2.忘れていた声
人間というものはその身に起きた嫌なこと、後悔すべきことをそのままの濃度で覚えておくことが尽く苦手な生き物なのだろう。
僕も人間だ。だから、父が死んでからその日までの間、記憶の中にあるその声の強烈さが時間の経過と共に薄れてきてしまっていた。
消化できた、と認識していた。
その日までの間、ということは、その日、忘れていたはずの熱さを思い出したということだ。まさか思い出させられるとは、思ってなかった。
「そろそろ上がっていいぞー」
カフェ『Ete Prune』の店長である樺さんの声でシフトの時間が終わったことを知る。この店は、僕が高校生になった時から働かせてもらっているカフェだ。
「お疲れさん、今日もありがとうな」
キッチンで最後のお客さんが頼んだパスタを茹でている樺さんがねぎらいの言葉を送ってくれる。見た目は少し怖くてがっしりしているけど、僕は店長のこういう人柄の良さが好きだった。よく店に来るお客さんと店長の仲がいいのもその人柄のおかげなのだろう。
「あ、綾にも上がっていいって言ってくれるか」
彼にそう言われ、レジ打ちをしているバイト仲間にシフトの終わりを告げにいく。
店内を見渡すとすでに客は減り、ちらほらと晩ご飯を食べている人が残っているくらいだった。
この『Ete Prune』は、内装はアンティーク調で、落ち着いた雰囲気が店内全体を覆っている。全くもって店長の趣味には思えないのだけど、シックにまとまっていて、お客さんからの人気が高い。僕はここで放課後に週三回バイトをしているのだ。
いつも通りの優しげな表情で「気をつけて帰れよー」と言ってくれる樺さんに挨拶を済ま
せ、控室へ向かう。着替えるために先に入っていたバイト仲間と入れ替わりで控室に入る。すれ違いざま、ふわっと甘い香りが僕の鼻をかすめた。あまり意識しないように無表情を崩さずに会釈して、さっさと扉を閉める。
一人になった空間で軽く息を吐き、僕はエプロンと「新川」と書いたネームプレートを外した。
綺麗に畳んだエプロンと引き換えに荷物を回収して裏口から出ると、先に帰ったはずの彼女が、なぜか裏口を出たあたりで佇んでいた。
彼女は吉水綾さんという僕より一つ年上の先輩だ。学校が同じだから、バイト中も時々話をすることがあった。と言っても、彼女から話しかけられて、それに僕が反応することが多いんだけど。
だから僕たちは、バイト後にお互いの帰りを待ち合うような関係ではない。決して。
どうしてなのか分からないけど、扉をあけて顔を出した僕に、彼女は待っていた人を迎える表情をした。
彼女の意図を理解できず、とりあえず当たり障りのない「綾さん、お疲れ様です」を会釈とともに言う。
「お疲れさまー芳樹君」
綺麗な先輩の不可解な行動に戸惑う僕に対し、彼女は明確な意思を持って待っていたらしく、僕の後で扉が閉まるのを待っていたように、話し始めた。
「先週はありがとうね! バイト代わってもらって」
「……いや、全然」
彼女は先週、祖母が亡くなったことによる忌引きでバイトを休んでいた。もともと週五でバイトをしていたから、彼女のシフトの穴を埋めるため、僕のシフトが急遽増えたのだ。
だから彼女の言葉は間違っていないのだけど、僕の反応が少し遅れたのは、シフトに入る前にも一度お礼を言われた覚えがあったからだ。
「ごめんねー」
眉を下げて謝る彼女。わざわざ僕にもう一度それを伝えるために待っていてくれたのだろうか。
確かにバイトを増やした影響で、先週は部活を休むことにはなったけど、別に彼女が謝ることなんてない。身内の誰がいつ死ぬかなんて、普通はわからなくて当たり前だ。
「仕方ないですよ」
その思いをまとめた言葉を送る。彼女は、申し訳なさそうな表情を崩さなかった。
「えっと……それだけですか?」
思わず聞いてしまう。
「いや」
彼女が首を振る。
「今度ご飯行かない?」
「えっと……」
「お礼に奢るから」
「いや、そんなのいいですよ」
「いいや、私が――」
彼女はコミュニケーション能力が高い。バイト中だって、お客さんと会話して盛り上がり、すぐに仲良くなる。それはこんな時にも発揮されるらしい。彼女は、このタイミングで自然に人に触れられる人間だったのだ。
肩に手を置かれていることに気付き、それだけだったら彼女の勢いに負けて思わず首を縦に振っていただけなのかもしれないけど、その時に、僕は忘れかけていた熱を、思い出した。
心臓を、持ち出されたような感覚になった。
しばらく聞いていなかった声が、また、脳に直接入ってくる。
耳鳴りを、極限まで不快にしたような、そんな音。
今度も触れた人――綾さんが、一ヶ月後に自殺をするという内容だった。
心に穴が空いた感覚の中で、僕は何も声を上げることができなかった。
「えっと……来週の水曜のバイト後とかどう? 空いてたりしない?」
僕の沈黙に何を思ったのかわからないけれど、彼女は無駄に早口で訊いてきた。いや、実際は普通に訊いただけなのかもしれない。僕が状況に置いてけぼりになっていたことは確かだ。
その強烈な声のせいで、頭が正常に働いていなかった。
目の前にいる彼女がどんな表情をしているのかもわからなかった。すでに肩から手を離されていることはわかったけれど、かと言って、余韻がなくなるなんてことない。
だからたぶん、僕は空っぽのまま、おそらく頷いたのだろう。
「じゃあ。また連絡するから」
彼女がそう言って、立ち去るのを呆然と視界に捉えていた。多分彼女に心配されないように、手は振っていたと思う。
目眩を抑えることができず、僕はしばらくその場でずっと呆けていた。
何分そこにいたかは分からない。ただ樺さんが、裏口から入ってすぐのところにある倉庫で作業を始めたのだろう。その音で我に返ったのはかろうじて覚えている。
その日寝るまでずっと、心臓は戻ってこなかった。