5・「氷の令嬢」の策略に喜んで身を投じる
***
小春さんと一緒に裏口のドアから出て、管理人室のガラス戸を軽くノックした。
「はい。何か御用でしょうか」
メガネをかけた小太りの警備員がそう言って、窓ガラス戸を開けた。
近くで見ると、やっぱりあの時の花束の男だとはっきりと分かった。
小春さんが俺より一歩前に出ると、初めて会った時のような冷たい「氷の令嬢」の顔で、紙の入ったクリアファイルを掲げて見せた。
「管理人さんに書いてもらいたいものがあるんですけど、もう寝てしまいましたか?」
「そう、ですね。1時間前には部屋に入ったので、眠っているかと」
「そうですか。それでは、代わりに書いて貰えませんか?名前と生年月日と、住所なんですけど」
そう言って、クリアファイルとペンを警備員に渡した。
「えーと、何の書類で……す、か……」
クリアファイルを受け取って、中の紙を取り出した警備員の顔が、一瞬で蒼白になった。
「婚姻届です。あとは、証人のところを埋めれば提出できるので」
顎を少し上げた姿勢で、小春さんは冷たく言い放った。
「警備員さん、書いてくれますよね?」
「……は、なんで、オレが」
動揺が露わになった警備員に、小春さんはすぅっと目を細めると、強い口調で噛んで含めるように言った。
「ねぇ、私、あなたの名前と生年月日は分かるんですよ?
それに花束にGPSを仕込んでおいて、自分だけ無傷でいられると思っていたんですか?
いまさらですよ。
住所と本籍はもう調べて知ってますから、書いてください。
ほら、印鑑も用意してありますから、どうぞ」
白魚のような美しい指には「熱海」でも、「牧瀬」でもない俺の知らない名字の印鑑が握られていた。
警備員の男は、「あ」とか、「う」とか、およそ言葉にならない音を出して、ペンを握ると、証人欄に名前を書き始めた。
そして、震える手で本籍地の地番まで書き上げると、無言で涙を流した。
***
すべての記入が終わった婚姻届の紙を持って、管理人室前から道路に向かって出た後、俺は一気に溜めていた息を吐いてしゃがみこんだ。
「……緊張したぁ」
「お疲れさまでした」
街灯で逆光になった小春さんの影が、俺の顔に重なった。表情は見えないが、声が笑っている。
「それにしても、びっくりしました。婚姻届の用紙を持っていたなんて。しかもあの警備員の印鑑だけじゃなく、俺のまであるなんて」
「ふふふ、少しだけ準備していたんです」
「とりあえず、これで牽制にはなりましたね」
「何言ってるんですか?これから届を出しに行きますよ?」
「え?!」
驚く俺に小春さんは手を差し出すと、「さぁ、行きましょう!」と元気に言った。
役所の夜間窓口で婚姻届を提出し、2人の運転免許証を見せると、ぼんやりとしたおじさんに「はい、それじゃあ戸籍謄本は早めに出してくださいねぇ」と言われて終わってしまった。呆然としたまま小春さんの後について、役所の外に出てから我に返って叫んだ。
「小春さん!俺と結婚していいんですか?!」
「牧瀬さんこそ、私と結婚していいんですか?」
「もちろんです!」
そこは迷うことなく答えられる。身の程知らずの恋だと思っていたから、小春さんの気の迷いでもなんでも構わないから、結婚ができてよかったと思ってしまっている。
「それじゃあ、問題は無いですね」
人気のない役所からの帰り道で、くるっと回って俺を見る小春さんは、口元をむにゅむにゅとさせていた。
「そんなに嬉しいんですか……?」
「はい、とても」
どうにも急展開すぎて、俺の頭も気持ちもついて行けていない。ちょっと休みたいとお願いをして、街灯の下にあるベンチに小春さんと並んで座る。
誰もいない初夏の夜。
風もなくて、隣の小春さんの熱さだけが伝わってくる。
「……あの、整理させて貰いたいんですが、小春さんは半年前から俺の事が好き、だったんですか?」
「……はい、そう、ですね」
「それは、何故ですかと、訊いてみたいんですが」
小春さんは、街灯の上に見える月に視線を向けながら、訥々と答えた。
なんとなく初めて会った時から、自分と縁がある人のような気がしたこと。占いの結果に大喜びしているのを見て、動揺したこと。
そして、翌日にもう一度来た時に、「綺麗」「美しい」「美人」「華奢」「かわいい」と立て続けに褒められて嬉しかったこと。
「あと、決定的だったのが、体が熱くなったこと、ですかね。
小さい時から熱海家の女の特性として、伴侶になる相手に出会うと、こうなるっていうのは知っていたので……。
たまに会う母にも一瞬でバレました」
「全然気が付かなかった……」
「だって、牧瀬さん、最初の時だけしか手相みてないですもん」
「あ、確かに」
「いつ手相をみてくれと言われるのかと、内心ひやひやしてました」
そんなわけで、同じ占い師で熱海家の当主であるお母さんには、小春さんの気持ちは筒抜けで、証人の欄に署名を書いた婚姻届の紙をかなり前に渡されていたそうだ。
「最近はもう気持ちも体温も隠すのが限界になっていて……。牧瀬さんが来た時はいつも冷房をかけていました」
「この季節の夜に冷房を……」
「夏になったらどうしようかと思ってました」
恥ずかしそうに笑う小春さんに、触りたい欲求が込み上げてきたけれど、まだ確認しておかないといけないことがあった。
「あとさ……、俺の印鑑はまだ分かるけれど、なんで警備員の男の印鑑まで用意していたの?」
可能性としては限りなくゼロであると分かっていても、もしかして小春さんはあの男との婚姻届を提出するつもりがあったのではと邪推してしまう。
結婚したのに、そんな醜い嫉妬をしている俺には気が付かない小春さんは、あっけらかんと答えた。
「管理人さんにあの男の人の生年月日は教えてあったんです」
「へ?」
「お客さんの中で、面倒ごとになりそうな人たちの生年月日は、こっそり管理人さんに教えてたんです。
新しい入居者とか警備員でくる人とかを最初に照合してもらっていたんです。あとは、勘で今日は何かありそうな時は、見回りをした方がいいとか、交番にあらかじめ言っておいたりとか」
「……占いでセキュリティ強化されていたのか」
思い出したのは、さっき管理人さんが「このビルは滅多な事は起きないんだよ。なんたって女神様の守りがあるからねぇ」と笑っていたこと。
そうか、そういうことだったのか。
「それで新しい警備員が該当者だったので、管理人さんに名札を確認してもらってたんです。そうしたら、占いの時に言っていた名字と同じだったので。
つきまとわれそうになったら婚姻届で威嚇しようかなぁと思ってました。身元は母に頼んで調べておきました。
それと、そういうことになったら、勢いで牧瀬さんにプロポーズすればきっと断らないだろうと思っていたので」
「そんなどさくさに紛れて強行突破しないでください……」
「だって、初恋なんですもん。絶対に牧瀬さんと結ばれたくて」
白っぽい街灯のライトでも、小春さんが真っ赤になっているのが見えた。つられて俺も顔が赤くなってきた。
「それに、この半年の間で、牧瀬さんがどんな人か、たくさん教えてもらえたので」
言われてみれば、なんとか客としての体裁を整えようと、自分のことをたくさん小春さんに教えていたことに、ようやく気がついた。
「お正月に帰省する時に、おばあちゃんに何をプレゼントすればいいか、とか、早くお嫁さんをもらいなさいよと言われて困ったとか。
ふふ、知れば知るほど、牧瀬さんは理想の人だなって思って」
「そんな、全然、俺なんか」
「そういう謙虚なところも好きです。……それに牧瀬さんならゆくゆくは熱海家の養子になってくれそうだし」
「え?ごめん、最後の聞き取れなかった」
「ううん、なんでもないの」
そういうと、小春さんは耳のあたりの髪をかき上げて、少しつり目がちな大きな目を細めて、猫のように笑った。
「それじゃあ、家まで送ってください。……だんなさま?」
俺は無言で何度もうなずいて、小春さんと並んで立ち上がった。
俺の奥さんが可愛すぎる。