1・占い師「氷の令嬢」との出会い
「……唯斗さん、もういいですよね?
私、もう限界で苦しいんです。
……いやらしいこと、したいの」
月明かりに照らされたエントランスで、大きな瞳を潤ませた小春さんが俺を見上げた。
ゆるくまとめていた髪を解くと、はらり、と白い首すじに、黒髪がひと筋だけ落ちた。
冴え冴えとした白い月光が、彼女の肩から背中に落ちた黒髪に湿度を与えたように、鈍く輝かせる。
「小春さん、……」
「だって、もう、あなたは私の夫なんだもの。しても……いいでしょ?」
声が震えてしまうのを懸命に堪えながら話す小春さんの小さな肩を抱いて、俺はドアを開けた。
***
きっかけは、秋にあった飲み会の罰ゲームだった。
「なんで毎回噛むんだよ。唯斗、弱いなぁ」
「静岡塩漬け静岡塩じゅけしぞーかしおしゅきぇ!」
「やっぱダメじゃん」
「……くっそ!
ちょっとくらい滑舌悪くてもいいじゃないか!」
「はははは。弱すぎて逆に笑う。でも罰ゲームは決定な」
職場つながりの男だらけの集まりで、未だに彼女ができない俺に下された指令は、「占いで運命の相手を聞いてくること」だった。
他の奴らは彼女に連れられて行ったことがあるらしく、「とにかく当たる」「とにかく美人」をひたすら強調された。
「『氷の令嬢』って言われているだけあるよな。すげークールに占いの結果を話すんだけど、ビビるくらい当たる」
「あー、わかる。滅多に見ないくらいの美人だけど、愛想ないよな。冷たい感じだし、無駄なこと言わないし」
「……そんなところに1人で行くの嫌だよ」
だからこそ罰ゲームなのだが。
「あと、行ったふりしてもバレるからな」
「そうそう。行かないと分からないことを後で確認してやるからな」
彼女と行ったことのある余裕に満ちあふれた顔で、会計待ちの時にみんなから釘を刺された。
「……適当に俺が占いの結果を捏造してもわかんないんじゃないか?」
「そこじゃねーもん。チェックポイントは」
「……何されるんだよ」
みんなと別れてその占い師の店に向かう途中、「氷の令嬢」の評判をネットで調べていたら、余計に行きたくなくなってきた。
なんでも代々で占い師をしている女系家族らしく、先代も当たると評判だったらしい。その先代が新規の客をとることをやめたので、娘である「氷の令嬢」がこの近くに店を開いたらしい。
行けば当たる。
尋ねたことには答える。
客が訊かないことは、何も言わない。
つまり俺は、「俺の運命の相手である女性を教えてください」と、初対面の美人に言わなくてはならないのだ。
「……行きたくねー」
そんなことを訊けるメンタルがあれば、今頃彼女ができているに違いない。
酔いが醒め始めていて、だんだんと足が重くなる。
それでも教えられた場所には着いてしまった。
「ここか……」
1階部分が店舗で、2階以上はマンションになっている新しい建物だった。
夜10時に近いせいもあって、灯りがついているのはその「氷の令嬢」の占いの店だけだった。
おそるおそるドアを開けると、すでに何組かの客が待っていた。
カップルが2組と男性客がたぶん、1人だけ。大きな紙袋を持っているけど、彼女の荷物を持っているというわけでもなさそうだ。
俺以外にもひとりだけで来ている男がいて、少しだけほっとした。
空いている椅子に座ること20分。
カップルたちは少しはしゃいだ様子で奥の部屋から出てきては、「やっぱり『氷の令嬢』は当たるね」「式の日取りはこのままでいこうか」と、楽しそうに帰っていった。
ーーーやっぱり当たるのか。怖いなぁ。
「運命の相手はいません」と断言されたらどうしよう。当たらないと思えばいいだけなのに、やっぱりなと諦める自分の方が容易く想像できる。
就活の面接を受けるような緊張感で待っていると、俺の前の男性客がおもむろに紙袋から花束を出した。それを胸に抱えると背筋を伸ばして、奥の部屋へと姿を消した。
え。何、あれ。
ひとりで占いを頼む時は、花束が必要なの?
俺だけになった待合室は、空調の音がどこかからくぐもって聞こえるだけで、静かだった。
そこに聞こえたのが、「ですから!オレと付き合ってください!彼女になってください!」と、叫ぶ真剣な男の声。
「へ?」
思わず宇宙ネコのようになる。
何?占いをしに来たんじゃないの、あの人。
告白したよね?
確実に告白してたよね?
状況を理解するより前に、奥の部屋から花束を持った男性客が出てきた。
目元に手をあてながら。
察した。
見知らぬ人であっても、何か言いようのない気持ちが湧き上がった。共感のような、他人事だから椅子に座ったままでいられる傍観者の安心感のような。
声をかけた方がいいかと一瞬考えたが、かつてフラれた時の記憶を思い出し、黙っていることにした。
俺は思わず前を通り過ぎる時、軽く頭を下げてしまった。分かるよ、という、自己満足に近い行動だったなと、すぐに後悔した。
しかし、その男の人は足を止めると、「どうも」と、感情を抑えた声で答えて、俺の顔の前に花束を差し出した。
「すみません。もらってくれませんか。
これ、捨てるのも、かわいそうなので」
「……わかりました」
お互いに目を逸らしながら、また軽く頭を下げて花束を受け取った。紙袋も合わせて渡してくれた。
「……その、気をつけて帰ってください」
「はい。ありがとうございます」
笑ったような、苦笑いのような、無理をした明るい返事をすると、その人は帰っていった。
「………なんて幸先の悪い」
恋愛について占い師に訊こうとしたら、目の前で人が失恋するとか、余計に気が滅入る。
悪そうな人でなかったことも、落ち込む気分に拍車をかけた。
「次の方、どうぞ」
開いた奥の部屋のドアから、事務的に声がかけられた。
俺は生唾を飲み込むと、おそるおそる部屋の中に足を踏み入れた。
そこには黒髪の綺麗な女の人が座っていた。
小さな顔に大きな二重まぶたの目は、、少し吊り目がちなこともあって、すべてを見透かしているような冷たい印象を受けた。
小ぶりな唇は、きゅっと閉じられていて、愛想笑いのカケラすらない。
ただ、左肩の方で髪をまとめているせいか、俺が座った席からは真っ白い首すじがあますことなく見える。室内灯に照らされた白い肌が、白磁のように淡く光っていた。
ピアスもイヤリングもしていない小さな耳が、ほんのりと赤く色がついているのが目に残った。
「こちらは占いをしているところです。お間違いはないですか?」
「はい」
「それでは、10分でこちらの砂時計が終わります。料金は10分ごとに加算されますので、ご了承ください。あと」
ちらっと、俺の持っている花束を見ると、「氷の令嬢」は冷たく言い放った。
「その花束、さきほどの方が持っていたものですよね。
この部屋には置かないでください」
「えっ」
「持ち帰るのなら、占いの間は待合室の方に置いてください。ここにそれがある限り、占いはしません」
戸惑う俺をじっと見つめると、そのまま黙ってしまった。
氷点下の眼差し。
さっき振ったばかりの男が持っていた花束が気に触るのだろうか。噂通りに冷たい占い師だなと俺は思った。
しかし、ここまで来たら罰ゲームを完遂させたい。
俺は素直に花束を誰もいない待合室に置き、ドアを閉めた。
もう一度席に着くと、ようやく占いが始まった。
「それでは、占って欲しいことを教えてください」
「……あの、俺の運命の相手がいるか、教えてほし、いなぁと……」
「それは結婚する相手ということでしょうか」
「……はい」
声を抑えながら話せてはいるが、心の中は恥ずかしくて大絶叫だ。
彼女もいません!
全然結婚とか無理って思ってます!
でもこのままひとりで生きていくのも、少し寂しい。
今まで口に出したことのない願いを無理やりにでも言ってしまうと、そのことを望んでいる自分の本心と向き合う羽目になってしまい、いっそ殺してくれと思った。
けれど、目の前の「氷の令嬢」は、笑うこともなく、冷たい眼差しのままで、俺の話を聞き続けた。その態度は決して冷たいものではなく、どこまでも真摯な姿勢だった。
「そうですか。それでは手相を見ますので、利き手を出してください」
「はい」
生年月日と名前を書きとった紙の上に、白い小さな手を仰向けに出したので、俺は素直に右手をのせた。
ひやっとした。
物理的に。
「……………」
「すみません。冷え性なもので」
「……いえ」
「氷の令嬢」の呼び名はここからきたんじゃないだろうか。それくらいに冷たい手で、背中に入れられたら悲鳴をあげるんじゃないかと本気で思った。