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心の熱さを忘れたの  作者: 檜垣梁
17/22

16.わからない

 ポケットに入っているスマホから伝わる振動で我に返る。


 慌ててポケットに手を突っ込んでスマホを取り出すと、スマホは僕の手から滑り落ち、音が止まる。


 ずっと身体の濃度が薄まったみたいな感覚に包まれていた。全身が麻痺してるみたいだ。


 自分の置かれている状況を確認しようと周りを見渡すと、そこは見慣れた空間だった。自分の部屋だ。あの後どうやって家に帰ってきたのかはわからない。ただ、どうにか家に帰ってきたことは確かだった。


 僕は両手を見る。心なしか震えている。


 静かな部屋の中、ずっと耳鳴りがしていた。


 音に意識が入っていたから余計にだろう。またけたたましい音が耳に飛び込んできて、僕の皮膚は大きく波打つ。


 今度はなんだ。


 確認すると、スヌーズ機能で再度アラームが鳴っただけだ。さっきちゃんと解除しなかったから。


 ため息をつく。


 毎日家に帰らねばならない時間を登録している。もちろん、自分がその時にいる場所は関係なく音が鳴る。


 馬鹿みたいに声を上げ続けているスマホを見ていると、無性に腹が立ってきて、停止を押した後すぐにベッドに投げつけた。ばすん、と虚しい音が鳴る。


 よくわからなかった。


 いつもだったら何も考えず淡々とこなしている作業に苛立つなんて初めてだった。まして、寝起きでもないのに。


 自分で言うのもなんだけど、僕は人より怒りにくい、と言うか、多分感情の起伏が小さい。どうしようもないこともすぐに割り切る。だから母より落ち着いて生活できている。


 どうしたんだ。


 胸の内を冷静に判断なんてできないけれど、全身に張り巡らされた血管の脈動が自身の動揺をはっきりと伝えてくる。


 落ち着けるわけがない。


 ――私も今聞こえてるの


 手を握られた感覚はもうすでに消え去ったけれど、その時の彼女の声が僕を追いかけて耳の奥で再生される。


 彼女が言っていたことは、本当のことなのだろうか。


 僕と同じように、触れた相手が死のうと思っていることに気づけるなんてありえないはずだ。普通はそんな異質な力を持っているはずがない。


 何度か、彼女にはそんな力がないんだから、と思ったことがある。ずっと、こんな力は自分だけが持っているものだと思っていた。


 なんだよ、くそ。


 声にならない唸り声を上げ、頭をかき回す。


 本当に、彼女も。


 何に、僕はこんなにも苛ついているのだろうか。


 今まで考えてきたことが間違いであったと知らされるのが怖いのだろうか。それとも。


 けど、状況を受け入れられない自分の中で、彼女の行動に、僕と同じようなことがあることを思い出していた。


 彼女も購買の人混みには近づかなかった。


 それも、僕と同じ理由だったのではないか。


 電車のラッシュが嫌で時間をずらしていると言っていた。それも。


 今から考えたら、僕と同じ理由で同じ行動をしていたのかもしれない。


 単純なことだ。自分に備わっている奇妙な力が、他の人にも備わっていたとしてもなにもおかしくなんてない。


 どうして僕だけだなんて思ってたんだ。


 リビングに出ていくと、母はいつも通り姉の部屋にいるらしく、暗いリビングには光が漏れ出していた。


 また。


 重い足取りで冷蔵庫の前まで歩いてき、開ける。


 中には、食材しか入ってなかった。


 深いため息が口から漏れる。


 仕方ない。


 とりあえず母を呼ぼうと思い、奥に向かって声をかける――


 寸前、母のすすり泣く声が姉の部屋から聞こえてきて、僕は出しそうになった声を引っ込める。


 少し迷って、そのままリビングを後にした。


 どうせ何も食べられる気がしない。耳鳴りのせいで何か口に入れたら戻しそうだ。いや、そんなことどうでもいい。じゃあなんで僕はリビングに来たんだ。


 大きくため息をつく。


 くそ、くそ。


 鼓動の治まらない状況の中で、気づく。


 そうか、自分がわからないからだ。理解できない自分の感情に恐れて、苛立っている。


 あのときみたいだ。父が死んだと聞いて、体と感情が切り離されたみたいになってわからかなくなって。あれに似てる。


 彼女が言ったことを半分しか覚えてないとか、そういうわけじゃない。ちゃんと聞こえていたからこそ、その内容を意識的に避けようとしているのだ。自分と対面することが怖くて。


 ――芳樹くんこそ死のうとしてる


 彼女からはっきりと聞こえた言葉。


 電気が消えた部屋に入ると、足を何かに引っ掛けて転びそうになる。慌ててバランスをとり、スイッチを押すと、それは床に置かれてある鞄だった。さっき持って帰ってなにも考えずに放置していたからだ。腹の奥が沸騰しないよう、目を瞑って、何度も深く息を整える。


 飛び出た持ち物の中、以前購入した本が鞄から覗いているのに気づく。その本に挟まったままの栞はもう、仕事を終えている。


 ああ。


 僕は、彼女が死ぬくらいまで追い込まれていることを彼女自身が気づいていないんじゃないかと思い、あの本を買った。


 自分がそんな理由で購入したにもかかわらず、逆の視点で物事を見ることができていなかった。


 彼女が同じ本を持っていたのも、同じなのか。勝手に、彼女自身が悩みを抱えているからだと思っていた。


 止まない耳鳴りの中で考える。


 でももし、彼女が僕と全く同じことを考えて買ったたのだとしたら。彼女も、僕が追い込まれていることを自分で認識していないかもしれないと思ってあの本にたどり着いたんだとしたら――辻褄があう。


 思えば、彼女は自分からその本についての話題を出してきた。もし彼女が本当に悩んでいて、そのことを僕に知られたくないのなら、その行動はおかしい。


 彼女の本を購入するときの疑い。


 僕が……自殺。


 彼女も同じ力を持っていたということ自体はもう疑っていない。


 それに、本当に彼女に聞こえていたのだとしたら、その内容が嘘なんてことはない。事実として、僕自身が既に経験していることなのだ。


 ただ、そうだとしても、信じられない自分が一方でいた。


 ずっと、姉や父のことは仕方がないこととして受け入れられていたはずだ。だからこそ親戚からもしっかりしていると思われる。


 周りから見ても、母よりもっと、ちゃんとしているはずなのだ。だから、今更自分が死ぬなんてことは、ありえない。


 まだ立ち直っていないなんてことあるはずがないのだ。そういうものだ。だから絶対。


 自分に言い聞かせるように口に出した言葉は、考えを一瞬にして砕き去った。


「だから絶対、僕が自殺することなんか――」


 頭で考えていたはずの言葉は、後には続かない。


 口に出すと、その内容はやけにすんなりと頭に入ってきた。


 ずっと悩み続けていた問題に、解答のきっかけとなる何かを与えられた感覚。


 それは一気に広がって、全てを理解する。ずっと心の中で渦巻いていた感情を混ぜて平均したら、矢印がその言葉に向かうんだと、気がつく。


 ずっと自分の中にあったのだ。


 自殺。


 他の誰よりも馴染みがあって、でも誰よりも避けていた言葉。


 今までずっと、無意識に他の言い方に置き換えていた。その言葉を、遠ざけようとしていた。


 自分の心の奥に、綺麗におさまる感覚があった。



『自殺を考えるくらいにまで悩んでいる人のことを、自分が考えたところで何もわからない』



 ずっとそう考えていた。


 僕は、憧れていたんだと思う。


 姉や父が死んでからもずっと、同じ土俵に立って話ができる人になりたかった。


 悩んでいないからわからなくて仕方がない、と諦めることで、逃げていたのだ。


 本当は、悩んでいないなんてことないのに。


 振り返る。


 どうして、自分で設定したアラームに苛ついた? コンビニで遅くまで談笑している学生を見て、足を止めていたのは?


 アラームが知らせる内容が、僕にとって納得できないものだから。そして、無意識に、そんなアラームに振り回されない彼らの行動を羨ましいと思っていたからじゃないのか。


 母からの謝罪を、見ていられないと思い、母の負担にならないように、いつも気をつけて行動しようとしていた。それで、母の行動に不満を感じた時はため息をついて心を落ち着けようとして。


 度々心を落ち着けようとするということは。


 その度に負担を感じていたということだ。


 感情が暴れ出しそうになるのを抑えるため、僕はベッドに潜り、布団を頭からかぶせる。そうすると、この世界に一人になったみたいで、少しは、楽になると思ったからだ。


 深呼吸を、重ねる。


 自分の息遣いとやまない耳鳴りが聞こえて、気分が悪くなる。


 突如、焦りのこもった勢いで扉が叩かれる。


「帰ってるの⁉︎ 芳樹!」


 部屋に母が入ってくるのがわかった。


「帰ってきてたなら言ってよ……何、眠いの?」

「うん、ごめん」

「ご飯、今からになるけど……」

「いいや、ちょっと疲れたから寝る」


 布団から顔を出し、なるべく平坦な早口でそう伝えた。


「大丈夫? 体調悪いの?」


 なのに、揺れ動く感情が声に乗ってしまったのか、母が心配そうに訊いてくる。


「ううん、平気」


 そういうと、母はしばしその場にいたが、ゆっくりと扉をしめ、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。


 次の朝、母の顔を見たくなくて、いつもより早く家を出た。




 毎日やっていたことが、全て色褪せてしまったように僕の目には映っている。それを理解したと同時に、これまでと何も見え方が変わっていないことにも気付いていた。ずいぶん前からそうだったはずなのに、今頃気がついた。


 自転車で学校に向かっている間も、教室で過ごしている間も、考えることは一つだった。


 姉のこと、父のこと。


 姉がいじめを受けて急に目の前からいなくなって、父もいなくなって。


 仕方ない、訳ない。


 本当に仕方ないと、心からそう割り切れているのであれば、あの時受けていたクラスメイトや担任からの厚意を、無下に断ったりすることなんかないはずだ。


 自分の中で姉の死を完全に受け入れていたのだとしたら、姉の部屋に入るのを無意識に避けるなんてことはしない、母を呼ぶ時にわざわざリビングから大きい声を出す必要なんかない。

 そんなに、物分かりが良いはずがないのだ。


 簡単に、姉をいじめていた人を許せるわけがないのだ。


 仕方ないと心から思えているのなら、暗示のように何度も何度も仕方ないから、と考えようとなんかしない。


 自分が死のうと思っていることを自覚してから一日も経っていないのに、落ち着いている理由は正直わからない。ずっと知らないところで、覚悟ができていたということなのだろうか。


 何も解決なんてしていないけど、納得すれば、問題はすり替わる。これから自分はどうすればいいか。


「なあ、新川」


 テスト後、出山に話しかけられるまで、ずっと思考が空回りしていた。


「アイス、食べに行こうぜ」


 テスト範囲の詰め込みすぎで空気の抜けた出山の表情を見ると、いくらか気分がましになる気がする。


 どうせこの後どうするかなんて考えていなかったから、流されるまま頷く。


 昼食の時間まではまだ結構時間があるけれど、食堂の席は半分ほど埋まっていた。早めの昼食をとっている生徒もいれば、ただだべっている人もいる。


 みんなに共通していることは、明日もテストがあるということだ。学年末テストへのそれぞれの不満が大きな塊となってそこに存在しているみたいだった。


 隣の出山もその塊の中にすんなりと溶け込む。


 自分だけがこの空間から浮いてるような気がした。


「お、これこれ」


 アイスクリームの自販機を眺めていた出山が、硬貨を入れてボタンを押す。


 出山が買っている間もずっと考えていたのに、決められなかった。


「珍しいな」


 特に欲しいものも決められないのなら適当に押せばいいのに、なぜか手が出ない。柑橘系のアイスもあるのに、なぜかそれを選択することができなかった。理由は、わからないし知りたくもない。


「じゃあ、これでいいんじゃね」


 彼は横から、まだ硬貨もいれていない自販機に自身の財布から出した百円玉を二枚入れ、クッキークリームのアイスのボタンを押す。そして受け取り口から取り出したそれを、目の前に差し出してきた。


「ほい、あげるわ」

「……」

「何、これ嫌だった? 交換するか?」


 先ほど購入していたサイダーのアイスを出してくる。


「いや、こっちがいい。ありがとう」


 その後、席を確保し、二人でアイスを貪った。


「疲れたー」


 彼は爽やかなそのアイスで疲弊した集中力を回復させて、テストに対する不満を溶かしていた。僕は、何か回復したのかわからない。


「テストやばいんだけど」


 出山は、完全に回復したのか、いつもの調子で呻く。


「新川はどうよ。また余裕?」

「……ん、どうだろ」

「相変わらずだなあ」


 彼は大きく息を吸い、アイスで冷えたであろう空気を一気に吐いた。


「なぁ、俺の勝手な意見、聞いてくれるか?」


 出山の少しだけ改まったその言い方に、ただゆっくりと頷く。


「新川はさ、基本的に心の中にあることを他の人に言わないところあるだろ? それがまあ、なんていうかな。俺だったら何かあったらすぐ誰かに言って楽になろうとするけど――ほら、ちょうど今みたいに。けど新川の場合、自分で自分のことはこなして、悩みとかも自分自身で受け入れて解決してるのかなって思ってて、だから会った時からすごいなこいつー、とか思ってたんだけどさ」


 少しだけ間を置いたのは、恥ずかしさを紛らせるためだろうか。


「たまーにしんどそうな表情してると、心配になる。爆発すんじゃねえかって。まあ、新川が言ってこないならわざわざ聞かないけど。一応何かあるんだったらいつでも聞くからな?」

「ありがとう」

「おう、テスト期間中、勉強以外だったらなんでも大歓迎」

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