第2章 『男の身体、女の心。そして軍隊。』
天野菜月
その任務の翌日、私たちはヴィレリア西部地域の中央軍基地へと戻った。
ヘレナは戦略司令室の巨大な隔壁の前で立ち止まり、深く息を吸った。
左手のグローブに浮かぶ小さな記憶結晶が、今回の任務報告のすべてを記録している。
扉が開き、彼女が室内へ足を踏み入れると――
迎えたのは三人の女性将校だった。
一人は軍司令官の一人で、見るからに歴戦の猛者といった雰囲気。
もう一人は細縁の眼鏡をかけた戦略参謀で、彼女は書類から一度も目を上げなかった。
そして最後の一人は……正直、場違いに見えるほど若かった。
だが、その制服の胸元には、五つもの勲章が輝いていた。
「ライゲンシュタール小隊長、報告を」
司令官が無感情な声で命じた。
「了解。17-デルタ区画、制圧完了。味方損耗:八名。敵の蟷螂型召喚体、二体を殲滅。新たな召喚パターンを確認。また、部隊内の新兵による即興戦術を用いた対応を実施」
その場にいた三人が、わずかに視線を交わした。
「新兵? 名前は? 誰の許可で貴官の部隊に?」
「リオンハルト・ヴィレル。正式な配属記録には存在せず。階級区分は制服上、Dクラスと推定されるが、実戦ではライン指揮官として行動。彼の判断により、戦線崩壊を回避できた」
最年少の将校が、ふっと口角を上げた。
それは、何か面白い獲物を見つけたときの、残酷さをはらんだ笑みだった。
「……なるほど。『また』なのね。新たな『事件』の可能性は?」
「断定には時期尚早ですが、常態とは明らかに異なります」
そう言いながらも、ヘレナは拳を強く握りしめていた。視線は合わせなかった。
「よろしい。即時の観察および評価体制を申請します」
「ふうん……兵士にそこまで執着するとは珍しいわね。そういう年頃? ……まあ、いいけど...」
若い将校が、茶化すような調子で言葉を続ける。
「では、継続的な報告を。……責任を持って見届けられる?」
「もちろんです」
「結構。……それでは、下がっていいわ」
「了解」
最初は、なぜヘレナ隊長が報告の場に私を連れて行ったのか、理由が分からなかった。
だが、彼女の口から出た言葉を聞いた瞬間、すべてが腑に落ちた。
――この世界では、軍務に長けた男性というのは珍しいらしい。
私のいた世界とは、まるで逆だ。
それでも、たった一度の戦闘で私の所属が即座に認められたのは、どう考えても不自然だ。
なぜここまで順調に運んでいるのか……妙な違和感が拭えなかった。
「――これは、ただただ素晴らしいな」
私は興奮を抑えきれず、つい小声でつぶやいてしまった。
「……今、何か言ったか?」
ヘレナが横目でこちらを見てきた。
《うわ、今の目……“何か気に入らないことしたら蚊でも潰すように殺すわよ”って言ってるような…》
心の中で悲鳴を上げながら、慌てて答えをひねり出した。
「あっ、いえっ、昨日の成功が……ただ嬉しくてですね……はい、それだけです」
「……そう。あんなのは戦場じゃ日常よ。これからはもっと多くの任務に同行させるつもり。期待してるわよ、ちゃんとやれるでしょうね?」
その言い方は、完全に切り捨てるような口調だった。
「了解しました。隊長をお守りできるよう、全力を尽くします」
「私を? ふふっ……ずいぶん自信があるのね。私は誰の保護も必要としてないわよ」
「へえ……昨日の様子を見る限り、そうは思えなかったけど……」
つい、口の中でつぶやいてしまった。
「……今、何か言った?」
「い、いえっ、何も……ご期待に添えられるよう頑張ります……!」
「……」
ヘレナはそれ以上何も言わず、背を向けて歩き出した。
その背中には、冷たく張り詰めた空気が漂っていた。
通路を進んでいくと、やがて医療区画が見えてきた。
「そういえば……任務後は通常、身体と魔力の総合検査を受ける必要があるのよ」
そう言って、彼女は無言で私の服の襟を引っ張った。
「え、今すぐですか? いや……僕、体調は大丈夫ですし……」
「聞いてない。命令よ。それに、昨日の戦闘で少し負傷してたでしょう。100%でなければ、使い物にならないの」
ヘレナの口調は、軍人としての責任感に満ちていた。
「……は、はい……わかりました……」
私は観念して頷いた。
医療室に入ると、まず鼻をつくのは消毒薬の匂いだった。
清潔さが徹底されているのが一瞬で分かる空気。
そんな中、不気味さの混じった声が私たちを迎えた――
「ようこそ、私の『包帯とガーゼと泣き虫兵士』の王国へ」
そう言って現れたのは、一見優しげな笑顔を浮かべた女性医師だった。
だが、その笑顔には安心感など一切なく、むしろ不安を煽る何かが潜んでいた。「おはようございます、ミュラー先生。新入りの兵士を連れてきました。名はリオンハルト・ヴィレル……定期の健康および魔力チェックをお願いします」
ヘレナ隊長がいつものように無駄のない、真面目な口調で言う。
女医は私を頭のてっぺんからつま先まで、怪しげな目つきでじろじろと見た。
「……へえ、ヴィレル……ね。ふーん……面白いわね……」
「……え? 今、何か言いました?」
「いえいえ、気にしないで。じゃあ、早速検査を始めましょうか。
――ラインシュタール隊長、少しだけ席を外していただけますか? プライバシーが必要ですので」
「……ふん、分かったわ。ちょうど整理したい資料があるから」
ヘレナは小さくため息をついて、私に一瞥を向けた。
「それじゃあね、レオンハルト。変なことはしないようにね、ミュラー先生も」
何を『変なこと』と言っていたのか分からないが、すでに彼女は部屋を出ていた。
尋ねるタイミングは、完全に逃してしまった。
「さて、ヴィレルさん。二人きりになったところで……始めましょうか」
ミュラー先生の微笑みは柔らかく、しかしどこかで悪戯っぽい影を含んでいた。
「……えーっと、で、私は今何をすればいいんでしょうか?」
「そうね、まずはあちらのベッドでお待ちください。そして、服を脱いでいただけますか?フックに検査用のガウンが掛かっているから、それに着替えて」
私は言われた通りにベッドへ向かい、着替えを始めた。
だが、用意されていたガウンは少々小さく、体にぴったりすぎて落ち着かなかった。
それにしても――
未だに、この『男性の身体』というものに慣れていなかった。
服を脱ぎ着するたびに、どこかで自分自身に違和感を覚えてしまう。
「……準備できました」
そう伝えると、ミュラー先生が近づいてきて、もう一度じっと私の全身を見渡した。
「……いいえ、準備できてないわね」
「えっ? ど、どうしてですか? 何か間違えましたか?」
彼女の視線は、ガウンの横から微妙に見えてしまっている下着に向けられていた。
「……それも脱いでいただけるかしら?」
「そう。全部よ。下も含めて。心配しないで、私は医者よ。肉なんて、肉屋よりもたくさん見てきたわ。……まあ、ここまで『綺麗に包装された』のは珍しいけど」
そう言いながら、ミュラー先生は私の下半身をじっと見つめ、口元にサディスティックな笑みを浮かべた。
「な、なにそれ!?!」
私は思わず身を隠しながら叫んだ。まるでこれから皮を剥がれるような気がして仕方なかった。
「ふふっ、冗談よ……まあ、半分くらいはね。さあ、大人しくして」
彼女はケラケラと笑いながらそう言った。
その後、私は検査のため、とうとうガウンまで脱ぎ、完全に裸になってベッドに横たわることになった。
魔導装置を使った検査が始まり、なんとも言えない羞恥心に全身が包まれた。
隣のカーテンの向こうでは、他の兵士たちが治療中らしく、彼らの会話がうっすらと聞こえてくる。
「ねえ、あれが噂の『誰も知らない新入り』じゃない?」
「ヘレナ隊長が保護申請したってさ。きっと彼氏なんでしょ? 『秘密の恋人』ってやつ〜」
ヒソヒソとした声が続く。
「シーッ、ここは医務室よ。静かにしないと……」
ミュラー先生の声が鋭く走ると、噂話はピタリと止まった。
だが、恥ずかしさは止まらなかった。全裸での検査、聞こえてくる妙な噂、そして目の前の女医の怪しすぎる笑顔――
私は赤面しながら、できる限りベッドに身体を沈めた。まるで火炎魔法の呪文でも喰らったかのように、顔が熱くなる。
「……上官に関して、あんな噂が立つのって普通なんですか?」
私はなんとか話題を逸らそうと聞いてみたが、医師はまったく気にする様子もなく、手元の魔法端末に何かを書き込んでいた。
「ふむ……血圧安定、マナレベル不規則、心音に二重エコー……なるほど」
「え、それって良いことなんですか? それとも悪い……?」
「どっちとも言えるわね。とりあえずカルテに記録しておくわ。もしかすると……君、『特別』かもしれないわね」
「『特別』って、『才能がある』って意味ですか?」
「違うわ。『機密プロジェクトに放り込んで、分解対象にする価値がある』って意味」
彼女はそう言いながら、魔法端末の角を軽く噛んだ。
「な、な、なにぃ!?!?」
「ふふっ、冗談よ……たぶん」
ミュラー先生の瞳には、いたずら心か、あるいは純粋な『科学的好奇心』か――きらりと危ない光が宿っていた。
彼女の最後の笑みを見たとき、私はようやくその顔立ちに気づいた。
眼鏡の奥で柔らかく微笑むその表情は、まるで白百合の花びらのように滑らかで白く、そして短く整えられた紫色の髪と完璧に調和していた。
「よし…本日の検査は以上です、ヴィレルさん。業務に戻っていいわ」
ミュラー先生が立ち上がりながら言った。
「了解です。ありがとうございました、ミュラー先生……ミュラーって、名字ですよね?」
「ええ。でも、呼びたければ『サラ』って名前でも構わないわ。またすぐ会えるといいわね」
「う、うーん……それって喜んでいいのか、それとも全力で逃げるべきか……」
私は苦笑しながら言った。
「ふふっ、君本当に純粋ね。そういうの、嫌いじゃないわ」
彼女のからかうような笑顔を背に、私は医務室を後にした。
廊下に出ると、ちょうどブーツの音が聞こえてきた。
数人の兵士とすれ違い、今度は噂話ではなく、肩を軽く叩かれたり、挨拶されたりした。
「おい、昨日の新入りか?よくやったな!」
「なあなあ、ヘレナ隊長って、やっぱセクシーな下着で寝てんのか?」
「……俺をリーダー扱いするこの空気の方が怖い気がする。それとも、全員が頭おかしいのか……」
私は小さくため息をついた。
空はまだ曇っていたが、基地の中は活気に満ちていた。
その『混沌の中の秩序』のような世界で、ようやく私は、この場所のルールや空気を掴み始めていた。
「……ここで生き残るために必要なものはただ一つ。『目立たないこと』だ」
***
服を脱いだはずなのに、それ以上に『裸』だと感じる瞬間があるなんて思わなかった。
だが、今の私はまさにそんな状況に立たされていた。
球状の部屋の中央。
宙に浮かぶ水晶たちが私を囲み、ゆっくりと回る魔法陣が惑星のように回転していた。
壁の金属面には淡い青の光が反射し、まるで『魔法が呼吸する』かのように、空気に微かな振動が走っていた。
ここはまさに、魔法と技術の泡に包まれたような空間だった。
目の前には浮かぶコンソールがあり、私を商品でも見るかのようにスキャンしていた。
「リラックスして。これはただの魔力パラメータの読み取りよ。痛くも痒くもないわ」
白衣姿の技術士官は、視線を上げることなく魔導タブレットを操作しながら言った。
『痛くないよ』と目も合わせずに言われても、信用できるわけがない。
私は拳を握りしめ、気を落ち着かせようとした。
遠くの山を思い浮かべた。山小屋の外に吊るされたハンモックの揺れ。
……もしこの戦争を生き延びられたなら、いつか手に入れたい静かな宿。
《山のふもとに小さな土地。質素な家に魔法の菜園。そして……爆発音ゼロ。それが理想だ》
そう、自分に言い聞かせた。
それが俺の『引退プラン』。戦場を華々しく去った英雄として叶える、ささやかで大きな夢。
魔法陣が光を放ち、作動した。
まるで無数の見えない針が体中を這い回っているような感覚。震えるような振動、くすぐったい刺激。
そして――結果が宙に浮かび、目の前に現れた。
【名前:レオンハルト・ヴィレル】
【階級:D級(歩兵)】
【ステータススキャン結果】
▸ 敏捷性:143
▸ 筋力:188
▸ 知力:202
▸ 耐久力:171
▸ 魔力:309(!)
▸ 未分類アイテム:∅
「……ちょっと待って、魔力三百九?ありえないでしょ!?」
技術士官の女性が、初めて声を上げた。
「え、それって……高いんですか?」
私は不安と期待の入り混じった声で尋ねた。
「Aランクよ。なのに、あなたの登録はD級歩兵。これは……異常よ。かなりね」
「『隠れた才能』の異常ですか? それとも、『潜在的脅威』って意味の異常ですか……?」
彼女は急に真顔になって言った。
「魔法的な介入を受けた経験は? それとも禁術による手術? 禁止された義体化とか……解剖歴とか」
「なっ、何その質問!?怖っ!!」
彼女は何も答えず、タブレットに何かを書き込み、そのまま去っていった。
残されたのは、虚空に浮かぶ数値たち。まるで、解読不能な成績表のようだった。
そして、ヘレナが部屋に入ってきた。
マントを腕にかけ、いつも通り鋭い眼差しをしていた。
彼女は真っ直ぐに読み取りパネルの前に立ち、音を立てずに表示を目で追った。
一瞬、眉間の皺がさらに深くなった。
「Dクラス、ね」
「そうです、『D』は『年金が欲しい』のDです。あるいは『平和に生きたい』のDです」
なぜか、彼女とはこういう調子で話せる気がした。
まだ知り合って間もないのに、不思議な信頼感があった。
「統計だけ見れば専門職クラスの値。だが訓練歴なし、記録なし、出身すら不明」
「まあ…一応、民間人でした。それで帳消しになりませんかね?」
ヘレナは鼻で笑った。
「昨日全滅を免れた理由はこれで説明がつく。だが……疑問が増えすぎる」
「じゃあ、俺ってシステムのバグみたいな存在なんですか?」
「……君のためにも、私に選ばせないで」
そう言って、彼女は真っ直ぐに私を見つめた。
私は腕を組んで言った。
「任務をこなして、勲章を一つか二つもらって、それなりの報酬をもらって、無事に引退して年金生活に入りたいだけです。『選ばれし者』とか、そういうのは勘弁してください」
ヘレナは、まるでそれが今日聞いた中で一番変なことだとでも言いたげに、私を見つめた。
「……年金?」
「そう、退役後に静かに暮らすための。山奥の家、牧場の動物、朝のコーヒー。贅沢は言わない」
「珍しい目標ね。特に、男性兵の生存率を考えると……本気で終戦まで生き残れると思ってるの?」
「もちろん生き残りますよ!」
「……ふむ。自信はあるようね。でも、昨日の戦闘はまだ『日常』の範囲よ。今のあなたじゃ……三十歳までもたないわ。もっと努力しなさい」
言い返そうとしたその瞬間、足元の床が揺れた。
横に設置されていた魔導プラットフォームが不安定になり、バランスを崩す。
「うわっ——!」
前につんのめって……そのままヘレナの上に倒れ込んでしまった。
「はっ?! バカなのあんたは?!」
「俺のせいじゃない! 魔法陣が滑ったんだって! ごめん!!」
「魔法陣が滑るってどういう理屈よ?!?」
二人して床を転がりながら止まらなくなった。
どこかのタイミングで顔が彼女の胸に当たり……小ぶりだが柔らかくて異様に意識してしまう。
ヘレナの悲鳴が響いた。
足が絡まり、スカートが戦場で倒れた旗のように舞い上がり……
――部下として見てはいけないモノを、見てしまった。
ようやく転がり終えたとき、彼女は私の上に乗っかっていた。
顔はトマトのように真っ赤。
「どきなさいよ!」
「いや、今乗ってるのそっちでしょ!」
「ど・き・な・さ・い! レオンハルト・ヴィレル!!」
私はなんとか這いながら後退した。
「誓って言いますけど、システムのせいです! やましい気持ちは1ミリもありません!!」
「……黙りなさい」
ヘレナは立ち上がり、制服の乱れを直して、何事もなかったかのように扉の方へ歩き出した。
「隊長、本当にすみませんでした……」
「いい? ヴィレル。もしこれが誰かの耳に入ったら……年金なんて夢見る暇もなく死ぬわよ。わかった?」
「この話、子孫に武勇伝として語れる類でもないんで……」
ヘレナはゆっくりと振り返った。
「そういえば隊長って、いつか孫が欲しかったりします?」
「……レオンハルト、黙れ。今すぐここを出るわよ」
彼女の後に続きながら、私はどこか恥ずかしさを感じつつも、少しだけおかしくて笑いをこらえていた。
廊下に出ると、開いた窓からひやりとした風が吹き抜けた。
雲の隙間から、ようやく太陽の光が差し込んでくる。
外では、相変わらず軍の喧騒が鳴り響いていた。訓練、警報、命令、怒号。
そんな中を歩く俺は——天才並みのステータスを持ちながら、戦闘経験ほぼゼロ。
そして、現実味のない『穏やかな引退生活』という夢を胸に抱えていた。
《ステップ1:まず生き残る。
ステップ2:昇進する。
ステップ3:山の中に家を探す。
ステップ4:退職金をもらう前に死なないようにする。》
完璧なプランだった。たぶん。
*****
診断が終わった後、俺は北棟の兵舎の一室をあてがわれた。
驚いたことに、その部屋はまだ誰にも使われていなかった。
もしかすると、『異常な能力を持つ謎の新入り』を避けているのかもしれない。
ジャケットを椅子に投げ、ブーツを脱いで、ようやく深く息をついた。
到着以来、初めての静けさだった。
――少なくとも、そう思っていた。
カチッ。
バスルームの扉が、まるで主の帰還を告げるように開いた。
「ノックノック〜 入っていいか聞こうと思ったけど……もう入っちゃったからいいよね?」
甘く、奔放な声が響いた。
反射的に振り返る。
「リッカさん!?」
そこに立っていたのは、リッカだった。髪はまだ濡れていて、ぽたぽたと水滴が垂れている。
その鍛えられた曲線美を、なんとか白いバスタオル一枚で隠していた。
「ちょっと挨拶に来たのと……お礼も言いたくて、レオン〜」
まるで自分の部屋かのようにズカズカと入ってくる。
どうやら、わざとこの部屋に潜り込んだようだった。
「お、お礼って!? 手紙でも良かったんじゃ!? いや、せめて着替え終わるまで待つとか! それに『レオン』って、呼び方ラフすぎない!?」
慌てて対応しようとした時にはもう遅かった。
彼女はすでに俺を簡単に押し倒していた。
……さすが勲章6つ持ちの女戦士。体力も度胸も、別格だ。
俺はまるでジャガイモ袋のようにベッドに倒れ込み、
その上に彼女が乗っかってきた。
そして——タオルが……
ちょっとだけ……いや、かなり危険な角度でずり落ちた!
「ま、まって! 俺の身体はまだ準備できてな……じゃなくて、俺が準備できてないっ!!」
叫んだところで、何の効果もなかった。
言葉では拒否していたが、内心ではもうどうしていいかわからなかった。
前世では女だった俺は、セックスどころか、まともな恋愛経験もなかったのだ。
……なのに、今の俺の身体は、まるで別の生き物のように反応していた。
「ふふ、準備できてないって? じゃあ、下でピンと立ってるこれは何かな? すっごく楽しみなんだけど〜」
彼女は俺の股間を指差して、からかうように言った。
《なんだこれ。どうなってるんだ俺》
「ま、待って…! えっと、先にコーヒーでも飲んで落ち着かない?」
リッカは、まるで箱の中に閉じ込められた子猫を見たようにクスクス笑った。
「本当に? もう、レオンってば純粋すぎ〜。……それがまたたまらないんだけど」
そう言いながら、彼女は俺の上にまたがり、顔をぐっと近づけてきた。
ミントと湯気の混ざったような、ほんのり甘い息が頬にかかる。
脚が俺の脚に絡まり、温かな肌が触れ合い——
……いや、ダメだダメだダメだ! 頭では理解してるのに、身体が言うことを聞かない!
内心は完全にパニックだった。
前世で見てきた数々の恋愛ドラマや過激な映画たち、どれもこの状況には役立たなかった。
俺はなんとか彼女を優しく押し返そうとしたが、失敗した。
「リッカさん、お願いです! 本当にいいんですかこんなこと!? 俺まだ年金もらえる段階にもなってないんですよ!?」
「ふふ、年金が欲しいの? じゃあ、戦争帰りの退役兵扱いで、特別なマッサージしてあげようか〜?
ほら……『最後まで気持ちよく』ってやつ」
そう耳元でささやかれ、鳥肌が立った。
バンッ!
その時、運命のように扉が勢いよく開かれた。
……それが幸か不幸かは置いといて、入ってきた人物だけは一目でわかった。
ヘレナだった。
神よ……この上官こそが俺の救いだった。
――本人にはまったく自覚がないけど。
扉の前に立ち尽くすその姿は、まさに絶対的な威厳の象徴だった。
視線は鋭く、翻るマントは上官の証。
表情には感情がなかったが——その一瞥だけで、部屋の温度が一気に氷点下まで下がった気がした。
……終わった。完全に終わった。
俺はベッドに仰向け、上半身裸で、顔を真っ赤にして、その上にリッカがほぼ裸で覆いかぶさり——
タオルは今にも落ちそうな角度で、彼女の手は俺のベルトにかかっていた。
ヘレナは深く息を吸った。
「……ちょうどいいわ。昨晩の作戦について話しに来たのに……
まさか娼館を目撃することになるとは思わなかったけど」
「ち、違うんです! 見た目ほどじゃないんですっ!」
俺の声は、どう聞いても言い訳にしか聞こえなかった。
「ふふ、ただ今日の英雄にお礼を言いに来ただけよ〜。
……それとも、隊長さんが先に欲しかったのかしら?」
猫のような微笑みを浮かべながら、リッカは悪びれもせずにヘレナを見つめた。
ヘレナの頬が、ほんの一瞬、ピクリと赤く染まった。
それはまるで、無傷の城壁に走る最初のひびのように繊細だった。
「……バカなこと言わないで。私はそういう不健全なことには興味ないわ」
ヘレナは低く冷静に言ったが、その声の奥に少しだけ棘があった。
「それに、言うなら服を着て、見ず知らずの男の部屋でじゃなくて外で話すことね。こっちは軍の面目ってものがあるんだから」
彼女は近くの棚から綺麗な軍服を手に取り、まるでスナイパーのような正確さでリッカに投げた。
リッカは片手でそれをキャッチし、まだにやにやと笑っていた。
「はーいはーい、隊長は厳しいんだから〜。
……でもまぁ、レオンが心臓発作で死なれたら困るし、今日はこのへんで許してあげる」
そう言って、彼女はしなやかな動きで立ち上がり、プロのダンサーのような優雅さと、悪戯っ子のような下心を見せながら、部屋の仕切りの向こうへと消えていった。
「……ありがとうございます、隊長。命拾いしました……」
俺は心底ホッとしながら礼を言った。
「そう? でも……君の身体はそう言ってないみたいだけど」
そう言ってヘレナは、俺の股間に視線を向けた。
「……っ!!」
返す言葉が見つからず、俺は枕を掴んで慌てて股間を隠した。
「とにかく、シャツぐらい着て。話があるの」
***
服を着てベッドの端に座ると、
ヘレナも対面に腰を下ろした。足を組み、背筋を伸ばし、軍人としての威厳を見せつつも、どこか妙に色気が漂っていた。
リッカの体つきはたしかに豊かで理想的だったが、ヘレナも決して引けを取らない魅力を持っていた——
そんな風に思ってしまった自分を、俺は軽く殴りたくなった。
《はぁぁ……またこの思考だよ……この体、ほんと呪われてる……》
「レオンハルト、医療報告を確認した。奇妙な数値だらけの歩く異常値だけど……健康には問題ないわ。つまり、明朝0600時の訓練に出られない理由は一つもない」
「了解しました、隊長」
背筋を伸ばして座り直す。さっきのアレを帳消しにしたかった。
リッカが再び現れた。今度はちゃんと制服を着て……とはいえ、ボタンはほとんど開いたままだった。
「隊長、話が済んだなら、少しだけお二人と話したいことがあるの。実は、それが本来の目的だったのよ」
「いいわ、話してみなさい」
ヘレナが頷く。
「昨日の作戦のこと。最後に起きたあの召喚現象について、いくつか気になる点があるの。それと……ヘレナの反応、あれはすごかったわね。爆発級だった」
ヘレナの瞳が細くなる。
「……集中しなさい。これは冗談の場じゃない。真面目に話すつもりなら、ふざけるのはやめて」
二人は戦術の話に入った。
その間、俺はできるだけ無心を保とうとした。
……いや、無理だった。むしろ考えすぎて頭がおかしくなりそうだった。
《なんで俺、女の裸見ただけでこんなに赤くなってんだよ……
三十年、女として生きてたんだぞ? 女の体なんて見飽きてるはずだろ…… これが男の身体の反応なのか? やべぇな、男って毎日こんなに大変なのかよ……》
戦術、布陣、召喚の種類……
難しい用語が飛び交う中で、俺はひたすら頷きながらも、脳内ではリッカが俺の上にまたがっていた記憶と、ヘレナの氷のような視線と格闘していた。
ようやく日が落ち、二人はそれぞれ部屋を後にした。
部屋に残ったのは、湿った布の匂い、香水の残り香……
そして、どうしようもない罪悪感だった。
「はぁ……」
目を閉じても、二人の視線の残像が消えない。
その夜、眠りにつくのは簡単ではなかった。
***
【同夜:ヘレナ視点】
静かな廊下を一人で歩く。
魔導灯の柔らかな明かりだけが、私の影を壁に映していた。
部屋に向かうその足取りは、いつもより少し遅かった。
制服を脱ぎ、ほとんど透けるような薄手のナイトガウンに着替える。裾がかすかに踵をなでた。
部屋の東側にある窓をそっと開ける。
午後には小雨が降っていたせいか、空気は心地よく冷えていた。
訓練場の向こうには、ただ森の闇が広がり、遠くに見えるのは防衛用の護符の淡い反射光のみだった。
「レオンハルト・ヴィレル……」
その名を小さく呟く。
あの男は――どこかが引っかかる。
数値は常識外れ。行動は読めない。経歴は存在しない。
なのに――どこかに『真実味』があった。
不器用で、正直で、何より……
彼が語った夢や希望に、妙な誠実さがにじんでいた。
今朝のあの様子を思い出す。
評価検査で震えていた姿。何をすればいいかも分からない新兵の顔。
それが……昨夜の戦場では、まるで歴戦の英雄のようだった。
――彼がいなければ、私はもう、死んでいた。
あれは偶然じゃない。
確かに彼は、まるで本能のように立ち回っていた。
あれが『経験』じゃないのなら……一体、何だったのか。
腕を組み、窓から吹く冷気を受けながらも、心の中はそれ以上に冷たく冴えていた。
「……脅威にはなり得ない。けど、普通でもない」
リッカも気づいている。あの女は第六感に近いものを持ってる。
特に、『珍種』に関してはね。
それなのに、あんなに軽々しく、ふざけて、色仕掛けで近づいて――
唇を噛む。
……違う。嫉妬なんかじゃない。
そんなことあるはずがない。
これはただの――懸念。軍人として当然の警戒。
そう、彼は今や私の部下。だから、観察するのは当然の義務。
「『レオン』? 名前で呼ぶなんて……知り合って数日で、信じられない。見張るべきね……もっと近くで」
そこまで考えたところで、無理やり思考を断ち切った。
もう考えすぎるのはやめよう。
背を向けてベッドへと戻る。
戦場は容赦しない。
そして彼は――まだ、本当の『敵』とは何かを知らない。