第4章 『夜半に目覚めしもの。』
絶望が迫る中、ただ一人その脅威を退けたのは、無名の下級兵――レオンハルト・ヴィレルだった。
だが、その代償はあまりにも大きく、そして不可解なものだった。
消えた彼を巡り、動き出す二人の女。
指揮官としての責務と、個人としての想いの狭間で揺れるヘレナ。
禁術を用いて彼を守り抜いたリッカの胸中には、確かな決意と覚悟が宿る。
交錯する陰謀と、語られざる伝承『ルクス蝕の戦争』。
彼の覚醒をきっかけに、国家の深奥に眠る『何か』が静かに目を覚まそうとしていた――。
オタクOLだった彼女の、男としての転生ライフは日に日に複雑になっていく――。
西部戦線・北翼 司令部前 【レオンハルト視点】
「ネクス・ヴェルム……オルディニス・フラクトゥム」《死のヴェール:壊れた秩序》
どうしてその言葉が口から出たのか、俺にも分からなかった。
意味も知らない。ただ……そう唱えた瞬間、濃い霧の向こうに『それ』の姿が見えた。
それは、単なる視覚ではなかった。
分析でも、識別でもない。――魂の底にまで届くような『本質』の感知。
禍々しい気配……いや、『瘴気』そのものだった。
背後で食堂の照明が、乾いた音とともに爆ぜた。
その一瞬で、基地全体が緊張の電流を走らせたように震えた。
そして――
空に開いた裂け目が、完全に口を開いた。
そこから現れたのは……もはや『存在』と呼べるのかすら疑わしい『何か』。
それは人型だった。
だが、その体はあまりにも異常に伸び、歪んでいた。
目はない。
代わりに、蝋で覆われたような不気味な皮膚。
顔は溶けた粘土のように歪み、口だけが――
叫びを凍らせたまま、永遠に開いていた。
《……くっそ、マジで怖ぇ……ホラーゲーでもここまでいかねぇだろ。スレンダーマンの上位互換かよ……》
その『怪物』の周囲を、知性と本能を備えたような暗黒の霧が取り巻いていた。
霧の内部では、黒い雷光のような光が心臓の鼓動のように脈打っていた。
「な、なんだよこれぇぇええ!?!?」
監視塔の近くで叫んだ兵士が、次の瞬間――
目に見えない何かの衝撃で壁に叩きつけられた。
彼の絶叫は、なお鳴り響いていた魔法警報の音にかき消された。
――そのとき。
エネルギー障壁からの影響か、基地の魔導電源が断たれ、スピーカーは沈黙した。
代わりに、空中に浮かぶ通信結晶から、冷たい声が響いた。
『全兵に告ぐ。霧との接触を厳禁とする。繰り返す――接触するな。』
それは、ヘレナ隊長の声だった。
『デルタ小隊、逆位障壁を展開! ガンマ小隊、A-32陣形で展開開始! 周囲を封鎖して! 繰り返す、霧に触れるな!』
青白い光が夜空を裂いた。
上空から降り立ったのは――ヘレナだった。
その身を魔力のオーラに包み、鋭く輝く魔槍を回転させながら、霧を払おうとする。
「誰か、こいつが何なのか説明しなさい!」
戦闘コードが起動し、隊長の魔術演算が全力で展開される――
……が。
何一つ、通用しなかった。
彼女の怒声も、槍の一閃も、霧を裂くことなく弾かれる。
封印術式、拘束魔法――全てが『それ』の周囲でねじ曲がり、弾かれていく。
まるで、あれはこの世界に属していないかのように。
あるいは、この現実そのものが『あれ』を拒絶しているかのように。
俺は一歩後退した。
さらにもう一歩。――でも、逃げられなかった。
逃げる理由はなかった。
いや、何かが俺の中で目を覚ましたのだ。
再び、右目が淡く輝いた。
分析モードが展開され、改めて『あれ』の情報を読み取ろうとする。
【未確認存在――クラス:EX】
【性質:断片的】
【推奨行動:接触不可】
【起源:――――】
――だが。
分析が最後まで表示される直前、インターフェースが異音とともに強制シャットダウンされた。
「うぐっ……っ」
頭が揺れた。視界が歪む。
その直後、『それ』が一歩踏み出した――
地面全体が震えた。
外壁の結界が黒と紫に染まり、まるで『生きた墨』のように蠢く。
あれはもう、結界を突破したということだ。
もう、ここは安全地帯ではない。
……いや、そもそも安全など最初から存在しなかったのかもしれない。
兵士たちは叫び、逃げ惑い、空に向かって魔術を撃つ者すらいた。
そのどれもが無意味だった。
だが――
俺は動けなかった。
身体が熱い。
恐怖じゃない、もっと深い場所から湧き出る原始的な衝動。
アドレナリンが弾ける。
血流が加速する。
俺の中の『何か』が、戦いを……いや、『これ』との遭遇そのものを待っていたかのように。
「……ははっ。最高のタイミングで死にそうだな。給料日、まだなのに」
『それ』が……俺の方を向いた。
顔らしきものを、こちらへゆっくりとねじ曲げて。
目なんかないはずなのに――《いや、目がないからこそ怖い》
……なのに、なぜか俺は思った。
《こいつと……会うのは初めてじゃない》
根拠なんてない。ただ――心と身体が、そう訴えてくる。
何かが沸騰するように全身を駆け巡り、指先が勝手に震えた。
そして、口の中に……名のようなものが浮かんだ。
古く、忘れられた『音』。
でも、まだ言葉にはしなかった。
『それ』はまるで俺の存在を無視するように、別方向――司令部の中心部へ向かって歩き始めた。
「……え?」
《……まさか、俺のこと見えてない? いや、違うだろ……えっ、存在感ゼロ? 『眼中にすらない』ってやつ?》
《……いやいや、いまの『顔合わせ』意味なかったんかい!!》
思わず心の中でツッコミを入れつつ、全身から変な汗が出る。
《落ち着けレオン。相手は見るからにバグったホラーのラスボスだ。怒らせなかっただけマシ……って、それはそれでちょっとムカつく》
だが――
歩くたびに、『それ』の足元の空間が歪んだ。
まるで、時空そのものを踏みつけて進んでいるかのように。
分かっている。このままじゃ、全員死ぬ。
俺たちの魔術も武器も、こいつには通じない。
レベルが違う――いや、次元が違う。
この世界の『ルール』を逸脱した異常存在。
***
魔力障壁が、スローモーションで崩壊していく。
地面を這うような霧が、音もなく空気を飲み込む中――
ヘレナ隊長は未だ地上で槍を構え、警戒を解かずに立っていた。
その顔に焦りは見えないが――明らかに、術式は無効化されている。
周囲の兵士たちは次第に混乱し始め、各小隊の再編も間に合っていない。
「――隊長……」
そんな時だった。
塔の南側から、一閃の影が舞い降りた。
赤みがかった髪が夜気に揺れ、未装の戦闘ジャケットを羽織った少女が地面に着地する。
リッカだった。
その周囲には、浮遊する魔導書と、ギアのように回転する複数の魔術式サークル。
「第四世代封印コード、三重結界陣、収束式起動――!」
地面に両手を当てると、彼女の足元から黄金の符文が広がり、陣形を形成していく。
地面が唸り、空気が弾けた。
霧の中心――『それ』の真下に、魔術式が展開される。
俺は息を呑んだ。
――今度こそ、効くか……!?
……だが。
『それ』は――
まったく動じなかった。
リッカを一瞥すると、まるで嘲笑うかのような気配を放ち始めた。
そして次の瞬間、術式の文様が砕け散った。
――ガラスのように、圧力で粉々に。
「っ――!!」
目にも留まらぬ速さでリッカの身体が後方へ吹き飛び、地面を転がった。
何もない空間から発せられた見えない力に、彼女は打ち据えられたのだ。
「ありえない……!これは魔術耐性じゃない……世界そのものが、あれを拒絶してるみたい…!」
地面に膝をつき、咳き込みながらそう呟いた彼女の口元には、鮮やかな血がにじんでいた。
***
そのときだった。
また――右目が、焼けるように熱くなった。
普通の痛みじゃない。
ゴミが入ったとか、炎症とか、そんなレベルじゃない。
もっと深い、もっと脳の奥から突き上げるような痛み。
「……またこれかよ……っ!」
思わず顔をしかめるが、身体は勝手に動いていた。
意識とは無関係に、指が空中へ謎の紋章を描き出し、口が聞いたこともない言葉を紡ぐ。
「アトラメントゥム・ファートゥム」《運命のインク》
《……なんだよ今の。ラテン語か?いや、俺ラテン語なんか知らねえっての!》
ごりっ……。
足元の影が、不気味に伸びた。
そしてそこから――
『赤い糸』が、音もなく浮かび上がった。
金属でも魔力でもない。
それは、まるで肉の繊維のようにどろりとした質感をもちながら、空中を漂い始めた。
生き物のように、脈動し、振動し、狩りを始める獣のように。
数えた。十本――いや、十二本。
《ちょうど、俺の心臓が十二回脈打った……その数と一致してる。なんだこれ……!?》
それらの糸が一斉に、『それ』の首筋へと突き刺さった。
……その瞬間だった。
世界が、崩れた。
比喩ではない――
『音』も『視界』も一瞬でねじ曲がったような錯覚に襲われた。
叫び声が響いた――だが、空気ではなく、『頭の中』に。
音ではない、呪いに近い『周波』。
意識そのものを裂くような不協和音。
「う、うわぁあああ!!」
兵士たちは耳をふさぐ間もなく倒れ、ヘレナ隊長すらも一歩、後退した。
「レオン!!」
リッカの叫びが聞こえた気がした。
そして――
『それ』が、止まった。
……初めて、動きを止めた。
俺の『何か』が……通じたのか?
《いや、通じたっていうか……怒らせただけじゃねぇの!?》
『それ』の身体が、びくん、と激しく痙攣した。
まるで魂の一部を引き裂かれたかのように。
それを包んでいた濃密な霧が、わずかに揺らぎ、薄くなった。
そして、『それ』の足――いや、そう呼べるものがあるならば――が地面をひっかくように後退した。
その瞬間――
脳裏に、何かが走った。
言葉では説明できない。
記憶の断片? それとも、別の誰かの過去?
***
――戦場。
雪。血。
空中に舞う、金色の破片。まるで灰のようにゆっくりと降ってくる。
その中心に、俺がいた。
一人、立っていた。
ひび割れた金色の魔法陣の中央。
倒れ伏した魔術師たちに囲まれていた。
顔は知らない――でも、懐かしい気がした。
そして、俺の手に握られていたのは――黒い万年筆。
剣ではなく、血を滴らせるペンだった。
《……くっそ、こんなことなら普通に現代で社畜やってた方がマシだったわ》
***
そのとき、俺の体内に取り込まれた『それ』の精気が、焼けるような熱を持って暴れだした。
「う、うああああっ……!!」
――毒。
それは、呪いにも似た、精神を侵す力だった。
吸収してはいけないものだったんだ。
直後に、術式が崩壊した。
ばちん――。
何かが弾けるような音。
紅い糸が一本ずつ空中で裂けていく。
俺の喉から血があふれた。
右目の光が消える。
膝が崩れ落ち、地面に倒れ込む。
右手が焼けるように痛み、浮かび上がった紋様が刻まれては、また消えていく。
《くそっ、限界か……》
けれど――
『それ』は、動きを止めたままだった。
いや、違う。
逃げてる……?
《まさか、俺の一撃を本能的に恐れた?》
そう思った瞬間、『それ』がこちらを振り返った。
……俺の状態を見たのだろう。
そして、進路を変えた。
「っ……!」
目の前に、黒い影が迫る。
『それ』は――俺を狙ってきた。
崩れた体では、もう避けられない。
音速で振るわれた腕が、空気を引き裂きながら迫ってくる――
《あ、これ……終わったかも》
《……はは、最高だな。また死ぬのか。皮肉なもんだ。さて、今度はどんな世界に転生するんだろうな――》
ドンッ!
衝撃は来なかった。
代わりに、青い閃光と、温かい魔力の波。
そして、焦ったような二つの声が重なって響いた。
「まだ死ぬんじゃないわよ、バカ!!」
ヘレナとリッカだった。
二人が同時に展開した結界が俺の周囲を包み、『それ』の攻撃をわずかに逸らした。
鈍い轟音。
直後、彼女たちは壁に叩きつけられた。
血が舞い、顔が紅に染まっていた。
「隊長……リッカさん……あなたたち……」
でも、もう言葉にならなかった。
視界が霞み、耳に入るのは他の兵士たちの絶叫だけだった。
《くそ……結局、何も守れないのか、俺は……》
そのとき、足元に冷たいものが触れた。
ぬるりと這い上がる感触。
『それ』から伸びた霧。
まるで生きているかのように、地面を這い、俺に近づいてくる。
《……やべぇ……》
汗が背中を伝い落ちる。
脳が警鐘を鳴らし、全身にアドレナリンが走る。
《来る……!》
動け――そう願ったが、体が言うことを聞かない。
力が体を満たしているはずなのに、自分の体じゃないみたいに感じた。
霧が、優しく触れた。
痛みはなかった。
ただ、虚無だけがあった。
まるで俺という存在をそっと包み、飲み込もうとするように。
……そのとき。
ばっ!
足元に、不規則な光の魔法陣が出現した。
明らかに自動発動された結界。
それは、今まで見たどの魔術とも違った。
生々しく、どこか有機的。
魔力というより、世界そのものが俺の死を拒絶したかのように。
霧がシュウッと音を立て、後退した。そして、『それ』の身体が再び、微かに揺れた。
『それ』が動き出した瞬間――
再び、俺を見た。
その時感じたんだ。あいつは俺を『知っている』。
まるで、ずっと前から知っていたかのように。
そして――声。
俺のものじゃない声が、喉から漏れ出した。
荒く、重く、古代の風に乗ってきたかのような響き。
それは、俺自身ではなかった。何かが、俺を通して喋っていた。
口が、勝手に動く。
「――オルド・ルクス... ファトゥム・インフェルナーレ」《光の秩序:地獄の運命》
その言葉と共に、俺の影の下で何かが壊れた。
地面が砕けることはなかった。だが、影は歪み、波打ち、裂けた。
そこから、無数の血の針のような弾丸が噴き出した。
鮮烈な深紅。だが、それは魔法の輝きではなかった。
神罰のような、あるいは地獄の裁きのような。
そしてその赤の嵐の中心に、何かが現れた。
影から這い上がるように現れたのは、痩せた体躯、暗紫色のローブに包まれた存在。
顔はない。肉体も曖昧。
だが、その圧倒的な存在感に、空気が悲鳴を上げた。
『それ』――あの怪物は、一歩、後退した。
恐怖。はっきりと、『それ』は怯えていた。
影の存在は、叫ばない。咆哮もしない。
ただ、静かに、腕のようなものを伸ばし、指を指した。
まるで――有罪判決を下す裁判官のように。
それだけで、『それ』は弾き飛ばされた。
火に焼かれる虫のように。目に見えない力で、空間が軋みながら歪み、怪物は後方へと吹き飛ばされた。
――もしあいつに顔があったなら、間違いなく、恐怖で引き攣っていただろう。
そう思えるほどに、その身体は『恐れ』を体現していた。
あいつの体が激しくよじれた。
霧が完全に消え、その背後に開いていた裂け目――ポータルが、まるでこの世界の均衡がその存在を拒絶するかのように、ゆっくりと閉じ始めた。
その瞬間、俺は気づいた。
あれは破壊じゃない。排除だ。
俺の術は、あいつを倒すものじゃなくて――
この世界から『追い出す』ものだった。
ポータルは、血を流すまぶたのように閉じ、最後の一瞬で、あの化け物は圧倒的な『逆流』に吸い込まれて消えた。
――静寂。
風も、音も、気配すら止まる。
空気が振動するのをやめ、空が晴れ、満月の光が静かに世界を照らした。
兵士たちは誰もが動けずに立ち尽くしていた。
リッカは血を拭いながら、片膝をついて必死に息を整えている。
ヘレナは一言も発さず、傷の痛みに耐えながらも、今にも新たな敵が現れるかのように身構えていた。
その表情は冷静そのものだったが、彼女の指先も、脚も、兵士たちと同じように、かすかに震えていた。
そして――俺は。
もう、立っていられなかった。足が力を失い、前のめりに倒れ込む。
――冗談を言う暇もなかった。
意識が砕ける。それは音もなく、ゆっくりと。
俺の視界は闇に染まり、思考が、感覚が、すべてが――
静かに、絶対の『無』へと沈んでいった。
まるで、世界そのものが、俺の中から消えていくように。
***
西部戦線前線基地・北棟 外周部。【リッカ視点】
焦げた血とオゾンの匂いが、まだ空気に残っていた。
地面がわずかに揺れている。
もう、あの化け物のせいではない――
彼が呼び出した『何か』の影響だ。
……あれは、魔法じゃない。失われた術式でも、禁呪でもない。
あれは――この時代に存在しているはずのないものだった。
「……一体、レオン……君は何者なの?」
倒れゆく彼のもとへ、私は駆け寄った。
その身体は魂を失った人形のように、音もなく崩れ落ちた。
私は膝をつき、そっと胸元に手を置く。
冷たい肌。わずかに開いた唇。血がまだ、口元から流れている。
「ダメ……今じゃない。こんなところで倒れちゃダメ……」
微かに感じた鼓動。まだ、彼は生きている。
周囲では兵士たちが、あの存在の撤退を喜び、歓声を上げていた。だが、誰も気づいていない。
彼が今、どれほど危険な状態にあるか――。
ヘレナだけは、まだ警戒を解いていなかった。だけど、もう時間がない。
たぶんあと数秒。いや、もっと短いかもしれない。
私は覚悟を決めた。
上層部に彼を引き渡すわけにはいかない。彼の力が知られてしまえば――
私たちが集めたすべての情報が無意味になる。
それ以上に、私は……
――レオンを、失いたくなかった。
任務のためだけじゃない。
彼という存在そのものが、私の中で……特別な意味を持ち始めているから。
「……仕方ないわね。プロトコル違反、また一つ追加ってとこか」
私は上着のポケットから、小さなグリモアを取り出した。無題のページを開き、古い印を指でなぞる。
――これは、禁術。
「登録外次元転移……コード『震える駅』。感情的錨、確定」
禁術には、代償がある。
でも今回は……その代償を受け入れる覚悟があった。
紫の魔法陣が足元に展開し、歯車のように回転し始める。
私の瞳が輝き、レオンの身体を淡い紫のオーラが包み込む。
「ごめんね、ヘレナ……でも、彼をここには置いておけない」
そして――満月の光の下で。私たちは、静かに消えた。
***
西部戦線前線基地・北棟 外周部。【ヘレナ視点】
静寂が、鉛のように空気を押し潰していた。
あの化け物は消え、兵士たちは歓声を上げていたが――
本当の意味で喜べる理由など、どこにもなかった。
廊下には粉塵が舞い、壊れた家具の破片、砕けたガラスが散乱していた。
多くの者が負傷したが、幸いなことに死者はいないようだった。
……すべて、彼のおかげだ。
私は視線を、あの存在が現れた場所に向けた。
地面には、いまだに残っている痕跡があった。
乾いた影のようなもの、見覚えのない魔法陣、そして――
あの冷たく、不気味で、不自然な『気配』。
あれは、私たちが知っている魔力ではなかった。
……あれは、何か別の『法則』だった。
幸いだったのは、混乱と恐怖の中で兵士たちの多くが、その異常に気づかなかったこと。
あの濃霧も、真実を覆い隠すのに一役買った。
「レオンハルト・ヴィレル……あんた、一体何者なの?」
私は危険が去ったことを確認し、彼が倒れていた場所へ視線を向けた。だが、そこには――誰もいなかった。
すぐに魔力感知の術式を展開し、残留魔力の痕跡を追った。
……そこでようやく気づいた。
彼は、転移魔法で移動させられていた。しかもそれは、禁術に分類される魔法。
術者は――リッカ。
「……どういうこと? なんで、そんなことを……?」
あの術は攻撃用でも防御用でもない。でも、その代償はあまりにも大きい。
術者は、自身の生命力を代価として使用し、回復には長い年月を要する。
繰り返し使えば……命を削ることになる。
……最悪、誰にも救えない。
そんな危険な術を、リッカが使った。
彼女は軽率な人間じゃない。あれを使うには――それ相応の『覚悟』と『理由』が必要だったはずだ。
私はただ、静かに息を吐いた。
「……わかったわ、リッカ。次に会ったとき……ちゃんと聞かせてもらうから」
私は、彼女を止めなかった。
いや、止めようと思えばできた。呼び止めることも、追跡印を起動することも――全部、できたはずだ。
けれど私は、あえてそうしなかった。
後で直接問いただすと決めたから。
《なぜ、あのような方法でレオンハルトを連れ去ったのか――
たとえ、力づくになったとしても》
それでも彼女が口を閉ざすなら――
そのときは、裏切り者として処分するしかない。
告発などできなかった。
私たちは幼い頃から、共に育ってきた。だからこそ、一度だけ――信じてみたかった。
《……甘すぎるのかもしれないけど》
とはいえ、上層部がレオンハルトの件を知ったら、どう反応するかは分からない。
彼はあくまで『よそ者』だ。しかも男である以上、この国では決して優遇されることはない。
リッカを失うわけにはいかない。そして今となっては、レオンハルトも失えない。彼は私の保護対象であり、才能の片鱗をすでに見せていた。
少なくとも、彼がリッカと共にいる限り、彼の安否と居場所は把握できる。
それだけでも安心材料だ。
近頃、ヴィレリアの政府について『ある噂』が広まりつつあった。
政府が、何か重大な秘密を隠しているのではないかという――
そして今の出来事を経て、その噂が現実味を帯びてきた。
一般人には信じ難いかもしれない。
けれど、私たちのように高度な魔力感知能力を持つ者にとって、国の防御結界をあのように突破できる存在がいるなど、あまりにも不自然だった。
……とはいえ、今は考えている暇などなかった。
基地全体が混乱の渦中にあり、明け方までにやるべきことは山積みだ。
それに、夜明けには上層部への報告もしなければならない。
その後、明け方までの間、基地は慌ただしく動いた。
戦闘が終わると同時に、男性兵は修復作業へと駆り出され、女性兵には休息が許された。
私は――上位階級者として、率先して現場に残り、できる限りの手伝いをした。
階級が上だろうと、背中で示すべきときはあるのだから。
***
西部戦線前線基地・北翼区域 会議室。
午前8時。
アイリーン・アルヴェルト司令は、険しい表情で私を待っていた。
作戦卓の上に重苦しい沈黙が漂い、他の高官たちは緊張の面持ちで視線を交わしていた。
「フォン・ライゲンシュタール小隊長……二時間も遅れて来るとは、どういうつもりですか。この緊急会議は、あなたの報告を待つために開かれているのですよ」
「司令、私は基地の復旧作業の指揮と、医務室にて負傷兵の容態確認を行っておりました」
「小隊長、はっきり申し上げますが、最優先すべきは速やかな状況報告です。我々は暇ではないのです。あなたの都合で待たされるほど、時間に余裕があるわけではありません」
「……はい、失礼しました。ただ、明け方に発生した事案であったため、こちらの皆様がご就寝中の時間帯に私が対処していたことも、事実です」
私は背筋を正し、静かにそう返した。
アルヴェルト司令の顔が一瞬ひきつる。
怒声を上げそうになったが、何とかこらえたようだった。
「ふん……まあいいわ。本題に入りましょう。政府から直々に事件の詳細報告が求められています。今回の襲撃ではS級緊急コードが発動され、アルゲンタ本部にまで警報が届いた。――一体、何があったのですか?」
《……やっぱり、兵士たちの命より報告の方が大事ってわけね。本当に吐き気がする》
私は感情を押し殺し、静かに立ち尽くしていた。
両手は背中で組まれたまま。声も、表情も、微動だにしない。ただ、内には炎が揺らいでいた。
「深夜、未確認の次元ゲートが突然開き、そこから正体不明の存在が出現しました。魔導分析により『EXクラス』と分類されましたが、直後にシステムがダウン。封印及び制圧は全て失敗しました」
司令は私を睨むように見つめていた。
「それだけ? それほどの脅威だったと言う割に、あなたはこうして無傷で立っている。死者も出ていないようですし……本当にそんな大事件だったと? ――それとも、何か隠しているのですか?」
会議室に、また沈黙が走った。
私は、深く息を吸い込み――そして、語り始めた。
「……レオンハルト・ヴィレルが、今回の脅威を排除しました。使用したのは、登録されていない出自不明の術式と思われます。自律型の魔術のように見えました。発音された言語は――ラテン語に似ていた、とのことです」
嘘をつく理由はなかった。だが、全てを語る必要もなかった。
だから私は、いくつかの真実を隠しながらそう答えた。
「ヴィレル? あの、あなたの監視下にある下級兵のことか? ――どうしてそんなことが可能なんだ?」
「……私も、同じ疑問を抱きました。そして、皆様と同様に驚きました」
アルヴェルト司令の顔には、動揺が走った。
それを取り繕おうとしたが、部屋の他の幹部たちも同じようにわずかに表情を崩していた。
「その兵士、今はどこに? 直ちにここに連れて来なさい」
その時、例の不快な笑みを浮かべるあの幹部が、わざとらしく口角を上げた。
――まるで獲物を見つけた猛獣のような顔だった。
《……やはり、リッカに連れて行かせたのは正解だった》
「残念ながら、レオンハルト・ヴィレルは――あの怪物との戦闘の直後、次元の歪みに飲み込まれ、姿を消しました。出現したゲートは直後に閉じ、その中に消えたと推測されます。現場には何の痕跡も残されておりません」
すべて――嘘だった。
軍の高官にここまではっきりと嘘を吐くのは、これが初めてだった。
私のこれまでの完璧な経歴は、今この瞬間に崩れかけている。
だが、それでも構わない。
信念と良心は、命令や保身よりも重い。
「……つまり、渦に巻き込まれて消えたと?」
「はい。私たちが確認できたのはそれだけです。それ以上の説明は、今のところ不可能です」
アルヴェルト司令は唇を噛み、しばし沈黙した。
そして、視線を鋭く向けながら問うた。
「――大統領閣下からの直接照会があった。今回の戦闘中、『ルクス蝕』という語を含む術式を耳にしたかどうか、確認せよとの命令です。心当たりはありますか?」
《ルクス蝕……?》
それは、世界の原初に起きたとされる大戦争――
神話として語られる、伝説の災厄の名だった。
学生時代に歴史の授業で軽く触れられる程度の話。
しかし、その詳細が語られることはほとんどない。
曖昧なまま、ただ『神話』として処理される出来事。
「……ルクス蝕? 伝承の話と、今回の事件に何の関係が?失礼ですが、今優先すべきは、どうやって敵がこの基地に侵入できたのか――その経路を特定することではないのですか?」
私は感情を殺したまま、何一つ揺らぐことなく、そう言った。
アルヴェルト司令は、私の指摘を予想していなかったのだろう。
その顔が一瞬、歪んだ。
「……それについては既に調査を進めている。機密情報に該当するため、詳細は開示できないが、結果が出次第、適切に指示する予定だ」
取り繕ったつもりだろうが、その返答はあまりにも稚拙だった。
まるで、裏切り者の存在など考えたこともないか、あるいは――既に誰かを知っていて、庇っているかのように思えた。
《政府があそこまでレオンハルトとその使用した術式に執着しているというのなら……あの伝説、ただの神話ではない可能性もある。仮にそれが事実なら……全ての辻褄が合う》
「では、新たな命令をお待ちしております。それまでの間、本件のゲート現象についてのメカニズムを科学調査班により解析させます」
あえてそう口にした。
これは、こちらからの牽制だ。
「心配はいらない。既に専門の部署で進めている。むしろ、あなたにはヴィレルの所在を最優先で追跡してもらいたい。彼とは是非とも、直接話がしたい」
《……ビンゴ》
やはり、司令の本音はそこだった。
国家の安全よりも、兵士ひとりを優先するとは――
それは、何かを隠している証拠に他ならない。
口調を整えつつも、焦りをごまかす彼女の態度は、私の疑念をさらに確かなものにした。
「了解しました。それでは、他にご指示はありますか?」
「いや、それで結構。ご苦労だった、フォン・ライゲンシュタール. 小隊長。退室してよい」
「はっ」
敬礼を交わし、静かに立ち上がった。
「……念のため申し上げておきますが、ここでの会話は全て極秘事項です。漏洩は断じて許されません」
「ご心配なく。軍機を軽々しく口外するような人間ではありませんので」
努めて冷静に答えたが、内心の怒りが顔に出かけていた。
これ以上は危険だと判断し、私はそのまま部屋を後にした。
***
西部前線基地・外周部 数分後。【リッカ視点】
私は基地の外にあるベンチの手すりに腰掛け、足をぶらつかせながら拳をぎゅっと握っていた。
緊張で指の節々が白くなっていたのが自分でもわかる。
風は、森の匂いに灰の気配を混ぜて運んできた。
サラが負傷兵の処置を終えるのを待っているところだった。
彼女と合流して、私が匿っているレオンのところへ案内してもらう必要がある。
応急処置は施したが、専門の魔導治癒士による診察がどうしても必要だった。
……それに、話をしなければならない。
あの夜、彼が使った術式について――
一体あれが何だったのか、詳しく説明を受ける必要がある。
だがそれだけじゃない。
この件に関わっている『連中』も、すでに動き出している気配がある。
私たちも、そろそろ動かねばならなかった。
考えを巡らせていたそのとき、背後から誰かの足音が近づいてきた。
――もうわかってる。
見る前から、誰なのか察しがついていた。
ヘレナだった。
別に怖くはない。けれど、彼女がその気になれば――
本気で殺しに来ると分かっている分、軽くは見られなかった。
「やあ、隊長さん。……もう、『あの魔女たち』からお説教は終わった頃?」
冗談めかして声をかけた。
彼女なら、私がレオンを連れ出したことにすぐ気づいているはずだ。
だったら、今さら知らないふりをする意味なんてない。
「隠す必要はないわよ。……全部、知ってるから」
やっぱりな。
ヘレナにバレるのは、当然だった。若くしてその地位にいるのも納得がいく。
「……ふふっ、もう演技はやめるか。でもその前に、場所を変えよう。ここは……見張る目が多すぎる」
私たちは周囲に怪しまれないように、あえてゆっくり歩きながら敷地の外へ向かった。
会話はなかった。空気は重く、妙な緊張感が漂っていた。
しばらくして、街の端にある小さな林にたどり着いた。
周囲に誰もいないことを確認し、私はようやく口を開いた。
「さあて……聞きたいのは『どこにいるのか』? それとも、『なぜやったのか』?」
ヘレナは短く息を吸い込んでから、静かに言った。
「聞くつもりはない。今すぐ、私を彼の元へ連れて行って」
「――あいにく、今はそれができないのよ」
「どうして?……私のこと、信じてないの?」
「私たちは子どもの頃からの仲でしょう? 君なら、もう気づいてるはず。何かがおかしいって」
「確かに。けど、それとあんたが彼に会わせてくれるかどうかは別の話よ」
「いえ、関係あるの。……君が彼の監視役だったからこそ、今はあなた自身が監視されているかもしれない。だから今は連れて行けないの、分かって」
「でも安心して。彼は無事よ。絶対に、何も起こらせないわ」
ヘレナは目に怒りを浮かべながらも、私の言葉の意味を理解してくれた。
「じゃあ……彼は大丈夫なのね? 命に別状は?」
「うん。今は安定してる。目を覚ましたら、真っ先に君に連絡する。これは約束」
私の言葉に、ヘレナの顔に少しだけ安堵の色が浮かんだ。
だがすぐに表情を引き締め、話題を変えた。
「……それを願ってるわ。ところで、私……上層部には本当に失望したの」
彼女は、疲れきった様子だった。
それでも、あの凛とした姿勢を崩さずにいた。
「……話してもいいよ、ヘレナ。私はちゃんと聞く」
「実はね、前からこの国の政府には妙な噂があって。それが、今日の上層部との会議で……全部つながった気がしたの」
「……つまり?」
「私はこれから、彼らの行動を内部から調べてみるつもりよ。真相を突き止めるまで。君がレオンハルトを連れて逃げたのも、そういう理由があったんじゃないかって思ってる。それに……あの子は、あんたの元にいる方がずっとマシ。そう信じたい」
彼女の言葉に、私は少し驚いた。
その瞳に、あの頃の彼女が一瞬だけ戻ってきたような気がした。
強くて、冷たくて、自己中心的にすら見えた彼女。
だけど本当は――
誰よりも、この国の人々を想っている優しい心の持ち主だと、私は知っている。
……それでも、まだ何も話すわけにはいかなかった。
サラと話すまでは。
「……そっか。自分の目で気づいてくれて嬉しいよ。でも……これから先に見るものは、もっと辛いかもしれない」
「覚悟はできてるわ。……いつか、情報を共有できたらいいわね。少し落ち着いたら」
「うん。だけど今は、あまり目立たないようにしなきゃね。怪しまれたら終わりだし」
「分かってる。……でも、レオンハルトのこと、ちゃんと頼んだわよ。死なせないで」
「ふふっ……『死んだら、悲しみで壊れちゃう』ってこと?」
冗談で返すと、ヘレナの目が光った。
「違うわよ。死んだら……私が君を殺すだけ」
「はいはい、分かってるってば。ちゃんと守るよ。だって……彼は、私が欲しい男だからね」
「はっ?」
彼女の疲れた目が、驚きで大きく見開かれた。
「そうよ、聞こえたでしょ? 私は彼に惹かれてる。兵器としてだけじゃなく、一人の男として。誰にも、絶対に譲らない」
最後の言葉に、私はあえて強く感情を込めた。
――だって、彼女自身はまだ気づいていないけれど、ヘレナもまた、彼に惹かれ始めているのだから。
「……で? 私にそれを言って、何がしたいの?私はそんな下らない恋愛ごっこに付き合ってる暇なんてないのよ。……勝手にやってなさい」
「ふふっ……顔、真っ赤だよ? ヘレナ隊長~」
「うるさい!……もう帰るわ。後で話しましょう」
そう言って、彼女はぷいっとそっぽを向いて歩き出した。
その背中に、私はもう一度だけ声をかけた。
「ヘレナ……ありがとう。……黙っててくれて」
彼女は腕を組み、苦笑いを浮かべた。
そして、あの彼女らしい冷たい口調でこう言い残した――
「……あんたのためでも、あいつのためでもない。この国の未来のためよ」
そう言い残して、彼女は行ってしまった。
私は空を見上げた。
木々の隙間から差し込む朝の光と、頬を撫でる優しい風――
しばらくそのまま時を過ごし、怪しまれないように、街へと戻ることにした。
「……サラはまだ忙しいみたいね。今のうちに家に戻って、風呂でも入って少し休もう。話さなきゃいけないことも山ほどあるし……決めなきゃいけないことも、ね」
次回:『秘密と裏切り。』