14.大切な人
中学生の頃、私はいつも図書室で勉強していた。
両親は私が幼い頃に亡くなっていたから、おばあちゃんの家に住んでいて、自分で言うのもなんだけど真面目だった。しっかりしなければ、と、そう思っていた。
毎日、学校にも通っていた。
ただ、私は周りの人と仲良くなるのは壊滅的に苦手だった。小学校の時はそれで担任の先生に心配されることも多かったけれど、中学に入ってからは違った。
ちゃんと勉強していたら文句を言われることはないし、友達なんていなくていいと思っていた。
テスト期間だったと思う。私が放課後、図書室で勉強していると、
「ねえ、綾ちゃん」
いきなり女子生徒が話しかけてきた。
話したこともないクラスメイトに下の名前で呼ばれたことに私は目を白黒させる。
「あはは、驚きすぎ」
彼女は何が面白いのか笑っていた。
「…………」
「えっと、わかる? 私のこと」
私の反応の鈍さに気づいたのだろう、話しかけてきた彼女は心配そうに自分の顔を指差した。
「う、うん……わかるよ」
クラスメイトとの関わりは全くと言っていいほどなかったけれど、クラスメイト全員の顔と名前は頭に入っていた。
「最上……葉月さん」
彼女はまた笑う。
「何それ、先生の点呼みたい」
その言葉で入学式の後のホームルームで担任の先生がみんなの名前を呼ぶのにてこずっていたのを思い出す。みんな笑っていた。
「ふふ――」
その笑みが自分の口から漏れたものだと気づき、思わず口を押さえる。
私はその笑いに驚きを隠せなかった。
学校でこんなふうに自分が笑うのを初めて見た気がする。
そんな風に外から自分を観察するくらい、私にとっては驚くべきことだった。
一方で、今の笑いは変ではなかっただろうかとそんなことを考えてしまう自分もいた。
「何、その驚いた顔」
「いや……」
「綾ちゃん面白いねぇ」
彼女はなぜか楽しそうに私のことを見ている。
「……そ、そんなこと、ないよ」
私は恥ずかしくなり首を振る。
「えぇ――」
「こら! 静かにしなさい!」
彼女の返答は司書室から届いた怒鳴り声に遮られる。図書室では大きな声で話すのを禁止されていた。
私たちは同時に顔を見合わせる。
他の生徒の視線が私たちの方に集まっているに気づき、背中に冷たい汗が流れる。
「すみません!」
彼女が控えめに謝り、
「ちょっと外出よう」
そう言う彼女に促されるように一旦図書室の外へと出る。
「怒られたねー」
外に出てすぐにけたけたと笑い始めた彼女の表情を見て、思わず声を出していた。
「最上さんが笑うからだよ」
普段人に言い返すことのない私がそうやって言い返していることに気がつき、さらに驚く。
けど、彼女の微笑みによって会話のハードルが下がったのか、その後も私は普通に彼女と話していた。
「ごめんって」
謝っているのに全然申し訳なさそうに見えない彼女が話しかけてきた理由は、宿題でわからない問題があったかららしい。
「綾ちゃんならわかるかなって思って」
「どうして?」
思わず訊く。
「綾ちゃんが授業で当てられて間違ってるの見たことないもん」
私は返事をすることができなかった。
見てて、くれたんだ。
「これなんだけど、わかる?」
何も含みのない様子でそう続けたあとに彼女が見せてきたそのプリントは先週出た宿題で、私は既に解いていた問題だった。
教えると彼女は目をキラキラさせてお礼を言う。
「すごい! やっぱりすごいね、綾ちゃん」
嬉しかった。
成績の良さで褒められることはあったけれど、彼女のその言葉はもっと純粋でまっすぐなものに感じられて、ただ自分のためにこなして来た――友達付き合いをしないことの言い訳のためとして使っていた勉強がその瞬間、自分の中で存在を認められたみたいだった。
「ありがとう」
「じゃあ、また明日ね」
しばらく図書室で勉強をした後、そう言って彼女とは別れたけれど、少しだけ、心配だった。じゃあ、また明日という言葉。本当に明日も話せるのだろうか、と思った。教室で自分が誰かと今日みたいに話している姿が全く想像できなかった。
楽しいと思ったから、その感情を知ってしまったから、その明日がこない可能性を危惧したのだ。
けれど彼女はその次の日、私が登校すると真っ先に話しかけに来てくれた。
それから私たちは、放課後図書室で宿題をして、その後何処かに出かけて遊ぶようになった。
性格が真逆の私たちは、なぜか馬が合った。
葉月はどんな人にも気さくに話しかける性格で、明るかった。そして、引っ込み思案な私をいろんなところに連れ出してくれた。
私たちは二人とも甘いものが好きだったので、休みの日にはよくカフェを巡っていた。
目指している高校も同じで、一緒にその高校の学園祭に行ったりもした。
出会う前では想像もつかなかった程に毎日が楽しく、葉月と仲良くできるその生活がずっと続けばいい、そう思っていた。
けど、今まで人付き合いをしていなかった私が、そんなことを望んだのが間違いだったのかもしれない。
その生活が壊れるのは葉月と仲良くなってから一年ちょっと経った頃だった。
中学二年生の時、私はクラスでいじめを受けることになる。
きっかけは単純だ。クラスの中で声を張り上げることの許されている女子の好きな人が私に告白したから。
別にその告白に私が断ったことがどうとかいう話じゃない。ただ、いじめる側の主張は「なに調子乗ってるの?」の一言だったから。「なに、色目使ってんの」とも。
中学一年の終わり頃から急激に身長が伸びて、学年が変わりクラス替えの後、周りから向けられる視線が今までと違っていることに気づいた。その時の身長は既に一六○センチメートルを超えていた。
おそらくそれが原因なんだろうけど、中学二年に入ってから数度、同級生や先輩から告白された。
ただ、性格は変わっていなかったから、友達と呼べる存在は葉月しかいなかった。
それはつまり、告白してくる男子の中に誰一人元から仲の良い人はいなかったということだ。そんな男子が私に告白をしてくる理由がわからなかった。少し、怖かった。
だからいつも断っていた。
告白の時、誰も、私のことをどうして好きなのかはっきりと言ってくれる人がいなかったということもある。
今回も、同じだった。
そう思っていた。
なのに、告白があってすぐ、クラスの中で私に対するいじめが始まった。
といっても初めは、聞こえるように嫌味を言われたり、聞きたくもないあだ名をつけられたりしているだけだった。気分は悪かったが、私は何も言わずに無視をし続けていた。
クラスでの居場所がなくても、私には葉月の隣にいることができた。
葉月とは二年生になってクラスが変わってしまったけれど、相変わらず放課後は一緒に勉強したり、遊んでいた。彼女と遊んでいれば学校の中でのストレスなんか自然と消えていく。だから、そんな陰口くらい耐えられた。
変わったのは、一度断った例の男子生徒が私にもう一度告白してきてからのことだった。その情報を何処かから仕入れてきたいじめ主犯格の女子は、我慢ができなくなったのだろう。いじめが一気に加速した。
不幸なことに、その彼を好きな女子生徒はクラスの中での地位が高かった。一方、私は言うまでもなく地位が低い。
気づけば、クラスの中で私は、完全に切り離された存在になっていた。
勉強ばっかりしていた時の一人ぼっち、とは全く違う。
みんなの意思が働いて一人だけ切り離されるというのが、こんなにも異質で気持ちの悪いものなんだと、知らなかった。
今までは一部から睨まれていただけだったのに、教室にいる間ずっと、他の生徒からどこか遠巻きに観察されているような感覚。
酸素が薄くなったみたいな息苦しさを毎日感じていた。
少しでも気に触ることをすれば、彼女らの悪意は私を容赦無く襲ってくる。
私は怯えることしかできないでいた。
正直頭が追いついていなかった。何でいじめをする人はそんな行動ができるのだろう、楽しいのだろうか、ムカつく相手が傷ついているのを見るのが清々しいのだろうか。
声を上げて助けを求めることも、教師に相談することもできなかった。同時に、そんなことしたら、もっといじめが陰湿かつひどいものになると本能的に理解していた。いじめることを楽しんでいるような彼女たちの顔を見ていたら、邪魔が入れば容赦しない人間であることは誰にでもわかる。
だからこそ、おかしいとわかっているはずの周りの人も誰一人として声を上げないのだ。
これまでとの落差に、私は深い崖に突き落とされたような感覚になった。
直接的に向けられる敵意が、私の精神をすり減らす。
正直、疲弊していた。
クラスが違うから知られていないはずだけど、毎日顔を合わせる私の表情の変化に気づいたのだろう、葉月が心配そうな表情で聞いてくれた。
「最近元気ないけど、どうしたの?」
「ううん、大丈夫だよ」
でも、彼女に迷惑をかけてはいけないと思い、私は慌ててごまかした。
いじめを行う人はみんななぜかわかっている。
大人たちが本気で止めに入らないギリギリの限度というものを狡猾に理解している。
だから、私の持ち物が壊されたり隠されたりすることや、授業中にゴミを投げつけられるようなことはあっても、身体にはっきりと傷をつけるレベルの暴力はふるってこなかった。
葉月も、直接的に私が傷つけられたとわかる証拠がないから、私の「大丈夫」の言葉を、納得はせずとも信じてくれていた。
月日が経ち――実際はそれほど経っていないけど、苦痛を強いられる生活は自分にとって一年くらいの長さに感じられ、終業式が近づいたある日、たまたま私のことを汚い言葉で罵ったクラスの女子の言葉を、葉月が聞いてしまった。ちょうど葉月がトイレに行くために私のいる教室の前を通るタイミングと重なってしまったのだ。
それで葉月は、その女子に対して文句を言い、その女子たちと口論になった。
私はずっとその間に挟まれて黙っていることしかできず、葉月が果敢に女子たちと交戦している様子をただその場で佇んで見ていた。
クラスの女子と葉月の口論の末、葉月に手を握られ、私は教室から連れ出される。
「あれ、何?」
彼女が憤りをあらわにする。
「…………」
「いつからあんなこと言われてるの!」
「いや、ちょっと……ちょっと前に、気に触ることしちゃって」
「気に触ること?」
「それは…………」
「綾がなんかした? 本当?」
「…………」
「何をしたっていうの⁉︎」
彼女の剣幕を前に黙っていることもできず、いじめの経緯を説明すると、葉月の怒りが爆発した。
「許せないっ」
「誰にもこの話は言わないで」
私はとっさに言葉を放っていた。そう言わなければ、彼女はこのままの勢いで職員室に突撃するような気がした。
「なんで?」
私は、彼女の言葉に答えられなかった。
「それでいいの?」
彼女は私の言葉を呑み込めない様子でさらに訊く。
「……うん、ちょっとした喧嘩みたいなものだから」
大丈夫。これを言ってしまうと逆に葉月は怒るだろうけど、余計なことをしてあの女子たちの感情を刺激なんかしたら、何が起こるかわからない。そんなリスクのあることはしない方が絶対にいい。
「本当にいいのね?」
繰り返し葉月にお願いすると、彼女は渋々といった感じではあったけれど首を縦に振ってくれた。
教室に戻ると、異様な空気が流れていた。私が入ると教室内の空気が変わる。
その日から、終業式までの間、私に対する悪意が穏やかになったことに気がついた。
たぶん、私に味方がいると理解したからだろう。別に、彼女らは攻撃の手を休めたわけじゃない。おそらく葉月と私の距離感を探っていただけなのだろう。それと、ただのタイミングだ。人をいじめることに慣れた老獪な女子たちからすると、葉月が学校に彼女たちのいじめを報告することで、もうすぐ始まる自分たちの春休みが潰れる可能性を察知し、恐れたのかもしれない。
単なる一瞬の、落ち着きだった。
だからそこからの行動は、完全に自分の責任だ。
葉月に巻き込まれて欲しくないと思っていたにもかかわらず、いじめが少しだけ和らいだ瞬間、私の心の中には確かに安堵が生まれた。
今のうちに逃げ出そう、と思ってしまったのだ。
葉月と仲良くできるその生活がずっと続けばいい、その気持ちを破ったのは自分だった。
祖母に頼み込んで、三年生から違う学校に転校することをきめた。
転校した後はもう、何も考えないようにしていた。
葉月からは、それ以来メールが来なかった。
葉月のことだから、私を守れなかったことに罪悪感を感じていたかもしれない。
馬鹿だ。葉月が巻き込まれないようにと思うなら、もっと早い段階で――葉月がいじめに気づく前に転校してればよかったのに。
葉月を、学校に残してきてしまった。
結果的に、私だけが学校から逃げることで、葉月がいじめのターゲットになってしまっていた。
ずる賢いのは、私だ。
可能性を全く考えなかったわけじゃない。
ただ、葉月なら、すぐに人と仲良くなる彼女なら、うまくいじめから逃れることができるだろう、そんな風に思い込んだ。
自分の気持ちをごまかしている罪悪感があったから、怖くて、何も連絡をしなかった。葉月の存在を、どうにか心の奥に仕舞い込もうとまでしていた。
転校してからは、表情の使い方と、相手に合わせて自分の行動を変化させる術を身につけることに必死になっていた。ただ考えて、考えて相手の空気を読み取り、合わせて、愛想をよくする。
新しい環境が幸いしてか、何とかクラスに馴染めるくらいの形にはなってくれた。
だから、今みんなが褒める私のコミュニケーション能力は、そんな良いものじゃない。
それのおかげでいじめは完全になくなったから、そういった立ち回りが必要ないとは口が裂けても言えないけど、全く誇れるものなんかじゃない。
彼女が死んだと聞いたのは、転校してから随分時間が経ってからだった。結局、転校してから一度も葉月と連絡を取っていなかった。




