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梅雨空と黒い招き猫

作者: ウォーカー

 六月。曇天が続く、梅雨の季節。

どんよりした雲が空を覆い、しとしと雨が降り続く日々。

そんな憂鬱な時期の、ある町の住宅地の片隅に、

一軒の喫茶店がひっそりと開業した。

その喫茶店の店主である男は、この春に勤め先の会社を退職したばかり。

その男にとって、自分の喫茶店を開くことは前々からの夢で、

勤めながらコツコツと準備をして、資金を貯めて、やっと開業にこぎつけた。

一時は会社勤めとの掛け持ちも考えていたが、

二足のわらじを履くのは良くないと思い立っての行動だった。


 一人っきりで喫茶店を開業する。

覚悟はしていたが、それは思った以上に大変なことだった。

事前に準備をしていたはずだったが、手続きにも一苦労。

予定は伸びに伸びて、実際に喫茶店を開業できたのは、

梅雨も間近の六月上旬。

開業していくらも経たないうちに入梅、梅雨に入って、

しとしと雨が降り続く憂鬱な季節になってしまった。

出かけるのも憂鬱な天気が続く毎日で、

そのせいか、その男の喫茶店に来てくれる客の数はまばら。

開業してすぐの喫茶店の経営は、

梅雨空のように雲行きがあやしくなってしまったのだった。

「本来なら、陽気が良い五月までには、

 喫茶店を開いておきたかったんだけどなぁ。」

今日も、朝の開店から客が一人も来ない喫茶店の店内で、

その男はぼんやりと梅雨空を眺めて独り言を呟いていたのだった。


 そんな状態の喫茶店にも、閑古鳥以外の客がいる。

それは、一匹の黒猫だった。

その男と黒猫の馴れ初めは、梅雨入りしたその日のこと。

朝、その男が喫茶店で開店準備をしていると、

喫茶店の出入り口の前に、その黒猫がちょこんと座っていたのだった。

つやつやと真っ黒な毛並みに、大きな金色の目玉がギョロッと覗く。

絵に描いたような不幸の黒猫。

飼い猫なのか野良猫なのか判然としない容姿。

そうでなくとも、飲食店に動物は御法度なのはその男にもわかっている。

しかし、黒猫が心配そうに店内を覗く顔を見て、

つい追い出すのに躊躇してしまった。

「お前、餌が欲しいのか?

 野良猫なんて、喫茶店の店の中には入れられないし、

 本来だったら追い返すところなんだけど・・・」

その男が渋い顔をして困っているのを、

首を傾げた黒猫の大きな金色の瞳が見上げている。

商売人ならば些細な縁起にも気をつけたくなるもの。

不幸の象徴である黒猫を避けたいと思うのも無理はない。

黒猫を追い払う理由はいくつもある。

しかし、しばらくのにらみ合いの後に根負けしたのはその男の方だった。

肩をすくめると、首を左右に振って応えた。

「・・・やれやれ、わかったよ。

 ただでさえ店が上手くいってないのに、不幸の黒猫に目を付けられるなんてな。

 どうせお客なんて来ないし、朝食のトーストとミルクを分けてやるから。

 その代わり、店の中には入るなよ。

 まさか、不幸の黒猫がこんなに堂々と人に近寄っては来ないだろう。」

そうして、その男の喫茶店の店先は、その黒猫の定位置になった。


 梅雨入りと同時に、喫茶店に居つくようになった黒猫。

黒猫と言えば不幸の象徴として有名だが、

しかし、その黒猫の瞳は大きくて金色で、まるで小判のよう。

もしかしたら商売繁盛に繋がるかも。

そんな下心もあって、その男は黒猫を店先に置くことにした。

するとどうしたことか、それから喫茶店に客が訪れるようになった。

お手製の看板を店先に立てたり、駅前でチラシを配ったり、

どんなことをしても来てくれなかった客が、

その黒猫が店先に居つくようになった途端に来てくれるようになった。

もちろん、急に客が大入りになるわけではない。

最初は、店先にいる黒猫を見かけた若い女が休憩に立ち寄っただけ。

次は、待ち合わせ時間を待っているらしい中年の女たちがやってきて、

そこに荷物を抱えた若い男たちがやってきて、

汗を拭き拭き背広を着た中年の男がやってきた。

という風に客が客を呼び、

その日を境に喫茶店はそこそこに繁盛するようになったのだった。

今は注文のサンドイッチを用意しながら、その男がふと店先の黒猫を見ると、

黒猫はちょこんと座って額を掃除しているところだった。

聞こえるはずもないが、その男は口だけを動かして話しかけた。

「急にお客が来てくれるようになったけど、まさかお前のおかげか?

 そうして店先に座ってると、まるで招き猫みたいだものな。

 不幸の黒猫の呪いより、幸運の招き猫の御利益が上回ったのかな。

 まあいいや、この調子で頼むよ。」

梅雨空の曇天を背景に店の中を覗き込む黒猫は、

なんだか心配そうにその男の方を見ていたのだった。


 黒猫が客を招いてくれたのか、はたまた別の理由か。

その男の喫茶店は客足上々、

なんとか喫茶店を続けていける程度には繁盛を続けた。

ところが、しかし。

そんな状態が三週間も続いた後。

曇天の梅雨空に薄明かりが差して、

もうすぐ梅雨明けが近いと感じさせるようになった頃。

いつも店先にいたはずのあの黒猫が、ぷっつりと姿を見せなくなった。

そのせいなのか、喫茶店の客足もまた、途絶えてしまったのだった。

今日も朝から客が一人も来ない。

しとしと雨の日も少なくなって、本来ならば客足が期待できるはずなのに、

しかし実際には逆に客足は途絶えてしまった。

店に何か粗相があったとも思えない。

その男は不慣れながらも心を込めた対応をしてきた。

客から褒めてもらったことはあれど、苦情らしい苦情を受けたことはない。

それなのに急に客足が途絶えた理由がわからない。

このままでは、喫茶店の経営は傾いてしまうかもしれない。

その男は空っぽの喫茶店で一人、藁にもすがる思いで原因を考えた。

「店の客足が途絶えた原因なんて、そんなの思いつかないな。

 心当たりがあるといえば、

 近所を走る大きな道路の先に大型商業施設があるくらいか。

 あそこに客を取られたのかな。

 でも、それだったらもっと前から客が減っているはず。

 むしろ、大型商業施設があるおかげで、

 この辺りの人や車の通行量が増えてるということもあるし、

 うちの店としては得してるんじゃないかな。」

理詰めで原因がわからないと、どうしても縁起だのに考えが向かっていく。

真っ先に思いつくのは、あの黒猫のことだった。

「そういえば、あの黒猫、

 ここのところはすっかり姿を見せなくなったな。

 ・・・まさか、お客が来なくなったのは、

 あの黒猫が店に来なくなったせいじゃないよな。

 黒猫が客を奪っていったとか。

 ・・・いいや、違う。

 あの黒猫は客を呼んでくれたんだから、招き猫のはず。

 それよりも、あの黒猫が姿を現さなくなったのは、

 黒猫の身に何かあったのかもしれない。

 病気とか怪我とか、どこかで動けなくなってるのかも。

 どうしよう、探しに行ったほうがいいのかな。

 でも、僕一人しかいないこの店を空けるわけにもいかないしな。」

その男が逡巡していた、その時。

キキーッ!

そう遠くもないどこかから、

金属やらゴムやらをこする大きな音が響き渡った。

その男がハッと顔を上げる。

「今のは車の急ブレーキの音だ。

 近所で事故でも起こったのか?

 まさか、あの黒猫が車に轢かれたんじゃないよな。」

あの黒猫が姿を現さなくなった理由が、

事故にでも遭ったからということだったら、

今、ここでその事故の音が聞こえてくるわけはない。

事故はもっと前に起こっているはずなのだから、

この急ブレーキの音は、あの黒猫とは無関係。

理屈ではわかっている。

しかし、もしかしたら、

今日、たまたま黒猫が喫茶店に姿を現そうとして、

その途中、近所で事故に遭ってしまったのかもしれない。

不安が不安を呼び、より悪い事態を想像させる。

その男はいても立ってもいられず、喫茶店を飛び出していってしまった。


 黒猫が喫茶店に姿を現さなくなってしまった。

もしや、黒猫の身に何か起こったのでは。

その男がそう考えていたところに、車の急ブレーキの音が聞こえてきた。

最悪の事態を想像して、その男は喫茶店から外に飛び出していった。

その男がまず向かったのは、少し離れた幹線道路。

事故が起こるとすれば、まずそこが疑われた。

しかし、幹線道路に行ってみるも、事故の形跡はみられない。

幹線道路は渋滞していて、急ブレーキをかけるほどに車の流れは良くなかった。

「事故はこっちじゃないのか。

 途中の道にも事故の様子はなかったし、逆方向か。」

民家が立ち並ぶ住宅地で、音の発生源を探すのは意外と難しい。

その男は取って返して逆の方へ向かった。

喫茶店を挟んで幹線道路とは逆側、

そこには幹線道路の迂回路に使われるやや狭い道路がある。

その道路に、何かが落ちているのが目に入った。

遠目には、黒いズタ袋のように見えるそれは、

車に何度も何度も轢かれたのか、千切れかけてボロボロになっていた。

「まさか、あれ、あいつか・・・?」

その男が近付いて、震える手で地面のズタ袋をつまみ上げる。

すると、黒いズタ袋は千切れて、ずるっと地面に横たわったのだった。

その男が地面を見て、呆然と言葉を漏らした。

「・・・違う。

 これ、黒猫じゃないぞ。

 何だこれ。」

その男が拾い上げたそれは、車に轢かれた黒猫の死体、ではなくて、

上着か何か、黒い毛皮のような素材の衣類だった。

通りすがりの車が落としたのか、

はたまた、どこかの家の洗濯物が風で飛ばされてきたのか。

車に轢かれて横たわっていたのは、ただの衣類、

黒猫の死体などではなかった。

咄嗟に勘違いしていたその男は、胸をなでおろして息を吐いた。

「なんだ、服が落ちてただけか。

 まったく、驚かせないでくれよ。

 そうすると、さっきの急ブレーキの音は、この黒い服を轢いた車が、

 黒猫か何かを轢いたと間違えて咄嗟に急ブレーキを踏んだんだな。

 人騒がせな話だ。

 不幸の黒猫とか考えていて、僕もちょっと神経質になってたみたいだな。

 きっとあの黒猫は、他に餌をもらえる場所でもあるんだろう。

 それで、うちの店に餌をねだりに来なかっただけだろう。」

不幸の黒猫も、黒猫が事故に遭ったというのも、

すべては思い違いだった。

落ち着きを取り戻して、その男は、拾った黒い服を道端に除けて捨てた。

喫茶店に帰らねばと顔を上げて、遠くの様子が目に入る。

すると、道路の反対側に、ちょこんと座る小さな影。

あの黒猫が首を傾げて心配そうにこちらを眺めていた。

「あっ、お前、そこにいたのか!

 最近どうしてたんだ。餌は?」

黒猫の姿を見かけて、その男は咄嗟に、

そちらへ近づくために道路を横切ろうとした。

すると、そこに、遠くから近づくものがあった。

狭い道路には相応しくないスピードで、車が近づいてくる。

黒猫がそれを知らせるように、キッと顔を車の方へ向けた。

つられて、その男も顔を向けて、近づいてくる車の存在にようやく気がついた。

黒猫の姿をしばらくぶりに見かけて、つい無造作に道路に出てしまった。

早く端に避けなければ。

しかしその時、

その男は胸に刺すような痛みを感じて、

地面にうずくまってしまった。

胸が痛くて、体を動かすことができない。

冷や汗が浮いた顔で道路の先を見ると、もうそこまで車が迫っていた。

「まずい。

 はやく、移動しなきゃ・・・」

それはわかっているのだが。

しかし、咄嗟のことに気が動転したのか、体に力が入らない。

眼の前が真っ暗になっていく。

その男の体は、無防備にも道路に横たわってしまった。


そうして、その男の喫茶店には、誰も帰ってくるものはいなくなった。



 その男の喫茶店に誰もいなくなって、ひと月ほどが経って。

七月ももう終わりの頃。

今の時期には似つかわしくない、曇天の曇り空が広がっている。

そんな薄暗い空の下、

その男の喫茶店には久しぶりに明かりが灯されていた。

喫茶店の店内に立つのは、その男。

入院生活から解放されてやっと帰った我が店だった。


あの日、その男は意識を失い道路に横たわってしまった。

しかしそれは、車に轢かれたからではなかった。

車が猛スピードを出していたのは、人の姿を確認する前まで。

道路にその男が横たわっているのを見かけて、

安全に停車してその男の容態を確認し、救急車を呼んでくれたのだった。

その男が倒れたのは事故ではく、急病によるもの。

体調に異変を感じて、道路に倒れ込んだだけ。

その男も黒猫も、車の事故には遭っていない。

しかし、その男は、

救急車で搬送された病院の検査で病気が見つかって、

しばらくの間、入院することとなった。

その後、一ヶ月ほどの入院と手術の後、やっと退院することができたのだった。


自分の喫茶店に戻ってくることができて、その男はしみじみと思う。

あの日、自分は、不幸の黒猫のせいで車に轢かれかけたのだろうか?

あるいは、不幸の黒猫のせいで体調不良を起こしたのだろうか?

考えるまでもない。

その男は頭を横に振って否定する。

「不幸の黒猫のせいで事故に遭ったとか、病気になったとか、

 そんなことがあるわけがない。

 車に轢かれそうになったのは、僕が車道で倒れていたから。

 僕が車道に倒れたのは、急病のせい。

 どっちも不幸の黒猫とは何の関係もない。

 それどころか、あの黒猫は僕を助けてくれたのかもしれない。

 だって、もし僕が黒猫を探しに外に出ていなかったら、

 この誰もいない喫茶店の店内で具合を悪くして倒れていただろうから。

 そうしたら、救急車を呼んでくれる人もいなくて、手当てが遅れて、

 今頃はどうなっていたかもわからない。

 きっと、あの黒猫が、僕の危険を察知して、

 あらかじめ人気ひとけのある場所に呼んでくれたんだろう。

 いつも心配そうに見ていたのは、

 喫茶店のことじゃなくて、

 僕の体のことを心配してくれてたんだろう。」

もちろん根拠はない。

不幸の黒猫の呪いの存在を証明することはできないし、

その逆に、幸運の招き猫がもたらす御利益の存在を証明することもできない。

その両方の性質を持つあの黒猫が、

幸運と不幸のどちらかを招いてくれたのか、くれないのか、

それは受け取り方次第でしかない。

降水確率50%

梅雨空のごとく、はっきりしない。

でも、今のその男には、それも良いと思えてくる。

あちらかこちらか、はっきり分かれなくてもいい。

この梅雨空のように、どっちともつかないものがあってもいい。

そう思える。

あんなに憂鬱だった梅雨空が、今はなんだか心地いい。

自分が入院している間に梅雨が明けてしまわないでよかった。

そういえば、今年は梅雨明けが遅れていて、

梅雨明けが判然としないまま夏になる可能性もあるんだとか。

だったらいっそ、明けない梅雨があってもいいかもしれない。

そんなことを考えていると、

ふと、その男は背後に気配を感じた。

どうやら早速、喫茶店に客が来たようだ。

その男が喫茶店の出入り口に向かって振り返ると、

そこには・・・



終わり。


 終わりゆく梅雨を儚んで、この話を書きました。


梅雨ははっきりしない天気が続いて、涼しいばかりでもなく不快で、

それならいっそ早く夏が来ればいいのにと思います。

でも、実際に梅雨明けが迫ってくると、

今度は梅雨の涼しさが恋しくもなります。

夏でもなく快適でもない梅雨空も、どちらかになってしまうと寂しい。

どちらでもないものがあってもいい。

幸運の招き猫と不幸の黒猫と両方の性質を持つ猫に、

その思いを込めました。



お読み頂きありがとうございました。


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