞こえなかった。
けれど──そこにあった。
誰かが、折りたたまれた手紙をドアの下から滑らせていた。封も、名前も、何の印もない。
私はすぐさま拾い上げた。
心臓が、強く、速く打ち始めていた。
息を整えながら、丁寧に紙を広げる。
──その中身は、短くも衝撃的だった。
『夜明け前に、ヴェールは落ちる。すでに一個小隊が動いている。君の直感は正しかった。彼らは隠れ家を探している。どの拠点かはまだ特定されていないが、時間の問題だ。今動けば──結末を変えられる。』
……それだけだった。
私は一瞬で警戒態勢に入った。
制服のボタンを反射的に留めながら、頭の中はすでに次の行動を描いていた。
隠れ家の存在が知られたということは、誰かが何かを掴んだのだ。想定より遥かに早い。
つまり──リッカとレオンハルトが危ない。
私は棚へ向かい、個人装備の槍を手に取った。それは魔力の媒介にもなる特製の武器。
そして、父の形見である黒曜石の短剣も腰に装備した。
髪をきつく編み直し、通信端末を起動。
周波数を軍の補助回線へと切り替える。
「シグマ3部隊、南および東の進入路にて部隊の動きはあるか、応答せよ」
……応答なし。
「繰り返す。シグマ3部隊、軍区下層域にて部隊移動は確認されているか?」
……またしても、沈黙。
不自然だった。考えられるのは三つ。
──寝落ちか、死亡か、それとも共謀か。
私は迷いなく廊下へ飛び出した。
照明は控えめに灯っていたが、逆にそれが不気味だった。
全てが整いすぎている。まるで、誰かが『演出』したかのように。
私は迅速に作戦記録の保管室へと向かった。
出動記録を確認すれば、誰が、どこへ、どのような命令で動いたのかが分かるはず。
だが、主廊下を曲がったその瞬間──
「……あら!」
全身に凍てつくような気配が走った。
空気が、軋んでいた。まるで空間そのものが圧縮されるような異常な感覚。
そして──そこにいた。
私の行く手を塞ぐ、何かが。
黒い制服を着た女だった。階級章のないその服は、前が開かれ、膝上までのブーツとミニスカート、そして革のグローブが目を引いた。
髪は濃紺でショートカット。無造作に後ろへ流しており、唇は濃い赤に彩られ、その表情は──無関心と挑発の間を揺れ動いていた。
彼女のメガネは、廊下の微かな光を反射して不気味に光り、その目には、どこかサディスティックな光が宿っていた。
「こんな時間に一人で廊下を歩いてるなんて、いけないわね──フォン・ライゲンシュタール小隊長?」
その声は、低くも高くもない。猫のように気だるげで、嘲るような響きを持っていた。
私は無意識に槍へと手を伸ばしていた。
「……何の用? あなたの部署は別の基地だったはずよね。この区画に来るなんて珍しいわ」
彼女はゆっくりと、芝居がかった動きで微笑んだ。胸元に手を当て、一礼でもするかのように見えたが──結局、何もしなかった。
「ふふ……そんなこと重要? たまには、ただの気まぐれで訪れちゃいけないのかしら?それとも……どこか急ぎの用でもあるのかしら、小隊長?」
「……」
彼女は私に歩み寄ると、指先で私の肩をなぞるように、私の周囲をゆっくりと回り始めた。その動き一つひとつが、異様な緊張感を生む。
一瞬ででも油断したら、背後から襲ってきそうな空気。──この女、油断ならない。
「……うふふ、安心して。今日は遊びに来たわけじゃないの。でもね、私は人の目を読むのが得意なのよ。あなたの目──今日、何か“大きな決断”を下したって顔してるわね」
そう言い残し、彼女は私の進行方向とは逆へと歩き出した。
私はその後ろ姿をじっと見つめた。
武器は見当たらない。けれど、その立ち居振る舞いには一切の隙がなかった。
歩くたびに、挑発と威圧の両方が伝わってくる。まるで、恐怖と欲望を同時に植え付けるかのように。
「……決断について、あなたが何を知ってるの?」
私が問いかけると、彼女は首を傾けながら、愉快そうに振り返った。
「あなたが思ってるより、ずっと多くのことをよ。ふふ……まあ、話す機会はそのうちあるでしょうね。今夜はあなたの邪魔はしないわ。
……急いでるみたいだから」
「……私の味方か、それとも敵か?」
そう問いかけると、彼女のサディスティックな笑みは微動だにしなかった。私は一瞬たりとも油断できなかった。まばたきすら、命取りになりかねない。
「……そうね。あえて言うなら──私はいるべき場所にいるだけ。今、この瞬間のそれがここ、ってわけ。
……それ以上、私について知る必要はないわよ」
彼女は猫のような動きで、くるりと背を向けると、そのままゆっくりと闇の中へ歩き出した。
「また会いましょう、フォン・ライゲンシュタール小隊長……あ、そうだ。行く前にちょっとしたプレゼントを置いていくわ。ふふふ……」
「……プレゼント?」
「ええ。よーく聞いて。『東の森にある、放棄された地下バンカー』──
この言葉、ちゃんと覚えておいて。そして、あなたが何者なのか……証明してみせて」
そう言い残し、彼女の姿は廊下の奥の闇に溶けていった。
彼女はいなくなった。
けれど、彼女が放っていた冷気は、まるで汗のように肌に張り付いたままだった。
──ソフィア・ウェーバー中佐。
あの日、上層部の前でレオンハルトをあの視線で見つめていた女。
……間違いない、彼女は危険な存在だ。五つの勲章を持つ女……その力は伊達ではない。
《……何を隠しているの? なぜ止めなかった?本当は誰のために動いているの?》
頭の中に、いくつもの疑問が渦を巻いた。だが──今は推測している時間などない。考えるのは、後でいい。
「……東の森、ね。……彼女を信じるしかないか。選択肢は他にない……」
私は小さく呟きながら、再び歩を早めた。
もう迷いはなかった。
今、私の中で何かが始まろうとしている──
静かなる革命が。
「──レオンハルト、リッカ……もう少しだけ、待ってて」
次回:『沈黙を破る者たち。』