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心の熱さを忘れたの  作者: 檜垣梁
8/22

8.チケット

 出山の選んだ言葉は言い得て妙だったのだと思う。


 バイトのシフトを終え控え室で荷物をまとめていると、綾さんが背中を伸ばしながら入ってきた。


「疲れたー」

「お疲れ様です」

「腰辛い。しんどー」


 軽くストレッチをしている彼女の表情から、口に出した内容と違い嬉々とした空気感が伝わってきた。


「……どうかしました?」

「これ」


 僕が彼女の矛盾に気づいたことに何かプラスの感情を感じたのか、彼女は一層笑顔を深め、ポケットから何かを取り出した。長方形の紙――チケット?


「ああ、さっきの」


 見覚えがあった。さっき、綾さんがお客さんとの会話に花を咲かせていた時だ。いつもなら彼女がお客さんと会話していても、ああ、また持ち前のコミュニケーション能力を発揮しているな、なんて思って仕事に戻るだけなんだけど、おしゃべりなマダムが彼女に何かを渡しているのが見えた。


 何だろう、と思っていたからすぐにわかった。


「……さっきのって?」

「あいや、さっきなんか渡されてましたよね」


 話が順調に進んでいる感触があったのか、綾さんは「見てたならちょうどいいね」と呟く。


「なんだと思う?」


 書いてある文字は読めないし、パッと見たところで全くわからない。


「えっと――」


 彼女は僕が悩もうとしていなかったことを理解しているのか、大した時間も取らずに答えを示した。


「ホテルのケーキイベントの招待状! 佐々木さんにもらったの!」


 佐々木さんというのは、さっきのマダムだ。彼女のようにお客さんに積極的に話しかけたりしない僕でも名前を覚えているくらい、頻繁に店に足を運んでくれる常連さんだった。


 チケットを見せてもらうと、ここから少し離れた駅近くのホテルで行われている期間限定のイベントらしい。


 ケーキ好きだった姉が中学の時におこずかいを貯めて同じイベントに参加していたことを思い出す。


「私このイベント一回行ったことあって、前にその話を佐々木さんにしたことがあるの。佐々木さんも娘と行こうか迷っていたらしくて、どんな感じだったか聞かれたからまた行きたいくらい楽しかったー、って言ったの。そしたら、それを覚えててくれて、バレンタイン近いからくれるって!」

「いいですね」

「ええ! 反応薄くない?」


 反応が薄いのは姉のことを思い出していたからで。確かに、美味しそうだし、テンションが上がる気持ちはわかる。


「どう? いいでしょ」

「はい。楽しんできてくださいね」


 そう言うと、なぜかムッとした表情をして、彼女はスマホを取り出す。


 ほら見て、とサイトを開いて見せられると、今の時期が旬のミカンやオレンジのケーキがずらりと並んでいた。


「美味しそう」


 僕が思わず出した呟きに、目論見が成功した満足そうな笑みと共にもう一枚ポケットからチケットを取り出す彼女。


「行きたくない?」

「えっと」

「二枚くれて、誰か誘って行ってきてね、って言ってくれたの。これあげるよ」


 何となく流れを作られている気がしたのはそのせいか。


「……悪いですよ。前も奢ってもらったし」

「いいのいいの。バレンタインのプレゼントってことで」


 彼女が不自然に悪い顔を作る。僕に気を使わせないためだろうな、と思った。彼女はそういう人だ。


「来月何かお返ししてくれたらいいからさ」


 来月。つまり、ホワイトデーのお返しということだろう。その言葉が、彼女の置かれている状況と噛み合わず、いやに耳に残る。


 その時彼女は――。


 彼女にはホワイトデーなんか存在しないんじゃないのか。


 そして、それを一番よくわかっているのは彼女自身なんじゃないのか。


 と、そこである一つの考えが頭をかすめる。


 もしかして、もしかしてだけど。


 彼女が知らない、ということもあるのだろうか。


 例えばそう。自覚していないだけで、もう少し後の段階で急に死のうと思い立って、とか。


 自覚ないままに追い詰められていて、気づけば、なんてこともあるのかもしれない。彼女が何を考えているのか、知らなければ何もわからない。


 前向きじゃない。


 そんなものは止めなければならない、とか彼女が自殺をやめてくれればいい、とかそういう殊勝なことを考えているわけではない。


 死という選択をする人が、そんな簡単に意思を変えられるわけがないのだ。姉や父が死んだことも、何かそうせざるを得ない理由があって、二人にとってはそれが一番苦しさから解放される方法だったのかもしれない、そんな風に考えているくらいだ。


 ただ、父や姉と状況としては同じはずなのに、彼女はこんなにも楽しそうに笑っている。


 一ヶ月後にはもうこの世にいないはずの彼女が、楽しそうに毎日を過ごし、いろんな人とコミュニケーションを取ろうとしていることに――そんな彼女に多少なりとも興味と、疑問を持ったんだけなんだと思う。


 せっかく誘ってくれたんだ。


「行っていいですか」


 僕はそう訊いて彼女からチケットを受け取った。

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