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第3章 『危険標識。』

戦略戦術室で、レオンハルト《菜月》は自分の不思議な能力や正体にまつわる疑問に悩む。冷たそうに見えるけど、実はそんなに悪くない上官ヘレナに、ツッコミを入れられたり、思わず顔が赤くなるような質問をされたりしながらも、なんとかやり過ごす日々。ところが、そんなまったり感もつかの間、基地に緊急警報が鳴り響き、未知の敵が姿を現す。一方、地下ラボではリッカとサラが密かに会話を交わし、隠された秘密が静かに動き出していた。混乱の中、レオンハルト《菜月》は世界を揺るがす謎の裂け目の真実に迫っていく。


天野菜月(あまのなつき)


06:00 AM――西部戦線基地・北ウィング。

けたたましいサイレンが、基地の壁に埋め込まれたスピーカーから鳴り響いた。

最初は、てっきり魔法防衛システムか何かのテストかと思った……

……だが、次の瞬間に聞こえてきたのは、隊長の声だった。

「レオンハルト! 起きろ! 五秒以内に支度しないと、足を引きずってでも引きずり出すわよ!」

その口調に、言い訳の余地はなかった。完全に命令、いや、判決だった。

しかも、こっちに向かってくる足音まで聞こえてくる。

跳ね起きた俺の鼻をかすめたのは、木材のニスと湿った布の匂い。

慌ててズボンを探していると――

バンッ!

ドアが勢いよく開け放たれた。

ヘレナ隊長が現れた。

身体にぴったりと張りつく黒の訓練用ユニフォーム――ノースリーブのジャケットに、柔軟装甲のついた戦術パンツ。

髪は高く結ばれ、うなじがあらわになっている。その瞳は、まるで朝から百回くらい腕立てしてきたかのようにギラついていた。

「遅すぎ」

言い訳する前に、グレーのノースリーブシャツを放ってきた。

「五分後!訓練場。朝食抜きよ!」

「えっ!? 朝飯抜き!?」

「不満でもある? 空腹は鍛錬の母よ」

その冷ややかな視線は、いつものように容赦がなかった。

【魔法訓練場 2-B。】

訓練場は広大だった。地面は圧縮された硬い土、周囲には発動中の魔法刻印で覆われた防壁がそびえている。

そこに整列していたのは、およそ百名の兵士たち――全員が同じ訓練服に身を包んでいた。

ヴィレリア標準の訓練服。

魔力耐性のあるシャツに、ぴったりとした戦闘用パンツ。そして足には、魔力制御の施されたアーケインブーツ。

女性兵たちは、強く、規律正しく、自信に満ちた表情をしていた。

……一方で男たちは、というと。まるで綱渡りでもしてるかのような顔つきだ。

ヘレナ隊長は、前方に出て、浮遊する魔導タブレットの隣に立った。

彼女の声が、空気を貫くように響く。

「本日は身体能力と魔力量の総合チェックを行う。言い訳は一切認めない。基準に満たない者は、前線から除外する。以上...」

そう言い放つヘレナ隊長の声を聞きながら、俺の視線はつい整列した兵士たちの身体に吸い寄せられてしまった。

引き締まったカーブ、美しく鍛え上げられた筋肉。中には、肌に魔法紋様が光ってる子もいる。汗が首筋をつたって滴り落ち、整った呼吸に、鋭く研ぎ澄まされた視線。

《……おい俺、集中しろって。相手は仲間だ、エロ雑誌のグラビアモデルじゃない……って、またこの思考!?これは本格的にヤバいかもしれん...》

訓練の第一段階は、まさに地獄だった。

軽装備での15キロラン。

浮遊プラットフォームの上での腕立て。

初級魔法弾の回避訓練。

俺は――靴に引っかかって転んだ。

「伏せろ、ヴィレル! 今のは見るに堪えないわね!」

周囲に失笑が漏れる。

近くの女性兵士がチラッと俺を見て、何かを呟いたが、聞き取れなかった。

「誰かのベッド経由で来たんじゃねーの?」

そんなイヤミまで飛んできた。

くそっ……言い返したかったが、グッと堪えて立ち上がり、そのまま黙って訓練に戻った。

……正直、フィジカル面はちょっと厳しかった。

確かに、今の体はトップクラスの筋力を持ってるはずなんだけど……慣れてねぇんだ。

前世じゃ、まともに運動なんてしてなかったし。

仕事か、戦争ゲームばっかしてたからな……そりゃしんどいのも当然か。

だが、今度は魔法パート。

フィールド全体に幻想結界が張られ、周囲が一変する。

デジタルの木々、空に浮かぶ遺跡、そして小規模な召喚獣。

今回の課題は、ペアでの防御と攻撃の連携訓練。

俺のペアになったのは――格闘家みたいな女の子だった。

腕も肩幅も俺よりゴツい。何食ってきたんだ、マジで。

「アンタは援護。あたしが攻める。足引っ張らないでよ!」

……名前を聞こうとしたけど、完全にスルーされた。

そして――シミュレーション開始。

俺はすぐにデジタル岩の影に隠れ、吸収障壁を展開した。

「左だ! 魔獣タイプの召喚体!」

彼女は少し迷っていたが――

数秒後、俺の指示に従ってくれた。

敵の頭部に強烈な一撃を放ち、召喚体は即座に霧のように消え去った。

その瞬間、コントロールパネルから女性の声が響く。

「戦術リンク、確立。よくやったわ!」

「よっしゃああ! 前世でアニメ観まくった甲斐があった!」

喜びも束の間――

俺の足が、地面から生えた幻影の根に引っかかり、そのまま前のめりに倒れ込んだ。

……いや、倒れ込むはずだった。

「本当によく転ぶよね、レオン?」

リッカだった。

まるでデジタルの霧から現れたかのように、彼女が姿を見せた。

彼女はカスタム仕様の訓練服を着ていて、通常よりもフィット感が強く、袖もなく、肩には銀色の階級章が光っていた。

服の下からは、汗で浮かび上がる引き締まった腹筋がくっきり見えるし――その下はもう、見てはいけない領域だ。

「リッカさん……助かりました。顔から落ちるところでした。ありがとう!」

「ふふっ、少なくともこれで一つ貸しね。ねぇ、レオン? どうやって返してくれるのかしら~?」

彼女の囁きは、甘くて、挑発的だった。

返事する暇もなく――画面が切り替わった。

──────────────

【機密データ ― 内部使用限定】

氏名:リッカ・リューベック。

年齢:23歳。

階級:特殊作戦エージェント。

所属:第三即応介入小隊。

魔法属性:衝撃と加速度の操作。

戦績:作戦参加31件、Sランク単独任務3件。

身体的特徴:身長172cm、琥珀色の瞳、致命的な曲線美《※隊内噂:『二重の刃』》。

感情傾向:予測不能・社交的・監視対象。

戦術相性推定値:91%。

──────────────

「……またこれかよ!? なんで俺の脳内はすぐステータス画面みたいになるんだよ!」

「何か言った? レオン~」

「い、いやっ! 何でもないっ! 本当に…戦術サポート感謝しますっ!」

気づかなかったけど──

ヘレナ隊長は、訓練中ずっと俺を見ていた。

《まぁ……『厳重な監視下に置く』とか言ってたしな……これも仕方ない》

訓練が終わると、彼女は真っ直ぐ俺のもとへ歩み寄ってきた。

その冷徹な雰囲気は相変わらずだ。

「体力試験、不合格...戦術判断、合格...魔法運用、ぎりぎり...平均以下ではないが、合格点には届かない...」

「申し訳ありません、隊長……」

その時だった。

「ま、顔がいいと色々と甘くなるよなぁ?」

後方からそんな声が聞こえた。

声の主は、背の高い黒髪にターコイズブルーの目をした男だった。

軍服はきっちり整っていて、その顔には露骨な優越感が浮かんでいた。

「最初から恵まれたステータスで、女に守られてるだけのやつもいるしな?」

リッカが振り向いた。

「……今、何か言った? グラヴィス?」

その瞬間、彼女の声のトーンが一変した。

その笑みが消えた表情は、まるで獣のような威圧感を放っていた。

「い、いえ……別に。ただ、俺は汗で勝ち取ってるって話を……」

「じゃあ、そのまま黙って汗かいてなさい。除隊させたくなければね。あなたの魔力スコア、ヴィレルより下よ...」

ヘレナ隊長が一度も振り返ることなく、冷ややかに言い放つ。

グラヴィスは一瞬固まり、唾を飲み込むと、何も言えずに持ち場へと戻っていった。

《……なんだこいつ。マジでこういうやつって、クソアニメの脇役だけかと思ってたよ》

ヘレナ隊長はもう一度、俺の方をじっと見た。

今回は何も言わなかった。

でも……その目は、俺の肉体以上の何かを見ているようだった。

少なくとも今のところ──

ギリギリ合格ラインには届いた……気がする。

彼女は無言で踵を返し、そのまま歩き出した。

その一瞬、彼女の口元が微かに動いた気がしたけど……いや、きっと気のせいだ。

ともかく……

俺は、初めての訓練を──ギリギリ──生き延びた。

***

北棟・共同エリア 食堂。

食堂には焼きたてのパン、バニララテ、そして…なぜかパッションフルーツのデザートの香りが混じっていた。

妙な組み合わせだが、さっき吐きかけた腕立て伏せの地獄の後だと、なぜか落ち着く匂いだった。

数人の兵士たちは、セルフサービスのトレーを前に談笑しながら盛り付けていて、一方で、別の連中は沈黙したまま、目の前のスクランブルエッグと真剣勝負でもしているかのような顔で食べていた。

俺はというと、腕がほぼ動かず、まるでゾンビみたいな歩き方で、震えるトレーを持って食堂の隅のテーブルへ向かった。

「朝から屈辱タイム、ちゃんと受けてきた?」

後ろから聞こえたのは、聞き覚えのある声だった。

リッカだった。

彼女は軽めのジャケットを制服の上から羽織り、シャワー後なのか濡れた髪が片側にかかっていた。

手に持っていたコーヒーの湯気が彼女の輪郭を優しくなぞり、まるで幻想的な雰囲気を漂わせていた。

「座っていい?」

「も、もちろん……」

なんとか自然に返したつもりだったが、声の震えより脚のほうがヤバかったかもしれない。

リッカは俺の向かいに座り、脚を組んだ。

その動作が妙にゆっくりで、わざとなのか──

ムチっとした太ももと、ちらっと見えた下着……。

《おいおい……またかよ……落ち着け俺……落ち着けって……》

不思議なことに、軍の基地内なのに彼女の存在はまるで異世界から来たような錯覚を起こさせた。

「シミュレーション、見てたよ。目の付け所は悪くない。ただし、足がまだ『バランス』って言葉を理解してないみたいだけど?」

ズバッと言い放つ。

「現在アップデート中です。Ver1.0.1──転倒バグ修正中ですので、少々お待ちを。」

そう返すと、彼女はふっと短く、しかし本当に楽しそうに笑った。

その声は意外にも柔らかく、耳に心地よかった。

「ふふっ……そうだといいけど。せっかくその身体、もったいないしね~」

そう言ってリッカは、わざとらしく俺を見ながら、口元に意味深な笑みを浮かべた。

《……やっぱり二重の意味だよな、今の……》

次の瞬間──

食堂の壁の一つが、青白く光り始めた。

『ピィー……』

ネクサススクリーンのひとつが低い電子音と共に起動し、最初は音声のない映像が映し出された。

その後、重く落ち着いた男の声が食堂全体に響き渡った。

『今朝、ヴェルトラムの国境地域にて、ヴィレリア第三小隊の部隊が全滅した状態で発見されました。魔力の逆流反応は検出されず、長時間の戦闘の痕跡も確認されておりません──つまり、戦闘そのものの形跡がありませんでした。』

その瞬間、ざわついていた食堂が静まり返った。

誰もがスクリーンを注視する。

『ノーゼン国 ──我々の敵対国──の皇帝は未だ沈黙を貫いていますが、第一宰相アルヴァ・クロイツ氏は声明を発表。戦争の激化と停戦協定の違反に対し、『外交的な慎重さ』を求めるとの立場を示しました。

また、彼は今回の事件について自国の関与を否定し、『孤立した事故』である可能性が高いとし、その原因については『現在調査中』であると述べています。』

スクリーンには衛星写真が映された。

崩れた都市の残骸、根こそぎ引き抜かれた大木、重力の異常に引き裂かれたような地形──

生存者は一人もいなかった。

「孤立した事故…かよ……」

俺は思わず呟いた。

「古代魔術……禁止等級。反乱軍でも事故でも、こんなこと起きるわけがないわ……」

リッカがコーヒーをかき混ぜながら、目を細めて言った。

アナウンサーの声が続く。

『一部の内部関係者は、空間改変魔法や次元干渉型の召喚術の使用を疑っていますが、

これは『ルクス蝕の戦争』にまつわる伝説でしか語られていないため、公式には否定されています。

また、ノーゼンに潜入していた複数の諜報員の消息も、72時間前を最後に途絶えています。

現在、ヴィレリア国政府は、現地への調査をいかなる部隊にも許可しておらず、情報は公式発表以外のものに耳を傾けず、噂の拡散を控えるよう通達されています。』

『続報は次の便で……』

画面が暗転した。

「次元魔法……なぜか、初めて聞いた気がしないんだよな……」

俺はポツリと呟いた。

「たぶん魔導学院の歴史授業で触れたんじゃない? でも、

それはあくまで“伝説”の話……

……少なくとも『公式には』そうされてるけどね」

リッカはそう囁くと、コーヒーには口をつけずに、静かにスプーンを回し続けた。

「うーん……そういう意味じゃないんだけど……まあ、言いたいことは分かるよ」

俺は信じられない思いで答えた。

というのも、もちろん俺は魔導学院なんかに通ったことはないし、この国の歴史についてだって詳しくない。

「それよりさ……妙だと思わないか?自国の領内で起きた壊滅事件に、うちの政府が一言も触れず、敵国のほうが『説明』しようとしてるなんてさ。」

「……それってつまり──」

「しーっ……」

彼女はそっと、でも確かに俺の言葉を遮った。

一瞬、沈黙が支配した。

空気がピリッと張りつめる。

「……何も言わないで。ここじゃダメ。もし考えたいなら、一人になってから。静かな場所で」

彼女の目が食堂内を鋭く走った。まるで、その場に潜む『何か』を見抜いているようだった。

その口調は、もうさっきまでの軽口や挑発のそれじゃなかった。

戦場を知る者だけが持つ、真実に触れた者だけが纏う…そんな声だった。

俺は無言でうなずいた。

去り際、彼女は朝の訓練場で俺を見つめた時と同じ視線を送ってきた。

「レオン……気を抜かないで。

一見、ただの『ノイズ』に見えるものも……その中には必ず“パターン”がある。いつかちゃんと話せる時が来るから」

初めてだった。彼女が俺の名前を、あんな静かな声で、まっすぐに呼んだのは。

あの茶化した『レオン~』じゃない。

素のままの、静かな……それでいて強い『本当の声』。

そして、彼女はコーヒーを片手に、逆光の中を歩き去った。

その後ろ姿は、やけに長く感じた。

残された俺は、冷めた朝食と、『空腹以上に胃を締め付ける予感』だけを抱えて、ただじっと座っていた。

*******

地下第七層・ラボ。【リッカ視点】

エレベーターが、低くくぐもった金属音を立てて降下していく。

地上から七階下──もはや太陽の光すら届かない場所。

ここでは、何が行われても目撃者はいない。

空気は金属と消毒用アルコール、それから……もっと古い何かの匂いがした。

まるで忘れ去られた書物。あるいは、封印が不完全な魔術の残滓のような──

IDをスライド式の魔導リーダーにかざすと、微かな火花が走り、扉が鈍く軋むような音を立てて開いた。

――歓迎とは無縁の、冷たい音だった。

「二分遅刻ね」

サラは浮かぶタブレットから目を離さず、静かに呟いた。

「その二分で、一人の命を救ったって言ったら?」

私は肩をすくめ、軽く笑って返す。

「ふーん...じゃあ、その命を計測してくれる給料がどこにあるか教えてくれる?」

皮肉たっぷりに返された。

私は黙って椅子に座る。

サラの指先が診断コンソールの上を音もなく滑る。

モニターに映っていたのは、マナの線で構成された人型。脈打つように不安定に光っていた。

「――彼?」

私は問う。

彼女は頷くだけで、手を止めなかった。

「レオンハルト・ヴィレル。魔素構造は現在、約37%が封印状態。残りの数値は……まるで、生きているように揺らいでいる」

「呪い?」

「……正確には違うわ。もっと人工的な『共鳴』って感じ。魂と肉体が同時に存在してなかったような印象。……それに、はっきりとは言えないけど、

微かに『もう一つの魂』の痕跡も見える」

「そんなこと、あり得るの?」

「理論上は『あり得ない』。……でも、それでも私は検証を続けるしかない」

部屋の中央に浮かぶ灰色のマナ・コアが、ゆっくりと脈打っていた。

その『心音』のような鼓動が、胸の奥に鈍く響く。

「――私も感じてた。最初に彼を見た日から。魔力の周波数が、まるで未完成の宝の地図みたいだった。肝心のルートが……消されてるの」

やっとサラがこちらを見た。

その灰色の瞳には、感情らしきものは何一つ浮かんでいなかった。

「……昔、読んだことがあるの。政府が『迷信』だって言ってる古い伝承。『ある存在』が魔術師の肉体を借りて、この世界に降りるっていう話。ねぇリッカ……もしかして、そういうのって……本当は全部、誰かが『隠したい真実』なんじゃない?」

「……ふん。そんなの、もう分かってる。この国は――闇を隠すのが得意だから」

私はジャケットの内ポケットから、古い型の通信機を取り出して、無言のまま机の上に置いた。

サラが目を細めた。

「……シータ部隊ね」

問いかけではなかった。ただの確認。

「報告を送ってる。週ごとの評価、魔力量の推移。全部記録してる」

「……本気で言ってるの? それ、内部スパイ行為よ。軍人としてのキャリアを自分から捨ててどうするつもり?私は科学者だから、多少の抜け道はあるけど、あなたは違う」

「なら、私を裁けばいい。でもその前に自分に聞いて。

『ウルブリヒトとヴェルトルムの件のあとで、上層部を心から信じられる?』って」

私の声は静かだった。でも、皮肉でもなければ、怒りでもなかった。

それは、痛みを知った者の声だった。

サラは口をつぐんだ。

――『ウルブリヒト』と『ヴェルトルム』。

その二つの地名は、部屋の空気すら凍らせる呪詛のように漂った。

「……それでも、なぜ? 知らないふりしていればいいのに。あなたらしくない。まさか……あの子に『何か特別な感情』でも?」

サラの問いに、私は思わず奥歯を噛みしめた。

答えが一つではないことが、逆に答えを難しくしていた。

「彼のためじゃない。これは――『誰のためでもある』。この腐りきったシステムのせいで、道具にされ、名前も残らず消された人たちのため。私は、レオンを……あの人たちのように、『使い捨ての駒』にさせたくないだけ」

サラはわずかに頷いた。

「……これが本格的に動き出せば、彼は嵐の中心に巻き込まれる」

「だったら、私は――その中心に立って迎えるわ」

私は通信機を手に取り、立ち上がった。

そして、扉の前で立ち止まる。

部屋の奥にある灰色の魔核が、静かに……それでも確かに、脈打っていた。

まるで私の言葉を聞いているかのように。

「もう誰も、無垢な人間を兵器にするなんて許さない。それに――私はもう、決めたから」

私はサラに背を向けたまま、最後の言葉を口にした。

「レオンは、私のものにするって」

「……『ペット』にでもする気?」

サラの皮肉。

でも、それに答える必要はなかった。

扉が閉まり、沈黙が戻った――魔核の鼓動だけを残して。

「ははっ……別に、そういう意味じゃないよ」

俺は決意の笑みを浮かべてそう答え、ラボをあとにした。

扉が背後で閉まる音がして、その瞬間、まるで――

どこか、司令部の奥深くで、何かが震えたような気がした。

……まるで、彼女の言葉に魂が反応したかのように。

*****

戦略戦術室。【レオンハルト視点】

扉が『ピシュッ』と音を立てて閉まる。

この部屋の空気はいつもと変わらない。魔導インクの匂い、古びた地図の紙の匂い、そして――苦いブラックコーヒーの香り。

中央には、魔晶製のガラステーブル。

青白い光に照らされたその上で、争点地域のホログラムや熱源分布、進行ルートが立体的に浮かび上がっていた。まるで、この世界のものではない光景。

「……また五分遅刻。ほんと、安定してるわね」

背を向けたまま、ヘレナが冷たく言った。

彼女の姿は、青いホログラムの光を背に、まるで彫像のように浮かび上がっていた。

開けっぱなしのジャケット、その下にピッタリと張りつく黒のシャツ、そして――

ミニスカートと膝上まであるブーツ。

《集中しろ、レオンハルト。今は太ももでもブーツでもなく、戦術だ……!》

「その……朝の出来事の整理をしてて……」

苦笑いしながら言い訳を呟くと、彼女はゆっくりと振り返った。

あの、冷静で無感情な分析官の顔――

そして手を上げて、俺に近づくよう合図した。

「これが何か分かる?」

そう言って、ノーゼンとヘルマルの森の境界線に表示された円形パターンを指さす。

「魔力の歪曲領域……三重構造……これは高位魔術の陣形。たぶん、次元強化型の結界ですか?」

一瞬。ほんの一瞬だけ――

彼女のまつげが、静かに動いた。驚いた証拠。だが、すぐに消えた。

「正解。少しは観察力が育ってきたようね」

そして、ホログラムが消えた。

彼女は俺の方に歩み寄る。

そのブーツの音が、やけに静寂に響いて――なぜか、心臓まで鳴っている気がした。

「でも……今日呼んだのは地図の話じゃないの。レオンハルト――あんた自身の話よ...」

ごくりと、喉が鳴った。

「……俺の?」

「勘違いしないで。……あんた、自分が思ってるほど面白くないのよ」

ヘレナはそう言って、俺の表情を見つめながら続けた。

「だけど……腑に落ちない点が多すぎる。あまりに正確な反応。訓練してないのに、戦術連携が自然にできる。……それ、どこで覚えたの?」

一瞬、リッカとの朝のやりとりが頭をよぎった。

いや、まさか。けど、正直……少し期待してしまった自分がいたのも事実だ。

「分からない。時々、ただ……頭の中に浮かんでくるんだ。もう知ってることみたいに。それに、身体が勝手に反応することもある。まるで……誰かの記憶が流れ込んでくるみたいな」

「運動記憶、借り物の反射、戦術的な直感……呼び方はいろいろあるけど、そういう反応には普通、『背景』があるの。

でも、あんたにはそれがない」

そう言いながら、彼女は俺に一歩近づいた。

その影が俺のブーツに重なり、足元から冷たい圧がせり上がってくるようだった。

「俺……たぶん頭おかしいって思われるかもしれないけど……。時々思うんだ。この身体には、もともと別の誰かがいたんじゃないかって。そして、その『誰か』が、今もどこかにいるような気がして……。

……そんなこと、あり得ると思う?」

声がかすれていた。聞き取れるかどうかの、かすかな囁きだった。

ヘレナはしばらく沈黙した。

その目はまるで、俺の魂を透かして見ているようだった。

やがて――

「つまり、あんたは自分が誰なのか、本当は分かってないってことね」

その言葉の直後。彼女は――信じられない行動に出た。

目の前のテーブルに腰かけ、脚を組んだのだ。

ジャケットは左右に滑り落ち、シャツの布が身体に張りついて、その曲線を――すべてを――くっきりと浮かび上がらせた。

……いや、リッカの時もかなり挑発的だったけど、ヘレナ隊長のそれは、違う。

もっと静かで、狡猾で、目を逸らせない。

「レオンハルト……あんた、女の上官に仕える経験はある?」

彼女は魔導タブレットを指先で回しながら、声を低くして問いかけてきた。

「えっ……ど、どういう意味で?」

視線を逸らそうとしたのに、どうしても――あの首筋のラインと、シャツの隙間から覗く谷間に目が吸い寄せられる。

「命令を従うという意味でよ。疑いも、反抗もせず、ただ『服従』する覚悟、あるかしら?」

「……あぁ、その意味なら……まぁ……自殺しろって命令以外なら、結構、従順な方かも……?」

彼女は小さく、ほんの少しだけ笑った。

「今の、冗談のつもり?」

「冗談……だと思ってください。

……ついでに、生存本能からの『心の叫び』でもありますけど」

どっと汗が出た。

ヘレナ隊長は魔導タブレットを閉じて、静かに言った。

「まだあんたを完全には信用してないわ。……でも、才能は見れば分かる。そして、自分の皮膚の中で迷子になってる奴の顔もね」

その言葉は、俺の胸を鋭く貫いた。

それは責める口調じゃなかった。まるで自分もその迷いを、どこかで経験したかのような……そんな声だった。

「じゃあ……信じてくれるってことですか?」

「そこまではいかない。でも……『疑いの余地』は残しておいてあげる」

「……ああ、ついでに聞きたいんですけど……もし俺が、何か怪しい行動したら?」

その瞬間、彼女の返答は一切の間もなく返ってきた。

「反応する前に、あんたの首を切るわ」

……沈黙。

「もし私の機嫌が良ければ、苦しまずに済むかも。でも、もし信頼を裏切るなら……

その時は、自分で死んだほうがマシよ。私の手にかかるよりはね」

冗談のように言った。けど――目は、笑ってなかった。

俺は真顔で頷いた。

「了解です、隊長……本気で、期待に応えられるよう頑張ります」

数秒の静寂が室内に広がる。

中央の魔力炉から響く低い振動音だけが、かすかに空間を満たしていた。

……でも、不思議と不快じゃない沈黙だった。

「行っていいわ。北部前線の報告書が溜まってるの」

「えっ、それだけですか?」

「今はね」

「そ、そうですか……じゃあ、殺さずにいてくれてありがとうございます」

軽く会釈しながらドアに向かおうとした、その時だった。

「……レオンハルト」

「はい?」

「私に『ステータス』を見せられたからって、調子に乗らないことね」

「っ……えっ!? そ、それ、なんで分かったんですか!?」

ヘレナ隊長は肩越しに振り返り、赤い瞳を細めた。

その光は、完全に――見透かされていた。

「統計を見れる能力が特別だと思わないことね……精鋭兵のほとんどは、戦術スキャン中に味方のステータスを読み取れるの。でも、その後にあんなに赤くなるのは……あんただけよ、バカ」

《……くっ、赤くなったのはステータスじゃない。ステータスの『内容』――というか、身体的な説明のせいだったんだよ……それも、ある意味『特技』か?》

「つまり……俺にも、男に生まれても精鋭兵になる可能性があるってことですか?」

「可能性はある。……でも、ヴィレリアでは十万人に一人よ。だからこそ、あんたの出自を調べる必要があるの。外国の血が混ざってるのかもね。それなら説明がつく」

「そっか……」

彼女の言葉は、俺の中に眠る『身体の出所』への好奇心を呼び覚ました。

「まあ、それは後で分かるわ。今は――出て行きなさい」

「は、はいっ!」

――何か投げつけられる前に、部屋を飛び出した。

くそ……感情を顔に出すのって、こんなに大変だったのか……男って生きにくい。

***

西部戦線・北翼 休憩区画。

熱いシャワーを浴びても魂までは戻ってこなかったが、少なくとも痛みに支配された『肉の塊』みたいな感覚からは抜け出せた。

髪はまだ湿ってて、タオルを肩にかけ、制服も中途半端に留めたまま通路を歩く。

マナクリスタルの減衰で空気はほんのり金属臭く、

照明もチカチカと不安定。まるで、施設そのものが『今日はもう無理』って言ってるようだった。

「……やっと、静かな夜だな」

居住区へ曲がろうとしたその時、炒飯らしきものとプルプルしたゼリーを乗せたトレーを持った兵士とすれ違った。

「おい、ヴィレル! 今日のチャーハン、下水の味しねえぞ! 今のうちに食っとけ、あとで『修正』される前にな!」

「よし、了解。今日の最大任務が決まったな。味のあるうちに突撃開始だ」

小食堂の高窓のそばに、一人で座った。

その窓の向こうには、外の森が見えていた。

結界の外で、黒々とした木々がわずかに揺れていた。

風が吹いているようだったが……その風には、出所がなかった。

どこからともなく届く風。原因もないそよ風。

空には星ひとつ見えず、雲はまるで一時停止されたかのように、微動だにしない。

まるで世界そのものが『ポーズ』をかけられたかのように。

俺はゆっくりと一口食べて、もぐもぐと噛んだ。

けれど……何かがおかしかった。

なにか、説明できない違和感が喉元に張りついていた。

……そして、それは来た。

音ではなかった。振動でもない。

むしろ、『圧』だった。

何か、目に見えない指が、額の中心を内側からゆっくりと押してくるような――そんな奇妙な感覚。

俺はこめかみに手を当てた。

《偏頭痛か……? それとも……感知系の魔法的な異常か?》

その瞬間――

食堂の照明が、一度、二度、三度……チカチカと点滅した。

そして、すべての光が――一斉に、消えた。

闇。沈黙。

何も聞こえない、何も見えない。

――その中に。

水中で鳴らされたような、歪んだ鈴の音が響いた。

カラン……カラン……

警報が鳴るよりも先に、『それ』は感じ取れた。

壁の奥から、まるで何かが歩いているような、鈍い『振動』。

ただし……それは天井から、いや、建物の『内側』から聞こえてくるような気がした。

そして――

ボォォン......

乾いた衝撃音。空気が揺れた。

まるで、世界が一瞬だけ『呼吸』止めたようだった。

外周の魔力結界が揺らめき、境界線の色が青から――

濃い紫、ほとんど黒に近い色へと変わっていく。

次の瞬間、赤い閃光とともに、魔法警報が轟いた。

『緊急警報――全小隊は即時配置に就け。これは訓練ではない。繰り返す――訓練ではない!』

結晶体のスピーカーが廊下ごとに震えるように鳴り響いた。

食堂は、数秒で空っぽになった。

制服の前を留めきれずに走り出す者。

手が震え、命令を待ちながらも、何に対して構えるべきか分からず戸惑う者。

それぞれの顔に、不安と緊張が浮かんでいた。

俺も立ち上がった――が、足が震えた。

それは、疲労でも恐怖でもなかった。

なぜか分からないが、体中のアドレナリンが異常に高まり、心臓が鼓動を早めていた。

まるで、ずっとこの瞬間を『待っていた』かのように。

その時――

窓の外の景色が変わった。

森の樹々の頂が、ある『見えない一点』へと向かって、押しつぶされるように引き寄せられていた。

まるで森全体が、『吸い込まれて』いるかのようだった。

《重力操作系の術式か? ……いや、違う……これは……》

俺の目に映ったのは、『地面』でも『空』でもない――

『空間』そのものの『ひび割れ』。

世界そのものが破かれ、裂け目が生まれたような――そんな光景。

そこから、濃い霧が漏れ出していた。

だが、その霧はただの霧じゃなかった。

黒い靄の中に、心臓のように脈打つ『光』――

そして、霧の中からは時折、黒い雷が閃き、空気が震えた。

そして霧は、風に流されることなく……自らの意志で『誰か』を探すように、滑るように動いていた。

その時だった。

ヘレナ隊長の姿が、監視塔の上に現れた。

通信水晶を通して、彼女の声が基地全体に響き渡る。

「全兵、配置につけ! 霧との接触を禁ずる! 繰り返す、霧には触れるな!デルタ小隊は南側に逆位障壁を展開!ガンマ小隊、空中散布を実行! これは訓練ではない!」

俺は大きく息を吸った。

体が固まる。胸が熱くなる。

アドレナリンが汗となって毛穴から吹き出しそうだった。

――そして、気づけば、口が勝手に動いていた。

呪文。

知らないはずの言葉。学んだ覚えもない。

けれど、なぜか……心の奥から、それは自然と湧き上がった。

「ネクス・ヴェルム……オルディニス・フラクトゥム」《死のヴェール:壊れた秩序》

そう呟いた瞬間――

世界の『裏側』が、一瞬だけ見えた気がした。

その瞬間だった。

右目が一瞬だけ光を放ち――

目の前に、まるで戦術用インターフェースのようなスキャンラインが走った。

そして、あの霧の『中心』に――

たった一瞬。

見えた。

……人のような、そうでないような、『何か』のシルエット。

その口は大きく開かれ、目というものは存在せず、歪み切った顔は、まるで無音で絶叫しているような――

そんな『異形』。

そして、システムが崩壊する直前に、インターフェースに映し出された文字は――

【未確認存在――クラス:EX 性質:断片的 推奨行動:接触不可】

……これは、以前ヘレナ隊長やリッカの情報を解析したときの『解析魔術』とは、まったく違っていた。

視覚や数値を超えた、

『存在の本質』――魂そのものの危険度を測るような、『超越した視界』。

俺の全身が凍りついた。

……これが、俺にとって『初めての実戦』での敵解析だった。

俺には、まだ戦う経験が圧倒的に足りていないということを、

この瞬間、痛いほど思い知らされた。

無意識のうちに、つぶやいた。

「……誰だよ、こんなクソを呼び寄せたのは」

画面が最後に一度だけ明滅し――完全に消えた。

《……はあ...静かな夜になると思ったのにな...》


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