金色に照らす 4
横山城を陥落させた後、論功行賞が執り行われた。
ここでひとつ、小さな揉め事が起きた。
戦場で一番はじめに敵陣に乗り込んだ武将に贈られる、一番槍を決めるときである。
ある軍目付は、
「金色の短冊が何枚もついた朱色の唐傘を背に指した武将が一番はじめに敵陣に討ち入った」
と言い、また別の目付の話では、
「いや、三界萬霊と書かれた赤提灯を背に指した武将が一番だった」
と言うのである。さらには、信長までもが口をはさみ、
「唐傘の武将の前を真っ先に敵陣に切り込んでいったものをわしは見た」
と言い出す始末であった。
これを聞いていた金太夫は、信長の観察眼に舌を巻いた。
実際、金太夫の前には左近衛門がいた。
しかし、地味な出で立ちの左近衛門より己の方が目立つため、たとえ左近衛門が一番に敵陣に乗り込んでも一番槍の手柄は俺のものになるに違いない、と思っていた。
(隣の戦場を眺める余裕があったとは……。旗本を敵に曝け出していたのは、やはり敵を逃がさぬようにする策略であったか)
金太夫は信長の大胆な戦術に感服したのであった。
「お主らは、『七本槍』と後世まで語り継がれるであろう」
信長はそう言うと、徳川軍の先頭を駆けた高天神衆七人に、それぞれ一番槍の手柄を与えたのである。
とりわけ多くの敵を討ち取った金太夫に「日の本一の槍」と褒めたたえる感状を送ったのだった。
高天神城の攻防戦は、この姉川の戦いの四年後のことである。
城に籠る小笠原軍は度重なる評議の末、武田の軍門に降ることに決め、開戦からおよそひと月後の天正二年(1574)六月十七日、武田勝頼に城を開け渡した。
浜松城にいた家康は、信長に高天神城救援の加勢を頼んでいたが、織田軍が遠江国に辿り着いたとき、すでに城は武田の手に落ちていた。
「織田と徳川は、姉川の戦で活躍した高天神衆を見捨てた」
これが世間の評判であった。信長と家康の名声が一気に転落する一戦となったのである。
武田勝頼の寛大な処置により、降伏した城兵は武田家につくか徳川家に戻るか選択の余地を与えられた。
左近衛門以外の「七本槍」は、武田を選んだ。
自分たちを見捨てた徳川に愛想をつかしたからだ。
「我ら『七本槍』は徳川に都合のいいように使い捨てられたのかもしれぬ。金太夫、我々などいくらでも替えのきく駒にすぎなかったのかもしれぬな」
金太夫の妻子を伴って徳川領へ旅立つ際に、左近衛門が最後に言い残した言葉だった。