金色に照らす 6
武田勝頼は天正三年(1575)、三河国設楽原で織田、徳川連合軍に大敗を喫した。
その後、一時は父信玄をも超える領土を手中に収めるが、織田、徳川、さらには関東の北条から攻められ、徐々に勢力を失いはじめる。
かつて金太夫たちが籠っていた高天神城も、天正九年(1581)三月、徳川軍に攻め落とされた。
この時、勝頼は北条と戦っており、城に援軍を送る余裕がなかった。
家康は降伏を許さず、城兵は餓死か討ち死にかの二択を迫られたのだった。
勝頼の威信は失われることとなる。
石山合戦を終えた信長も武田攻めに本腰を入れ始める。
翌年(1582)一月、信濃国木曽郡の木曾義昌が信長の調略により武田を離反した。
驚いた勝頼はすぐに木曾討伐軍を編成し、討伐に向かわせたが、残雪のため思うように行軍できないでいた。
二月に入ると示し合わせていた通り、織田軍、徳川軍、北条軍が一斉に武田領土に攻め入った。
関東口からは北条軍、駿河口からは徳川軍、飛騨口からは織田家臣金森軍、伊那口からは信長の嫡子信忠軍が同時に侵入し、武田領内は大混乱に陥った。
信忠の軍が攻め寄せると、伊那の武田方の城は次々と降伏、自落していった。
二月十四日、浅間山が轟音とともに火柱を上げた。
浅間山の大噴火を武田家滅亡の兆しと予感した武田領内の人々は、武田を見限っていった。
噴火を見た伊那大島城の兵たちは、恐れをなして城を逃げ出してしまったという。
この頃になると、高遠にいる金太夫の周りも騒がしくなっていた。
伊那の各城から落ち延びてきた兵たちが、高遠城に集まってきたからである。
また、城下町の人々や周辺の村人たちが戦火から逃れるため、山寺に避難しはじめたからでもあった。
「死なないでくださいね」
乱暴狼藉を取り締まるため、城下を見回った帰りである。
金太夫は、毎日立ち寄っていた川辺で何を考えるでもなく、悠然と聳える山々を眺めていた。
後ろから声を掛けられ振り返ると、はなが立っていた。
「きっと死ぬことを思っていたのでしょう」
はなは横に並ぶと言った。生活道具が入っているであろう風呂敷を肩に担いでいる。
武士の妻子は、城内に避難することとなっていた。
「戦が終わったら、もう一度ここで景色が移り変わるのを、村の子供たちが遊ぶのを、あの水仙を眺めるのです。だから、死なないでくださいね」
「ああ」
金太夫は、おそらくこの戦で俺は死ぬんだろうと胸の奥底で覚悟していた。
はなは、心無い返事をした金太夫の顔を睨んだ。
「……わかった。再び、この河原の景色を見るまでは、死なん」
満足げに笑うはなの顔が、夕日に輝いている。
通り過ぎていく暖かい風が揺らした黒髪を、金太夫は見ていた。