プロローグ。
天野菜月
電車が――また遅れていた。
ここ三分の間に五回もスマホの時計を確認している自分に、さすがに呆れてくる。
このままじゃ、地下鉄まで走らないと間に合わない。でも――足が動かなかった。
何かが変だった。
六月にしては空がやけに青く、透き通っていて。
私の胸の奥も、妙にざわざわしていた。
名前は天野菜月、三十歳。独身。OL。高校時代から軍事史に取り憑かれた女。
そしてなぜか、昔から思っていた。
――自分は、いつか間抜けな死に方をするんじゃないかって。
本当はね、夢だったんだ。戦場で散る英雄とか、無敵の女指揮官とか、そんなカッコいい死に方。
でも、まさか……こんな形でとは。
――
駅を出て大通りを渡ろうとしたとき、見つけた。
一匹の白猫が、道路脇のアスファルトの上で震えているのを。
信号のおかげで車は止まっていたけれど、それも長くは持たない。
そのとき、聞こえた。
エンジン音でも、雷でもない。
爆発音だった。
大きくて、近くて――信じられないくらい近くて。
真っ赤な閃光が視界を焼いた。
身体が勝手に動き、ヒールが弾け飛ぶ。裸足のまま、猫へと駆け寄った。
腕に抱いた瞬間、衝撃波が全てを飲み込んだ。
辺り一面、割れたガラスと瓦礫と炎。
私は全身に激痛を感じたけれど、それもすぐに――
静寂が、すべてを包んでいった。
母のことも、職場の同僚のことも、何も思い浮かばなかった。
ただ、あの猫のことだけが頭に残っていた。
塹壕の中、混乱の渦に巻き込まれながら、
私はふと、自分が軍服のようなズボンを履いていることに気づいた。
そして、胸は――完全に裸だった。
だが、上半身が裸だったこと自体には、さほど驚かなかった。
もっと衝撃的だったのは、その体つきだ。
目を落とすと、かつてのオタクOLだった私の面影など微塵もなく、
そこにあったのは――バキバキに割れた腹筋。
ムキムキの上腕。ボディビルダー顔負けの肉体美。
「なにこれ……?」
声に出せないまま、私は自分の顔にも触れてみた。
頬骨は高く、顎は角ばり、明らかに――男の顔だ。
「ってことは、あの猫を助けて……死んで……しかも、異世界で男として転生したってこと……?」
「……ウソでしょ」
ようやく口が動き、そう呟いた瞬間――
自分の声が、低くて男らしいことにも気づく。
信じられず、私は這うようにして塹壕の壁際へ。
背中をセメントに預け、深呼吸した。
「夢だよね? これは夢。夢に違いない……あっ、そうだ!」
ふと、あるアイディアが頭をよぎる。
私は目を閉じ、ゆっくりとズボンのボタンを外し、ファスナーを下ろす。
そして、手を中に差し入れて――触れた。
……ぶら下がっていた。
「……えええぇぇぇぇぇっ!?!?」
衝撃で身体が硬直していたそのとき、
耳元を魔法弾が掠めた。
「てめぇ、こんなとこでなにしてやがる!死にてぇのかッ!?」
知らない言語だったはずなのに――なぜか意味が理解できた。
屈強な兵士が怒鳴りながら、私の腕を引っ張った。
反応できず、私はそのまま引きずられるようについていった。
気づけば、全身にこびりついた血は自分のものではなかった。
おそらく、敵兵か――それとも、仲間の誰かのものだろう。
逃げる途中、遠くの瓦礫の向こうに黒い旗がはためいているのが見えた。
その瞬間、私はようやく悟った。
――これは夢じゃない。
私は本当に、異世界に転生したんだ。
それも、戦争と魔法が入り乱れる、血の戦場へ――。
すべての始まりは、こうして幕を開けた。
「……まあ、少なくとも『モノ』は特大サイズらしいけどね」
そして、なぜか。
昔、米軍の軍事マニュアルで読んだあの言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。
『死ぬなら、背筋を伸ばして死ね』
――まあ、できたんじゃないかな。バカみたいな形だけど、ちゃんとやれたと思う。
そして、目を覚ました。
でもそこは、病院でも、天国でも、地獄でもなかった。
煙と泥と叫び声に満ちた――塹壕の中だった。
身体は痛みでいっぱいで、手には血がべっとりと付いていた。