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心の熱さを忘れたの  作者: 檜垣梁
5/22

5.食事

 数年前に初めて聞こえて以来、綾さんから再度その声が聞こえるまで、一度たりともその不快な声が僕の耳に届くことはなかった。だから正直、その声が聞こえる条件とかルールがあるのとか、僕自身もその声のことについてほとんどと言っていいほど知らない。けど、その声が意味する点だけ正確に理解していればそれで十分なのかもしれない。


 僕はちゃんと、その声が聞こえた人――綾さんが、声の通りに死ぬことをわかっている。

「お待たせーお疲れー」


 だから約束の日、朗らかな笑顔でそう言ってきた綾さんに対し、バイトの時よりも少しだけ高めのテンションの裏に隠れているのであろうものを考えてしまい、こぶしに力が入る。


「……」

「どうしたの?」


 彼女の不思議そうな表情で、力んでいる自分に気づかされ、僕は慌てて表情を戻した。


 何気ない口調で、言う。


「行きましょう」


 彼女の頭に浮かびかけた疑問符が大きくなる前に表情を戻せたおかげで、彼女は特に気にする様子もなく駅の方へと歩き始めた。これから、駅の近くにある小さな定食屋さんで晩ご飯を食べる予定だった。


 僕が先に出て待つ形になったから、急いでくれたのかもしれない。前を歩く彼女の鞄が開いたままになっていて、中に入っている本や財布、お菓子の袋が見えていた。


「空いてますよ」


 後ろから声をかける。


「あ、ほんとだ! ありがとう」


 彼女は焦ったように鞄を閉め、にこりと微笑んだ。


「……見た?」


 彼女がぼそりと呟く。見えたものを思い出し、彼女の表情に繋がる無難なものを言う。


「えっと……お菓子ですか?」

「う、うん。甘栗」

「あれ、甘栗だったんですか」


 さっき見えた袋。


「え、わからなかったの。ああー、言わなかったらよかった。そう、学校で食べてたの……恥ずかしいねぇ」


 彼女は恥ずかしさを誤魔化すように声を出して笑う。

 ああ、そういうことか。


「いや、そんなことないと思いますよ」

「……」


 心にもないことを言っていると思われたのか、彼女はまだ信用していない様子だった。


「姉も好き……なので」


 だった、とは言わなかった。


「そっかー、よかった」


 彼女は安心したように大きくため息をつく。


 死を考えている彼女との会話は、思ったより普通に進んでいく。しばらく歩くと店が見えてきた。


「ここですよね」


 予約をした方がいいか心配していたが、杞憂だったようで、落ち着いた音楽が流れる店内には数人のサラリーマンがいるだけだった。


 キッチンの奥から出てきた店員さんに好きな席に座るように言われ、僕たちは窓から一番離れた席に座る。別に制服で外食をするのが校則で禁止されているわけじゃないけれど、一応、制服だし、二人でいるのを見られたら面倒なので、外から見られないように意識した。


「ありがとうね、ほんと」


 席に着くなり、三度目のお礼を言われてしまう。


 まっすぐな瞳に見つめられ、思わず目を逸らしてしまう。そして「そんなの、大丈夫です」と適当な返しをしてそのまま視線をメニューに移す。


「綾さんは、何食べるんですか?」

「ええっとね、何にしようかなーって――多っ」


 彼女が受け取ったメニューの豊富さに頭を抱える。


「ええぇ、どうしよう」


 無駄な思考かもしれないけれど、彼女がそんな風に悩むのも、特別な理由があるのじゃないか、なんて考えてしまう。


 意識を逸らそうと、店内に張り出されているオススメのメニューを眺めていると、彼女が訊いてきた。


「芳樹くんは何にするか決めたの?」


 何を食べるかは、昨日店のサイトを見た時にすでに決めていた。ただ、すぐに決めたと言うと急かしているように聞こえるかもしれないので、「うーん、迷ってます」と返しておく。


「私昔からこういうの決められないんだー」


 しばらくメニューとにらめっこした後、彼女はお茶を持って来てくれた店員さんにオススメを聞いていた。


 そんな彼女を見て、僕は一人感心していた。


 彼女はバイト中、お客さんと積極的に会話をする。仕事の一環としてやっているのだろうか、と思っていたのだけど、どうやら違うらしい。性格だ。


 僕にはそんなことできない。やろうと思えない。


 結局僕はトンカツ定食を、彼女は無駄に思い詰めた表情でチキン南蛮定食を選んだ。


 店員さんが置いてくれたお茶を一口すすり、彼女は改めて、という感じで僕の方を見た。


「ね、一年くらいバイトで一緒だけどさ、こうやって一緒にご飯食べるのは初めてだね」


 だから、疑問に思ったのだ。彼女は普段から愛想がよく礼儀も正しいので、お客さんに好かれる性格だったし、その点については僕も見習っていた。なので、彼女がお礼をしたいと思って、わざわざご飯に連れて行ってくれること自体には違和感はない。ただ、彼女とシフトを代わったことは以前にもあったから、どうして今回、急に誘われたのだろう、と思わずにはいられなかった。


 しばらくして料理が運ばれてくると、彼女はわかりやすく目を輝かせた。その表情を見て、料理を持ってきてくれた店員のお姉さんの表情も柔らかくなる。


 二人で手を合わせた後、彼女が胸の高鳴りを抑えられない感じで注文したチキン南蛮にかぶりつく。


「ここの料理食べてみたかったんだよねー。あ、美味しい!」


 彼女が大きな声で言ったからか、カウンターの中から見ていたさっきの店員さんが「ありがとうございます」と笑う。


「ほら、芳樹くんも食べなよ」

「……おいしい」

「でしょー」


 美味しかった。さくっと衣がちぎれ、肉の旨味が鼻の奥へと広がる。彼女も満足そうな表情で口を動かしていた。

 しばらく料理を堪能し、その時ばかりは彼女の言葉も「美味しい」以外のものはなかった。


 そして、僕が料理を食べ終えた頃を見計らったように、彼女がまた話を始めた。


「芳樹くん、家庭科部なんだよね?」

「あれ、言ったことありましたっけ?」

「ないよ」


 自信を持って答える彼女に、僕は首を捻る。


 すると、なんだかやけに嬉しげに、彼女は言った。


「いや、実は私もなんだよね」

「ええっ」


 僕は彼女の意外な告白に目を丸める。


 彼女は最後の一口を食べ、


「そんなに驚かなくても。家庭科部ゆるいから私みたいな人多いでしょ?」


 それで彼女が言わんとしていることを理解する。僕たちの通っている学校は部活に所属することが義務付けられていて、その代わりというわけではないが、ゆるい部活には所属だけして参加はしないということが黙認されていた。


 僕の所属している家庭科部の顧問も、自由にやらせてくれるタイプで、だから顔を知らない部員が半分くらいいた。そこに綾さんも入っていたらしい。


「私バイト優先だったから行けなくて」


 それを言われて、納得してしまう。彼女は週五でバイトに入っている。一日あたりのバイト時間はそんなに長くはないけれど、平日毎日だ。どこの部活も最低週二回は必ずあるから、彼女は幽霊部員を許容している部活を探していて、それがたまたま家庭科部だったのだろう。


 その予想は次の瞬間に否定される。


 彼女は左手で湯呑みをくるくる回しながら呟く。


「料理とかお菓子作りしたいなーと思って入ったの」


 てっきり厳しい部活を避けた消去法で決めたのだろう、なんて思っていたから、思わず疑問が口をついて出てしまった。


「じゃあどうして幽霊部員に?」


 途端、彼女の表情に陰りのようなものが滲んだ気がした。まずい質問だったんだろうか。


「ちょっと家の事情でね」


 なんでもないように言ってくれたけれど、それ以上訊かせないような雰囲気があったし、彼女の心に土足で踏み入った気がして謝った。


 どうにか話を戻さなければ、と思ったら、そこは彼女の対話能力の高さだろう、上手く舵を切ってくれた。


「『Ete Prune』でバイトしようと思ったのもケーキ好きだからなの。今日みたいに、余ったケーキ持って帰らせてくれるしね」


 樺さんが、どうせ余っても俺一人じゃ食べきれないから、と言ってケーキの余りをバイト帰りに好きなだけ持って帰らせてくれるのだ。


「そうですね」


 彼女はそのニュアンスに何か思ったのか、僕の隣に置いているケーキの箱を見ながら首を傾げた。中には、さっき貰ったケーキが入っている。


「あれ、芳樹くんはケーキとか好きでカフェを選んだんじゃないの? 時々もらって帰るからてっきりそうなんだと」

「……いや、僕も好きですよ、ケーキ」


 胸の奥にちくりと、棘が引っかかったような気がした。それを誤魔化すように水を飲んでから、「柑橘系のケーキが好きなんです」と事実を述べる。


 彼女は少しだけ首を傾げたように見えたけど、それ以上は何も言ってこなかった。


 帰り、彼女が代金を支払ってくれると言ったが、流石に申し訳ないと思い店を出た後にお金を渡そうとした。


「いいよ、そんなの」

「でも」

「いいって――」


 そう言って、彼女が僕の動きを制止するためか、財布を持った僕の手を握る。あ、と思った時には遅かった。


 また。


 触れた瞬間に気づいて身構えたから、前みたいに呆けることはなかったし、ちゃんと会話を続けることはできたけれど、それでも心臓が跳ねてはいた。


「……申し訳ないですよ」

「……やっぱり……簡単には奢らせてくれないような気はしてたんだけど」


 そう言って彼女は、少し笑った後、切り上げる空気で僕の手の中にある財布を抜き取った。


「――でも、ほんとにいいからいいから。ここはお姉さんに奢られなさい」


 彼女は僕の財布のチャックを閉めて返してくる。


「……ありがとうございます」

「いえいえー」


 僕が折れると、彼女は満足げに頷いて、それから空を見上げて噛みしめるように言う。


「あー楽しかったー」


 彼女は駅の方に顔を向けると、思い出したようにこっちを振り返る。


「あ。芳樹くん、電車じゃないのか」


 首肯する。


「家、近いの?」

「うーん、遠くはないって感じです」


 最寄駅を伝えると、彼女は目を大きくしてさらに聞いてくる。


「まあ、確かに自転車で通えない距離じゃないけど、しんどくない?」


 彼女に改めて言及されて、気づく。


 普通からしたらこの距離は電車を使うのか。最近は慣れて何も考えていなかったけど、人にぶつかって声が聞こえるのを恐れて、入学当初から自転車だった。


「あんまり人混み得意じゃないんです」


 意味は分からないはずなのでそう言うと、彼女はなんだか無駄に納得したような顔をした。


「ああ、そっか。朝とか混んでるもんねえ」


 かすかに嫌そうな表情をする彼女。通学時のラッシュを思い出しているのだろうか。


「身動き取れないですもんね」

「ね。私はそれが嫌で最近は一本早い電車で行ってるからましだけど、時間帯によってはすごいもんね」


 僕が頷くと、彼女はまた駅の方を向きなおした。


「じゃあね、今日はありがとう、芳樹くん」

「ごちそうさまです」

「うん、じゃあまた明日ね」


 彼女は何度も振り返り、手を振りながら改札の奥に消えていく。次のバイトは明後日だけど、と思う一方で、この挨拶が彼女がまだ死なないことの証明のように感じられ、彼女を呆然と見送った。


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